よあけ色のカフェオレ
第三章 父が来た日
金曜日の夜十時、スマホが鳴った。
画面に〈お父さん〉と出たとき、陽菜多には、なぜかもう、用件がわかっていた。
『ー明日、松本に行く』
「え」
『駅前のホテルを取った。昼メシでも食おう』
「あの、お父さん、明日は私」
『山だろ』
陽菜多は、黙った。
『お母さんが、心配してる。……いや、嘘だ。俺が心配してる。お母さんは「行くなら怒鳴らないでよ」と言っている』
「怒鳴らないでよ」
『同じことを言うな』
電話が切れたあと、陽菜多はしばらく天井を見て、それから真弓に電話をかけた。
「真弓、来た。ついに来た」
『何が』
「父上が」
『あー』真弓の声は、驚くほど落ち着いていた。『遅かったくらいよ。三年よ? むしろ、よく我慢したわね、お父さん』
「どうしよう」
『会わせなさい』
「無理だよ、絶対もめる」
『もめるに決まってるでしょ。もめないと進まないの、こういうのは』
真弓は、それから少しだけ声をやわらげた。
『あんた、お父さんのこと、好きでしょ』
「……うん」
『じゃあ大丈夫。嫌いな相手には、人は本気で怒鳴らないの』
杉原和彦、五十五歳。市役所の水道部に勤めて三十三年。趣味は日曜大工と、高校野球中継。娘の目から見て、平凡で、頑固で、ときどき、どうしようもなく不器用な人である。
その父が、土曜の朝、松本駅の改札から、紺のジャンパーで出てきた。
「よく来たね、お父さん」
「うん。……で、そのバスか」
「え?」
「乗るんだろ、山の上まで。俺も乗る」
「聞いてないよ!?」
「今、言った」
こうして、陽菜多の人生でいちばん気まずいバスの四十分が始まった。父は窓の外の杉林をじっと見ていた。陽菜多は、豆大福の袋を膝の上で握りしめていた。豆大福は、今日は八つ買った。二つおまけがついた。数が合わないのは、店のおばさんが動揺したからだと思う。
「ーここか」
白樺の道を七分歩いて、〈民宿 すばる荘〉の看板の前で、父は立ち止まった。
二枚目の板を、じっと見上げた。
〈朝のコーヒー、やってます〉
「この字、下手だな」
「私が作らせたの!」
「……そうか」
父の口の端が、ほんの少しだけ動いた。笑ったのだと思う。たぶん。
玄関の引き戸を開けたところで、灰色の毛玉が体当たりしてきた。
「うわっ」
父が、後ずさった。
「ちょ、なんだこの猫」
「シリウスです。この家の、いちばん偉い人」
シリウスは、父のズボンの裾に体をこすりつけ、それから、たいへん堂々と、父の靴の上に座った。
父は、猫が苦手である。苦手なのに、猫のほうから来てしまうと、どうしていいかわからなくなる人である。腰を引いたまま固まっている五十五歳を見て、陽菜多は、こんな状況なのに、少し笑ってしまった。
その笑い声で、厨房から人が出てきた。
「いらっしゃいませ」
小暮さんは、紺のエプロンではなかった。
白いシャツに、アイロンのかかったズボン。髪を整えて、ひげをきれいに剃って、そしてーたぶん一時間くらい、玄関のほうを気にしながら待っていた顔をしていた。
「……初めまして。小暮修一郎と申します」
「杉原和彦です。娘が、世話になっております」
二人が向かい合って頭を下げた瞬間、陽菜多の心臓は、いったん止まったと思う。
救出に来てくれたのは、佳澄さんと源一郎さんだった。
「まあまあ、お父さん、遠いところを。お茶より先に、蕎麦にします?」
「お父さん、あんた、水道屋さんだって? うちの風呂場の蛇口がね、去年から鳴くんだわ」
「鳴きますか」
「鳴くんだよ。キューッと」
「それは、たぶんコマパッキンです。百二十円で直ります」
「百二十円!」
源一郎さんが、たいへん喜んだ。
この日、日本の一人の父親と、一軒の民宿の距離を縮めたのは、恋でも、誠意でもなく、コマパッキンだった。父は工具箱を借りて風呂場に入り、二十分で蛇口を黙らせた。源一郎さんは、それを「魔法だ」と言った。
昼食のあと、佳澄さんが陽菜多の腕を引いた。
「洗い物、手伝って」
「でも」
「手伝って」
言い方でわかった。二人にさせる、ということだ。
流しに向かって、陽菜多は皿を洗った。洗いながら、食堂のほうの声を、拾ってしまった。拾わないようにするには、水を強く出せばよかったのだ。でも、出せなかった。
「ー単刀直入に伺います」
父の声だった。
「小暮さんは、娘と、結婚するおつもりがあるんですか」
皿が、手の中で滑った。
「……はい」
小暮さんの声は、静かだった。
「はい?」
「そのつもりです。ただー申し込んでは、おりません」
「なぜです」
「申し込む資格が、まだないと思っているからです」
「資格」
父が、ふ、と息を吐いたのがわかった。
「では、こちらから資格の話をします。小暮さん、あなたは今、五十だ。娘は二十四。あなたが七十のとき、娘は四十四です。あなたが八十のとき、五十四。私は五十五ですから、あなたと五つしか違わない。ーつまり私は、自分と同じ世代の男に、娘を渡すことになる」
「はい」
「うちの娘は、四十代の後半から、たぶん十年か二十年、あなたの介護をすることになる。その年代というのは、女性が仕事でいちばん面白くなる時期です。私の職場にも、そういう人がたくさんいます。娘は、その時期を、あなたに使うことになる」
「……はい」
「そして、いずれ、ひとりになる。十二年前にあなたが経験したことを、今度は娘が経験する。あなたは、そのとき、もういない」
陽菜多は、蛇口を止めた。もう、繕う気力もなかった。
父の声は、怒鳴ってはいなかった。怒鳴っていないから、余計に、正確だった。父の仕事は水道だ、管の太さと、圧と、年数を計算してきた。だから、こういう計算がうまい。
「……何か、反論はありますか」
長い、沈黙があった。
言い返して。
陽菜多は、皿を握りしめたまま、祈った。三年前と、同じ祈り方だった。
お願いだから、言い返して。
「ーありません」
小暮さんは、そう言った。
「おっしゃる通りです。ひとつも、反論できません」
陽菜多の目の奥が、熱くなった。
どうして。どうして、そこで黙るの。
でも、次に聞こえてきた言葉に、陽菜多は、動けなくなった。
「ただ、ひとつだけ、申し上げます。ーお父さん。私はもう、逃げるのをやめます」
「え」
「三年前、私は同じ計算をして、陽菜多さんを遠ざけようとしました。全部、先回りして、いちばん傷が浅いところで止めようとした。それを、当時二十歳だったお嬢さんに、正面から叱られました。『私の人生を縛るかどうかを決めるのは、あなたじゃない、私だ』と」
父が、黙った。
「私は、あの言葉から三年、ずっと考えています。……たしかに私は、陽菜多さんの人生を、たくさん奪う。奪った分を返せるとは、思っていません。ただ、逃げて、彼女の二十四歳をもう一年こんなふうに宙ぶらりんにしておくことが、いちばん卑怯だということだけは、わかりました」
「……小暮さん」
「だから、資格ができたら申し込みます。それまで、待っていただけませんか」
父は、しばらく何も言わなかった。
やがて、椅子を引く音がした。
「ー反対です」
父は、はっきりと言った。
「はっきり、反対です。今日のところは」
そして、そのあとに、ぼそりと付け足した。
「……今日のところは、と、言いました」
バス停まで送っていく道で、父は何も話さなかった。
白樺の間から、夕方の光が落ちていた。もうすぐ、たそがれ色になる時間だ。
「お父さん」
「なんだ」
「……ごめんね」
「謝るな」父は前を見たまま言った。「謝られると、俺が悪者みたいじゃないか」
「悪者だよ、ちょっと」
「そうか」
バスが来た。父は乗り込む前に、一度だけ振り返った。
「陽菜多」
「なに」
「お前、あの人に、何をしてもらった」
陽菜多は、少し考えて、答えた。
「三百二十円しかなかったとき、四百五十円のカフェオレを、飲ませてくれた」
父は、変な顔をした。
「……意味がわからん」
「うん。私にも、うまく言えない」
バスの扉が閉まった。窓の向こうで、父が小さく手を上げた。
陽菜多はその場に立って、テールランプが白樺の道の先に消えるまで、見送った。
それから、ゆっくり、来た道を引き返した。
民宿の窓には、もう灯りがついていた。オレンジ色の、あたたかい灯りだった。四年前、雨の路地の奥に見つけた灯りと、同じ色だった。
画面に〈お父さん〉と出たとき、陽菜多には、なぜかもう、用件がわかっていた。
『ー明日、松本に行く』
「え」
『駅前のホテルを取った。昼メシでも食おう』
「あの、お父さん、明日は私」
『山だろ』
陽菜多は、黙った。
『お母さんが、心配してる。……いや、嘘だ。俺が心配してる。お母さんは「行くなら怒鳴らないでよ」と言っている』
「怒鳴らないでよ」
『同じことを言うな』
電話が切れたあと、陽菜多はしばらく天井を見て、それから真弓に電話をかけた。
「真弓、来た。ついに来た」
『何が』
「父上が」
『あー』真弓の声は、驚くほど落ち着いていた。『遅かったくらいよ。三年よ? むしろ、よく我慢したわね、お父さん』
「どうしよう」
『会わせなさい』
「無理だよ、絶対もめる」
『もめるに決まってるでしょ。もめないと進まないの、こういうのは』
真弓は、それから少しだけ声をやわらげた。
『あんた、お父さんのこと、好きでしょ』
「……うん」
『じゃあ大丈夫。嫌いな相手には、人は本気で怒鳴らないの』
杉原和彦、五十五歳。市役所の水道部に勤めて三十三年。趣味は日曜大工と、高校野球中継。娘の目から見て、平凡で、頑固で、ときどき、どうしようもなく不器用な人である。
その父が、土曜の朝、松本駅の改札から、紺のジャンパーで出てきた。
「よく来たね、お父さん」
「うん。……で、そのバスか」
「え?」
「乗るんだろ、山の上まで。俺も乗る」
「聞いてないよ!?」
「今、言った」
こうして、陽菜多の人生でいちばん気まずいバスの四十分が始まった。父は窓の外の杉林をじっと見ていた。陽菜多は、豆大福の袋を膝の上で握りしめていた。豆大福は、今日は八つ買った。二つおまけがついた。数が合わないのは、店のおばさんが動揺したからだと思う。
「ーここか」
白樺の道を七分歩いて、〈民宿 すばる荘〉の看板の前で、父は立ち止まった。
二枚目の板を、じっと見上げた。
〈朝のコーヒー、やってます〉
「この字、下手だな」
「私が作らせたの!」
「……そうか」
父の口の端が、ほんの少しだけ動いた。笑ったのだと思う。たぶん。
玄関の引き戸を開けたところで、灰色の毛玉が体当たりしてきた。
「うわっ」
父が、後ずさった。
「ちょ、なんだこの猫」
「シリウスです。この家の、いちばん偉い人」
シリウスは、父のズボンの裾に体をこすりつけ、それから、たいへん堂々と、父の靴の上に座った。
父は、猫が苦手である。苦手なのに、猫のほうから来てしまうと、どうしていいかわからなくなる人である。腰を引いたまま固まっている五十五歳を見て、陽菜多は、こんな状況なのに、少し笑ってしまった。
その笑い声で、厨房から人が出てきた。
「いらっしゃいませ」
小暮さんは、紺のエプロンではなかった。
白いシャツに、アイロンのかかったズボン。髪を整えて、ひげをきれいに剃って、そしてーたぶん一時間くらい、玄関のほうを気にしながら待っていた顔をしていた。
「……初めまして。小暮修一郎と申します」
「杉原和彦です。娘が、世話になっております」
二人が向かい合って頭を下げた瞬間、陽菜多の心臓は、いったん止まったと思う。
救出に来てくれたのは、佳澄さんと源一郎さんだった。
「まあまあ、お父さん、遠いところを。お茶より先に、蕎麦にします?」
「お父さん、あんた、水道屋さんだって? うちの風呂場の蛇口がね、去年から鳴くんだわ」
「鳴きますか」
「鳴くんだよ。キューッと」
「それは、たぶんコマパッキンです。百二十円で直ります」
「百二十円!」
源一郎さんが、たいへん喜んだ。
この日、日本の一人の父親と、一軒の民宿の距離を縮めたのは、恋でも、誠意でもなく、コマパッキンだった。父は工具箱を借りて風呂場に入り、二十分で蛇口を黙らせた。源一郎さんは、それを「魔法だ」と言った。
昼食のあと、佳澄さんが陽菜多の腕を引いた。
「洗い物、手伝って」
「でも」
「手伝って」
言い方でわかった。二人にさせる、ということだ。
流しに向かって、陽菜多は皿を洗った。洗いながら、食堂のほうの声を、拾ってしまった。拾わないようにするには、水を強く出せばよかったのだ。でも、出せなかった。
「ー単刀直入に伺います」
父の声だった。
「小暮さんは、娘と、結婚するおつもりがあるんですか」
皿が、手の中で滑った。
「……はい」
小暮さんの声は、静かだった。
「はい?」
「そのつもりです。ただー申し込んでは、おりません」
「なぜです」
「申し込む資格が、まだないと思っているからです」
「資格」
父が、ふ、と息を吐いたのがわかった。
「では、こちらから資格の話をします。小暮さん、あなたは今、五十だ。娘は二十四。あなたが七十のとき、娘は四十四です。あなたが八十のとき、五十四。私は五十五ですから、あなたと五つしか違わない。ーつまり私は、自分と同じ世代の男に、娘を渡すことになる」
「はい」
「うちの娘は、四十代の後半から、たぶん十年か二十年、あなたの介護をすることになる。その年代というのは、女性が仕事でいちばん面白くなる時期です。私の職場にも、そういう人がたくさんいます。娘は、その時期を、あなたに使うことになる」
「……はい」
「そして、いずれ、ひとりになる。十二年前にあなたが経験したことを、今度は娘が経験する。あなたは、そのとき、もういない」
陽菜多は、蛇口を止めた。もう、繕う気力もなかった。
父の声は、怒鳴ってはいなかった。怒鳴っていないから、余計に、正確だった。父の仕事は水道だ、管の太さと、圧と、年数を計算してきた。だから、こういう計算がうまい。
「……何か、反論はありますか」
長い、沈黙があった。
言い返して。
陽菜多は、皿を握りしめたまま、祈った。三年前と、同じ祈り方だった。
お願いだから、言い返して。
「ーありません」
小暮さんは、そう言った。
「おっしゃる通りです。ひとつも、反論できません」
陽菜多の目の奥が、熱くなった。
どうして。どうして、そこで黙るの。
でも、次に聞こえてきた言葉に、陽菜多は、動けなくなった。
「ただ、ひとつだけ、申し上げます。ーお父さん。私はもう、逃げるのをやめます」
「え」
「三年前、私は同じ計算をして、陽菜多さんを遠ざけようとしました。全部、先回りして、いちばん傷が浅いところで止めようとした。それを、当時二十歳だったお嬢さんに、正面から叱られました。『私の人生を縛るかどうかを決めるのは、あなたじゃない、私だ』と」
父が、黙った。
「私は、あの言葉から三年、ずっと考えています。……たしかに私は、陽菜多さんの人生を、たくさん奪う。奪った分を返せるとは、思っていません。ただ、逃げて、彼女の二十四歳をもう一年こんなふうに宙ぶらりんにしておくことが、いちばん卑怯だということだけは、わかりました」
「……小暮さん」
「だから、資格ができたら申し込みます。それまで、待っていただけませんか」
父は、しばらく何も言わなかった。
やがて、椅子を引く音がした。
「ー反対です」
父は、はっきりと言った。
「はっきり、反対です。今日のところは」
そして、そのあとに、ぼそりと付け足した。
「……今日のところは、と、言いました」
バス停まで送っていく道で、父は何も話さなかった。
白樺の間から、夕方の光が落ちていた。もうすぐ、たそがれ色になる時間だ。
「お父さん」
「なんだ」
「……ごめんね」
「謝るな」父は前を見たまま言った。「謝られると、俺が悪者みたいじゃないか」
「悪者だよ、ちょっと」
「そうか」
バスが来た。父は乗り込む前に、一度だけ振り返った。
「陽菜多」
「なに」
「お前、あの人に、何をしてもらった」
陽菜多は、少し考えて、答えた。
「三百二十円しかなかったとき、四百五十円のカフェオレを、飲ませてくれた」
父は、変な顔をした。
「……意味がわからん」
「うん。私にも、うまく言えない」
バスの扉が閉まった。窓の向こうで、父が小さく手を上げた。
陽菜多はその場に立って、テールランプが白樺の道の先に消えるまで、見送った。
それから、ゆっくり、来た道を引き返した。
民宿の窓には、もう灯りがついていた。オレンジ色の、あたたかい灯りだった。四年前、雨の路地の奥に見つけた灯りと、同じ色だった。