よあけ色のカフェオレ
第四章 シリウス、行方不明
六月の水曜日、会社で校正刷りと格闘していた陽菜多のスマホに、小暮さんから電話がかかってきた。
小暮さんが平日の昼に電話をかけてくることは、ない。
三年で、一度もない。
「もしもし?」
『陽菜多ちゃん。……仕事中に、ごめん』
声が、おかしかった。
『シリウスが、いない』
昨日の夕方から、姿が見えないのだという。夜になっても帰らず、朝になっても帰らず、餌にも来ない。
「小暮さん、落ち着いて。あの子、前も一日いなくなったこと、ありましたよね」
『あれは半日。……今度は、丸一日たってる』
電話の向こうで、息を吸う音がした。
『あのな、陽菜多ちゃん。猫は、そのー弱ると、隠れるんだ。人に見えないところに行って、それきり出てこない。前に飼ってたのが、そうだった。だから』
「行きます」
『いや、平日だろ』
「有給、あります。半日で行きます」
電話を切って、陽菜多は編集長のところへ走った。
「戸倉さん、午後、休ませてください。猫が行方不明で」
戸倉さんは、老眼鏡を上げて、陽菜多をじっと見た。
「猫か」
「猫です」
「行け。校正は月曜に置いていけ」
いい会社だ、と陽菜多は改めて思った。
高原口のバス停に着いたのは、午後三時過ぎだった。
白樺の道を、走った。走りながら、名前を呼んだ。返事はなかった。
すばる荘の前庭に人が集まっていた。源一郎さんと、佳澄さんと、近所の農家のおばさんが二人。そして、見慣れない、四十代半ばくらいの男の人がいた。作業着に長靴、首からタオル、大きな鞄。
「宮下といいます。この谷の獣医です」
「杉原です。……あの、シリウスは」
「まだ。ただ、悪い話ばかりじゃない。昨日から、道路で轢かれた猫の届けはないし、犬に追われた形跡もない。あの子は年寄りだが、耳も足もしっかりしてる」
宮下先生は、淡々と、しかし妙に安心する話し方をする人だった。
「小暮さんは?」
「山のほう。朝から」
佳澄さんが、眉を寄せた。
「もう七時間よ。声をかけても、戻ってこないの。……あの人、あんなふうになるのね。あたし、姉さんのお葬式のときですら、あんな顔、見なかったわ」
陽菜多は、山道のほうへ足を向けた。
「あたしも行く」と佳澄さんが言いかけたのを、宮下先生が止めた。
「佳澄さん。ここは若い人に行かせて、俺たちは納屋と床下をもう一回しらべましょう。猫は、案外、遠くに行かない」
「……そうね」
その一言が、あとで正しかったことになる。
陽菜多は、山道を三十分のぼって、小暮さんを見つけた。
沢のそばの、倒木のところで、小暮さんは膝に手をついて立っていた。
「小暮さん!」
振り向いた顔を見て、陽菜多は息をのんだ。
髪も、シャツも、汗と土でぐしゃぐしゃで、目が、赤かった。五十歳が、こんな顔をするのを、陽菜多は初めて見た。
「……来ちゃったの」
「来ました」
「悪いね。仕事、あるのに」
「猫がいなくなったんですよ。日本中の仕事が止まったって、しょうがないです」
小暮さんは、それを聞いて、少しだけ笑った。笑って、それから、目尻を手の甲でこすった。
「あいつな、女房が拾ってきたんだ」
「……はい」
「まだ店を開ける前でさ、雨の日に、段ボールに入ってたのを拾ってきて、『修一郎さん、この子、目がシリウスに似てる』って。似てるも何も、猫の目だっつうの。……で、そのままシリウスになった。店の名前もそれになった」
沢の水の音が、二人の間を流れていった。
「女房が死んで、店がなくなって、商店街もなくなって、それでもさ、あいつだけは、ずっといたんだよ。あの店から持ってきたもんで、生きてるのは、あいつだけなんだ」
陽菜多は、何も言えなかった。
この人は、こわいのだ、と思った。
いつも落ち着いていて、いつも先回りして、いつもいちばん傷の浅いところで止まろうとするこの人はー本当は、失うことが、人よりずっと、こわい人なのだ。
三年前、私を遠ざけようとしたのも、たぶん、同じ形の恐怖だった。
「小暮さん。戻りましょう」
「まだ、日が」
「戻りましょう。宮下先生が、猫は遠くに行かないって」
小暮さんは、動かなかった。動かないので、陽菜多は、手を伸ばした。
汗と土で汚れた、大きな手をつかんだ。
ー八回目である。
「行きますよ」
「……うん」
すばる荘に戻ったのは、六時前だった。
みんなが縁側に集まって、途方に暮れていた。宮下先生が、鞄から懐中電灯を出しながら言った。
「あとは、納屋の奥。荷物が積んであるところは、まだ見てないでしょう」
「あそこは、隙間なんてないよ」と源一郎さん。
「猫の隙間と、人間の言う隙間は、別のものです」
納屋の扉を開けると、埃と、古い木の匂いがした。
商店街の店から運んできたものが、そのまま積んである。使わなくなった椅子。看板。レコードの空箱。そして、あの柱時計が入っていた、大きな木箱。
陽菜多は、しゃがみこんで、懐中電灯を低く向けた。
木箱と壁の間に、握りこぶし二つ分ほどの、隙間があった。
その奥でーふたつ、光った。
「……シリウス」
返事はなかった。かわりに、小さな、細い声が聞こえた。
みゃあ、でも、にゃあ、でもない。ちいちい、という、生まれたての鳴き方だった。
「先生!」
宮下先生が、木箱を、静かに、ゆっくりと引いた。
埃だらけの床に、灰色の大きな猫が、横向きに丸くなっていた。
その腹のところに、小さいのが、二匹。
一匹は、けたたましく鳴いていた。もう一匹は、ぐったりして、動かなかった。どちらも、まだ目も開いていない。
「……シリウス、あんた」
佳澄さんが、口を押さえた。
「あんた、オスでしょうが」
シリウスは、それには答えず、たいへん迷惑そうに片目だけ開けて、こちらを見た。
四年前、陽菜多が初めて店に入ったときと、まったく同じ目つきだった。
宮下先生は、手早く二匹を診た。
「母猫は、たぶん死んだか、いなくなったな。生後五日くらい。……こっちは元気。こっちは、冷えてる。危ないところだった」
「助かりますか」
「今晩が勝負。ただ、シリウスが丸一日温めてなかったら、朝までもたなかった」
みんなが、シリウスを見た。
シリウスは、体を起こし、大きく伸びをして、それから、小暮さんのところへ、のそのそと歩いていった。
そして、小暮さんの足首に、体当たりした。
いつもの、朝いちばんの客にするのと、まったく同じやり方で。
小暮さんが、しゃがみこんだ。
しゃがみこんで、猫の頭に額をつけて、そのまま、動かなくなった。
肩が、震えていた。
陽菜多も、佳澄さんも、源一郎さんも、宮下先生も、誰も、何も言わなかった。納屋の中には、子猫の、ちいちい、という声だけが響いていた。
その夜、食堂は野戦病院になった。
湯たんぽと、タオルと、二時間おきのミルク。宮下先生が朝まで付き合ってくれた。佳澄さんは味噌汁を作り続け、源一郎さんは「わしは邪魔だな」と言いながら、結局、ずっと起きていた。
午前三時、弱っていたほうの子猫が、初めて自分でミルクを飲んだとき、陽菜多は声を上げて泣いた。二時間しか寝ていない大人たちが、みんなで、へなへなとなりながら笑った。
「名前、どうします」
陽菜多が聞くと、小暮さんは、少し考えて言った。
「元気なほうが、プロキオン。弱ってたほうが、ベテルギウス」
「長い」
「長いね」
「呼びにくいです」
「プロと、ベテで」
「……なんか、洋菓子屋さんみたい」
冬の大三角、というのだと、小暮さんは教えてくれた。シリウスと、プロキオンと、ベテルギウス。冬のいちばん寒い夜に、いちばんきれいに見える三つの星。三つを線で結ぶと、大きな三角形になる。
「三角形は、強いんだよ」
小暮さんは、湯たんぽを詰め直しながら言った。
「二点だと、線にしかならない。でも三点あると、面になる。面になると、簡単には潰れない。……建築の人が言ってた」
陽菜多は、段ボールの中をのぞいた。
灰色の大きな猫と、小さいのが二匹。
二点が、三点になったのだ。この家の話をしているような気がして、陽菜多は、なんだか胸がいっぱいになった。
明け方、食堂の椅子でうとうとしていた陽菜多は、物音で目を覚ました。
厨房で、小暮さんが、カウンターに片手をついていた。
もう片方の手が、シャツの胸のあたりを、ぎゅっと握っていた。
「……小暮さん?」
小暮さんは、はっとしたように手を離して、いつもの顔で笑った。
「ああ、ごめん、起こした? 年だな。徹夜がこたえる」
その笑い方は、目尻の皺まで届いていなかった。
陽菜多は、それを見た。見たのに、何も言えなかった。
あのとき、無理にでも聞いていれば、と、陽菜多はあとになって、何度も思うことになる。
小暮さんが平日の昼に電話をかけてくることは、ない。
三年で、一度もない。
「もしもし?」
『陽菜多ちゃん。……仕事中に、ごめん』
声が、おかしかった。
『シリウスが、いない』
昨日の夕方から、姿が見えないのだという。夜になっても帰らず、朝になっても帰らず、餌にも来ない。
「小暮さん、落ち着いて。あの子、前も一日いなくなったこと、ありましたよね」
『あれは半日。……今度は、丸一日たってる』
電話の向こうで、息を吸う音がした。
『あのな、陽菜多ちゃん。猫は、そのー弱ると、隠れるんだ。人に見えないところに行って、それきり出てこない。前に飼ってたのが、そうだった。だから』
「行きます」
『いや、平日だろ』
「有給、あります。半日で行きます」
電話を切って、陽菜多は編集長のところへ走った。
「戸倉さん、午後、休ませてください。猫が行方不明で」
戸倉さんは、老眼鏡を上げて、陽菜多をじっと見た。
「猫か」
「猫です」
「行け。校正は月曜に置いていけ」
いい会社だ、と陽菜多は改めて思った。
高原口のバス停に着いたのは、午後三時過ぎだった。
白樺の道を、走った。走りながら、名前を呼んだ。返事はなかった。
すばる荘の前庭に人が集まっていた。源一郎さんと、佳澄さんと、近所の農家のおばさんが二人。そして、見慣れない、四十代半ばくらいの男の人がいた。作業着に長靴、首からタオル、大きな鞄。
「宮下といいます。この谷の獣医です」
「杉原です。……あの、シリウスは」
「まだ。ただ、悪い話ばかりじゃない。昨日から、道路で轢かれた猫の届けはないし、犬に追われた形跡もない。あの子は年寄りだが、耳も足もしっかりしてる」
宮下先生は、淡々と、しかし妙に安心する話し方をする人だった。
「小暮さんは?」
「山のほう。朝から」
佳澄さんが、眉を寄せた。
「もう七時間よ。声をかけても、戻ってこないの。……あの人、あんなふうになるのね。あたし、姉さんのお葬式のときですら、あんな顔、見なかったわ」
陽菜多は、山道のほうへ足を向けた。
「あたしも行く」と佳澄さんが言いかけたのを、宮下先生が止めた。
「佳澄さん。ここは若い人に行かせて、俺たちは納屋と床下をもう一回しらべましょう。猫は、案外、遠くに行かない」
「……そうね」
その一言が、あとで正しかったことになる。
陽菜多は、山道を三十分のぼって、小暮さんを見つけた。
沢のそばの、倒木のところで、小暮さんは膝に手をついて立っていた。
「小暮さん!」
振り向いた顔を見て、陽菜多は息をのんだ。
髪も、シャツも、汗と土でぐしゃぐしゃで、目が、赤かった。五十歳が、こんな顔をするのを、陽菜多は初めて見た。
「……来ちゃったの」
「来ました」
「悪いね。仕事、あるのに」
「猫がいなくなったんですよ。日本中の仕事が止まったって、しょうがないです」
小暮さんは、それを聞いて、少しだけ笑った。笑って、それから、目尻を手の甲でこすった。
「あいつな、女房が拾ってきたんだ」
「……はい」
「まだ店を開ける前でさ、雨の日に、段ボールに入ってたのを拾ってきて、『修一郎さん、この子、目がシリウスに似てる』って。似てるも何も、猫の目だっつうの。……で、そのままシリウスになった。店の名前もそれになった」
沢の水の音が、二人の間を流れていった。
「女房が死んで、店がなくなって、商店街もなくなって、それでもさ、あいつだけは、ずっといたんだよ。あの店から持ってきたもんで、生きてるのは、あいつだけなんだ」
陽菜多は、何も言えなかった。
この人は、こわいのだ、と思った。
いつも落ち着いていて、いつも先回りして、いつもいちばん傷の浅いところで止まろうとするこの人はー本当は、失うことが、人よりずっと、こわい人なのだ。
三年前、私を遠ざけようとしたのも、たぶん、同じ形の恐怖だった。
「小暮さん。戻りましょう」
「まだ、日が」
「戻りましょう。宮下先生が、猫は遠くに行かないって」
小暮さんは、動かなかった。動かないので、陽菜多は、手を伸ばした。
汗と土で汚れた、大きな手をつかんだ。
ー八回目である。
「行きますよ」
「……うん」
すばる荘に戻ったのは、六時前だった。
みんなが縁側に集まって、途方に暮れていた。宮下先生が、鞄から懐中電灯を出しながら言った。
「あとは、納屋の奥。荷物が積んであるところは、まだ見てないでしょう」
「あそこは、隙間なんてないよ」と源一郎さん。
「猫の隙間と、人間の言う隙間は、別のものです」
納屋の扉を開けると、埃と、古い木の匂いがした。
商店街の店から運んできたものが、そのまま積んである。使わなくなった椅子。看板。レコードの空箱。そして、あの柱時計が入っていた、大きな木箱。
陽菜多は、しゃがみこんで、懐中電灯を低く向けた。
木箱と壁の間に、握りこぶし二つ分ほどの、隙間があった。
その奥でーふたつ、光った。
「……シリウス」
返事はなかった。かわりに、小さな、細い声が聞こえた。
みゃあ、でも、にゃあ、でもない。ちいちい、という、生まれたての鳴き方だった。
「先生!」
宮下先生が、木箱を、静かに、ゆっくりと引いた。
埃だらけの床に、灰色の大きな猫が、横向きに丸くなっていた。
その腹のところに、小さいのが、二匹。
一匹は、けたたましく鳴いていた。もう一匹は、ぐったりして、動かなかった。どちらも、まだ目も開いていない。
「……シリウス、あんた」
佳澄さんが、口を押さえた。
「あんた、オスでしょうが」
シリウスは、それには答えず、たいへん迷惑そうに片目だけ開けて、こちらを見た。
四年前、陽菜多が初めて店に入ったときと、まったく同じ目つきだった。
宮下先生は、手早く二匹を診た。
「母猫は、たぶん死んだか、いなくなったな。生後五日くらい。……こっちは元気。こっちは、冷えてる。危ないところだった」
「助かりますか」
「今晩が勝負。ただ、シリウスが丸一日温めてなかったら、朝までもたなかった」
みんなが、シリウスを見た。
シリウスは、体を起こし、大きく伸びをして、それから、小暮さんのところへ、のそのそと歩いていった。
そして、小暮さんの足首に、体当たりした。
いつもの、朝いちばんの客にするのと、まったく同じやり方で。
小暮さんが、しゃがみこんだ。
しゃがみこんで、猫の頭に額をつけて、そのまま、動かなくなった。
肩が、震えていた。
陽菜多も、佳澄さんも、源一郎さんも、宮下先生も、誰も、何も言わなかった。納屋の中には、子猫の、ちいちい、という声だけが響いていた。
その夜、食堂は野戦病院になった。
湯たんぽと、タオルと、二時間おきのミルク。宮下先生が朝まで付き合ってくれた。佳澄さんは味噌汁を作り続け、源一郎さんは「わしは邪魔だな」と言いながら、結局、ずっと起きていた。
午前三時、弱っていたほうの子猫が、初めて自分でミルクを飲んだとき、陽菜多は声を上げて泣いた。二時間しか寝ていない大人たちが、みんなで、へなへなとなりながら笑った。
「名前、どうします」
陽菜多が聞くと、小暮さんは、少し考えて言った。
「元気なほうが、プロキオン。弱ってたほうが、ベテルギウス」
「長い」
「長いね」
「呼びにくいです」
「プロと、ベテで」
「……なんか、洋菓子屋さんみたい」
冬の大三角、というのだと、小暮さんは教えてくれた。シリウスと、プロキオンと、ベテルギウス。冬のいちばん寒い夜に、いちばんきれいに見える三つの星。三つを線で結ぶと、大きな三角形になる。
「三角形は、強いんだよ」
小暮さんは、湯たんぽを詰め直しながら言った。
「二点だと、線にしかならない。でも三点あると、面になる。面になると、簡単には潰れない。……建築の人が言ってた」
陽菜多は、段ボールの中をのぞいた。
灰色の大きな猫と、小さいのが二匹。
二点が、三点になったのだ。この家の話をしているような気がして、陽菜多は、なんだか胸がいっぱいになった。
明け方、食堂の椅子でうとうとしていた陽菜多は、物音で目を覚ました。
厨房で、小暮さんが、カウンターに片手をついていた。
もう片方の手が、シャツの胸のあたりを、ぎゅっと握っていた。
「……小暮さん?」
小暮さんは、はっとしたように手を離して、いつもの顔で笑った。
「ああ、ごめん、起こした? 年だな。徹夜がこたえる」
その笑い方は、目尻の皺まで届いていなかった。
陽菜多は、それを見た。見たのに、何も言えなかった。
あのとき、無理にでも聞いていれば、と、陽菜多はあとになって、何度も思うことになる。