たそがれ色のカフェオレ

第七章 佳澄さんの推理

十月に入って、陽菜多は店に行かなくなった。

 行けなかった、という方が正しい。あの席に座って、いつも通りにカフェオレを飲んで、いつも通りに笑う自信が、どうしてもなかった。

 大学と、家と、図書館。判で押したような毎日。真弓は何も言わなかったが、時々、学食でプリンをおごってくれた。プリンの数だけ、心配されているのだった。

 その日、大学の正門を出たところで、陽菜多は呼び止められた。

「——杉原陽菜多さん、よね」

 振り向いて、息が止まった。

 佳澄さんだった。白いブラウスではなく、秋色のカーディガンを着て、革のトートバッグを提げて、あの静かな微笑を浮かべて、立っていた。

「な、なんで、私の名前……」

「お茶、付き合ってくれない? ああ、喫茶店以外でね。喫茶店だと、どうしても採点しちゃうから、味を」

 連れて行かれたのは、駅ビルのチェーンのカフェだった。佳澄さんはカフェラテを一口飲んで、「四百八十円でこれなら、うちの義兄の勝ちね」と呟いた。

「単刀直入に言うわね。あなた、最近、店に来てないでしょ」

「…………」

「修一郎さん、ひどいのよ。カップは割る、豆の焙煎は間違える、こないだなんか、田口のおじいちゃんのトーストを黒焦げにしたの。あの人が食べ物を焦がすとこなんて、あたし、二十年で一度も見たことなかったのに」

 陽菜多は、顔を上げた。

「それで、シリウスがね」佳澄さんは続けた。「あなたの座ってた席から、動かないんですって。カウンターの端。ずーっとそこで丸くなって、ドアが開くたびに、顔を上げるの」

「……なんで、その話を、私に」

「あたしね、これでも保険の営業を十五年やってたの。人の顔を見る商売。——最初に店であなたを見たとき、一目でわかったわよ。ああ、この子、修一郎さんに恋してるんだって」

 カフェラテのカップを持つ手が、止まった。

「そして、修一郎さんの方も、って」

「——え」

 世界から、音が消えた。

「あの人はね、鈍いんじゃないの。逆よ。全部わかってるの。わかってて、蓋をしてるの。二十六も年下の女の子の気持ちに応えることが、その子の人生を、どれだけ縛るか。周りが何て言うか。自分が六十のとき、七十のとき、その子に何をさせることになるか。——全部、先回りして考えて、それで『いい人』の顔で、あなたを遠ざけたのよ。長野の話まで持ち出してね」

「長野の話……って」

「言っとくけど、あたしと義兄さんは、何もないわよ」佳澄さんは、あきれたように笑った。「あたしが姉さんに似てるから、周りが勝手に騒ぐだけ。冗談じゃないわ。あたしはね、姉さんの『代わり』になる気なんて、これっぽっちもないの。それは姉さんにも、失礼だもの」

 佳澄さんは、トートバッグから、一通の古い封筒を取り出した。

「これを見せたくて、来たの。姉さんが……亡くなる少し前に、あたしに預けた手紙。『修一郎さんが、いつか誰かを好きになって、それでも私のことを言い訳にして逃げようとしたら、これを見せて』って」

 便箋は、二枚だった。丸くて、少し右上がりの字が、並んでいた。

〈修一郎さんへ。

 あなたのことだから、私が死んだあと、お店とお墓と思い出だけを相手に、きちんと孤独に生きていくつもりでしょう。あなたの「きちんと」は筋金入りだから、心配です。

 だからこれは、お願いではなくて、遺言です。遺言は聞かなきゃいけないんだよ。

 いつか、あなたのカフェオレを、世界でいちばんおいしそうに飲む人があらわれたら、その人のことを、ちゃんと好きになりなさい。私の席は、その人にあげます。ただし、コーヒーの味を落とすのだけは、許しません。

 私はさきに星になって、シリウスのとなりで見ています。あなたが幸せにならないと、星の世界で、胸を張っていられません。

 佳子〉

 読み終える前から、便箋の上に、ぽた、ぽた、と滴が落ちた。陽菜多は、あわてて手紙を遠ざけて、それから、声を殺して泣いた。チェーンのカフェの隅で、肩を震わせて。

 佳澄さんは、泣きやむのを待って、静かに言った。

「姉さんはね、そういう人だったの。自分が消えたあとの、あの人の孤独まで、心配して逝った人。——だからね、陽菜多さん。あなたが遠慮する必要は、何もないの。あなたは姉さんの敵じゃない。姉さんの願いの、続きなのよ」

「……でも……でも、私なんかが……だって、小暮さんは、私のことなんて……」

「あのね」

 佳澄さんは、身を乗り出した。

「あの人、カフェオレの牛乳、どこのを使ってるか知ってる? 三軒先の牛乳屋さんの、低温殺菌のやつ。あれね、あなたが初めて来た週から、変えたのよ。『若い子には、こっちの方が甘く感じるんだってさ』って、照れくさそうに言ってたわ。——四十六のおじさんはね、二十歳の女の子に、そういうことしか、できないのよ」

 最初の雨の日から、あのカフェオレが甘かった理由。

 牛乳そのものの、やさしい甘さだと思っていた、あの味の理由。

 陽菜多は、ハンカチを顔に押し当てた。もうぐしゃぐしゃで、どこを拭いているのか、わからなかった。

「店はね、十二月二十四日で閉めるって決めたそうよ。……残り時間、あと二か月。参考までに」

 佳澄さんは伝票をつかんで立ち上がり、それから、いたずらっぽく付け加えた。

「ここは、あたしが払うわ。——そのかわり、うちの義兄を、よろしくね」
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