御神渡り(おみわたり)

第十章 石段の下で

 1
 牧野悠が職場に復帰したのは、二月九日の月曜日だった。
 朝の職員室で、悠は全員に頭を下げた。ご迷惑をおかけしました、と言った。誰も何も言わなかった。数人が、聞こえないくらいの声で「おかえりなさい」と言った。それだけで、悠は喉が詰まった。
 最初の授業は、二年三組の美術だった。
 教室に入ると、静かだった。三十人の中学生が、こちらを見ている。悠は教壇に立ち、出席簿を開いて、それから閉じた。
「みんな、知ってると思う」
 悠は言った。
「先生のお父さんが、警察に捕まりました。人を殺したと言っています」
 誰も動かなかった。
「先生は、そのことについて、みんなに何も説明できません。何が本当なのか、先生にもわからないからです」
 悠は、教室を見渡した。
「ただ、一つだけ言えます。先生は、みんなの美術の先生です。それだけは、変わりません」
 しばらくして、いちばん後ろの席の男子が手を挙げた。
「はい」
「先生、今日、何やるんですか」
 悠は、その一言で救われた。
「デッサンだ」
 悠は言った。
「石膏像じゃない。自分の手を描く。利き手じゃないほうの手だ」
 教室が、少しだけざわついた。
「難しいですよ」
「難しいから描くんだ」
 悠は、チョークを取った。
「よく見ろ。見たとおりに描け。知ってるとおりに描くな」
 言いながら、悠は自分の声が震えるのを感じた。
 見たとおりに描け。
 自分は、父の何を見たことがあっただろう。

 2
 二月十四日、土曜日。
 槻木神社の石段は、朝のうちに誰かが雪を掻いたらしく、両端に雪の壁ができていた。
 午後三時。遠山千尋は、鳥居の前で足を止めた。
 ここに来るのは、父が死んだ日以来だった。
 五十段の石段。上のほうに社殿の屋根が見える。父は、ここのどのあたりから落ちたのか。神津刑事は「上から数えて六段目あたりから」と言った。ほとんど、いちばん上だ。
 千尋は、石段の下に立った。
 この石の上で、父は死んだ。
 息が白かった。
「遠山さん」
 振り返ると、女が立っていた。
 黒っぽいダウンコート。長い髪を、後ろで一つに束ねている。四十歳前後。化粧をしていない顔は、青白く、疲れて見えた。
「倉田です」
「遠山です」
 二人は、石段の下で向かい合った。
「なぜ、ここなんですか」
 千尋は訊いた。
「どこがいいか、わかりませんでした」
 女は言った。
「喫茶店だと、他人の耳がある。あなたの家には行けない。私の部屋にお呼びするのも変です。それで、ここになりました」
「変ですよ」
「そうですね」
 咲穂は、うっすらと笑った。
「変です。ごめんなさい」
 千尋は、この人の話し方が父に似ている、と唐突に思った。ゆっくりで、間があって、余計なことを言わない。
「父の教室に、三年いらしたそうですね」
「はい」
「どんなふうに手伝っておられたんですか」
「数学が少しできるので、中学生を。あとは、掃除とか、お茶を淹れたりとか」
「父は、どんな先生でしたか」
 咲穂は、石段を見上げた。
「よく謝る人でした」
 千尋は、その答えに戸惑った。
「謝る?」
「はい。子どもがわからないと、自分が悪いって言うんです。すまん、先生の教え方が下手だった、って。子どもは笑うんですけど、あの人は本気で言っていました」
 咲穂は、視線を石段の上に置いたまま続けた。
「一度、中三の男の子が、家がしんどくて、教室で暴れたことがあります。机をひっくり返して、出ていこうとした。私が止めようとしたら、先生が私を止めて、その子に、ただ、すまんなあ、って言ったんです」
「何を謝ったんでしょう」
「わかりません」
 咲穂は言った。
「でも、その子は、泣きました」
 千尋は、自分の胸の奥が痛むのを感じた。
 私はその「すまん」を、一度も言われたことがない。
 言われたかった。

 3
「倉田さん」
「はい」
「父が、私に渡してほしいものがあると」
 咲穂は、肩から下げていたトートバッグに手を入れた。
 取り出したのは、大きめの茶封筒だった。厚みがある。
 封は、してあった。
「去年の十二月十九日です。教室が終わったあと、先生が私を残して、これを渡しました」
 咲穂は、封筒を両手で持っていた。
「――一月の終わりまでに、私が自分でこれを娘に渡す。もしそれができなかったら、そのときは、あなたが渡してください。そう言われました」
「できなかったら、というのは」
「訊きませんでした」
 咲穂は、封筒を差し出した。
「中身は知りません。開けていません」
 千尋は、それを受け取った。
 重かった。
 紙の重さだった。何十枚もの紙が入っている重さ。
「なぜ、いまなんですか」
 千尋は訊いた。
「一月の終わりは、もう過ぎています。私が知ったのは今日です。二週間、あなたはこれを持っていた」
 咲穂は、答えなかった。
 風が、鳥居の注連縄を鳴らした。
「迷っていました」
 やがて、咲穂は言った。
「捨てようかとも思いました」
「なぜ」
「怖かったからです」
 咲穂は、まっすぐに千尋を見た。
「私は、中身を知りません。でも、想像はつきます。想像がつくものを渡したら、あなたは壊れてしまう。だから、迷いました」
 千尋の指が、封筒の縁を掴んだ。
「――どうして、渡すことにしたんですか」
「牧野常雄が、姉を殺したことになっているからです」
 千尋は、息を吞んだ。
「姉?」
「平出真澄は、私の姉です」
 石段の下で、時間が止まった。
 千尋は、目の前の女の顔を見た。
 四十二歳。父の教室のボランティア。三年間、父の隣で子どもたちにお茶を淹れていた人。
 その人が、あの少女の妹。
「あなた」
 千尋の声が掠れた。
「あなたは、それを知っていて、父の教室に」
「偶然です」
 咲穂は言った。
「最初は」
「最初は」
「はい。市の広報を見て、ボランティアに応募しました。代表者の名前は載っていませんでした」
 咲穂は、コートのポケットに手を入れた。
「途中で気づきました。この人は、姉の担任だった人だと」
「それで、やめなかったんですか」
「やめませんでした」
「なぜ」
 咲穂は、しばらく黙っていた。
「わかりません」
 彼女は言った。
「たぶん、姉のことを知っている人が、この世にもう、ほとんど残っていないからです」
 千尋は、言葉を失った。
「母は二十三年前に死にました。継父は私が十三のときに死にました。親戚は、みんな縁を切りました。姉のことを覚えている人は、もういないんです」
 咲穂の声は、平坦だった。
「遠山先生は、覚えていました」

 4
「三万円のこと、ご存じですか」
 咲穂が訊いた。
 千尋は頷いた。
「父の口座から、毎月」
「私のところに来ていました」
 千尋の視界が、揺れた。
「あなたに?」
「三十二年です。私が十歳のときから、四十二の今日まで。一度も途切れたことがありません」
 咲穂は言った。
「振込人の名前は、マキノツネオでした。だから、私はずっと、伯父が送ってくれているんだと思っていました。伯父は――牧野常雄は、母の妹の夫です」
「知りませんでした」
「私も、長いこと会っていませんでした。母が親戚と縁を切ったので」
 咲穂は、石段の一段目に腰を下ろした。千尋も、少し離れて座った。冷たさが、コート越しに這い上がってきた。
「お金がなかったら、私は高校に行けませんでした」
 咲穂は言った。
「母は、姉が死んでから働けなくなりました。継父は酒ばかり飲んで、警察に呼ばれてばかりで、家にお金はありませんでした。それでも、毎月二十六日に、必ず三万円が入るんです。母はそれを絶対に使いませんでした。私の名義の通帳に入れて、そのままにしていました」
「お母さんは、誰からのお金だと」
「妹の情けだ、と言っていました」
 咲穂は、少し笑った。
「母は、それを恥だと思っていました。恥だけど、受け取らないと娘が高校に行けない。母は、それで壊れたんだと思います」
 千尋は、封筒を膝の上に置いていた。
 その紙の束が、いま、恐ろしく重かった。
「去年の十一月です」
 咲穂は言った。
「教室のあと、先生に訊きました。牧野常雄という人を知っていますか、と」
 千尋は、咲穂の横顔を見た。
「先生は、少しのあいだ黙って、それから、知っていると言いました。私は続けて訊きました。毎月三万円を送ってくれているのは、あの人ですか、と」
「父は、なんと」
「――違う、と言いました」
 咲穂は、自分の膝を見ていた。
「私が送っている、と」
 千尋は、目を閉じた。
「私が、なぜですかと訊いたら、先生は」
 咲穂の声が、初めて、わずかに揺れた。
「――お姉さんに、借りがあるからだ、と言いました」
 千尋は、目を開けた。
「借り?」
「それ以上は、何も言いませんでした」
 咲穂は立ち上がった。
「私は、その日から、眠れなくなりました」

 5
 千尋は、封筒を抱えたまま座っていた。
 立ち上がる力が出なかった。
「倉田さん」
「はい」
「あなたは、いま、何を考えていますか」
 咲穂は、石段を見上げた。
 五十段。父が落ちた石段。
「毎日、姉のことを考えています」
 咲穂は言った。
「十七歳です。私の記憶の中の姉は、ずっと十七歳のままです。私はもう四十二で、姉より二十五も年上になってしまった。」
 千尋は、その背中を見ていた。
「倉田さん」
「はい」
「あなたは、父を恨んでいますか」
 咲穂は、振り返らなかった。
 長い沈黙があった。
 やがて、彼女は言った。
「恨んでいません」
 千尋は、その言葉に、なぜか救われなかった。
 救われるはずの言葉なのに、背中が寒くなった。
「先生は、いい人でした」
 咲穂は続けた。
「三年間、そばで見ていました。子どもたちに、あんなに優しい人を、私はほかに知りません。だから、恨んでいません」
 彼女は、そこで一度、言葉を切った。
「恨むには、いい人すぎました」
 千尋は、立ち上がった。
「それ、どういう」
 咲穂は振り返った。
 笑っていた。
 その笑い方を、千尋は生涯忘れないことになる。悲しみでも、怒りでもない、もっと平たい、何かが完全に終わってしまった人の顔だった。
「読んでください」
 咲穂は、封筒を指した。
「読んで、それから、どうするか決めてください」
「どうする、って」
「警察に持っていくかどうかです」
 咲穂は、鳥居のほうへ歩き出した。
「持っていかないという選択もあります」
 彼女は、背中で言った。
「お父さんは、もう死んでいます。姉も死んでいます。牧野常雄は、自分から罪を被りました。誰も、あなたに真実を求めていません」
「あなたは」
 千尋は言った。
「あなたは、求めていないんですか」
 咲穂は、鳥居の下で立ち止まった。
 振り返らずに、こう言った。
「私は、もう手に入れました」
 彼女は、雪の道を歩いていった。
 千尋は、石段の下に一人で残された。
 封筒を抱えたまま、その場にしゃがみ込んだ。
 封を切る指が、震えていた。
 中から出てきたのは、罫線のある便箋の束だった。
 三十枚以上あった。
 一枚目の、いちばん上に、父の字でこう書かれていた。
 ――上申書
 ――令和八年一月十五日 遠山克巳
 その下に、一行。
 ――平成四年一月十八日夜、私は、教え子の平出真澄さんを死なせました。
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