御神渡り(おみわたり)

第十三章 反転

 1
 上申書の存在が公になったのは、二月二十日の夕方だった。
 長野地方検察庁が牧野常雄を殺人罪で起訴し、その記者会見の質疑の中で、一人の記者が「被害者の三十四年前の関与」について質問した。検察官は「公判で明らかにする」とだけ答えた。
 翌朝の全国紙の社会面に、「被害者の元教師、三十四年前の少女死亡に関与か」という見出しが出た。夕方にはワイドショーが動いた。三日後には、あおば教室の看板の前にカメラが五台並んだ。
 物語が、反転した。
 ――善意の元教師の正体
 ――子どもたちの前で三十四年、罪を隠して
 ――被害者は本当に「被害者」だったのか
 千尋の携帯電話が、鳴りやまなくなった。
 東京の事務所にも記者が来た。所長は千尋に電話をかけてきて、しばらく休んでくれと言った。声には、明らかな戸惑いがあった。
「遠山さん。うちは、住宅を建ててる会社だから」
「わかります」
「いや、あの、君が悪いわけじゃなくてね」
「わかっています」
 千尋は電話を切った。
 窓の外に、白いワゴン車が停まっていた。ダッシュボードの上に、望遠レンズが見えた。
 カーテンを閉めた。

 2
 母が倒れたのは、二月二十六日の夜だった。
 台所で音がして、千尋が駆けつけると、母が流し台にもたれて座り込んでいた。意識はあった。だが、右手が震えて止まらなかった。
 救急車を呼ぶかどうかで、千尋は数秒迷った。呼べば、そのことも書かれる。
 呼んだ。
 診断は、過労とストレスによる一過性の症状で、大事には至らなかった。それでも医師は、しばらく入院したほうがいいと言った。
 病室で、母は千尋の手を握った。
「ごめんね」
「謝らないで」
「あんた、東京に帰りなさい」
「帰らない」
「帰りなさい。ここにいたら、あんたの人生が狂わされてしまう」
 千尋は、母の手を握り返した。
「お母さん」
「なあに」
「私、証人になるかもしれない」
 母の目が、大きくなった。
「裁判の?」
「牧野さんの弁護士さんに、頼まれてる。お父さんの上申書が本物だってことを、法廷で説明してほしいって」
 母は、しばらく天井を見ていた。
「そうしたら、また書かれるね」
「書かれる」
「お父さんのこと、もっとひどく書かれる」
「たぶん」
 母は、目を閉じた。
「千尋」
「うん」
「私は、あんたが決めたことに、一つも文句を言わない」
 母は言った。
「三十四年、私は何も決めなかったの。決めないことにしたのよ。それがどれだけずるいことか、いまになってわかった」
 千尋は、母の顔を見た。
「だから、あんたは、決めなさい」

 3
 牧野悠のところにも、報道は押し寄せていた。
 だが、奇妙なことに、風向きは少し変わっていた。
 牧野常雄が三十四年前の犯人ではなかったこと、そして遺体を埋めた男が、その少女の叔父であったこと。この二つが報じられると、SNSの一部で「牧野は被害者遺族でもある」という論調が生まれた。
 中傷は減らなかった。ただ、種類が変わった。
 三月に入って、灯里が学校に戻った。
 公立高校の前期選抜は不合格だった。後期選抜まで、あと二週間ある。
「学校、大丈夫か」
 朝、玄関で悠が訊くと、灯里は靴紐を結びながら答えた。
「別に」
「別にって」
「まあ、ふつう」
 灯里は立ち上がって、リュックを背負った。
「あのさ、お父さん」
「なんだ」
「柴田さんって子が、ノート貸してくれた」
「そうか」
「一か月ぶんぜんぶ。汚い字だったけど」
 灯里は、玄関のドアを開けた。
 外は、まだ暗かった。
「その子、なんて言ってた」
「うちも去年、お父さん捕まったよって」
 悠は、言葉に詰まった。
「それだけ?」
「うん。それだけ」
 灯里は、振り返らずに出ていった。
 悠は、玄関に立ち尽くしていた。
 璃子が、廊下の奥から出てきた。
「行った?」
「行った」
 璃子は、悠の隣に立った。
「あの子、強いね」
「おれより強い」
「それは間違いない」
 璃子は笑った。二か月ぶりに、この家で誰かが笑った。

 4
 三月十日、悠は初めて父と面会した。
 起訴後、接見禁止が解かれ、家族の面会が認められた。南雲弁護士が手配してくれた。
 アクリル板の向こうに現れた父は、痩せていた。
 髭は剃られ、髪は短く刈られていた。灰色のスウェット。手錠は外されていたが、腰縄がベルトにつながっていた。
 七年ぶりだった。
 父は椅子に座り、悠の顔を見た。それから、視線を落とした。
「悠か」
「……はい」
「大きくなったな」
 悠は、思わず声を出して笑いそうになった。三十六の男に向かって言う言葉ではない。だが、笑わなかった。父の目が、真剣だったからだ。
「灯里は」
「学校に行ってます。前期は落ちましたけど、後期を受けます」
「そうか」
「妻も、元気です」
「そうか」
 父は、それ以上訊かなかった。
 悠は、用意してきた言葉をすべて忘れた。
「父さん」
「なんだ」
「なんで、会ってくれなかったんですか」
 父は、答えなかった。
「南雲先生に、二度断られました。三度目でやっと会えた。なぜですか」
「顔を見たら、喋ってしまうと思った」
 父は、正直に言った。
「何をですか」
「言えん」
「父さん」
「言えんのだ」
 父は、アクリル板の向こうで、手を膝の上に置いた。
「悠。おまえに一つ、謝らんといかんことがある」
「なんですか」
「おまえの母さんのことだ」
 悠は、身を乗り出した。
「母さんは、二十七年、おれが人を殺したかもしれんと思いながら生きた」
 父は言った。
「おれは、そうじゃないと言うことができた。言えば、母さんは楽になった。それでも言わんかった。言えば、遠山先生のことを話さんといかんからだ」
「母さんは、知ってたんですか」
「知っとった。訊かんかっただけだ」
 父は、そこで一度、目を閉じた。
「おれは、女房に二十七年、嘘の重さを背負わせた。おまえには、それを見せた。おまえが十四のとき、おれが月に一度どこかへ行くのを、おまえは浮気だと思っただろう」
「……はい」
「そう思わせたほうが楽だった」
 父は言った。
「情けない男だ」
 悠は、アクリル板に手を置いた。
「父さん。一つだけ、訊かせてください」
「なんだ」
「あの晩、石段にいたのは、父さんだけですか」
 父の顔が、動かなくなった。
「悠」
「答えてください」
「おまえは、それを知る必要がない」
「あります」
 悠は言った。
「私は、あなたの息子です。あなたが十五年刑務所に入って、七十を過ぎて出てきたとして、私はその十五年、何を思って生きればいいんですか。父は人を殺した、と思って生きるのか。父は誰かを庇って十五年、刑に服したと思って生きるのか。それは、まったく違う十五年です」
 父は、悠の顔をじっと見ていた。
 やがて、こう言った。
「悠。おれはな、人の親としては、ろくでもない男だった」
「はい」
「でも、一つだけ言えることがある」
 父は、アクリル板越しに、悠の目を見た。
「守れるものは、守るんだ」
「それは、答えになっていません」
「答えだよ」
 父は立ち上がった。
「面会は、もう来なくていい」
「父さん」
「灯里の後期の結果だけ、南雲先生に伝えてくれ」
 父は、刑務官に促されて、扉の向こうへ消えた。
 悠は、その背中を見ていた。
 肩の厚い、大きな背中だった。子どものころ、工場で見上げていた背中と、何も変わっていなかった。

 5
 三月下旬、南雲玲奈の事務所に、千尋と悠が呼ばれた。
 公判前整理手続の進捗を説明するためだという。
 会議室のテーブルに、南雲は資料を並べた。
「公判は、九月です。裁判員裁判で、審理予定は六日間」
「そんなに」
「争いのない事件なら三日で終わります。この事件は、争いがない、ということになっていますが、事実関係が非常に複雑です。裁判所も慎重になっています」
 南雲は、ペンでテーブルを軽く叩いた。
「検察の主張はこうです。被告人は三十四年前、被害者が起こした事故の隠蔽に加担した。被告人は長年、被害者に対する憎悪を抱いていた。被害者が自首を決意し、それを告げられた被告人は、憎悪と、自らの立場が公になることへの恐れから、被害者を石段から突き落として殺害した。殺意は明確。動機は身勝手。求刑は、おそらく十八年」
「弁護側は」
「何もありません」
 南雲は言った。
「被告人が全面自白しています。私にできるのは、情状を積み上げることだけです。三十四年前の経緯、被告人が被害者の叔父であったこと、送金を三十二年間仲介していたこと、自首が成立していること」
 南雲は、千尋を見た。
「そこで、遠山さんにお願いがあります」
「はい」
「二つあります。一つは、上申書の成立について証言していただくこと。これは弁護側証人としてです」
「もう一つは」
「被害者参加制度を使っていただきたい」
 千尋は、その言葉を知らなかった。
「ご遺族が、裁判に参加する制度です」南雲は説明した。「法廷の中に席が用意され、意見を述べることができます。そして――被告人に、直接質問することができます」
 千尋の胸が、鳴った。
「私が、牧野さんに、質問できるんですか」
「できます。ただし、量刑に関する事項に限られますし、裁判長の許可が要ります」
 南雲は、ペンを置いた。
「遠山さん。これは、弁護人が遺族に頼むことではありません。本来、あべこべです。被害者参加人は、多くの場合、被告人を糾弾するために質問します」
「わかっています」
「それでも、お願いします」
 南雲は、頭を下げた。
「牧野常雄は、私の質問には答えません。検察官の質問にも、答えを用意しています。裁判官の質問にも、たぶん変わらない」
 彼女は顔を上げた。
「あの人が答えるとしたら、たった一人です」
 南雲は、千尋を見た。
「あの人が三十四年間、生かし続けた男の、娘です」

 6
 帰り道、千尋と悠は、松本駅の近くの喫茶店に入った。
 二人とも、しばらく何も喋らなかった。運ばれてきたコーヒーが、湯気を立てていた。
「遠山さん」
 悠が口を開いた。
「はい」
「無理をしないでください」
「無理じゃないです」
「無理です」
 悠は言った。
「あなたは、お父さんを死なせた男に、法廷で質問するんです。しかも、その男を助けるために」
 千尋は、カップを両手で包んだ。
「牧野さん。私、この二か月で、いろんなものを失いました」
 悠は黙って聞いた。
「父を失って、父の思い出を失って、仕事を失いかけて、母が倒れて。友達は減りました。連絡が来なくなった人が何人もいます」
 千尋は、カップの中を見ていた。
「でも、一つだけ、手に入れたものがあるんです」
「なんですか」
「父を、知ったこと」
 千尋は顔を上げた。目が赤かったが、涙は出ていなかった。
「私は三十四年のあいだ、あの人を知りませんでした。優しくない父親だと思ってました。娘より他人の子を大事にする人だと思ってました。それが、いまは違う」
「違いますか」
「あの人は、私を抱くのが怖かったんです」
 千尋は言った。
「そんなの、ふざけるなって思います。勝手に怖がって、勝手に距離を取って、それで娘に何も言わないで死ぬなんて、卑怯にもほどがある」
 彼女は、そこで少しだけ笑った。
「でも、それが私の父です」
 悠は、千尋の顔を見ていた。
「私は、その人の娘として、法廷に行きます」
 千尋は言った。
「父ができなかったことを、私がやります。三十四年、あの人はずっと、本当のことを言おうとして言えなかった。私は言えます。私は病気じゃないし、まだ生きているし、失うものはもう、たいして残っていない」
 喫茶店の窓の外を、電車が通り過ぎた。
「牧野さん」
「はい」
「私、一つだけ怖いことがあるんです」
「なんですか」
 千尋は、少し声を落とした。
「あの晩、石段にいたもう一人が、誰なのか」
 悠は、カップを置いた。
「私も、それが怖いです」
 二人は、それきり、その話をしなかった。
 窓の外で、松本の空が暮れていった。信州の三月は、まだ冬の色をしている。それでも、駅前の街路樹の枝先が、わずかに膨らみはじめていた。
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