たそがれ色のカフェオレ
終章 星は、となりに
——それから、一年半後。
長野の高原の、小さな民宿〈すばる荘〉には、朝からいい匂いが漂っている。コーヒーの匂いと、焼きたてのトーストの匂いだ。
「修一郎さーん、五号室のお客さん、チェックアウトだって!」
「はいよ。——佳澄ちゃん、そのトースト、焦げてない?」
「焦げてません! お義兄さんこそ、豆、挽きすぎ!」
食堂の窓際の席では、灰色の猫が丸くなっている。シリウスは、都会育ちのくせに、高原の暮らしにあっさり馴染んだ。この席は、猫の席で、それから、写真立ての中で笑っている人の席でもある。
玄関の呼び鈴が鳴ったのは、午後二時過ぎだった。
「ごめんくださーい……って、言う必要、もうないんだっけ」
大きなリュックを背負った陽菜多が、バスの時刻表を片手に立っていた。大学四年生。就職は、松本の出版社に決まった。「地方の文化を記録する仕事がしたいんです」と面接で語った内容は、嘘ではないが、動機の三割くらいは、バスで四十分のこの民宿にある。
「おっ」
と、小暮さんが言った。
「久しぶりだね。一か月ぶり?」
「三週間ぶり、です。数えてないんですか。私は数えてるのに」
「数えてたよ。二十一日ぶり」
「……そういうとこ、ずるいです」
二人は、まだ「恋人」という言葉を、ほとんど使わない。周りが何と呼ぼうと、二人の間には、二人だけの速度がある。ゆっくり温める、牛乳みたいな速度が。焦がしたら、おしまいなのだ。
夕方、陽菜多は食堂のカウンターに座って、いつものように言う。
「カフェオレ、ください」
「はい。——うちのカフェオレはね、時間がかかるよ」
「知ってます」
陽菜多は、窓の外を見た。高原の空が、たそがれ色に染まり始めている。もうすぐ、星が出る。この土地の夜空には、冗談みたいな数の星が出るのだ。
その中に、ふたつでひとつの星があることを、陽菜多は、もう知っている。
大きな星の隣に寄り添う、小さな星。人ひとりの一生とおなじ五十年をかけて、ゆっくり、ゆっくり、お互いの周りを回る星。
——急がなくていいんだよ、と、その星は言っている気がする。
恋は、たいてい傘を忘れた日にやって来る。
そして、ほんものの恋は——ゆっくり温めた牛乳と同じで、時間をかけた分だけ、甘くなる。
「はい、お待たせ」
カウンターに置かれたカップの上では、今日も、シナモンの星がふたつ、湯気の中で寄り添って、光っていた。
長野の高原の、小さな民宿〈すばる荘〉には、朝からいい匂いが漂っている。コーヒーの匂いと、焼きたてのトーストの匂いだ。
「修一郎さーん、五号室のお客さん、チェックアウトだって!」
「はいよ。——佳澄ちゃん、そのトースト、焦げてない?」
「焦げてません! お義兄さんこそ、豆、挽きすぎ!」
食堂の窓際の席では、灰色の猫が丸くなっている。シリウスは、都会育ちのくせに、高原の暮らしにあっさり馴染んだ。この席は、猫の席で、それから、写真立ての中で笑っている人の席でもある。
玄関の呼び鈴が鳴ったのは、午後二時過ぎだった。
「ごめんくださーい……って、言う必要、もうないんだっけ」
大きなリュックを背負った陽菜多が、バスの時刻表を片手に立っていた。大学四年生。就職は、松本の出版社に決まった。「地方の文化を記録する仕事がしたいんです」と面接で語った内容は、嘘ではないが、動機の三割くらいは、バスで四十分のこの民宿にある。
「おっ」
と、小暮さんが言った。
「久しぶりだね。一か月ぶり?」
「三週間ぶり、です。数えてないんですか。私は数えてるのに」
「数えてたよ。二十一日ぶり」
「……そういうとこ、ずるいです」
二人は、まだ「恋人」という言葉を、ほとんど使わない。周りが何と呼ぼうと、二人の間には、二人だけの速度がある。ゆっくり温める、牛乳みたいな速度が。焦がしたら、おしまいなのだ。
夕方、陽菜多は食堂のカウンターに座って、いつものように言う。
「カフェオレ、ください」
「はい。——うちのカフェオレはね、時間がかかるよ」
「知ってます」
陽菜多は、窓の外を見た。高原の空が、たそがれ色に染まり始めている。もうすぐ、星が出る。この土地の夜空には、冗談みたいな数の星が出るのだ。
その中に、ふたつでひとつの星があることを、陽菜多は、もう知っている。
大きな星の隣に寄り添う、小さな星。人ひとりの一生とおなじ五十年をかけて、ゆっくり、ゆっくり、お互いの周りを回る星。
——急がなくていいんだよ、と、その星は言っている気がする。
恋は、たいてい傘を忘れた日にやって来る。
そして、ほんものの恋は——ゆっくり温めた牛乳と同じで、時間をかけた分だけ、甘くなる。
「はい、お待たせ」
カウンターに置かれたカップの上では、今日も、シナモンの星がふたつ、湯気の中で寄り添って、光っていた。
