よあけ色のカフェオレ
第五章 星が、落ちた
七月の第三土曜日は、すばる荘のいちばん忙しい日だった。
夏山のシーズンが始まって、部屋は満室。朝食は二十四人分。陽菜多は前の晩から泊まりこんで、卵を三十個割った。プロとベテは、段ボールを卒業して、食堂の隅の籠から、世界を見物していた。
午前六時四十分。
厨房で、何かが落ちる音がした。
鍋だ、と思った。陽菜多が振り向くと、床にステンレスのボウルが転がって、まだ回っていた。
その向こうで、小暮さんが、膝をついていた。
「小暮さん」
返事がなかった。
「小暮さん!」
陽菜多は駆け寄って、肩を支えた。信じられないほど、重かった。人ひとりの重さというものを、陽菜多はそのとき初めて知った。
小暮さんは、意識はあった。あったが、顔が真っ白で、脂汗が浮いて、シャツの胸のあたりを、ぎゅっと握っていた。
六月の明け方に見た、あの手の形だった。
「佳澄さん! 源一郎さん! 救急車!」
自分の声が、自分のものとは思えなかった。
救急車は、二十二分かかった。山の上とは、そういう場所なのだと、陽菜多は知った。
その二十二分の間、陽菜多は小暮さんの手を握っていた。何度も名前を呼んだ。小暮さんは一度だけ、はっきりした声で言った。
「……大丈夫。心配、ないから」
三年間で、この人がついた嘘の中で、いちばん下手な嘘だった。
搬送されたのは、信州中央病院。
あの、白い封筒の差出人だった。
処置室の前の廊下は、恐ろしく明るくて、恐ろしく静かだった。陽菜多と佳澄さんは、並んで座っていた。源一郎さんは宿に残った。満室の宿を、放り出すわけにはいかない。
しばらくして、看護師さんが出てきた。
「小暮修一郎さんのご家族の方は」
佳澄さんが立ち上がった。
陽菜多も、反射で立ち上がってしまった。
看護師さんが、陽菜多を見た。
「ーご家族ですか?」
世界が、しん、とした。
喉のところで、いくつもの言葉が渋滞した。恋人です。婚約者です。三年間ずっと一緒にいます。土曜の朝はいつも卵を割っています。この人の好きな豆の産地も、レコードの順番も、目尻の皺の届く笑い方と届かない笑い方の違いも、私はぜんぶ知っています。
でも、そのどれひとつとして、この病院の書類には、書く欄がなかった。
「……いえ」
陽菜多は言った。
「私は、違います」
佳澄さんが、ちらりとこちらを見た。何も言わなかった。何も言わないでくれたことが、ありがたくて、そして、みじめだった。
佳澄さんは「義理の妹です」と名乗り、書類を受け取って、ボールペンを走らせた。続柄。連絡先。既往歴。同意。
陽菜多は、長椅子に座り直した。
自分にできることは、ひとつもなかった。
医師の説明は、簡潔だった。心臓の血管が細くなっている。今日はカテーテルで広げる。命に別状はない。ただしー。
「四月の健診で、心電図に所見が出ています。要精密検査、と通知が行っているはずですが」
佳澄さんが、こちらを見た。
陽菜多は、あの封筒を思い出した。エプロンのポケットに、素早くしまわれた白い封筒。
元気だってさ、と、あの人は笑った。
処置は二時間で終わった。
夕方、病室に入ることを許されたとき、小暮さんは、思ったよりずっと普通の顔で、ベッドの上にいた。点滴の管と、心電図のコードと、寝間着。それだけのことなのに、まるで知らない人みたいに見えた。
「……よお」
「よお、じゃないです」
「怒ってる?」
「怒ってます」
「うん」
「四月の封筒」
「……はい」
「見せてくださいって言いました。私」
「言われました」
「なんで隠したんですか」
小暮さんは、天井を見た。
「言ったら、心配するだろ」
「します! 当たり前でしょう!」
声が大きくなって、陽菜多は慌てて口をつぐんだ。カーテンの向こうに、他の患者さんがいる。
小さな声で、陽菜多は続けた。
「……心配させてくださいよ。私、そのために、いるんじゃないんですか」
小暮さんは、答えなかった。
しばらくして、ぽつりと言った。
「陽菜多ちゃん。今日、廊下で、家族かって聞かれただろ」
陽菜多の心臓が、跳ねた。
「……聞こえてたんですか」
「ドアが開いてた」
小暮さんは、点滴の管を、意味もなく指でなぞった。
「あれがさ、答えなんだよ」
「なにが」
「俺が、この三年、君に何もしてやれなかったってことの、答え。君は、俺のいちばん大事な人なのに、書類の一行にもなれない。俺が、そうしてきたんだ」
「小暮さん」
「お父さんに、資格ができたら申し込むって言ったよね。ー資格、遠のいたな」
その言い方が、あんまり静かだったので、陽菜多は泣きそうになった。泣いたら負けだと思って、こらえた。何に負けるのか、自分でもわからなかった。
「そんなの、遠のいてません」
「陽菜多ちゃん」
「遠のいてません! 血管は、広がったんでしょう。先生が言ってました。命に別状はないって。薬を飲んで、塩分を減らして、無理をしなければいいって。それだけの話じゃないですか」
小暮さんは、笑った。
目尻の皺の、途中までしか届かない、あの笑い方だった。
「……君は、強いね」
その夜、陽菜多はひとりで最終のバスに乗って、松本のアパートに帰った。
部屋の電気もつけずに、玄関で靴を脱いで、そのまま床に座りこんだ。
そして、気がついた。
ー私は、強くなんかない。
病室で、陽菜多はずっと明るく喋っていた。喋りながら、心の底のいちばん暗いところで、ひとつの声が、ずっと鳴っていたのだ。
こわい。
救急車を待った二十二分。あの重さ。あの脂汗。廊下の白い光。「ご家族の方は」。
こわい、と思った。
そして、その次に浮かんだことが、陽菜多を打ちのめした。
ーこれが、あと何十年、続くんだ。
六十歳の小暮さん。七十歳の小暮さん。そのとき私は、三十六歳。四十六歳。父の計算した通りの数字が、部屋の暗がりに、きれいに並んだ。父は正しかった。ひとつも間違えていなかった。
それでもいい、と、二十歳の私なら即答した。
二十四歳の私は、即答できなかった。
一秒だけ、迷った。
たった一秒のことだ。誰も見ていないし、誰にも言っていない。
でも、陽菜多は自分で見てしまった。
自分の中に、確かに、逃げ道を探した一秒があったことを。
真弓に電話しようとして、スマホを持ち上げ、そのまま下ろした。
「泣くときは、あたしの前で泣くこと。一人で泣くのは、なし」
大学二年の夏の、あの約束を、陽菜多はこの夜、初めて破った。
窓の外は、松本の夜だった。星は、街の灯りに邪魔されて、ほとんど見えなかった。
夏山のシーズンが始まって、部屋は満室。朝食は二十四人分。陽菜多は前の晩から泊まりこんで、卵を三十個割った。プロとベテは、段ボールを卒業して、食堂の隅の籠から、世界を見物していた。
午前六時四十分。
厨房で、何かが落ちる音がした。
鍋だ、と思った。陽菜多が振り向くと、床にステンレスのボウルが転がって、まだ回っていた。
その向こうで、小暮さんが、膝をついていた。
「小暮さん」
返事がなかった。
「小暮さん!」
陽菜多は駆け寄って、肩を支えた。信じられないほど、重かった。人ひとりの重さというものを、陽菜多はそのとき初めて知った。
小暮さんは、意識はあった。あったが、顔が真っ白で、脂汗が浮いて、シャツの胸のあたりを、ぎゅっと握っていた。
六月の明け方に見た、あの手の形だった。
「佳澄さん! 源一郎さん! 救急車!」
自分の声が、自分のものとは思えなかった。
救急車は、二十二分かかった。山の上とは、そういう場所なのだと、陽菜多は知った。
その二十二分の間、陽菜多は小暮さんの手を握っていた。何度も名前を呼んだ。小暮さんは一度だけ、はっきりした声で言った。
「……大丈夫。心配、ないから」
三年間で、この人がついた嘘の中で、いちばん下手な嘘だった。
搬送されたのは、信州中央病院。
あの、白い封筒の差出人だった。
処置室の前の廊下は、恐ろしく明るくて、恐ろしく静かだった。陽菜多と佳澄さんは、並んで座っていた。源一郎さんは宿に残った。満室の宿を、放り出すわけにはいかない。
しばらくして、看護師さんが出てきた。
「小暮修一郎さんのご家族の方は」
佳澄さんが立ち上がった。
陽菜多も、反射で立ち上がってしまった。
看護師さんが、陽菜多を見た。
「ーご家族ですか?」
世界が、しん、とした。
喉のところで、いくつもの言葉が渋滞した。恋人です。婚約者です。三年間ずっと一緒にいます。土曜の朝はいつも卵を割っています。この人の好きな豆の産地も、レコードの順番も、目尻の皺の届く笑い方と届かない笑い方の違いも、私はぜんぶ知っています。
でも、そのどれひとつとして、この病院の書類には、書く欄がなかった。
「……いえ」
陽菜多は言った。
「私は、違います」
佳澄さんが、ちらりとこちらを見た。何も言わなかった。何も言わないでくれたことが、ありがたくて、そして、みじめだった。
佳澄さんは「義理の妹です」と名乗り、書類を受け取って、ボールペンを走らせた。続柄。連絡先。既往歴。同意。
陽菜多は、長椅子に座り直した。
自分にできることは、ひとつもなかった。
医師の説明は、簡潔だった。心臓の血管が細くなっている。今日はカテーテルで広げる。命に別状はない。ただしー。
「四月の健診で、心電図に所見が出ています。要精密検査、と通知が行っているはずですが」
佳澄さんが、こちらを見た。
陽菜多は、あの封筒を思い出した。エプロンのポケットに、素早くしまわれた白い封筒。
元気だってさ、と、あの人は笑った。
処置は二時間で終わった。
夕方、病室に入ることを許されたとき、小暮さんは、思ったよりずっと普通の顔で、ベッドの上にいた。点滴の管と、心電図のコードと、寝間着。それだけのことなのに、まるで知らない人みたいに見えた。
「……よお」
「よお、じゃないです」
「怒ってる?」
「怒ってます」
「うん」
「四月の封筒」
「……はい」
「見せてくださいって言いました。私」
「言われました」
「なんで隠したんですか」
小暮さんは、天井を見た。
「言ったら、心配するだろ」
「します! 当たり前でしょう!」
声が大きくなって、陽菜多は慌てて口をつぐんだ。カーテンの向こうに、他の患者さんがいる。
小さな声で、陽菜多は続けた。
「……心配させてくださいよ。私、そのために、いるんじゃないんですか」
小暮さんは、答えなかった。
しばらくして、ぽつりと言った。
「陽菜多ちゃん。今日、廊下で、家族かって聞かれただろ」
陽菜多の心臓が、跳ねた。
「……聞こえてたんですか」
「ドアが開いてた」
小暮さんは、点滴の管を、意味もなく指でなぞった。
「あれがさ、答えなんだよ」
「なにが」
「俺が、この三年、君に何もしてやれなかったってことの、答え。君は、俺のいちばん大事な人なのに、書類の一行にもなれない。俺が、そうしてきたんだ」
「小暮さん」
「お父さんに、資格ができたら申し込むって言ったよね。ー資格、遠のいたな」
その言い方が、あんまり静かだったので、陽菜多は泣きそうになった。泣いたら負けだと思って、こらえた。何に負けるのか、自分でもわからなかった。
「そんなの、遠のいてません」
「陽菜多ちゃん」
「遠のいてません! 血管は、広がったんでしょう。先生が言ってました。命に別状はないって。薬を飲んで、塩分を減らして、無理をしなければいいって。それだけの話じゃないですか」
小暮さんは、笑った。
目尻の皺の、途中までしか届かない、あの笑い方だった。
「……君は、強いね」
その夜、陽菜多はひとりで最終のバスに乗って、松本のアパートに帰った。
部屋の電気もつけずに、玄関で靴を脱いで、そのまま床に座りこんだ。
そして、気がついた。
ー私は、強くなんかない。
病室で、陽菜多はずっと明るく喋っていた。喋りながら、心の底のいちばん暗いところで、ひとつの声が、ずっと鳴っていたのだ。
こわい。
救急車を待った二十二分。あの重さ。あの脂汗。廊下の白い光。「ご家族の方は」。
こわい、と思った。
そして、その次に浮かんだことが、陽菜多を打ちのめした。
ーこれが、あと何十年、続くんだ。
六十歳の小暮さん。七十歳の小暮さん。そのとき私は、三十六歳。四十六歳。父の計算した通りの数字が、部屋の暗がりに、きれいに並んだ。父は正しかった。ひとつも間違えていなかった。
それでもいい、と、二十歳の私なら即答した。
二十四歳の私は、即答できなかった。
一秒だけ、迷った。
たった一秒のことだ。誰も見ていないし、誰にも言っていない。
でも、陽菜多は自分で見てしまった。
自分の中に、確かに、逃げ道を探した一秒があったことを。
真弓に電話しようとして、スマホを持ち上げ、そのまま下ろした。
「泣くときは、あたしの前で泣くこと。一人で泣くのは、なし」
大学二年の夏の、あの約束を、陽菜多はこの夜、初めて破った。
窓の外は、松本の夜だった。星は、街の灯りに邪魔されて、ほとんど見えなかった。