御神渡り(おみわたり)

第十二章 玉子焼き

 1
 千尋がその封筒を持って諏訪警察署に現れたのは、二月十六日の午前だった。
 隣に、牧野悠がいた。
 二人は、一階の相談室で神津明と向き合った。千尋は封筒をテーブルに置き、それから両手を膝に戻した。
「父が書いたものです」
 神津は封筒を見た。開かなかった。
「先に、確認させてください」
 神津は言った。
「これを私に渡すと、どうなるかは、おわかりですか」
「わかります」
「お父様の名誉は、失われます。報道は、今日までとまったく逆になります。地域の善意の人が、少女を死なせて三十四年隠していた男になる。あなたのお母様も、無関係ではいられない」
「わかっています」
「後戻りはできません」
 千尋は、テーブルの上の封筒を見ていた。
「刑事さん」
「はい」
「これ、燃やそうとしました」
 神津は、黙って聞いた。
「昨日の夜、庭で。ライターまで持って出ました」
 千尋は、自分の手を見た。
「そうすれば、父はいい人のままで、母も守れる。牧野さんも、たぶん本当のことは言わない。誰も困らない。私が黙ってさえいれば、全部そのままだって思いました」
「なぜ、燃やさなかったんですか」
「妹さんがいるからです」
 千尋は顔を上げた。
「平出咲穂さん。あの人は、三十四年間、姉が誰にどうやって殺されたかを知らないまま生きてきました。それを、私が、私の家の都合で消していいはずがない」
 神津は、封筒に手を伸ばした。
「それに」
 千尋は続けた。
「父が三十四年かけて書いたものを、娘が三分で燃やしたら、あの人の人生はいったい何だったんだって」
 千尋の声が、そこで途切れた。
 神津は封筒を引き寄せ、丁寧に開けた。
 便箋の束を取り出し、最初の一枚を読んだ。
 二行目まで読んだところで、彼は椅子に深く座り直した。

 2
 神津がそれを読み終えるのに、四十分かかった。
 その間、千尋も悠も、一言も喋らなかった。
 読み終えた神津は、便箋を丁寧に揃え、机の上で軽く叩いた。それから、しばらく目を閉じていた。
「遠山さん」
 神津は言った。
「ありがとうございます」
 千尋は、その言葉に驚いたようだった。
「これは、警察が三十四年見つけられなかったものです。我々の負けです。それを、あなたが持ってきてくださった」
 神津は、頭を下げた。
 千尋は、何も言えずにいた。
「一つ、伺います」神津は顔を上げた。「これを、あなたに預けたのは、倉田咲穂さんですね」
「はい」
「渡された日は」
「二月十四日です」
「彼女が、これを持っていたのは、いつからですか」
「去年の十二月十九日からだと言っていました」
 神津の目が、細くなった。
「十二月十九日」
「はい」
 神津は、便箋を封筒に戻した。
「牧野さん」
 神津は、悠のほうを向いた。
「あなたにも、お訊きしたいことがあります。お父さんの仏壇の下から、ノートを見つけられましたね」
 悠は頷いた。
「持ってきました」
 悠は、鞄から薄いノートを出した。
 神津はページをめくった。三十四年ぶんの、日付と天気だけの記録。そして最後の行。
 ――令和八年一月十八日 雪 これで、しまいにする。
 神津は、そのページを長く見つめていた。
「この字は」
「父の字です」
「震えていませんね」
 悠は、そのノートを覗き込んだ。
 言われて初めて気づいた。他の年の記録とまったく変わらない、落ち着いた、角ばった字だ。
「人を殺して帰ってきた人間の字ではありません」
 神津は言った。
「これは、何かをやり遂げた人間の字です」

 3
 その日の午後、神津は取調室で、牧野常雄に上申書を読ませた。
 牧野は、最初の一枚を手に取ったところで、動かなくなった。
 三分、そのまま動かなかった。
 やがて、彼は二枚目をめくった。
 三枚目。四枚目。
 途中から、読む速度が落ちた。牧野の親指が、便箋の縁を強く押さえていた。爪が白くなっていた。
 「五、私がしたこと」の項に入ったところで、老人の肩が震えはじめた。
 ――さきほを、おねがい。
 その行に、牧野の指が触れた。
 彼は、声を上げなかった。
 ただ、涙が、便箋の上に落ちた。一滴、二滴。彼は慌てて袖でそれを拭き、紙が濡れるのを防ごうとした。その動きが、神津には、この男が三十四年ぶりに人前で見せた素の動作に思えた。
 最後まで読み終えると、牧野は便箋を揃えた。
 揃えて、机の上に置いて、両手をその上に載せた。
「――先生は」
 牧野は言った。
「先生は、最後まで、うまく書けん人だった」
 神津は黙っていた。
「三十四年、あの人はずっと言葉を探しとった。何をどう言えばいいのか、わからんかったんだ。それがこんなに立派な文章になって出てくると」
 牧野は、そこで言葉を切った。
「牧野さん」
 神津は言った。
「三十四年前、平出真澄さんを死なせたのは、遠山克巳さんですね」
 牧野は、しばらく黙っていた。
 それから、頷いた。
「そうです」
「あなたは、遺体を運び、埋め、車を解体して処分した」
「はい」
「あなたは、殺していない」
「殺していません」
 牧野は、はっきりと言った。
「三十四年前は」
 神津は、身を乗り出した。
「では、なぜ嘘をついたんですか」
「私が言わなければ、真澄のことは、誰も知らないままでした」
 牧野は言った。
「先生は死にました。私が黙っていれば、あの子は永遠に、時効になった未解決事件のままです。誰が殺したかもわからない女の子として、記録の中に残るだけです」
「だから、自分がやったと」
「私がやったと言えば、少なくとも、あの子が誰にどうやって殺されたかという話に、世間が一度は目を向けます」
 筋は通っている。だが、と神津は思った。
 それだけなら、真実を言えばいい。遠山克巳がやった、と言えばよかった。
「牧野さん。遠山さんが真実を話すのを、あなたは止めていた。二〇一〇年代に入ってからも、何度も止めていましたね」
「止めました」
「なぜ」
「節子がいたからです」
 牧野は言った。
 神津は、ペンを止めた。
「奥さんが」
「はい」
 牧野は、初めて自分から話しはじめた。

 4
「あの晩、節子は玉子焼きを作るつもりでした」
 牧野は言った。
「真澄が来る日でしたから、夕方に卵を買ってきて、台所に出してありました。三日前に、あの子がうちに来て、玉子焼きは砂糖を入れる派かって私に訊いたんです。入れる派だと言ったら、じゃあ次に来たとき作ってあげるって」
 牧野の視線は、机の木目に落ちていた。
「次に来たときに、です」
 神津は、何も言えなかった。
「あの晩、私が朝方に帰ったら、節子は台所に座っていました。卵が、まだ出してありました。真澄は来なかったのかと訊かれて、来なかったと答えました」
「奥さんは、疑っておられましたか」
「疑っていたと思います」
 牧野は言った。
「でも、訊きませんでした。一度も」
「一度も?」
「二十七年、一度もです」
 牧野は、そこで少しだけ笑った。
「刑事さん、女は怖いですよ。あいつは、訊かないと決めたら、絶対に訊かないんです。私が真澄の命日にノートを書いていることも知っていた。私が毎月、遠山先生の金を咲穂に回していることも、通帳を見れば一目でわかったはずです。それでも、何も言わなかった」
「奥さんは、亡くなる前に何か」
 牧野の顔から、笑いが消えた。
「言いました」
「なんと」
「――お父さん、もう、いいよ」
 牧野の声が掠れた。
「それだけです。それだけ言って、私の手を握って、二日後に死にました」
 神津は、その言葉の重さを測ろうとした。測れなかった。
 もう、いい。
 もう隠さなくていい、なのか。もう自分を責めるな、なのか。あるいは、あなたが何をしたか私は知っている、私はそれを許して死ぬ、なのか。
 解釈は、この男が二十七年考えて、それでも決められなかったものだろう。
「節子が生きているうちは、絶対にできませんでした」
 牧野は言った。
「遠山先生が自首したら、私も捕まります。死体遺棄はとうに時効ですが、そんなものは世間には関係ない。節子は姉の娘を殺した男の女房になります。それだけは、させられんかった」
「奥さんが亡くなられてからは」
「息子と、孫がいました」
 牧野は言った。
「私には、いつも守るものがありました。三十四年、ずっと。守るものがあるというのは、逃げる口実があるということです。私も、遠山先生と同じです」

 5
「牧野さん」
 神津は、姿勢を変えた。
「三十四年前のことは、わかりました。では、先月十七日の夜のことを、もう一度、最初から話してください」
 牧野は、少し疲れたように息を吐いた。
「遠山先生が、警察に行くと言いました。私は止めました。止めきれなかったので、押しました。それだけです」
「動機を教えてください。三十四年前の件で、あなたが罪に問われることはありません。遠山さんが自首しても、あなたが失うものは名誉だけです」
「名誉だけ、ですか」
 牧野は、初めて神津を睨んだ。
「刑事さん。あなたは、名誉だけと言いましたね」
「言葉が悪かった」
「うちの孫は、いま学校に行っていません」
 牧野は言った。
「私が自首したからです。私が名誉を失っただけで、十五の子どもが教室に入れなくなる。名誉だけ、というのは、そういうことです」
 神津は、頭を下げた。
「失礼しました」
「かまいません」
 牧野は、また視線を落とした。
「動機を言います」
「はい」
「私は、遠山克巳を憎んでいました」
 部屋の空気が変わった。
「三十四年、一日も欠かさず憎んでいました」
 牧野は、静かに言った。
「私はあの人に、生きろと言いました。教師を続けろ、子どもを救えと言いました。立派なことを言ったつもりでした。でもね、刑事さん。あれは、私が姪を殺した男を許した言葉じゃありません」
 彼は顔を上げた。目が赤かった。
「あれは、あの人が刑務所で楽になるのが許せなかっただけです」
 神津は、その目を見ていた。
「三十四年、あの人は立派になっていきました。子どもに慕われて、地域の人に感謝されて、新聞に載って。私は、それを見ていました。私の姪を殺した男が、いい人になっていくのを、月に一度、金を渡しに来るたびに見ていました」
 牧野の拳が、机の上で震えていた。
「そして去年の秋に、癌だと言ってきた。警察に行くと言った。死ぬ前に楽になりたいと言った」
「牧野さん」
「許せませんでした」
 牧野は言った。
「三十四年、私が背負わせた無期懲役を、あの人は最後に降ろそうとした。私は、それだけは許せなかった。だから、あの石段で押しました。落ちたあと、一時間、そばに座って、死ぬのを見ていました。これが動機です。これ以上のものはありません」
 部屋が、静まり返った。
 神津は、長いあいだ何も言わなかった。
 この供述は、通る。
 法廷で、この動機は通ってしまう。三十四年の憎悪。裁判員は納得するだろう。むしろ、心を動かされるかもしれない。
 そして、真実は永遠に埋まる。
「牧野さん」
 神津は言った。
「あなたの話には、一つだけ、どうしても納得できないことがあります」
「なんでしょう」
「あなたは、遠山さんが自首するのが許せなかった。だから殺した」
「はい」
「では、なぜ、あなたは自首したんですか」
 牧野の顔が、止まった。
「あなたは、遠山さんが楽になるのを許せなかった。その同じ口で、四日後に自分から警察に来て、全部背負うと言った。それは、あなたが憎んだものと、まったく同じ行為です」
 牧野は、答えなかった。
「あなたは、逃げられたはずです」
 神津は続けた。
「あの晩、あの場所に誰かがいたことを、我々は突き止められなかったかもしれない。あなたは黙っていればよかった。孫は学校に行けていた」
 牧野は、机を見つめていた。
「牧野さん」
 神津は、身を乗り出した。
「あの晩、石段の上に、もう一人いましたね」
 その瞬間だった。
 老人の目に、初めて、これまでとまったく違うものが浮かんだ。
 神津は、二十六年の刑事人生で、その目を何度か見たことがある。
 自分のことでは、人はあんな目をしない。
 あれは、他人を守る人の目だ。
「――いません」
 牧野は言った。
「いませんでした。私一人です」
 その日、牧野常雄は、それ以上何も話さなかった。
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