よあけ色のカフェオレ

第六章 逃げたのは、私でした

小暮さんは、十日で退院した。
 薬が二種類増えて、塩分を減らして、無理をしなければいい。医師の言った通りだった。宿は源一郎さんと佳澄さんが回し、宮下先生が毎日のように様子を見に来てくれているという。
 陽菜多は、退院の日に一度、山にのぼった。
 そして、そのあと三週間、のぼらなかった。
 言い訳は、いくらでもあった。連載の追い込みだった。実際に、ゲラは毎晩十時まで机の上にあった。それに、退院したばかりの家に、週末ごとに押しかけて、卵を割ったり、はしゃいだりするのは、迷惑かもしれない。静かに休ませてあげたほうがいい。
 全部、本当のことだった。
 全部、本当のことだったから、たちが悪かった。嘘は自分でわかる。本当のことでできた言い訳は、自分でも見破れない。
 小暮さんからは、三日に一度、短いメッセージが来た。
〈今日は五キロ歩いた〉
〈プロが障子を破りました。犯人は自白しません〉
〈ベテがようやくカリカリを食べた。歯が生えたらしい〉
 陽菜多は、そのたびに笑って、絵文字をつけて返した。
 行きます、とは、書かなかった。
 八月の第一週、松代の蕎麦特集の取材で、陽菜多は芦沢渉と一日中、車に乗った。
 撮影が長引いて、日が暮れた。帰り道、芦沢が言った。
「杉原さん、飯食ってく? このへんに、うまい馬肉の店があるらしいんですけど」
「……うん。行こうか」
 自分でも驚くくらい、あっさり、うなずいていた。
 小さな店だった。芦沢はよく笑い、よく食べ、会社の愚痴を面白い話に変える才能があった。陽菜多も笑った。ちゃんと笑えた。年齢の話も、病院の話も、将来の計算も、この席にはひとつもなかった。
 ー楽だ。
 また、思ってしまった。今度は一瞬ではなかった。二時間、ずっと思っていた。
 店を出て、駐車場まで歩く途中で、芦沢が急に立ち止まった。
「杉原さん」
「うん?」
「俺、たぶん、けっこう前から、杉原さんのこと好きです」
 夏の夜の、蒸し暑い空気の中で、陽菜多は棒立ちになった。
「や、返事はいいです。……いや、よくないな。よくないけど、たぶん今言わないと、一生言えないんで」
 芦沢は、頭をかいた。えくぼが、暗がりでも見えた。
「杉原さん、週末、山に行くでしょ。前は、月曜になると、めちゃくちゃ機嫌よく出社してきたんですよ。俺、あれ見るの、けっこう好きだったんです。うわ、この人、楽しかったんだろうなあって」
「……そう、なんだ」
「でも、最近、行ってないでしょう」
 陽菜多は、答えられなかった。
「だから、言おうと思って。ーその人と、幸せですか」
 蝉が鳴いていた。誰かの家の風鈴が、遠くで鳴っていた。
 幸せか。
 その質問に、陽菜多は、一秒で答えられるはずだった。
 三年前なら、答えられた。四月の雨の日に三百二十円しかなくて、それでも四百五十円のカフェオレを飲ませてもらった話を、聞かれてもいないのに、五分は喋っただろう。
 なのに、いま、喉が動かなかった。
「……ごめんなさい」
 やっと出てきたのは、それだった。
「ごめんなさい。私、」
「あ、いいです、いいです」
 芦沢は、慌てて手を振った。
「わかりました。今のは、答えでした。ちゃんと聞こえたんで」
 その明るさが、優しさだと、陽菜多にはわかった。わかるから、なおさら、自分がみじめだった。
 車の中で、陽菜多はずっと窓の外を見ていた。
 私は、この人を、逃げ道にしようとした。
 一秒じゃない。二時間、まるまる、逃げ道の上に座って、あたたかいなあ、と思っていた。
 小暮さんが心臓を悪くして、私は、こわくなって、逃げた。逃げただけならまだしも、逃げた先で、優しい同期の男の子に「幸せですか」と聞かれて、答えられなかった。
 ー最低だ。
 その週の土曜日、陽菜多はアパートで、洗濯機を回しながら泣いた。
 昼過ぎ、スマホが震えた。佳澄さんからだった。
 写真が一枚、送られてきていた。
 すばる荘の食堂。配膳台を改造した、あのカウンター。
 いちばん端の席ー陽菜多の指定席に、灰色の大きな猫が丸くなっていた。その前足のあいだに、小さいのが二匹、団子になって寝ていた。
 メッセージは、一行だった。
〈席、取っといたわよ〉
 陽菜多は、写真を見ながら、洗濯機の前で、声を上げて泣いた。
 夜、真弓から電話がかかってきた。
『あんた、今どこ』
「……アパート」
『二時間後にそっち着くから、待ってなさい』
「え、なんで」
『あんたのお母さんから連絡があったの。「陽菜多が電話に出ない」って。あたし、あんたの実家の連絡網に登録されてんのよ、高校のときから』
 真弓は、本当に二時間後に来た。特急に飛び乗ったのだという。手には、コンビニの袋と、缶のミルクティーがあった。
 部屋に入るなり、真弓は言った。
「約束、破ったわね」
 陽菜多は、玄関に立ったまま、うつむいた。
「うん」
「なんで一人で泣いたの」
「……真弓に、言えないと思った」
「言えない?」
「私、逃げたの。あの人が倒れて、こわいって思って、逃げたの。そんで、会社の男の子とごはん食べて、楽だなあって思ったの。……こんなの、真弓に言えないよ。真弓、四年前から、ずっと応援してくれてたのに」
 真弓は、缶のミルクティーを、陽菜多の手に押しつけた。
「陽菜多」
「なに」
「あんた、あたしを何だと思ってんの」
 顔を上げると、真弓は、怒っていなかった。
 怒っていないどころか、少し、笑っていた。
「あたしが応援してたのは、『きれいな恋をしてる陽菜多』じゃないの。妬いて、ずるくなって、自分が嫌になって、それでも進む陽菜多よ。あのとき言ったでしょ。きれいなだけの恋なんて、この世にないって」
「……でも、今回のは、ずるいっていうより」
「うん、今回のはひどいわね」
「ひどい!?」
「ひどいわよ。逃げたんだから」
 真弓は、あっさり言った。
「でもね、あんたが逃げたのは、あの人が心臓を悪くしたからじゃない」
「え」
「あんたが逃げたのは、廊下で『家族ですか』って聞かれて、『違います』って答えたからでしょ」
 陽菜多は、息が止まった。
「三年間、宙ぶらりんだったのが、あの一言で形になっちゃったの。あんたは、あの人の何者でもないって、白い紙に書かれちゃったのよ。ーそれはね、こわいわ。あたしでも逃げる」
 缶のミルクティーが、手の中で、じわりとぬるくなっていった。
「陽菜多。それ、あんた一人で決められることじゃないの。三年間、あんたたち、ずーっと『相手のために』って言いながら、一人ずつで考えてきたのよ。あの人は先回りして、あんたは遠慮して。そんなの、恋じゃなくて、往復書簡よ」
「往復書簡……」
「しかも、切手貼ってない」
 陽菜多は、笑ってしまった。笑いながら、また泣いた。
 真弓は、その晩、狭い部屋に泊まって、朝いちばんの特急で東京に帰っていった。
 玄関で靴を履きながら、真弓は言った。
「山、行きなさい」
「……うん」
「行って、ちゃんと言うのよ。逃げましたって」
「言えるかな」
「言えるわよ。あんた、二十歳のとき、もっとすごいこと言ったじゃない」
 ドアが閉まって、陽菜多は部屋にひとりになった。
 カレンダーを見た。次の土曜日は、八月の第二土曜日だった。
 四年前の八月、あの店に佳澄さんが現れて、陽菜多はライバルが思い出だと知った。
 今年の八月、ライバルは、自分だった。
 ーそして、その日の夕方、玄関のチャイムが鳴った。
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