たそがれ色のカフェオレ
第八章 最後の営業日
十二月二十四日は、朝から、雪になった。
この町に雪が積もるのは、年に一度あるかないかだ。よりによって今日降るなんて、天気の神様は、ずいぶんと演出過剰である。
〈珈琲シリウス〉の最後の営業日は、朝から常連客でいっぱいだった。田口のおじいちゃんは、開店から閉店までいると宣言して、本当に朝からずっと窓際の近くに陣取っていた。金物屋の親父さんも、花屋のおばさんも来た。SNSで知った若いお客さんたちが、外の雪の中に、列を作った。
陽菜多と真弓は、頼まれてもいないのに、皿洗いを手伝った。あれから陽菜多は、また店に通っていた。小暮さんは、戻ってきた陽菜多に、何も聞かなかった。ただ「おっ」と言って、蜂蜜を多めにかけた。
告白は、まだ、していない。
今日、する。最後の日に言うなんて、我ながら卑怯だと思う。逃げ場を確認してから飛ぶみたいで。でも、二十歳の勇気の貯金は、ここまで貯めるので、精一杯だったのだ。
夜八時。最後のお客さん——もちろん田口のおじいちゃんだった——が、「小暮ちゃん、長野で美味い蕎麦、見つけとけよ」と言って、涙と一緒に帰っていくと、店には、小暮さんと、陽菜多だけが残った。真弓は一時間前に、「参謀は戦場には立たないの」と言い残して、ウインクひとつで消えていた。
「……終わっちゃったなあ」
小暮さんは、誰もいなくなった客席を見渡して、伸びをした。
「十年と、四か月。よく保った方だよね、こんな流行らない店」
「流行ってました。少なくとも、この八か月は、日本一流行ってました」
「はは。そうだね。最後の年が、いちばん賑やかだった。……陽菜多ちゃんの、おかげだ」
小暮さんは、カウンターの中に戻った。
「最後に一杯、淹れるよ。カフェオレでいい?」
「はい。——あの、小暮さん」
「ん?」
「作ってる間に、聞いてほしい話が、あります」
小暮さんの手が、一瞬止まって、また動き出した。鍋に、牛乳が注がれる。三軒先の牛乳屋さんの、低温殺菌の牛乳。弱火にかけて、木べらで、ゆっくりかき回す。焦がさないように。
陽菜多は、カウンターの端の、指定席に座った。膝の上で、両手をぎゅっと握った。
「私、四月に、雨宿りでこの店に入りました。三百二十円しか持ってなくて」
「……覚えてるよ」
「あの日から、百回以上、来ました。レポートのためって言ったの、あれ、嘘です。半分は嘘です。私は、カフェオレと——カフェオレを作ってる人を、見に来てました」
牛乳が、鍋の縁で、小さく泡立ち始めた。小暮さんは、何も言わない。背中が、聞いている。
「言ったら、迷惑だってわかってます。私は二十歳で、小暮さんは四十六で、周りは絶対、変だって言う。小暮さんが先回りして考えてること、全部、佳澄さんから聞きました。私の人生を縛りたくないんだって。……でもね、小暮さん。それ、順番が違うと思うんです」
「……順番?」
「縛るかどうかを決めるのは、小暮さんじゃない。私です。私の人生だから、私が決めます。そして私は、もう決めました」
陽菜多は、息を吸った。八か月分の、息を吸った。
「好きです。あなたが、好きです。四月の雨の日から、ずっとです。星の描き方も、蜂蜜のかけ方も、牛乳をこっそり変えてくれるところも、奥さんの話をするときの顔も、ぜんぶ、ぜんぶ好きです。——返事は、いりません。いらないけど、なかったことにだけは、しないでください。私がこの店で恋をしてたことは、ほんとうに、あったことだから」
言えた。
言い終わった瞬間、視界がにじんだ。ああ、泣くのは反則なのに。これじゃ脅迫だ。慌てて袖で目をこすった。
小暮さんは、火を止めた。
カップに、コーヒーと牛乳が、注がれる。いつもより、ずっと時間をかけて。それから小暮さんは、シナモンの小瓶を手に取って、泡の上に、何かを描いた。
出てきたカップの上には、星が、ふたつ、並んでいた。
「……ふたつ?」
「シリウスはね」小暮さんは、静かに言った。「ほんとは、ふたつの星なんだ。大きくて明るいのと、小さくて、なかなか見えないのと。二つでひとつの星なんだよ。——うちの女房が、好きだった話」
小暮さんは、カウンター越しに、まっすぐ陽菜多を見た。その目が、赤かった。四十六歳の目が、二十歳の目と同じくらい、赤かった。
「陽菜多ちゃん。……俺はね、ずるい大人だから、言い訳を三つ用意してた。年が違いすぎる。女房に悪い。君の将来を潰す。——三つとも、この八か月で、ぼろぼろになったよ。年の差は、君が洗ってくれた皿の湯気で忘れたし、女房には遺言で叱られてるし、君の将来は……君が自分で決めるんだって、今、目の前で宣言された」
「小暮さん……」
「だからさ、これは、返事じゃなくて、お願いなんだけど」
小暮さんは、深く、頭を下げた。喫茶店のマスターが、カウンターの中で、客に頭を下げた。
「長野の店にも——カフェオレを世界一おいしそうに飲む人が、必要なんだ。すぐじゃなくていい。卒業して、君がいろんな世界を見て、それでも気が変わらなかったら……いや、違うな。ごめん、これも言い訳だ」
顔を上げた小暮さんは、初めて見る顔で、笑っていた。目尻の皺の、いちばん奥まで届く笑い方だった。
「……好きです。俺も、君が。雨の日に、タオルを渡したときから、たぶん、ずっと」
柱時計が、九時を打った。
十年間、この店の時間を刻み続けた古い時計の音と、窓の外の雪あかりと、湯気の立つカフェオレの星ふたつを、陽菜多は、一生忘れないだろうと思った。
返事のかわりに、陽菜多はカップを持ち上げて、ひとくち、飲んだ。
世界でいちばん、おいしそうに。
この町に雪が積もるのは、年に一度あるかないかだ。よりによって今日降るなんて、天気の神様は、ずいぶんと演出過剰である。
〈珈琲シリウス〉の最後の営業日は、朝から常連客でいっぱいだった。田口のおじいちゃんは、開店から閉店までいると宣言して、本当に朝からずっと窓際の近くに陣取っていた。金物屋の親父さんも、花屋のおばさんも来た。SNSで知った若いお客さんたちが、外の雪の中に、列を作った。
陽菜多と真弓は、頼まれてもいないのに、皿洗いを手伝った。あれから陽菜多は、また店に通っていた。小暮さんは、戻ってきた陽菜多に、何も聞かなかった。ただ「おっ」と言って、蜂蜜を多めにかけた。
告白は、まだ、していない。
今日、する。最後の日に言うなんて、我ながら卑怯だと思う。逃げ場を確認してから飛ぶみたいで。でも、二十歳の勇気の貯金は、ここまで貯めるので、精一杯だったのだ。
夜八時。最後のお客さん——もちろん田口のおじいちゃんだった——が、「小暮ちゃん、長野で美味い蕎麦、見つけとけよ」と言って、涙と一緒に帰っていくと、店には、小暮さんと、陽菜多だけが残った。真弓は一時間前に、「参謀は戦場には立たないの」と言い残して、ウインクひとつで消えていた。
「……終わっちゃったなあ」
小暮さんは、誰もいなくなった客席を見渡して、伸びをした。
「十年と、四か月。よく保った方だよね、こんな流行らない店」
「流行ってました。少なくとも、この八か月は、日本一流行ってました」
「はは。そうだね。最後の年が、いちばん賑やかだった。……陽菜多ちゃんの、おかげだ」
小暮さんは、カウンターの中に戻った。
「最後に一杯、淹れるよ。カフェオレでいい?」
「はい。——あの、小暮さん」
「ん?」
「作ってる間に、聞いてほしい話が、あります」
小暮さんの手が、一瞬止まって、また動き出した。鍋に、牛乳が注がれる。三軒先の牛乳屋さんの、低温殺菌の牛乳。弱火にかけて、木べらで、ゆっくりかき回す。焦がさないように。
陽菜多は、カウンターの端の、指定席に座った。膝の上で、両手をぎゅっと握った。
「私、四月に、雨宿りでこの店に入りました。三百二十円しか持ってなくて」
「……覚えてるよ」
「あの日から、百回以上、来ました。レポートのためって言ったの、あれ、嘘です。半分は嘘です。私は、カフェオレと——カフェオレを作ってる人を、見に来てました」
牛乳が、鍋の縁で、小さく泡立ち始めた。小暮さんは、何も言わない。背中が、聞いている。
「言ったら、迷惑だってわかってます。私は二十歳で、小暮さんは四十六で、周りは絶対、変だって言う。小暮さんが先回りして考えてること、全部、佳澄さんから聞きました。私の人生を縛りたくないんだって。……でもね、小暮さん。それ、順番が違うと思うんです」
「……順番?」
「縛るかどうかを決めるのは、小暮さんじゃない。私です。私の人生だから、私が決めます。そして私は、もう決めました」
陽菜多は、息を吸った。八か月分の、息を吸った。
「好きです。あなたが、好きです。四月の雨の日から、ずっとです。星の描き方も、蜂蜜のかけ方も、牛乳をこっそり変えてくれるところも、奥さんの話をするときの顔も、ぜんぶ、ぜんぶ好きです。——返事は、いりません。いらないけど、なかったことにだけは、しないでください。私がこの店で恋をしてたことは、ほんとうに、あったことだから」
言えた。
言い終わった瞬間、視界がにじんだ。ああ、泣くのは反則なのに。これじゃ脅迫だ。慌てて袖で目をこすった。
小暮さんは、火を止めた。
カップに、コーヒーと牛乳が、注がれる。いつもより、ずっと時間をかけて。それから小暮さんは、シナモンの小瓶を手に取って、泡の上に、何かを描いた。
出てきたカップの上には、星が、ふたつ、並んでいた。
「……ふたつ?」
「シリウスはね」小暮さんは、静かに言った。「ほんとは、ふたつの星なんだ。大きくて明るいのと、小さくて、なかなか見えないのと。二つでひとつの星なんだよ。——うちの女房が、好きだった話」
小暮さんは、カウンター越しに、まっすぐ陽菜多を見た。その目が、赤かった。四十六歳の目が、二十歳の目と同じくらい、赤かった。
「陽菜多ちゃん。……俺はね、ずるい大人だから、言い訳を三つ用意してた。年が違いすぎる。女房に悪い。君の将来を潰す。——三つとも、この八か月で、ぼろぼろになったよ。年の差は、君が洗ってくれた皿の湯気で忘れたし、女房には遺言で叱られてるし、君の将来は……君が自分で決めるんだって、今、目の前で宣言された」
「小暮さん……」
「だからさ、これは、返事じゃなくて、お願いなんだけど」
小暮さんは、深く、頭を下げた。喫茶店のマスターが、カウンターの中で、客に頭を下げた。
「長野の店にも——カフェオレを世界一おいしそうに飲む人が、必要なんだ。すぐじゃなくていい。卒業して、君がいろんな世界を見て、それでも気が変わらなかったら……いや、違うな。ごめん、これも言い訳だ」
顔を上げた小暮さんは、初めて見る顔で、笑っていた。目尻の皺の、いちばん奥まで届く笑い方だった。
「……好きです。俺も、君が。雨の日に、タオルを渡したときから、たぶん、ずっと」
柱時計が、九時を打った。
十年間、この店の時間を刻み続けた古い時計の音と、窓の外の雪あかりと、湯気の立つカフェオレの星ふたつを、陽菜多は、一生忘れないだろうと思った。
返事のかわりに、陽菜多はカップを持ち上げて、ひとくち、飲んだ。
世界でいちばん、おいしそうに。