よあけ色のカフェオレ
第七章 マスター、山を下りる
ドアスコープをのぞいて、陽菜多は、三秒ほど、息を止めた。
小暮さんが、立っていた。
あわててドアを開けた。開けてから、自分がすっぴんで、部屋着で、目が腫れていることを思い出したが、もう遅かった。
「……こ、小暮さん」
「うん」
「なんで」
「バスに乗った」
「そうじゃなくて!」
小暮さんは、白いシャツを着ていた。父が来た日と同じシャツだ。ただし今日は、ネクタイまで締めていて、そのネクタイが、絶望的に曲がっていた。五十歳が、たぶん十五分くらいかけて締めて、それでも曲がったのだと思うと、陽菜多は胸が苦しくなった。
手には、紙袋を提げていた。
「あの、これ。……ぬるいけど」
紙袋の中から出てきたのは、魔法瓶だった。
「カフェオレ?」
「うん。二時間半かかったから、もう、ぬるい」
「作る時間じゃなくて、来る時間ですよね、それ」
「両方だよ」
陽菜多は、笑おうとして、失敗した。かわりに、涙が出た。
狭い部屋に、五十歳の男の人と、湯気の立たないカフェオレと、二十四歳の泣き顔が並んだ。
小暮さんは、座布団の上に、ひどくきちんと正座した。
「陽菜多ちゃん。俺、話をしに来ました」
「……はい」
「三週間、君が来なかっただろ」
「……はい」
「最初の週は、忙しいんだと思った。二週目は、遠慮してるんだと思った。三週目に、佳澄ちゃんに怒鳴られた」
「怒鳴られたんですか」
「怒鳴られた。『あんた、三年前と同じことをやってるって、自分で気づいてないの』って」
陽菜多は、顔を上げた。
「俺はさ、ずっと、待ってたつもりでいたんだ。急がせちゃいけない、若い人には若い人の時間がある、こっちから引っぱるのは卑怯だって。ーでも佳澄ちゃんに言われた。『待つのが優しさだと思ってるうちは、あんたはただの臆病者だ』って」
「……」
「そのあと、義父さんにも言われた」
「源一郎さんに、何て」
「『修一郎。おまえ、あの子に、うちの人間になる道をひとつも作ってやっとらんじゃないか』って」
小暮さんは、正座した膝の上で、手を握った。
「それでもまだ、俺は動けなかった。動けなかったんだけどさ」
「はい」
「シリウスがな」
「……シリウス?」
「あいつ、君の席から、動かなくなった」
陽菜多の胸の奥で、三年前の記憶が、音を立てて重なった。
ーあなたの座ってた席から、動かないんですって。ドアが開くたびに、顔を上げるの。
あのとき、店に行かなくなったのは、私だった。そして今度も、私だ。
「子猫二匹まで引き連れて、あの席で丸くなってるんだよ。飯のときだけ来て、また戻る。……あれを三日見てたら、なんかもう、駄目でね」
小暮さんは、情けなさそうに笑った。
「猫に負けたんだよ、俺は。五十年生きてきて、猫のほうが、行動が早かった」
陽菜多は、両手で顔を覆った。
言わなきゃ、と思った。ここで言わなかったら、私は一生、この人に嘘をつき続けることになる。
「小暮さん。私、逃げたんです」
小暮さんが、顔を上げた。
「あの日、病院の廊下で『ご家族ですか』って聞かれて、『違います』って言って。それで、家に帰って、こわいって思ったんです。あの人が倒れたのが、じゃなくて、これからずっとこうなんだって思ったのが、こわかった。お父さんの計算が、全部あってたなあって」
「うん」
「それで、逃げました。三週間、山に行かないで、仕事のせいにして。……それだけじゃないんです」
陽菜多は、息を吸った。
「会社の同期の人と、ごはん食べました。二十五歳の、感じのいい人です。それで、楽だなあって思いました。二時間ずっと思ってました。……そのあと告白されて、断りましたけど、断ったときも、ちゃんと『好きな人がいます』って言えませんでした。『ごめんなさい』しか言えなかった」
小暮さんは、黙って聞いていた。
「私、最低です。三年前、あんな偉そうなこと言ったのに。縛るかどうかは私が決めますとか、なかったことにしないでとか、言ったくせに。いざ現実が来たら、いちばん先に逃げたのは、私でした」
言い終わって、陽菜多はうつむいた。
畳の目を見ていた。次に来る言葉が、こわかった。怒られるほうが、まだましだと思った。
小暮さんは、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「……よかった」
「え」
「よかった」
陽菜多は、顔を上げた。
小暮さんが、笑っていた。目尻の皺の、いちばん奥まで届く、あの笑い方だった。
「な、なんで」
「俺はね、陽菜多ちゃんのこと、絶対に逃げない人だと思ってたんだ。三年前から、ずっと。あの雪の日に、俺の言い訳を三つとも叩き潰した、無敵の二十歳。ーだから安心して、止まってられたんだよ。この子は逃げないから、俺はゆっくりしてていい、って」
「そんな……」
「ずるいだろ。それ、いちばんずるいやつだよ」
小暮さんは、まっすぐ陽菜多を見た。
「君が逃げてくれて、よかった。おかげで、やっとわかった。ー君は、無敵の二十歳じゃなくて、こわいものがある二十四歳なんだ。俺が守るとか、俺が奪うとか、そういう上下の話じゃなくて、こわがってる人間が、二人いるだけなんだ」
陽菜多の目から、また涙が落ちた。今度のは、さっきまでのとは、違う温度だった。
「陽菜多ちゃん」
「はい」
「三年、宙ぶらりんにして、ごめん。今日は、順番に、ちゃんとやります」
小暮さんは、正座を直した。
「まず、ひとつめ。ー俺と、恋人になってくれませんか」
陽菜多は、ぽかん、とした。
それから、思わず、吹き出した。
「……いまさら?」
「いまさらです」
「三年たってますけど」
「たってます」
「私、たぶん、日本でいちばん遅い『恋人になってください』を聞いてます」
「たぶんね。……で、返事は」
陽菜多は、涙をぬぐって、姿勢を正した。
「はい。よろこんで」
小暮さんが、ふう、と長い息を吐いた。全身の力が抜けたのが、見ていてわかった。この人、緊張してたんだ、と思ったら、また可愛くて、涙が出た。
「ふたつめ」
「まだあるんですか」
「あります。ー病気のこと、これからは全部、報告します。薬も、検査も、数値も。隠さない。……それは、恋人の権利だと、佳澄ちゃんに教わりました」
「佳澄さん、すごいな」
「あの人には、一生、頭が上がらない」
「みっつめは?」
「みっつめは、まだ言えない」
「なんでですか」
「お父さんの許可が要るから」
陽菜多の頬が、かっと熱くなった。
小暮さんは、それには気づかない振りをして、魔法瓶のふたを開けた。ぬるいカフェオレを、陽菜多のマグカップに注いだ。湯気は立たなかった。当たり前だ。
ひとくち飲んで、陽菜多は目を丸くした。
「……甘い」
「そう?」
「甘い。冷めてるのに」
牛乳そのものの、やさしい甘さだった。四年前の、あの雨の日と、まったく同じ味だった。
その夜、松本駅まで送っていく道で、二人は手をつないだ。
九回目である。
でも、陽菜多は、この日から数えるのをやめた。
数えるというのは、少ないものにすることだ。これからは、たぶん、数えきれなくなる。そういう予感が、つないだ手のほうから、じんわり伝わってきた。
「小暮さん」
「ん?」
「山、明日、行っていいですか」
「明日?」
「明日です。始発で」
小暮さんは、改札の前で笑った。
「……卵、多めに買っとくよ」
小暮さんが、立っていた。
あわててドアを開けた。開けてから、自分がすっぴんで、部屋着で、目が腫れていることを思い出したが、もう遅かった。
「……こ、小暮さん」
「うん」
「なんで」
「バスに乗った」
「そうじゃなくて!」
小暮さんは、白いシャツを着ていた。父が来た日と同じシャツだ。ただし今日は、ネクタイまで締めていて、そのネクタイが、絶望的に曲がっていた。五十歳が、たぶん十五分くらいかけて締めて、それでも曲がったのだと思うと、陽菜多は胸が苦しくなった。
手には、紙袋を提げていた。
「あの、これ。……ぬるいけど」
紙袋の中から出てきたのは、魔法瓶だった。
「カフェオレ?」
「うん。二時間半かかったから、もう、ぬるい」
「作る時間じゃなくて、来る時間ですよね、それ」
「両方だよ」
陽菜多は、笑おうとして、失敗した。かわりに、涙が出た。
狭い部屋に、五十歳の男の人と、湯気の立たないカフェオレと、二十四歳の泣き顔が並んだ。
小暮さんは、座布団の上に、ひどくきちんと正座した。
「陽菜多ちゃん。俺、話をしに来ました」
「……はい」
「三週間、君が来なかっただろ」
「……はい」
「最初の週は、忙しいんだと思った。二週目は、遠慮してるんだと思った。三週目に、佳澄ちゃんに怒鳴られた」
「怒鳴られたんですか」
「怒鳴られた。『あんた、三年前と同じことをやってるって、自分で気づいてないの』って」
陽菜多は、顔を上げた。
「俺はさ、ずっと、待ってたつもりでいたんだ。急がせちゃいけない、若い人には若い人の時間がある、こっちから引っぱるのは卑怯だって。ーでも佳澄ちゃんに言われた。『待つのが優しさだと思ってるうちは、あんたはただの臆病者だ』って」
「……」
「そのあと、義父さんにも言われた」
「源一郎さんに、何て」
「『修一郎。おまえ、あの子に、うちの人間になる道をひとつも作ってやっとらんじゃないか』って」
小暮さんは、正座した膝の上で、手を握った。
「それでもまだ、俺は動けなかった。動けなかったんだけどさ」
「はい」
「シリウスがな」
「……シリウス?」
「あいつ、君の席から、動かなくなった」
陽菜多の胸の奥で、三年前の記憶が、音を立てて重なった。
ーあなたの座ってた席から、動かないんですって。ドアが開くたびに、顔を上げるの。
あのとき、店に行かなくなったのは、私だった。そして今度も、私だ。
「子猫二匹まで引き連れて、あの席で丸くなってるんだよ。飯のときだけ来て、また戻る。……あれを三日見てたら、なんかもう、駄目でね」
小暮さんは、情けなさそうに笑った。
「猫に負けたんだよ、俺は。五十年生きてきて、猫のほうが、行動が早かった」
陽菜多は、両手で顔を覆った。
言わなきゃ、と思った。ここで言わなかったら、私は一生、この人に嘘をつき続けることになる。
「小暮さん。私、逃げたんです」
小暮さんが、顔を上げた。
「あの日、病院の廊下で『ご家族ですか』って聞かれて、『違います』って言って。それで、家に帰って、こわいって思ったんです。あの人が倒れたのが、じゃなくて、これからずっとこうなんだって思ったのが、こわかった。お父さんの計算が、全部あってたなあって」
「うん」
「それで、逃げました。三週間、山に行かないで、仕事のせいにして。……それだけじゃないんです」
陽菜多は、息を吸った。
「会社の同期の人と、ごはん食べました。二十五歳の、感じのいい人です。それで、楽だなあって思いました。二時間ずっと思ってました。……そのあと告白されて、断りましたけど、断ったときも、ちゃんと『好きな人がいます』って言えませんでした。『ごめんなさい』しか言えなかった」
小暮さんは、黙って聞いていた。
「私、最低です。三年前、あんな偉そうなこと言ったのに。縛るかどうかは私が決めますとか、なかったことにしないでとか、言ったくせに。いざ現実が来たら、いちばん先に逃げたのは、私でした」
言い終わって、陽菜多はうつむいた。
畳の目を見ていた。次に来る言葉が、こわかった。怒られるほうが、まだましだと思った。
小暮さんは、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「……よかった」
「え」
「よかった」
陽菜多は、顔を上げた。
小暮さんが、笑っていた。目尻の皺の、いちばん奥まで届く、あの笑い方だった。
「な、なんで」
「俺はね、陽菜多ちゃんのこと、絶対に逃げない人だと思ってたんだ。三年前から、ずっと。あの雪の日に、俺の言い訳を三つとも叩き潰した、無敵の二十歳。ーだから安心して、止まってられたんだよ。この子は逃げないから、俺はゆっくりしてていい、って」
「そんな……」
「ずるいだろ。それ、いちばんずるいやつだよ」
小暮さんは、まっすぐ陽菜多を見た。
「君が逃げてくれて、よかった。おかげで、やっとわかった。ー君は、無敵の二十歳じゃなくて、こわいものがある二十四歳なんだ。俺が守るとか、俺が奪うとか、そういう上下の話じゃなくて、こわがってる人間が、二人いるだけなんだ」
陽菜多の目から、また涙が落ちた。今度のは、さっきまでのとは、違う温度だった。
「陽菜多ちゃん」
「はい」
「三年、宙ぶらりんにして、ごめん。今日は、順番に、ちゃんとやります」
小暮さんは、正座を直した。
「まず、ひとつめ。ー俺と、恋人になってくれませんか」
陽菜多は、ぽかん、とした。
それから、思わず、吹き出した。
「……いまさら?」
「いまさらです」
「三年たってますけど」
「たってます」
「私、たぶん、日本でいちばん遅い『恋人になってください』を聞いてます」
「たぶんね。……で、返事は」
陽菜多は、涙をぬぐって、姿勢を正した。
「はい。よろこんで」
小暮さんが、ふう、と長い息を吐いた。全身の力が抜けたのが、見ていてわかった。この人、緊張してたんだ、と思ったら、また可愛くて、涙が出た。
「ふたつめ」
「まだあるんですか」
「あります。ー病気のこと、これからは全部、報告します。薬も、検査も、数値も。隠さない。……それは、恋人の権利だと、佳澄ちゃんに教わりました」
「佳澄さん、すごいな」
「あの人には、一生、頭が上がらない」
「みっつめは?」
「みっつめは、まだ言えない」
「なんでですか」
「お父さんの許可が要るから」
陽菜多の頬が、かっと熱くなった。
小暮さんは、それには気づかない振りをして、魔法瓶のふたを開けた。ぬるいカフェオレを、陽菜多のマグカップに注いだ。湯気は立たなかった。当たり前だ。
ひとくち飲んで、陽菜多は目を丸くした。
「……甘い」
「そう?」
「甘い。冷めてるのに」
牛乳そのものの、やさしい甘さだった。四年前の、あの雨の日と、まったく同じ味だった。
その夜、松本駅まで送っていく道で、二人は手をつないだ。
九回目である。
でも、陽菜多は、この日から数えるのをやめた。
数えるというのは、少ないものにすることだ。これからは、たぶん、数えきれなくなる。そういう予感が、つないだ手のほうから、じんわり伝わってきた。
「小暮さん」
「ん?」
「山、明日、行っていいですか」
「明日?」
「明日です。始発で」
小暮さんは、改札の前で笑った。
「……卵、多めに買っとくよ」