御神渡り(おみわたり)

第八章 雪の窪み

 1
「牧野さん。写真を見ていただきます」
 神津明は、机の上に一枚のA4を置いた。
 現場の俯瞰写真。うつ伏せの遺体と、その周囲の雪。
「これは、遠山さんが発見されたときの状況です」
 牧野常雄は、写真を見た。表情は動かなかった。
「遺体の右側を見てください。ここ、雪の表面が違うのがわかりますか」
 神津は、指で円を描いた。
「鑑識の所見では、ここに人が長時間、接触していた痕跡があります。雪が体温で融けて、また凍っている。滞留時間は、少なくとも一時間」
 牧野は動かない。
「あなたは、押してすぐ逃げたとおっしゃった」
 沈黙。
 神津は、待った。
 取調室の壁の時計が、秒針を刻んでいた。三十秒。一分。
「――座っていました」
 牧野が言った。
「もう一度お願いします」
「押したあと、下まで降りて、しばらく座っていました」
「なぜ、最初にそう言わなかったんですか」
「言い忘れました」
「一時間を、言い忘れる」
「はい」
 神津は、ペンを置いた。
「そのあいだ、遠山さんは生きていましたか」
 牧野の喉が、上下した。
「……はい」
「意識はありましたか」
「ありました」
「会話は」
 牧野は、答えなかった。
 神津は、この男が答えないことを初めて見た。
「牧野さん。あなたは、遠山さんが生きているのを見ていながら、一時間、そばに座っていた。救急車を呼ばなかった」
「呼びませんでした」
「それはなぜですか」
「死んでほしかったからです」
 牧野は、はっきりと言った。
 部屋の温度が、二度下がったように感じた。
「殺すつもりで押したんです。生きていたら、意味がない」
 言葉は完璧だった。完璧すぎた。
 神津は、机の上で手を組んだ。
「牧野さん。一つ、教えてください」
「はい」
「一月十八日の未明、槻木神社の気温は、氷点下七度でした。風もあった。あなたは、そこに一時間座っていた」
「はい」
「寒かったでしょう」
 牧野は、顔を上げた。
 そして、言った。
「先生は、寒くなかったと思います」
 神津は、動きを止めた。
 牧野も、自分が何を言ったかに気づいたようだった。だが、取り消さなかった。
「――どういう意味ですか」
「意味はありません」
「牧野さん」
「意味はありません」
 牧野は、そこから先、一言も喋らなかった。
 2
 諏訪湖のヨットハーバー沖に、県警の潜水班が入ったのは、二月三日だった。
 水深は四メートルほど。透明度が低く、底には三十年ぶんのヘドロが積もっている。三時間の捜索の末、桟橋の先端から十二メートルの地点で、一台のスマートフォンが引き上げられた。
 遠山克巳のものだった。ケースの内側に、名前の書かれたシールが貼ってあった。
「言ったとおりでしたね」梶谷が言った。
「そうだな」
 神津は、ビニールに入った泥だらけの端末を見ていた。
「作業ジャンパーは」
「見つかりません。生地は水を吸うと沈みますが、範囲が広すぎて」
「まだ探せ」
「はい」
 神津は湖を見た。
 凍っていない。二月に入っても、湖面には波が立っている。
 この男は、携帯を捨てた場所は正直に言った。だが、ジャンパーは出てこない。
 なぜだ。
 携帯を出せば、自分が現場にいた証拠になる。それは自白と矛盾しない。むしろ補強する。
 ジャンパーはどうだ。
 もし本当にボタンが取れたジャンパーが出てくれば、それも自白を裏づける。隠す理由はない。
 ――ないのなら。
 神津は、湖から目を離した。
 ジャンパーは、捨てられていない。ボタンは、あの男の服のものではないからだ。
 3
 倉田咲穂の勤め先は、諏訪市内の介護老人保健施設だった。
 面談室に現れた女性は、四十二歳という年齢よりも若く見えた。細い体に、大きすぎる制服のポロシャツ。髪を後ろで一つに束ねている。化粧気がない。
「お忙しいところ、すみません」
「いえ」
 咲穂は、両手を膝の上に置いて座った。指先が荒れている。介護の仕事をする人の手だ。
「あおば教室で、ボランティアをされていましたね」
「はい。三年ほど」
「きっかけは」
「市の広報で見ました。子どもに何かできることがあればと思って」
「お子さんは」
「いません。結婚もしていません」
 咲穂は、まっすぐに神津を見て答えた。
「遠山克巳さんとは、どういうお付き合いでしたか」
「教室の代表と、ボランティアです。それだけです」
「一月十七日の夜、遠山さんから電話を受けていますね。二十二時十一分」
 咲穂は、頷いた。
「はい」
「どんな用件でしたか」
「翌週の教室のことです。木曜日を休みにするから、連絡を回してほしいと」
「二十二時に、その連絡を?」
「先生は、時々そういう方でした。思い立つと、時間を気にせずに電話をかけてくる」
 滑らかだった。
 神津は、その滑らかさを、四日前に牧野の口から聞いたばかりだった。
「一月十八日の未明、どちらにおられましたか」
「自宅にいました」
「証明できる方は」
「一人暮らしです」
 神津は、手帳に書き込むふりをしながら、相手の手元を見ていた。
 咲穂の右手の指が、左手の親指の付け根を、繰り返し撫でていた。
「倉田さん」
「はい」
「牧野常雄さんをご存じですか」
 指の動きが、止まった。
「……ニュースで」
「それ以前は」
「知りません」
 神津は頷いた。
「わかりました。最後に一つだけ」
 神津は、手帳を閉じた。
「あなたの旧姓を、教えていただけますか」
 咲穂の顔から、色が引いた。
 彼女は、それを取り繕おうとしなかった。
 長い沈黙のあとで、彼女は言った。
「平出です」
「平出咲穂さん」
「はい」
「平出真澄さんの、妹さんですね」
「はい」
 咲穂は、まったく表情を変えずに言った。
「姉です」
「なぜ、それを最初に言わなかったんですか」
「訊かれなかったからです」
 神津は、この女性の胆力に、ある種の畏怖を感じた。
「あおば教室に入られたのは、偶然ですか」
「偶然です」
「遠山克巳さんが、お姉さんの担任だったことは」
「知りませんでした」
 嘘だ、と神津は確信した。
 だが、証明する手立てが、いまはなかった。
 立ち上がりかけて、神津は言った。
「倉田さん。あなたの口座に、毎月三万円が振り込まれていますね」
 咲穂の呼吸が、一瞬止まった。
「三十年以上、一度も欠かさずに」
「……はい」
「差出人を、ご存じですか」
 咲穂は、目を伏せた。
 膝の上で、両手が固く握られていた。
「知りませんでした」
 彼女は言った。
「去年までは」
 4
 署に戻ると、捜査本部の空気が変わっていた。
 管理官が、神津を廊下に呼び出した。
「神津、送検の準備に入れ」
「まだ裏が取れていません」
「自白がある。現場の遺留品もある。動機も明確だ。何が足りない」
「動機が明確すぎます」
 管理官は、露骨に苛立った顔をした。
「本部の言うことを聞け。マスコミがどれだけ張りついてると思ってる。時効事件の犯人が三十四年ぶりに名乗り出て、口封じの殺人をやった。これ以上わかりやすい絵はない」
「絵、ですか」
 神津の口調に、管理官は目を細めた。
「言葉を選べ」
「選んでこれです」
 神津は言った。
「牧野は、供述を三回変えています。階段の件、滞留の件、それから」
「変えたんじゃない、思い出したんだ」
「あの男は、思い出していません。作っています」
「証拠は」
 神津は、答えられなかった。
「ないだろう。ないものは動かせん」
 管理官は、廊下の窓の外を見た。
「神津。おまえの気持ちはわかる。だが、被疑者が全部認めてる事件で、警察が違うと言い張ってどうする。誰が得をするんだ」
「被害者が得をします」
「被害者は死んでる」
「だから言ってるんです」
 神津は、管理官の目を見た。
「遠山克巳がなぜ死んだのか、まだ誰も知らない。娘さんも知らない。このまま送検したら、あの人は一生、それを知らないまま生きるんです」
 管理官は、しばらく神津を見ていた。
「――二週間だ」
 管理官は言った。
「勾留延長までの二週間で、何も出なければ、そのまま送る」
「ありがとうございます」
「礼はいらん。おれの首もかかってる」
 5
 その夜、神津は遠山家を訪ねた。
 千尋が玄関に出てきた。母親は寝ているという。
「少しだけ、よろしいですか」
 通されたのは、仏間だった。まだ祭壇が置かれ、白い花が飾られている。遺影の中で、遠山克巳が笑っていた。
「刑事さん、進展はあったんですか」
「あるとも、ないとも言えません」
「そうですか」
 千尋は、湯呑みを二つ置いた。
「今日は、お伝えしなければならないことがあって伺いました」
 神津は、湯呑みには手をつけなかった。
「お父様の、健康状態についてです」
 千尋の顔が、こわばった。
「お父様は、昨年十月に、諏訪の総合病院で膵臓がんと診断されています。ステージⅣ。すでに肝臓に転移がありました」
 千尋の手から、湯呑みが滑りかけた。
「――そんな」
「治療は受けておられません。手術も、抗がん剤も断って、経過観察だけ。担当医の記録では、余命は六か月前後と伝えられています」
 千尋は、口を手で覆った。
「知りませんでした」
「奥様もご存じありませんでした」
 千尋は、遺影を見た。
 笑っている父。地域の広報誌の写真。子どもたちに囲まれて。
「じゃあ、あの人は」
 声が掠れていた。
「あの人は、あと半年しか生きられないって知ってて、それを誰にも言わないで、私が正月に帰ったときも、みかん剝いて、それで」
 千尋の肩が震えはじめた。
「なんで言わないの」
 誰にともなく、彼女は言った。
「言ってくれたら、私、帰ったのに。仕事なんか、いくらでも」
 神津は、黙って座っていた。
 こういうとき、慰めの言葉は毒になる。彼は経験からそれを知っていた。
 やがて、千尋が顔を上げた。目が腫れていた。
「刑事さん」
「はい」
「教えてください。父は、なぜ殺されたんですか」
 神津は、しばらく答えなかった。
「遠山さん」
「はい」
「私は、あなたに嘘をつきたくない。だから、正確に言います」
 神津は、湯呑みを見つめた。
「私は、牧野常雄が三十四年前の犯人だとは思っていません」
 千尋の目が見開かれた。
「なら――」
「そして」
 神津は続けた。
「お父様が、その事件と無関係だったとも、思っていません」
 部屋の空気が止まった。
 線香の煙が、まっすぐに立ち昇っていた。
「どういう、意味ですか」
「まだ、わかりません」
 神津は顔を上げた。
「ただ、これだけは言えます。牧野常雄は、誰かを庇っています。三十四年前から、ずっと。そして、その庇っていた相手は」
 神津は、遺影を見た。
「先週、亡くなりました」
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