夫が愛人を連れ込んだので、悪女らしく「円満」離婚いたします
侯爵家の当主であるエルヴィス・ブライアントと、伯爵家の令嬢・グレースとの婚姻は、王侯貴族によくある政略的な思惑によって結ばれたものだった。無論そこに、愛だの恋だのというものがあるはずもない。
元々エルヴィスには、公爵家の一人娘との縁談が持ち上がっていた。けれどその話は、彼女が他国の王子に見初められたことで呆気なく流れ、空いた“次期侯爵夫人”の椅子に、謂わば繰り上がりで座ることになったのが、グレースだった。
公爵家は、王家の傍流の血を引いている。つまり爵位的にも血筋的にも格上の娘と結婚し、社交界での影響力を強めることを目論んでいた彼にとって、それは全く以て予想外な、到底納得出来うるものではなかっただろう。没落寸前の伯爵家の娘など、エルヴィスから見れば“格下”でしかない。しかし、当時はまだ成人すらしていない“跡継ぎ”という立場でしかなかった彼には、先代の取り決めた婚姻を拒むだけの力はなかった。
嫌々ながらに受け入れた、格落ち女との結婚。その上、本来得るはずだったもの――美しい娘と、王家の傍流たる公爵家という後ろ盾――を、他国の“王子”という、どうあがいても敵わない存在に奪われたのだ。恐らくは、その腹いせだろう。エルヴィスは婚約者だった頃から、グレースに対してひどく辛辣だった。
それは、先代侯爵が亡くなり、当主の座をエルヴィスが引継いでから、より顕著に、そしてより容赦のないものになった。
小さなことにもすぐ目くじらを立て、気に入らない言動をすれば侮辱的な言葉を徹底的に浴びせる。人間としても女としても価値がない、干からびたただの木偶、役立たずの能無し、侯爵家の恥、汚点、息をしているだけの穀潰し――。
人格や容姿の誹謗はもちろん、暴力を振るわれたことも一度や二度ではない。浮気なんてものはもはや日常茶飯時で、令嬢を取っ替え引っ替えしては、夜な夜なパーティーに繰り出す。
エルヴィスにとって、妻――というより、グレースという存在は、ただただ邪魔でしかなかったのだ。愛していたわけでも、望んでいたわけでもない女。だから、いるけれどいない人間として、常に扱っていた。或いは、手軽な鬱憤の捌け口として。
そんな男の、何に惹かれろというのだろう――。
控えめな音量で紡がれる旋律が、シャンデリアの灯りに溶けるように揺蕩っている。笑いの混じった無数の話し声。まるで大輪の花のように、そこここで翻る色鮮やかなドレス。それらに彩られた大広間を見下ろしながら、グレースは弄んでいたグラスに、そっと口をつけた。
王宮で開かれる舞踏会に参加したのは、いったいいつぶりだろう。頭の片隅で記憶を漁ってみるけれど、一年前の、建国記念祭の折に催されたそれしか思い出せない。
あの時、珍しく隣にはエルヴィスがいた。侯爵家の当主として。そして、グレースの夫として。もちろん彼がそう望んだからでは、決してない。夫婦は夫婦で必ず共にいることが、記念祭での習わしだからだ。王族も参加している手前、さすがのエルヴィスも、そのしきたりを無下には出来ない。けれど、彼の顔に貼り付けられた仮面の裏側には、明らかに不満が潜んでいた。苛立ちからか、普段は“善良な夫”を演じているにもかかわらず、所々でその化けの皮が剥がれかかっていたのを憶えている。
とはいえ、“懐かしい”と感慨や感傷に浸るような記憶では、どれもない。建国記念祭の時に限らず――婚約を結んでから離婚するまでの、その全ての記憶において。
元々エルヴィスには、公爵家の一人娘との縁談が持ち上がっていた。けれどその話は、彼女が他国の王子に見初められたことで呆気なく流れ、空いた“次期侯爵夫人”の椅子に、謂わば繰り上がりで座ることになったのが、グレースだった。
公爵家は、王家の傍流の血を引いている。つまり爵位的にも血筋的にも格上の娘と結婚し、社交界での影響力を強めることを目論んでいた彼にとって、それは全く以て予想外な、到底納得出来うるものではなかっただろう。没落寸前の伯爵家の娘など、エルヴィスから見れば“格下”でしかない。しかし、当時はまだ成人すらしていない“跡継ぎ”という立場でしかなかった彼には、先代の取り決めた婚姻を拒むだけの力はなかった。
嫌々ながらに受け入れた、格落ち女との結婚。その上、本来得るはずだったもの――美しい娘と、王家の傍流たる公爵家という後ろ盾――を、他国の“王子”という、どうあがいても敵わない存在に奪われたのだ。恐らくは、その腹いせだろう。エルヴィスは婚約者だった頃から、グレースに対してひどく辛辣だった。
それは、先代侯爵が亡くなり、当主の座をエルヴィスが引継いでから、より顕著に、そしてより容赦のないものになった。
小さなことにもすぐ目くじらを立て、気に入らない言動をすれば侮辱的な言葉を徹底的に浴びせる。人間としても女としても価値がない、干からびたただの木偶、役立たずの能無し、侯爵家の恥、汚点、息をしているだけの穀潰し――。
人格や容姿の誹謗はもちろん、暴力を振るわれたことも一度や二度ではない。浮気なんてものはもはや日常茶飯時で、令嬢を取っ替え引っ替えしては、夜な夜なパーティーに繰り出す。
エルヴィスにとって、妻――というより、グレースという存在は、ただただ邪魔でしかなかったのだ。愛していたわけでも、望んでいたわけでもない女。だから、いるけれどいない人間として、常に扱っていた。或いは、手軽な鬱憤の捌け口として。
そんな男の、何に惹かれろというのだろう――。
控えめな音量で紡がれる旋律が、シャンデリアの灯りに溶けるように揺蕩っている。笑いの混じった無数の話し声。まるで大輪の花のように、そこここで翻る色鮮やかなドレス。それらに彩られた大広間を見下ろしながら、グレースは弄んでいたグラスに、そっと口をつけた。
王宮で開かれる舞踏会に参加したのは、いったいいつぶりだろう。頭の片隅で記憶を漁ってみるけれど、一年前の、建国記念祭の折に催されたそれしか思い出せない。
あの時、珍しく隣にはエルヴィスがいた。侯爵家の当主として。そして、グレースの夫として。もちろん彼がそう望んだからでは、決してない。夫婦は夫婦で必ず共にいることが、記念祭での習わしだからだ。王族も参加している手前、さすがのエルヴィスも、そのしきたりを無下には出来ない。けれど、彼の顔に貼り付けられた仮面の裏側には、明らかに不満が潜んでいた。苛立ちからか、普段は“善良な夫”を演じているにもかかわらず、所々でその化けの皮が剥がれかかっていたのを憶えている。
とはいえ、“懐かしい”と感慨や感傷に浸るような記憶では、どれもない。建国記念祭の時に限らず――婚約を結んでから離婚するまでの、その全ての記憶において。