よあけ色のカフェオレ
第八章 佳子さんのノート
九月の終わり、佳澄さんが、宮下先生と結婚することになった。
発表の場は、すばる荘の食堂だった。佳澄さんは割烹着のまま「あのね、あたし、宮下さんと一緒になるから」と言い、源一郎さんが味噌汁をこぼし、小暮さんが「え」と言ったきり五秒固まり、陽菜多が「おめでとうございます!」と叫んだ。
「いつから!?」
「六月」
「シリウスの!?」
「そう。あの晩、あの人、朝までミルクやってたでしょ。……四十四にもなって、ああいうので落ちるとは思わなかったわ」
佳澄さんは、少しだけ、照れていた。この人が照れるのを、陽菜多は初めて見た。
「宮下さんが言うのよ。『佳澄さんは、誰かの代わりをさせられる場所にいすぎた』って。ーあたし、二十年ぶりくらいに、自分の名前で呼ばれた気がしたの」
陽菜多は、三年前のカフェを思い出した。
あたしは姉さんの「代わり」になる気なんて、これっぽっちもないの。それは姉さんにも、失礼だもの。
あの言葉を、この人はずっと、自分にも言い聞かせてきたのだ。
めでたい話だった。心から、めでたい話だった。
ーそして、めでたい話の裏で、すばる荘は、人手を一人、失うことになった。
宮下先生の診療所は、谷を二つ越えた町にある。佳澄さんは、そちらへ移る。
残るのは、七十八歳の源一郎さんと、心臓の薬を二種類飲んでいる五十歳の小暮さん。夏山と紅葉の時期は満室になる、八部屋の民宿。
答えは、簡単すぎるほど簡単に見えた。
「私、会社、辞めます」
十月の第一土曜日、朝食の片づけが終わった食堂で、陽菜多はそう言った。
小暮さんは、カップを拭く手を止めた。
「……何を言い出すの」
「だって、人が要るでしょう。私、卵は三十個割れます。掃除もできます。カフェオレは……まだ下手ですけど、練習します」
「陽菜多ちゃん」
「松本のアパート、引き払って、こっちに住みます。そしたら、朝から晩までいられるし、小暮さんも無理しなくていいし。ぜんぶ、丸く収まるじゃないですか」
言いながら、陽菜多は、自分の声が少し上ずっているのに気づいていた。
丸く収まる。その言葉が、あんまり気持ちよかった。三年間の宙ぶらりんが、いっぺんに終わる。恋人で、同居人で、従業員。ぜんぶの肩書きが、いっぺんに手に入る。
「……考えさせて」
小暮さんは、そう言っただけだった。
その日の午後、事件は、いつも通り猫が起こした。
プロキオンが、いなくなった。
といっても、今度は丸一日ではなく、十五分の話である。陽菜多が縁側で名前を呼んでいると、シリウスが、のそのそとやって来た。そして、こちらを一度見て、歩き出し、少し行っては、また振り返った。
「……ついてこいってこと?」
シリウスが向かったのは、納屋だった。
六月に、この猫が子猫を隠していた、あの納屋。
扉の下の隙間から、プロがひょっこり顔を出した。埃だらけで、たいへん得意そうだった。
「もう、あんたねえ」
抱き上げて、陽菜多は納屋の中を見回した。
積み上がった荷物の山。椅子。看板。レコードの空箱。そして、柱時計の入っていた大きな木箱。
その木箱の蓋が、プロが暴れたせいだろう、ずれていた。
中に、古い紙の束が見えた。
陽菜多は、そっと蓋を開けた。
伝票の綴り。豆の仕入れ帳。それから、いちばん下にー大学ノートが、一冊あった。
表紙に、丸くて、少し右上がりの字で、こう書いてあった。
〈お店ノート 中原佳子〉
陽菜多は、その場に座りこんだ。
勝手に読んではいけない。そう思いながら、指が動いていた。
最初のページは、店名の候補だった。〈珈琲 やまびこ〉〈カフェ・ふたつぼし〉〈喫茶 モーニングスター〉……そして、赤い丸で囲まれた〈珈琲 シリウス〉。その横に「猫の名前と同じで紛らわしいと修一郎さんが言うが、押し切ります」と書いてある。
陽菜多は、笑ってしまった。押し切ったのか、あなたが。
メニューの試作。牛乳の産地の比較。カップの図。〈カフェオレは、砂糖を入れなくても甘いのが理想。低温殺菌がいい?〉ーここか、と陽菜多は思った。あの味の設計図は、この人が引いたのだ。
ページをめくっていくと、途中から、日付が飛び始める。
開店から二年目。病院の名前が出てくる。字が、少し弱くなる。
そして、最後のほうのページに、こう書いてあった。
〈わたしの一生の仕事は、この店になりました。
うれしいです。ほんとうに、うれしい。
ただ、たまに、ずるいことを考えます。
わたしは仕事を辞めて、修一郎さんの夢の中に入りました。だから、この店がなくなったら、「中原佳子」がやったことは、この世からひとつも残りません。修一郎さんは何も悪くない。わたしが選んだことです。でも、選ぶときに、誰も教えてくれなかった。
好きな人の夢の中は、あたたかい。
あたたかいから、自分の夢を、置いてくるのを忘れる。
だから、もしこの先、修一郎さんが誰かと生きることがあったらーその人には、その人の名前の仕事を、ちゃんと持っていてほしい。二人分の夢がある家のほうが、たぶん、こわれにくい。
三角形は、強いんだって。修一郎さんが、大工さんに教わったって言っていました〉
陽菜多は、ノートを膝に置いたまま、動けなくなった。
三角形は、強い。
あの人が、六月の明け方に言った言葉だ。
あの人は、この人から聞いたのだ。この人は、大工さんから聞いたのだ。言葉というのは、こんなふうに、人から人へ、二十年も三十年も、旅をする。
膝の上で、プロが眠っていた。納屋の入口では、シリウスが、迷惑そうに片目だけ開けて、こちらを見ていた。
「……あんた、これ、見せに来たの?」
猫は、答えなかった。
その夜、陽菜多はノートを持って、食堂へ行った。
「勝手に読みました。ごめんなさい」
小暮さんは、ノートの表紙を見て、しばらく黙っていた。
「……これ、あったのか」
「知らなかったんですか」
「見たことない。あいつ、絶対に見せなかったんだ。『できてから見せる』って」
小暮さんは、ページをめくった。店名のところで、少し笑った。押し切られた記憶があるのだろう。
そして、最後のページで、手が止まった。
長い時間、そこを見ていた。
やがて、小暮さんは顔を上げた。目が、赤かった。
「陽菜多ちゃん。会社、辞めちゃ駄目だ」
「……はい」
「今朝、考えさせてって言ったのは、迷ってたからじゃない。断る言葉を探してたんだ。うまい言い方が見つからなかった。ー女房が、代わりに言ってくれた」
「小暮さん」
「君は、信州の古い喫茶店を訪ねる連載を書いてるんだろ。あれ、俺、毎号読んでるんだよ。……こないだの、飯山の店の回。あれを読んだ晩、俺、悔しくてさ」
「悔しい?」
「俺の店も、ああやって、誰かに書いてもらいたかったって思ったんだ。あの商店街ごと消えちゃったから、もう、どこにも残ってない。ーでも君は、消える前の店を、文字にして残す仕事をしてる。それは、俺には一生できないことだ」
陽菜多は、口を押さえた。
「その仕事を、俺のために辞めるっていうのは、駄目だよ。それやったら俺は、女房に二回、同じことをした男になる」
「……でも、人手は」
「そこは、大人が考えます」
小暮さんは、いつもの顔で笑った。
「宿は、部屋を減らす。八部屋を、四部屋。義父さんも歳だし、俺も薬飲んでるし、ちょうどいい。朝のコーヒーは、週末だけにする。谷の若い子で、手伝いたいって言ってくれてる子が二人いる。宮下先生も、佳澄ちゃんも、車で四十分だ」
「……そんな、都合よく」
「都合よくないよ。減らすんだから、売上も減る。ーでもね、陽菜多ちゃん」
小暮さんは、佳子さんのノートを、そっと閉じた。
「俺は、この十二年、失うのがこわくて、いつも全部抱えようとしてきた。店も、思い出も、猫も、君も。……そろそろ、抱える量を減らすことを、覚えてもいいと思うんだ」
窓の外は、もう夜だった。
高原の秋の夜空には、冗談みたいな数の星が出ていた。
陽菜多は、カウンターの端の席で、そのうちのひとつを探した。まだ冬の星は昇ってこない。あの三角形が空にかかるのは、あと二か月ほど先だ。
「小暮さん」
「ん?」
「みっつめ、まだですか」
小暮さんは、豆を挽く手を止めて、天井を見た。
「……もうちょっと、待って。準備がある」
「準備」
「男には、いろいろあるの」
その言い方が、あんまり照れくさそうだったので、陽菜多は、追及しないでおいてあげた。
二十四歳にも、それくらいの意地悪さと、優しさは、ある。
発表の場は、すばる荘の食堂だった。佳澄さんは割烹着のまま「あのね、あたし、宮下さんと一緒になるから」と言い、源一郎さんが味噌汁をこぼし、小暮さんが「え」と言ったきり五秒固まり、陽菜多が「おめでとうございます!」と叫んだ。
「いつから!?」
「六月」
「シリウスの!?」
「そう。あの晩、あの人、朝までミルクやってたでしょ。……四十四にもなって、ああいうので落ちるとは思わなかったわ」
佳澄さんは、少しだけ、照れていた。この人が照れるのを、陽菜多は初めて見た。
「宮下さんが言うのよ。『佳澄さんは、誰かの代わりをさせられる場所にいすぎた』って。ーあたし、二十年ぶりくらいに、自分の名前で呼ばれた気がしたの」
陽菜多は、三年前のカフェを思い出した。
あたしは姉さんの「代わり」になる気なんて、これっぽっちもないの。それは姉さんにも、失礼だもの。
あの言葉を、この人はずっと、自分にも言い聞かせてきたのだ。
めでたい話だった。心から、めでたい話だった。
ーそして、めでたい話の裏で、すばる荘は、人手を一人、失うことになった。
宮下先生の診療所は、谷を二つ越えた町にある。佳澄さんは、そちらへ移る。
残るのは、七十八歳の源一郎さんと、心臓の薬を二種類飲んでいる五十歳の小暮さん。夏山と紅葉の時期は満室になる、八部屋の民宿。
答えは、簡単すぎるほど簡単に見えた。
「私、会社、辞めます」
十月の第一土曜日、朝食の片づけが終わった食堂で、陽菜多はそう言った。
小暮さんは、カップを拭く手を止めた。
「……何を言い出すの」
「だって、人が要るでしょう。私、卵は三十個割れます。掃除もできます。カフェオレは……まだ下手ですけど、練習します」
「陽菜多ちゃん」
「松本のアパート、引き払って、こっちに住みます。そしたら、朝から晩までいられるし、小暮さんも無理しなくていいし。ぜんぶ、丸く収まるじゃないですか」
言いながら、陽菜多は、自分の声が少し上ずっているのに気づいていた。
丸く収まる。その言葉が、あんまり気持ちよかった。三年間の宙ぶらりんが、いっぺんに終わる。恋人で、同居人で、従業員。ぜんぶの肩書きが、いっぺんに手に入る。
「……考えさせて」
小暮さんは、そう言っただけだった。
その日の午後、事件は、いつも通り猫が起こした。
プロキオンが、いなくなった。
といっても、今度は丸一日ではなく、十五分の話である。陽菜多が縁側で名前を呼んでいると、シリウスが、のそのそとやって来た。そして、こちらを一度見て、歩き出し、少し行っては、また振り返った。
「……ついてこいってこと?」
シリウスが向かったのは、納屋だった。
六月に、この猫が子猫を隠していた、あの納屋。
扉の下の隙間から、プロがひょっこり顔を出した。埃だらけで、たいへん得意そうだった。
「もう、あんたねえ」
抱き上げて、陽菜多は納屋の中を見回した。
積み上がった荷物の山。椅子。看板。レコードの空箱。そして、柱時計の入っていた大きな木箱。
その木箱の蓋が、プロが暴れたせいだろう、ずれていた。
中に、古い紙の束が見えた。
陽菜多は、そっと蓋を開けた。
伝票の綴り。豆の仕入れ帳。それから、いちばん下にー大学ノートが、一冊あった。
表紙に、丸くて、少し右上がりの字で、こう書いてあった。
〈お店ノート 中原佳子〉
陽菜多は、その場に座りこんだ。
勝手に読んではいけない。そう思いながら、指が動いていた。
最初のページは、店名の候補だった。〈珈琲 やまびこ〉〈カフェ・ふたつぼし〉〈喫茶 モーニングスター〉……そして、赤い丸で囲まれた〈珈琲 シリウス〉。その横に「猫の名前と同じで紛らわしいと修一郎さんが言うが、押し切ります」と書いてある。
陽菜多は、笑ってしまった。押し切ったのか、あなたが。
メニューの試作。牛乳の産地の比較。カップの図。〈カフェオレは、砂糖を入れなくても甘いのが理想。低温殺菌がいい?〉ーここか、と陽菜多は思った。あの味の設計図は、この人が引いたのだ。
ページをめくっていくと、途中から、日付が飛び始める。
開店から二年目。病院の名前が出てくる。字が、少し弱くなる。
そして、最後のほうのページに、こう書いてあった。
〈わたしの一生の仕事は、この店になりました。
うれしいです。ほんとうに、うれしい。
ただ、たまに、ずるいことを考えます。
わたしは仕事を辞めて、修一郎さんの夢の中に入りました。だから、この店がなくなったら、「中原佳子」がやったことは、この世からひとつも残りません。修一郎さんは何も悪くない。わたしが選んだことです。でも、選ぶときに、誰も教えてくれなかった。
好きな人の夢の中は、あたたかい。
あたたかいから、自分の夢を、置いてくるのを忘れる。
だから、もしこの先、修一郎さんが誰かと生きることがあったらーその人には、その人の名前の仕事を、ちゃんと持っていてほしい。二人分の夢がある家のほうが、たぶん、こわれにくい。
三角形は、強いんだって。修一郎さんが、大工さんに教わったって言っていました〉
陽菜多は、ノートを膝に置いたまま、動けなくなった。
三角形は、強い。
あの人が、六月の明け方に言った言葉だ。
あの人は、この人から聞いたのだ。この人は、大工さんから聞いたのだ。言葉というのは、こんなふうに、人から人へ、二十年も三十年も、旅をする。
膝の上で、プロが眠っていた。納屋の入口では、シリウスが、迷惑そうに片目だけ開けて、こちらを見ていた。
「……あんた、これ、見せに来たの?」
猫は、答えなかった。
その夜、陽菜多はノートを持って、食堂へ行った。
「勝手に読みました。ごめんなさい」
小暮さんは、ノートの表紙を見て、しばらく黙っていた。
「……これ、あったのか」
「知らなかったんですか」
「見たことない。あいつ、絶対に見せなかったんだ。『できてから見せる』って」
小暮さんは、ページをめくった。店名のところで、少し笑った。押し切られた記憶があるのだろう。
そして、最後のページで、手が止まった。
長い時間、そこを見ていた。
やがて、小暮さんは顔を上げた。目が、赤かった。
「陽菜多ちゃん。会社、辞めちゃ駄目だ」
「……はい」
「今朝、考えさせてって言ったのは、迷ってたからじゃない。断る言葉を探してたんだ。うまい言い方が見つからなかった。ー女房が、代わりに言ってくれた」
「小暮さん」
「君は、信州の古い喫茶店を訪ねる連載を書いてるんだろ。あれ、俺、毎号読んでるんだよ。……こないだの、飯山の店の回。あれを読んだ晩、俺、悔しくてさ」
「悔しい?」
「俺の店も、ああやって、誰かに書いてもらいたかったって思ったんだ。あの商店街ごと消えちゃったから、もう、どこにも残ってない。ーでも君は、消える前の店を、文字にして残す仕事をしてる。それは、俺には一生できないことだ」
陽菜多は、口を押さえた。
「その仕事を、俺のために辞めるっていうのは、駄目だよ。それやったら俺は、女房に二回、同じことをした男になる」
「……でも、人手は」
「そこは、大人が考えます」
小暮さんは、いつもの顔で笑った。
「宿は、部屋を減らす。八部屋を、四部屋。義父さんも歳だし、俺も薬飲んでるし、ちょうどいい。朝のコーヒーは、週末だけにする。谷の若い子で、手伝いたいって言ってくれてる子が二人いる。宮下先生も、佳澄ちゃんも、車で四十分だ」
「……そんな、都合よく」
「都合よくないよ。減らすんだから、売上も減る。ーでもね、陽菜多ちゃん」
小暮さんは、佳子さんのノートを、そっと閉じた。
「俺は、この十二年、失うのがこわくて、いつも全部抱えようとしてきた。店も、思い出も、猫も、君も。……そろそろ、抱える量を減らすことを、覚えてもいいと思うんだ」
窓の外は、もう夜だった。
高原の秋の夜空には、冗談みたいな数の星が出ていた。
陽菜多は、カウンターの端の席で、そのうちのひとつを探した。まだ冬の星は昇ってこない。あの三角形が空にかかるのは、あと二か月ほど先だ。
「小暮さん」
「ん?」
「みっつめ、まだですか」
小暮さんは、豆を挽く手を止めて、天井を見た。
「……もうちょっと、待って。準備がある」
「準備」
「男には、いろいろあるの」
その言い方が、あんまり照れくさそうだったので、陽菜多は、追及しないでおいてあげた。
二十四歳にも、それくらいの意地悪さと、優しさは、ある。