よあけ色のカフェオレ
第九章 ひなたぼっこの、ひなた
十二月の第二週、すばる荘に、東京から予約が入った。
予約帳に書かれた名前を見て、小暮さんが、声を上げた。
「田口さん!?」
やって来たのは、正真正銘、あの田口のおじいちゃんだった。八十四歳。杖をついて、息子さんの車で、五時間かけて。
「小暮ちゃん。蕎麦、見つけたか」
「四年前の宿題ですか、それ」
「宿題は宿題だ」
田口のおじいちゃんは、食堂に入るなり、いちばん奥の窓際の席に、まっすぐ歩いていった。
そこには、写真立てがある。笑っている佳子さんの写真と、その前に、いつも小さなカップがひとつ置いてある。
おじいちゃんは、帽子を取って、写真に頭を下げた。
「奥さん。ご無沙汰しとります。……いい景色のとこに、越されましたなあ」
小暮さんが、厨房のほうを向いてしまった。背中が、しばらく動かなかった。
その晩、田口のおじいちゃんは、あの店の話を三時間した。柱時計のねじの巻き方が下手だったこと。カフェオレが四百五十円で、一度も上がらなかったこと。雨の日に飛び込んできた女子大生が、それはもうわかりやすく、マスターに惚れていたこと。
「わ、私、そんなにわかりやすかったですか」
「わかりやすいなんてもんじゃない。商店街の連中は全員知っとった。花屋のおばちゃんが賭けをしとったくらいだ」
「賭け!?」
「わしは『年内にくっつく』に千円張って、勝った」
陽菜多は、頭を抱えた。小暮さんは、笑いすぎて咳きこんだ。
シリウスが、田口のおじいちゃんの膝に乗った。おじいちゃんは、その頭を、しわしわの手でずっと撫でていた。
「おまえも、生きとったなあ」
それだけ言って、あとは何も言わなかった。
その週末、陽菜多は小暮さんを連れて、実家に帰った。
八か月ぶりに、二人そろって、あの計算の中に飛びこむことになる。
母の美津子は、玄関を開けるなり、「まあまあまあ」と三回言って、小暮さんの荷物を奪い取った。この人は、最初から味方だった。というより、母は世界中のたいていの人の味方をする人である。
父は、居間のこたつに座っていた。
テレビは高校野球だった。十二月に高校野球をやっているわけがないので、たぶん、夏の録画である。
「……どうも」
「どうも」
二人の男は、それだけ言って、あとは黙って、二時間、すき焼きを食べた。
母がしゃべり、陽菜多がしゃべり、小暮さんが相槌を打ち、父が肉を焼いた。父の焼く肉は、うまかった。悔しいくらい、うまかった。
夜、小暮さんが風呂に入っている間に、父が言った。
「陽菜多。ちょっと出るぞ」
「え、どこに」
「散歩だ」
十二月の住宅街は、寒かった。父はジャンパーのポケットに手を突っこんで、白い息を吐きながら歩いた。陽菜多は、その半歩後ろを歩いた。子供のころから、この距離だ。
公園のところで、父は立ち止まって、空を見上げた。
「星、こっちだと見えんな」
「うん。あっちは、すごいよ」
「そうか」
しばらく黙ってから、父は言った。
「あの人、入院したんだってな」
陽菜多は、息をのんだ。
「……なんで」
「母さんが知ってる。……俺が山へ行った日にな、佳澄さんが『何かあったら』と連絡先を書いてくれたんだ。それを母さんに渡したら、その日のうちに、二人でやりとりを始めとった」
「え!?」
「女は、こわいぞ」
父は、ふう、と息を吐いた。
「あの人から、手紙が来た。九月に」
「手紙?」
「病気のことと、宿を縮小することと、それから、お前に仕事を辞めさせなかった話が書いてあった。……三枚だ。字は、下手だったが」
陽菜多は、何も知らなかった。あの人は、何も言わなかった。
「陽菜多。俺の仕事は水道だから、管の話しかできん」
父は、公園の柵に、もたれた。
「古い管はな、いつか替えなきゃならん。三十年、四十年で寿命が来る。それは決まっている。……だから俺は、お前に、新しい管を選べと言いたかった。それが親の仕事だと思っとった」
「うん」
「でもな、この前、若い連中に言ったんだ。『古い管でも、水が来ているうちは、それは生きた管だ。全部替えるのが正しいわけじゃない』と。ー言ってから、自分で、はっとした」
陽菜多は、父の横顔を見た。
街灯の下で、父の目尻に、深い皺が寄っていた。笑い皺と、それから、たぶん、我慢した皺と。
その皺の形が、あの人の横顔に、少しだけ、似ていた。
「お前の名前な」
父が、唐突に言った。
「お前が生まれたのは、三月でな。三月だってのに、雪の降る年だった。病院の、南向きの窓のところに、日が当たっていて、母さんが寝ていて、お前がその日だまりのところで、寝ていた」
「うん」
「名前を決めるのに、一週間かかった。母さんは『早く』と怒った。……で、決めた。陽の菜、たくさんの多。日の当たるところに、いろんなものが、たくさんある人生を、と思ってな」
陽菜多は、初めて聞いた。
二十四年間、一度も、聞いたことがなかった。
「お父さん、それ、なんで今まで」
「照れくさいだろうが」
「照れくさいって……」
「それにな」
父は、前を見たまま言った。
「俺はな、心の中で、お前のことを『ひなたぼっこのひなた』と呼んでいた。ずっとだ。小学校のころも、中学のころも。ー口に出したことは、一度もないが」
陽菜多の足が、止まった。
ー陽菜多。いい名前だね。ひなたぼっこの、ひなた。
四年前、四月の雨の日から三度目に店に行った日、学生証を拾ってくれた人が、そう言った。
あのとき、なぜあんなにうれしかったのか、陽菜多は自分でもわからなかった。名前を褒められたことなど、何度もあったのに。
わかった。
あれは、褒められたのではなかったのだ。
父が二十四年言えなかった言葉を、他人が、あっさり言ってくれたのだ。
「四年前かな。母さんが言うんだ。『陽菜多が、喫茶店の人に名前を褒められて、えらく喜んでる』と。何て言われたんだ、と聞いたら」
父は、そこで初めて、陽菜多のほうを見た。
「ーひなたぼっこの、ひなた、だと」
陽菜多の視界が、にじんだ。
「俺はな、そのとき、負けたと思った」
「お父さん」
「二十年以上、言えんかったことを、会って三度目の男が言うんだ。かなうわけがない。……あのな、陽菜多。俺があの人に反対していたのは、あの人が五十だからじゃない」
父の声が、少し掠れた。
「お前を渡したら、俺の役目が終わるからだ」
陽菜多は、その場にしゃがみこんで、泣いた。
二十四歳の女が、真冬の公園で、みっともなく声を上げて泣いた。
父は、慰めもせず、抱きもせず、ただ、そばに立っていた。この人は昔から、そういう人だった。泣いている娘のそばに、黙って立っているのが、この人のやり方だった。
やがて、父が言った。
「条件が、ふたつある」
「……ふたつ?」
「ひとつ。お前は、仕事をやめるな。あの人が同じことを言ったそうだから、これは、もう守られる」
「うん」
「ふたつめ」
父は、また空を見上げた。星は、やっぱり見えなかった。
「いつか、順番でいけば、たぶんお前が、あの人を見送ることになる。そのときはな」
声が、詰まった。
「そのときは、帰ってこい。うちに。……そのころ、俺はもう生きていないかもしれない、母さんもだ。それでも、家はある。帰る場所があることを忘れるな。それだけ、覚えとけ」
陽菜多は、うなずけなかった。うなずくかわりに、父のジャンパーの袖を、子供みたいにつかんだ。
父は、されるがままにしていた。
家に帰ると、風呂上がりの小暮さんが、母に捕まって、アルバムを見せられていた。三歳の陽菜多が、鼻水を垂らして写っている写真だった。
「わー! お母さん、それ出さないで!」
「だってねえ、可愛いんだもの」
「小暮さん、見ないで!」
「もう見た」
「見ないでって言ってるのに!」
父が、こたつに戻ってきて、テレビをつけた。
そして、画面のほうを向いたまま、ぼそりと言った。
「……小暮さん。娘は、めんどくさいですよ」
小暮さんが、アルバムから顔を上げた。
「はい」
「ほんとに、めんどくさい」
「……はい」
「それでも、いいんですか」
部屋が、静かになった。
小暮さんは、アルバムをきちんと閉じて、それから、こたつの上に、手をついた。
「はい。ー娘さんを、ください」
母が、台所で、何かを落とした。
父は、テレビを見たままだった。しばらく、何も言わなかった。
やがて、リモコンで、テレビを消した。
「……肉、もう一枚焼くか」
それが、返事だった。
予約帳に書かれた名前を見て、小暮さんが、声を上げた。
「田口さん!?」
やって来たのは、正真正銘、あの田口のおじいちゃんだった。八十四歳。杖をついて、息子さんの車で、五時間かけて。
「小暮ちゃん。蕎麦、見つけたか」
「四年前の宿題ですか、それ」
「宿題は宿題だ」
田口のおじいちゃんは、食堂に入るなり、いちばん奥の窓際の席に、まっすぐ歩いていった。
そこには、写真立てがある。笑っている佳子さんの写真と、その前に、いつも小さなカップがひとつ置いてある。
おじいちゃんは、帽子を取って、写真に頭を下げた。
「奥さん。ご無沙汰しとります。……いい景色のとこに、越されましたなあ」
小暮さんが、厨房のほうを向いてしまった。背中が、しばらく動かなかった。
その晩、田口のおじいちゃんは、あの店の話を三時間した。柱時計のねじの巻き方が下手だったこと。カフェオレが四百五十円で、一度も上がらなかったこと。雨の日に飛び込んできた女子大生が、それはもうわかりやすく、マスターに惚れていたこと。
「わ、私、そんなにわかりやすかったですか」
「わかりやすいなんてもんじゃない。商店街の連中は全員知っとった。花屋のおばちゃんが賭けをしとったくらいだ」
「賭け!?」
「わしは『年内にくっつく』に千円張って、勝った」
陽菜多は、頭を抱えた。小暮さんは、笑いすぎて咳きこんだ。
シリウスが、田口のおじいちゃんの膝に乗った。おじいちゃんは、その頭を、しわしわの手でずっと撫でていた。
「おまえも、生きとったなあ」
それだけ言って、あとは何も言わなかった。
その週末、陽菜多は小暮さんを連れて、実家に帰った。
八か月ぶりに、二人そろって、あの計算の中に飛びこむことになる。
母の美津子は、玄関を開けるなり、「まあまあまあ」と三回言って、小暮さんの荷物を奪い取った。この人は、最初から味方だった。というより、母は世界中のたいていの人の味方をする人である。
父は、居間のこたつに座っていた。
テレビは高校野球だった。十二月に高校野球をやっているわけがないので、たぶん、夏の録画である。
「……どうも」
「どうも」
二人の男は、それだけ言って、あとは黙って、二時間、すき焼きを食べた。
母がしゃべり、陽菜多がしゃべり、小暮さんが相槌を打ち、父が肉を焼いた。父の焼く肉は、うまかった。悔しいくらい、うまかった。
夜、小暮さんが風呂に入っている間に、父が言った。
「陽菜多。ちょっと出るぞ」
「え、どこに」
「散歩だ」
十二月の住宅街は、寒かった。父はジャンパーのポケットに手を突っこんで、白い息を吐きながら歩いた。陽菜多は、その半歩後ろを歩いた。子供のころから、この距離だ。
公園のところで、父は立ち止まって、空を見上げた。
「星、こっちだと見えんな」
「うん。あっちは、すごいよ」
「そうか」
しばらく黙ってから、父は言った。
「あの人、入院したんだってな」
陽菜多は、息をのんだ。
「……なんで」
「母さんが知ってる。……俺が山へ行った日にな、佳澄さんが『何かあったら』と連絡先を書いてくれたんだ。それを母さんに渡したら、その日のうちに、二人でやりとりを始めとった」
「え!?」
「女は、こわいぞ」
父は、ふう、と息を吐いた。
「あの人から、手紙が来た。九月に」
「手紙?」
「病気のことと、宿を縮小することと、それから、お前に仕事を辞めさせなかった話が書いてあった。……三枚だ。字は、下手だったが」
陽菜多は、何も知らなかった。あの人は、何も言わなかった。
「陽菜多。俺の仕事は水道だから、管の話しかできん」
父は、公園の柵に、もたれた。
「古い管はな、いつか替えなきゃならん。三十年、四十年で寿命が来る。それは決まっている。……だから俺は、お前に、新しい管を選べと言いたかった。それが親の仕事だと思っとった」
「うん」
「でもな、この前、若い連中に言ったんだ。『古い管でも、水が来ているうちは、それは生きた管だ。全部替えるのが正しいわけじゃない』と。ー言ってから、自分で、はっとした」
陽菜多は、父の横顔を見た。
街灯の下で、父の目尻に、深い皺が寄っていた。笑い皺と、それから、たぶん、我慢した皺と。
その皺の形が、あの人の横顔に、少しだけ、似ていた。
「お前の名前な」
父が、唐突に言った。
「お前が生まれたのは、三月でな。三月だってのに、雪の降る年だった。病院の、南向きの窓のところに、日が当たっていて、母さんが寝ていて、お前がその日だまりのところで、寝ていた」
「うん」
「名前を決めるのに、一週間かかった。母さんは『早く』と怒った。……で、決めた。陽の菜、たくさんの多。日の当たるところに、いろんなものが、たくさんある人生を、と思ってな」
陽菜多は、初めて聞いた。
二十四年間、一度も、聞いたことがなかった。
「お父さん、それ、なんで今まで」
「照れくさいだろうが」
「照れくさいって……」
「それにな」
父は、前を見たまま言った。
「俺はな、心の中で、お前のことを『ひなたぼっこのひなた』と呼んでいた。ずっとだ。小学校のころも、中学のころも。ー口に出したことは、一度もないが」
陽菜多の足が、止まった。
ー陽菜多。いい名前だね。ひなたぼっこの、ひなた。
四年前、四月の雨の日から三度目に店に行った日、学生証を拾ってくれた人が、そう言った。
あのとき、なぜあんなにうれしかったのか、陽菜多は自分でもわからなかった。名前を褒められたことなど、何度もあったのに。
わかった。
あれは、褒められたのではなかったのだ。
父が二十四年言えなかった言葉を、他人が、あっさり言ってくれたのだ。
「四年前かな。母さんが言うんだ。『陽菜多が、喫茶店の人に名前を褒められて、えらく喜んでる』と。何て言われたんだ、と聞いたら」
父は、そこで初めて、陽菜多のほうを見た。
「ーひなたぼっこの、ひなた、だと」
陽菜多の視界が、にじんだ。
「俺はな、そのとき、負けたと思った」
「お父さん」
「二十年以上、言えんかったことを、会って三度目の男が言うんだ。かなうわけがない。……あのな、陽菜多。俺があの人に反対していたのは、あの人が五十だからじゃない」
父の声が、少し掠れた。
「お前を渡したら、俺の役目が終わるからだ」
陽菜多は、その場にしゃがみこんで、泣いた。
二十四歳の女が、真冬の公園で、みっともなく声を上げて泣いた。
父は、慰めもせず、抱きもせず、ただ、そばに立っていた。この人は昔から、そういう人だった。泣いている娘のそばに、黙って立っているのが、この人のやり方だった。
やがて、父が言った。
「条件が、ふたつある」
「……ふたつ?」
「ひとつ。お前は、仕事をやめるな。あの人が同じことを言ったそうだから、これは、もう守られる」
「うん」
「ふたつめ」
父は、また空を見上げた。星は、やっぱり見えなかった。
「いつか、順番でいけば、たぶんお前が、あの人を見送ることになる。そのときはな」
声が、詰まった。
「そのときは、帰ってこい。うちに。……そのころ、俺はもう生きていないかもしれない、母さんもだ。それでも、家はある。帰る場所があることを忘れるな。それだけ、覚えとけ」
陽菜多は、うなずけなかった。うなずくかわりに、父のジャンパーの袖を、子供みたいにつかんだ。
父は、されるがままにしていた。
家に帰ると、風呂上がりの小暮さんが、母に捕まって、アルバムを見せられていた。三歳の陽菜多が、鼻水を垂らして写っている写真だった。
「わー! お母さん、それ出さないで!」
「だってねえ、可愛いんだもの」
「小暮さん、見ないで!」
「もう見た」
「見ないでって言ってるのに!」
父が、こたつに戻ってきて、テレビをつけた。
そして、画面のほうを向いたまま、ぼそりと言った。
「……小暮さん。娘は、めんどくさいですよ」
小暮さんが、アルバムから顔を上げた。
「はい」
「ほんとに、めんどくさい」
「……はい」
「それでも、いいんですか」
部屋が、静かになった。
小暮さんは、アルバムをきちんと閉じて、それから、こたつの上に、手をついた。
「はい。ー娘さんを、ください」
母が、台所で、何かを落とした。
父は、テレビを見たままだった。しばらく、何も言わなかった。
やがて、リモコンで、テレビを消した。
「……肉、もう一枚焼くか」
それが、返事だった。