御神渡り(おみわたり)

第九章 消えた車

 1
 二月の第一土曜日、牧野悠と遠山千尋は、牧野プレス工業の事務所にいた。
 石油ストーブを一台だけ点けたが、部屋はいっこうに暖まらない。二人ともコートを着たまま、スチール棚のファイルを床に下ろしていった。
 父は書類を捨てない人だった。悠はそれを知っていたが、これほどとは思っていなかった。棚には昭和五十年代の伝票まで残っていた。紙が茶色く変色し、綴じ紐が触れると粉になった。
「平成四年、ありました」
 千尋が、いちばん下の段から段ボール箱を引き出した。
 中には、月ごとに輪ゴムで束ねられた伝票の山があった。納品書、請求書、出荷伝票、材料の受け入れ票。
「一月だけでいいですね」
「はい」
 二人は床に座り込み、一枚ずつめくっていった。
 プレス加工の伝票は無味乾燥だった。得意先の名前、品番、数量、単価。ほとんどが電機部品の下請けだ。一月十八日で仕事は止まり、十九日は日曜、二十日の月曜から再開している。何も変わったことはない。
 三十分ほど経ったころ、千尋が手を止めた。
「これ、なんですか」
 差し出された一枚を、悠は受け取った。
 複写式の伝票だった。
 ――産業廃棄物 引取伝票
 ――平成四年一月二十日
 ――品名 金属くず(鉄・非鉄混合)
 ――数量 約一・二トン
 ――引取先 協和金属興業株式会社
 悠は、それを裏返した。
「うちは、月に一度、鉄くずを出してました。プレスの抜きかすとか、不良品とか」
「量、多くないですか」
「いや、一トンくらいは普通です」
 千尋は、次の束を探っていた。
「じゃあ、これは?」
 もう一枚。
 ――平成四年一月二十三日
 ――品名 金属くず(鉄・非鉄混合)
 ――数量 約〇・八トン
 悠は、二枚を並べた。
 同じ月に、三日おいて二度。
「……変ですね」
「変ですか」
「うちは月末にまとめて出してました。一月なら、二十八日か三十日。二十日と二十三日に二回出すのは、ありえない」
 悠は、もう一度一月の束を最初から見直した。
 あった。三枚目。
 ――平成四年一月三十日 金属くず 約一・一トン
 通常の月末の分は、ちゃんとある。
 つまり、一月の二十日と二十三日の二回は、余分だ。
「合わせて二トンです」千尋が言った。
「乗用車一台が、だいたい一トンから一・五トンです」
 悠は、自分の声が乾いているのに気づいた。
「解体して、部品ごとに分ければ、二回に分けて出すことになります。鉄板はプレスで潰せます。エンジンブロックは重い。それだけ別便にすることもある」
 千尋は、伝票を見つめていた。
「牧野さん」
「はい」
「これ、車ですか」
「わかりません」
 悠は言った。だが、心臓が速く打っていた。
「でも、もし車を消したいと思ったら、うちの工場は、この国でいちばん都合のいい場所です」

 2
 協和金属興業は、まだあった。
 岡谷市の国道沿いで、いまも金属リサイクル業を営んでいる。悠が電話をかけると、三代目だという若い社長が出て、三十四年前の記録はさすがに残っていないと言った。
「ただ、うちの倉庫に、じいさんの帳面がまだあるかもしれません」
 二日後、倉庫の二階から出てきたのは、大学ノートの束だった。
 初代社長が、引き取った品目を手書きで記録していたものだ。伝票とは別に、自分の覚え書きとして。
 悠と千尋は、社長に断って、その場でページをめくった。
 平成四年一月二十日の欄に、こうあった。
 ――牧野プレス 鉄板・鋼材くず プレス済 1200
 そして、その下に。
 ――牧野プレス 自動車部品一式(エンジン・足回り) 800 ※常雄さんより 他言無用と
 千尋の指が、その行の上で止まった。
「他言無用」
「じいさん、そういうの、いちいち書く人だったらしくて」
 社長は、困ったように頭をかいた。
「ええと、まずかったですか」
 誰も答えなかった。
 外は晴れていた。倉庫の錆びたトタン屋根に、雪解けの水が滴っていた。

 3
 その夜、千尋は実家の押し入れから、古いアルバムを引っ張り出した。
 母は、隣の部屋でテレビを見ている。音だけが聞こえていた。
 アルバムは八冊あった。千尋は、いちばん古いところから順に開いた。
 両親の結婚式。新婚旅行。若い父。細くて、髪が多くて、写真の中でいつも少し困ったような顔をしている。
 平成三年のページ。
 庭先に停まった白い車の前で、母が笑っている。まだ腹は目立たない。車体には「TOYOTA」の文字。カローラだ。
 千尋は、次のページをめくった。
 平成四年三月。
 病院の前で、赤ん坊を抱いた母。父が横に立っている。
 その後ろに、車が写っていた。
 紺色の、ワゴン車だった。
 千尋は、二枚の写真を交互に見た。
 白いカローラ。紺のワゴン。
 二か月のあいだに、車が変わっている。
「お母さん」
 千尋は、襖を開けた。
 母は炬燵に入って、テレビを見ていた。振り返る。
「なあに」
「これ、見て」
 千尋は、アルバムを二冊、炬燵の上に広げた。
「この白い車、いつまで乗ってた?」
 母は老眼鏡をかけ、写真を覗き込んだ。
「ああ、カローラね。懐かしい」
「三月にはもう、こっちの車になってる」
「そうだったかしら」
「お母さん」
 千尋は、母の顔を見た。
「私が生まれる直前に、車、買い替えたんだよね」
 母の表情が、わずかに固まった。
「……そうね」
「まだ三年しか乗ってなかったんじゃないの。中古で買ったの?」
「新車よ」
「じゃあ、なんで三年で買い替えたの」
 母は、老眼鏡を外した。
「子どもが生まれるから、広い車にするって」
「一月に事故起こしてない?」
 母の手が、止まった。
 千尋は、それを見ていた。
 テレビの中で、誰かが笑っていた。バラエティ番組の笑い声が、部屋に不釣り合いに響いた。
「……なんで、そんなこと訊くの」
「答えて」
「知らないわよ」
「お母さん」
「知らないって言ってるでしょう」
 母の声が高くなった。千尋は、母がこんな声を出すのを初めて聞いた。
 母は立ち上がった。
「もう寝る」
「お母さん、待って」
「私は何も知らない」
 母は襖を開けた。開けたところで、立ち止まった。
 背中を向けたまま、母は言った。
「千尋。お父さんは、いい人だったでしょう」
 千尋は、答えられなかった。
「あんたが東京に行ってから、お父さんね、毎朝あんたの部屋の窓を開けてたのよ。空気を通さないと黴が生えるって。毎朝よ。十六年間」
 母の声が震えていた。
「それで、じゅうぶんじゃないの」
 襖が閉まった。
 千尋は、炬燵の前に一人で座っていた。
 じゅうぶんじゃない、と思った。
 じゅうぶんじゃないから、私はここにいる。

 4
 弁護士の南雲玲奈は、想像より若かった。
 松本市に事務所を構える四十五歳。悠が三人目に電話をかけた弁護士で、最初の二人には断られた。世間の注目を集めすぎている、というのが理由だった。
「国選の先生に代わって、私選で入ることになります」南雲は淡々と言った。「着手金は分割で結構です。ただ、勝てる事件ではありません。ご本人が全面自白していますから」
「無罪にしてほしいわけじゃないんです」
 悠は言った。
「父に、本当のことを言わせたいんです」
 南雲は、ボールペンを回す手を止めた。
「息子さんが、そう望まれるのは珍しいことです」
 三日後、南雲から電話があった。
「接見してきました」
「どうでしたか」
「弁護人としてお受けすることは、了承されました」
「父は、何か言っていましたか」
 南雲は、少しのあいだ黙った。
「お父様は、あなたに会うことを拒否されています」
 悠は、受話器を握り直した。
「理由は」
「言われませんでした。ただ、伝言があります」
「はい」
「『階段のことを調べたのは、おまえか』」
 悠の背中が、冷たくなった。
「『もう、やめろ。おまえのためじゃない。おれのためだ』」
 悠は、しばらく声が出なかった。
「南雲先生」
「はい」
「父は、なぜ嘘をついているんでしょうか」
「わかりません」
 南雲は、事務的な口調のまま言った。
「ただ、弁護人として気になっていることが一つあります。お父様は、三十四年前の件を熱心に話される。しかし、遠山克巳さんを殺害した状況については、質問すると、必ず一拍置いてから答える」
「一拍」
「答えを作っている時間です。私は刑事事件を二十年やっていますが、あの間の置き方をする被告人は、たいてい、誰かの罪を庇ってます」
 悠は、電話口で目を閉じた。
「先生。父は、有罪になりますか」
「なります」
「刑期は」
「殺人罪です。前科がなく、自首が成立し、遺族への謝罪もある。それでも、三十四年前の件が量刑に大きく影響します。裁判員の心証は最悪でしょう」
 南雲は、そこで一度息を継いだ。
「率直に申し上げます。十五年から十八年。お父様は六十七歳です」
 悠は、天井を見上げた。
 出てこられない、ということだ。
「それでも父は、変えないんですね」
「変える気配はありません」
 南雲は言った。
「牧野さん。私は、あなたに一つ、お願いがあります」
「なんでしょう」
「お父様を説得しようとしないでください」
「え」
「あの方は、説得されて変える人ではありません。ご自分で決めて、そのとおりに歩いている人です。あなたが正面から押せば、押した分だけ、あの方は遠くへ行く」
 南雲は続けた。
「そういう人を動かせるものが、一つだけあります」
「なんですか」
「事実です」

 5
 二月十日、千尋のスマートフォンに、知らない番号から着信があった。
 出ると、女性の声だった。
『遠山千尋さん、でしょうか』
「はい」
『あおば教室で、ボランティアをしております、倉田と申します』
 千尋は、公民館の名簿でその名前を見ていた。
「倉田咲穂さん」
『はい。……お父様のこと、心よりお悔やみ申し上げます』
「ありがとうございます」
『一度、お目にかかれませんか』
 千尋は、少し間を置いた。
「教室のことでしょうか」
『それもあります』
 倉田咲穂の声は、落ち着いていた。
『でも、それだけではありません』
「どういうことでしょう」
『お父様が、あなたに渡してほしいと言っていたものが、私の手元にあります』
 千尋は、立ち上がっていた。
「父が? いつですか」
『去年の十二月です』
 声には、感情らしいものが何も含まれていなかった。
『年が明けて、一月の終わりまでに私が渡さなかったら、そのときは自分で渡すから返してくれ、と言われました』
 千尋は、受話器を強く握った。
「一月の、終わり」
『はい』
 父は、自分が一月を越えられないことを、知っていたのだ。
 いや。
 自分が一月に何かをすることを、決めていたのだ。
「――どこへ行けばいいですか」
 電話の向こうで、女は少し黙った。
 それから、静かに言った。
『槻木神社の、石段の下で』
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