御神渡り(おみわたり)
第十四章 法廷
1
長野地方裁判所の第一〇一号法廷は、傍聴席が七十席ある。
九月七日、月曜日。抽選券を求めて、朝から三百人が並んだ。
遠山千尋は、傍聴席ではなく、法廷の柵の内側に座っていた。検察官席の隣に用意された、被害者参加人の席。そこからは、被告人席が斜め前に見える。
牧野常雄が入廷したのは、午前十時二分だった。
スーツを着ていた。南雲弁護士が用意したものだという。腰縄と手錠は、着席と同時に外された。
牧野は、一度だけ千尋のほうを見た。
目が合った。
彼は、頭を下げた。深く、長く。
千尋は、頭を下げ返せなかった。
「開廷します」
裁判長は、五十代の男性だった。左右に陪席裁判官、その両脇に裁判員が六人。会社員風の男性が三人、女性が三人。いちばん端の女性は、二十代に見えた。
「被告人は、前へ」
牧野は、証言台の前に立った。
「名前を言ってください」
「牧野常雄です」
「生年月日は」
「昭和三十四年、四月十二日です」
「職業は」
牧野は、少し間を置いた。
「無職です。以前は、金属プレスの工場をやっておりました」
起訴状が朗読された。
――被告人は、令和八年一月十八日午前零時五十分ごろ、長野県諏訪市(略)槻木神社境内の石段上において、殺意をもって、遠山克巳(当時六十四歳)の胸部を両手で突き、同人を石段下に転落させ、よって同日午前二時ごろから三時ごろまでの間、頭部外傷及び低体温症により同人を死亡させたものである。
「被告人。いま読まれた事実に、間違いはありませんか」
牧野は、まっすぐ前を向いていた。
「間違いありません」
「弁護人のご意見は」
南雲玲奈が立ち上がった。
「被告人が被害者を石段から転落させ、死亡させた事実は争いません。ただし、殺意の内容、および犯行に至る経緯については、検察官の主張と大きく異なります」
裁判長が頷いた。
「では、冒頭陳述に入ります」
2
検察官は、三十代後半の女性だった。
彼女は、簡潔だった。
「本件は、三十四年間隠されてきた事件の隠蔽者が、その隠蔽が崩れることを恐れ、そして永年の憎悪から、一人の男性を殺害した事件です」
検察官は、パネルを示した。石段の写真。五十段。
「被告人は、被害者が真実を公表しようとしていることを知り、深夜、被害者を人気のない神社に呼び出しました。そして、五十段の石段の上から、被害者を突き落としました。被害者は転落後、頭部を強打しながらも生存していました。被告人は、その隣に一時間以上座り続けました。救急車を呼ぶことは容易でした。しかし呼ばなかった」
検察官は、裁判員のほうを向いた。
「被告人は、被害者が死ぬのを見届けたのです」
傍聴席が、ざわめいた。
「弁護側は、被告人の三十四年間の苦悩を語るでしょう。被告人が被害少女の叔父であったことも述べるでしょう。しかしそれは、人を殺していい理由にはなりません」
検察官は着席した。
次に、南雲玲奈が立った。
彼女は、パネルを使わなかった。
「弁護人から、三つのことを申し上げます」
南雲は、裁判員を一人ずつ見た。
「第一に、この事件は、三十四年前の一月十八日に始まっています。その夜、十七歳の平出真澄さんが亡くなりました。彼女を死なせたのは、被告人ではありません。本件の被害者、遠山克巳さんです」
法廷が静まり返った。
「第二に、被告人は、その事実を三十四年間、隠しました。同時に、遠山さんが平出真澄さんの妹に送り続けた三十二年ぶんの送金を、自分の名義で仲介し続けました。総額は千百万円を超えます。被告人は、そのうち一円も自分のために使っていません」
南雲は、間を置いた。
「第三に――」
彼女は、被告人席を見た。
「被告人は、この法廷で、真実のすべてを述べていません」
裁判長が、わずかに眉を動かした。
「弁護人。それは、被告人が虚偽の自白をしているという趣旨ですか」
「いいえ」
南雲は言った。
「被告人が被害者を突き落とした事実は、争いません。弁護人が申し上げているのは、なぜ突き落としたのか、その理由について、被告人がまだ語っていないということです」
「弁護人としては、それを立証されるおつもりですか」
「いいえ」
南雲は、静かに言った。
「立証はできません。私は、被告人が自分で語ることを望んでいます」
3
午後、証人尋問が始まった。
最初の証人は、長野県警察本部捜査第一課の神津明だった。
彼は宣誓し、証言台に立った。検察官の主尋問は、淡々と進んだ。自首の状況、供述の経過、遺体の状況、湖から回収された携帯電話。
「証人。被告人の供述は、客観的証拠と一致していましたか」
「一致した部分と、一致しなかった部分があります」
検察官の表情が、わずかに変わった。
「一致した部分を挙げてください」
「携帯電話の遺棄場所です。被告人の供述どおりの地点から発見されました」
「それは、被告人が現場にいた強い裏づけになりますね」
「なります」
「以上です」
検察官は、素早く着席した。
南雲が立った。
「証人。一致しなかった部分を、教えてください」
「三点あります」
神津は、はっきりと答えた。
「第一に、被告人は当初、被害少女が工場の鉄骨階段から落ちたと供述しました。その階段は、事件の六年後に設置されたものです」
「第二は」
「被害者の右手から発見されたボタンです。被告人は、自分の作業ジャンパーのものだと供述し、そのジャンパーを携帯電話と同じ場所に捨てたと述べました。しかし、潜水捜索を三度行いましたが、発見されていません」
「第三は」
神津は、少しだけ間を置いた。
「遺体の右側の雪です」
法廷が、静まった。
「詳しく説明してください」
「遺体の右側方、およそ五十センチの範囲に、雪が押し固められた痕跡がありました。鑑識の所見では、人体が長時間接触したことによる融解と再凍結です。滞留時間は少なくとも一時間」
「被告人は、そこに座っていたと供述していますね」
「しています」
「では、なぜ一致しないとおっしゃるんですか」
神津は、証言台の縁を握った。
「圧痕の位置と形状から、そこに滞留した人物の体格を推定しました。座位での接地面の幅、および膝から足先までの長さから、身長は百六十センチ前後と推定されます」
傍聴席が、ざわめいた。
「被告人の身長は」
「百七十六センチです」
南雲は、被告人席のほうを見なかった。
「証人。その推定は、確実なものですか」
「確実ではありません」
神津は正直に言った。
「雪の圧痕からの体格推定は、精度が低い。厚着の状態や姿勢によって大きく変わります。証拠として使えるレベルではありません」
「では、なぜそれを述べたのですか」
神津は、しばらく黙っていた。
「――私は、警察官として、この事件を送検しました」
彼は言った。
「証拠のとおりに、被告人の自白のとおりに、送りました。それが仕事です」
神津は、裁判員のほうを向いた。
「ただ、私は、この事件の現場にもう一人いたと考えています。証明はできません。ですから、これは私の意見にすぎません。証拠ではありません」
「異議あり」
検察官が立った。
「証人の主観的な推測です」
「異議を認めます」
裁判長が言った。
「証人は、意見を述べないでください」
「失礼しました」
神津は頭を下げた。
だが、言葉はもう法廷の空気の中に放たれていた。
千尋は、被告人席の牧野を見た。
牧野は、うつむいていた。
4
証人尋問の二日目、九月八日。
遠山千尋が、証言台に立った。
法廷の全員が、彼女を見ていた。被害者の娘が、被告人側の証人として立つ。傍聴席のメモを取る音が、いっせいに増えた。
「宣誓してください」
千尋は、宣誓書を読み上げた。声が震えた。
「良心に従って、真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います」
南雲が立った。
「証人。あなたと被害者、遠山克巳さんとの関係を述べてください」
「父です」
「あなたは、お父さんが亡くなるまで、三十四年前の事件について、何かご存じでしたか」
「何も知りませんでした」
「お父さんは、どんな方でしたか」
千尋は、少しのあいだ黙った。
「――わかりません」
傍聴席が、ざわついた。
「わからない、というのは」
「父のことを、私は知らなかったからです」
千尋は言った。
「私は、父を、無口で、家族に無関心で、他人の子どもばかり大事にする人だと思っていました。中学生のとき、面と向かってそう言ったこともあります。父は何も言い返しませんでした」
彼女は、法廷を見た。裁判員のうち、いちばん端の若い女性が、まっすぐに彼女を見ていた。
「父が亡くなったあと、書斎の引き出しから、ファイルが五冊出てきました。三十四年ぶんの新聞の切り抜きと、父のメモでした。平出真澄さんという名前を、私はそのとき初めて知りました」
「上申書を受け取った経緯を、述べてください」
千尋は、二月十四日の石段の下のことを話した。倉田咲穂という女性から手渡されたこと。それが平出真澄の妹であったこと。封は切られていなかったこと。
「読まれて、どう思われましたか」
「――地面が、なくなったような気持ちになりました」
千尋は言った。
「私が三十四年立っていた場所が、全部、嘘の上にあったんだと思いました」
南雲は、静かに続けた。
「証人。あなたは、その上申書を焼こうとしたそうですね」
「はい」
「なぜ、焼かなかったんですか」
千尋は、証言台の上で両手を組んだ。
「三つ、理由があります」
彼女は言った。
「一つ目は、平出咲穂さんです。あの人は、お姉さんがどう死んだのかを知らないまま、三十四年生きてきました。私の家の都合で、それを消す権利はありません」
「二つ目は」
「牧野常雄さんです」
千尋は、被告人席を見た。
牧野は、顔を上げなかった。
「あの人は、姪を死なせた男を三十四年守って、その男が死んだら、今度はその男の名誉まで守ろうとしました。もし私が上申書を焼いたら、あの人は少女殺しの犯人として一生を終えます。私は、それだけはさせたくなかった」
法廷が、しんとした。
「三つ目は」
千尋の声が、初めて震えた。
「父です」
彼女は、証言台の木の面を見ていた。
「父は、三十四年かけて、あの上申書を書きました。書けるようになるまでに、三十四年かかったんです。病気にならなければ、書けなかった。娘の私が、それを三分で燃やしたら」
彼女は、そこで言葉に詰まった。
「――あの人の人生は、何だったんですか」
傍聴席の、どこかで、鼻をすする音がした。
「以上です」
南雲が着席した。
5
検察官が立った。
「証人。確認します。被告人は、あなたのお父さんを殺した人物です」
「はい」
「あなたは、その被告人のために証言している。間違いありませんか」
「間違いです」
千尋は言った。
検察官の眉が、動いた。
「私は、牧野さんのために証言しているのではありません。父のために証言しています」
「しかし、あなたの証言は、被告人に有利に働きます」
「そうかもしれません」
「あなたは、被告人を許したのですか」
千尋は、答えなかった。
しばらくの沈黙のあと、彼女は言った。
「許すとか、許さないとか、そういう言葉が、この事件には合わないと思っています」
「合わない、とは」
「私の父は、十七歳の女の子を死なせて、三十四年黙っていました。牧野さんは、その父を三十四年守りました。私の母は、三十四年、知っていて訊きませんでした。平出咲穂さんは、姉を死なせた男のお金で高校に行きました」
千尋は、顔を上げた。
「この中に、まっすぐな人が一人もいないんです」
検察官は、次の質問を用意していなかったようだった。
「私も含めてです」千尋は続けた。「私は、上申書を焼こうとしました。庭で、ライターを持って立っていました。あと三十秒遅かったら、焼いていたと思います」
「……なぜ、焼かなかったのですか」
「風が強くて、火がつかなかったんです」
千尋は言った。
「それだけです。立派な理由じゃありません。火がつかないうちに、指がかじかんで、そうしたら、急に馬鹿らしくなって、家に入りました」
法廷の誰も、動かなかった。
「私が上申書を持ってきたのは、正義感からではありません。ただ、三十四年やってきたことを、私も同じようにやろうとしたのが、怖くなっただけです」
千尋は、まっすぐ前を見た。
「隠すのは、一度やると、癖になります。父を見ていて、そう思いました」
検察官は、しばらく千尋を見ていた。
それから、静かに言った。
「――以上です」
6
休廷になり、千尋は廊下に出た。
膝が笑っていた。壁に手をついて、しばらく呼吸を整えた。
「遠山さん」
振り返ると、悠が立っていた。傍聴席から出てきたのだろう。
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないです」
千尋は笑おうとして、失敗した。
「でも、言えました」
「はい。全部、あなたの気持ちは届きました」
二人は、しばらく黙って立っていた。
廊下の突き当たりの窓から、九月の光が入っていた。長野の空は、もう秋の色をしている。
そのとき、千尋は、廊下の反対側に立っている人影に気づいた。
倉田咲穂だった。
彼女は、傍聴席の抽選に毎日並んでいた。初日から一度も欠かさず、いちばん前の列に座っていた。
咲穂が、こちらへ歩いてきた。
千尋は、体をこわばらせた。
「遠山さん」
「――はい」
「証言、聞きました」
咲穂は、いつもと同じ、平坦な声で言った。
「ありがとうございました」
千尋は、何と答えていいかわからなかった。
「姉のことを、あんなに大きな声で言ってくれた人は、初めてです」
咲穂は言った。
「三十四年、姉は誰にも名前を呼ばれませんでした。事件の被害者A、女子高生、少女。姉には、平出真澄という名前があります」
千尋は、その顔を見た。
咲穂は、泣いていなかった。
「倉田さん」
千尋は言った。
「あなたは、明日も来ますか」
「来ます」
「最後まで」
「最後まで」
咲穂は言った。
そして、こう続けた。
「私は、この裁判が終わるのを、待っています」
千尋の背中を、冷たいものが走った。
なぜ、と訊く前に、咲穂は背を向けていた。
「倉田さん」
咲穂は、足を止めた。
「なぜ、あなたは牧野さんを助けようとしたんですか」
背中は、答えなかった。
「上申書を私に渡したのは、牧野さんが姉さんを殺したことになっていたからだと、あなたは言いました」
千尋は続けた。
「でも、いま、牧野さんはそれとは別の罪で裁かれています。父を殺した罪です。それは、あなたが渡しても渡さなくても、変わらなかった」
咲穂は、動かなかった。
「あなたは、何を待っているんですか」
長い沈黙のあとで、咲穂は言った。
「順番です」
彼女は、振り返らなかった。
「一人ずつしか、番は来ませんから」
彼女は歩いていった。
廊下の光の中に、その背中が消えるまで、千尋も悠も、動くことができなかった。
長野地方裁判所の第一〇一号法廷は、傍聴席が七十席ある。
九月七日、月曜日。抽選券を求めて、朝から三百人が並んだ。
遠山千尋は、傍聴席ではなく、法廷の柵の内側に座っていた。検察官席の隣に用意された、被害者参加人の席。そこからは、被告人席が斜め前に見える。
牧野常雄が入廷したのは、午前十時二分だった。
スーツを着ていた。南雲弁護士が用意したものだという。腰縄と手錠は、着席と同時に外された。
牧野は、一度だけ千尋のほうを見た。
目が合った。
彼は、頭を下げた。深く、長く。
千尋は、頭を下げ返せなかった。
「開廷します」
裁判長は、五十代の男性だった。左右に陪席裁判官、その両脇に裁判員が六人。会社員風の男性が三人、女性が三人。いちばん端の女性は、二十代に見えた。
「被告人は、前へ」
牧野は、証言台の前に立った。
「名前を言ってください」
「牧野常雄です」
「生年月日は」
「昭和三十四年、四月十二日です」
「職業は」
牧野は、少し間を置いた。
「無職です。以前は、金属プレスの工場をやっておりました」
起訴状が朗読された。
――被告人は、令和八年一月十八日午前零時五十分ごろ、長野県諏訪市(略)槻木神社境内の石段上において、殺意をもって、遠山克巳(当時六十四歳)の胸部を両手で突き、同人を石段下に転落させ、よって同日午前二時ごろから三時ごろまでの間、頭部外傷及び低体温症により同人を死亡させたものである。
「被告人。いま読まれた事実に、間違いはありませんか」
牧野は、まっすぐ前を向いていた。
「間違いありません」
「弁護人のご意見は」
南雲玲奈が立ち上がった。
「被告人が被害者を石段から転落させ、死亡させた事実は争いません。ただし、殺意の内容、および犯行に至る経緯については、検察官の主張と大きく異なります」
裁判長が頷いた。
「では、冒頭陳述に入ります」
2
検察官は、三十代後半の女性だった。
彼女は、簡潔だった。
「本件は、三十四年間隠されてきた事件の隠蔽者が、その隠蔽が崩れることを恐れ、そして永年の憎悪から、一人の男性を殺害した事件です」
検察官は、パネルを示した。石段の写真。五十段。
「被告人は、被害者が真実を公表しようとしていることを知り、深夜、被害者を人気のない神社に呼び出しました。そして、五十段の石段の上から、被害者を突き落としました。被害者は転落後、頭部を強打しながらも生存していました。被告人は、その隣に一時間以上座り続けました。救急車を呼ぶことは容易でした。しかし呼ばなかった」
検察官は、裁判員のほうを向いた。
「被告人は、被害者が死ぬのを見届けたのです」
傍聴席が、ざわめいた。
「弁護側は、被告人の三十四年間の苦悩を語るでしょう。被告人が被害少女の叔父であったことも述べるでしょう。しかしそれは、人を殺していい理由にはなりません」
検察官は着席した。
次に、南雲玲奈が立った。
彼女は、パネルを使わなかった。
「弁護人から、三つのことを申し上げます」
南雲は、裁判員を一人ずつ見た。
「第一に、この事件は、三十四年前の一月十八日に始まっています。その夜、十七歳の平出真澄さんが亡くなりました。彼女を死なせたのは、被告人ではありません。本件の被害者、遠山克巳さんです」
法廷が静まり返った。
「第二に、被告人は、その事実を三十四年間、隠しました。同時に、遠山さんが平出真澄さんの妹に送り続けた三十二年ぶんの送金を、自分の名義で仲介し続けました。総額は千百万円を超えます。被告人は、そのうち一円も自分のために使っていません」
南雲は、間を置いた。
「第三に――」
彼女は、被告人席を見た。
「被告人は、この法廷で、真実のすべてを述べていません」
裁判長が、わずかに眉を動かした。
「弁護人。それは、被告人が虚偽の自白をしているという趣旨ですか」
「いいえ」
南雲は言った。
「被告人が被害者を突き落とした事実は、争いません。弁護人が申し上げているのは、なぜ突き落としたのか、その理由について、被告人がまだ語っていないということです」
「弁護人としては、それを立証されるおつもりですか」
「いいえ」
南雲は、静かに言った。
「立証はできません。私は、被告人が自分で語ることを望んでいます」
3
午後、証人尋問が始まった。
最初の証人は、長野県警察本部捜査第一課の神津明だった。
彼は宣誓し、証言台に立った。検察官の主尋問は、淡々と進んだ。自首の状況、供述の経過、遺体の状況、湖から回収された携帯電話。
「証人。被告人の供述は、客観的証拠と一致していましたか」
「一致した部分と、一致しなかった部分があります」
検察官の表情が、わずかに変わった。
「一致した部分を挙げてください」
「携帯電話の遺棄場所です。被告人の供述どおりの地点から発見されました」
「それは、被告人が現場にいた強い裏づけになりますね」
「なります」
「以上です」
検察官は、素早く着席した。
南雲が立った。
「証人。一致しなかった部分を、教えてください」
「三点あります」
神津は、はっきりと答えた。
「第一に、被告人は当初、被害少女が工場の鉄骨階段から落ちたと供述しました。その階段は、事件の六年後に設置されたものです」
「第二は」
「被害者の右手から発見されたボタンです。被告人は、自分の作業ジャンパーのものだと供述し、そのジャンパーを携帯電話と同じ場所に捨てたと述べました。しかし、潜水捜索を三度行いましたが、発見されていません」
「第三は」
神津は、少しだけ間を置いた。
「遺体の右側の雪です」
法廷が、静まった。
「詳しく説明してください」
「遺体の右側方、およそ五十センチの範囲に、雪が押し固められた痕跡がありました。鑑識の所見では、人体が長時間接触したことによる融解と再凍結です。滞留時間は少なくとも一時間」
「被告人は、そこに座っていたと供述していますね」
「しています」
「では、なぜ一致しないとおっしゃるんですか」
神津は、証言台の縁を握った。
「圧痕の位置と形状から、そこに滞留した人物の体格を推定しました。座位での接地面の幅、および膝から足先までの長さから、身長は百六十センチ前後と推定されます」
傍聴席が、ざわめいた。
「被告人の身長は」
「百七十六センチです」
南雲は、被告人席のほうを見なかった。
「証人。その推定は、確実なものですか」
「確実ではありません」
神津は正直に言った。
「雪の圧痕からの体格推定は、精度が低い。厚着の状態や姿勢によって大きく変わります。証拠として使えるレベルではありません」
「では、なぜそれを述べたのですか」
神津は、しばらく黙っていた。
「――私は、警察官として、この事件を送検しました」
彼は言った。
「証拠のとおりに、被告人の自白のとおりに、送りました。それが仕事です」
神津は、裁判員のほうを向いた。
「ただ、私は、この事件の現場にもう一人いたと考えています。証明はできません。ですから、これは私の意見にすぎません。証拠ではありません」
「異議あり」
検察官が立った。
「証人の主観的な推測です」
「異議を認めます」
裁判長が言った。
「証人は、意見を述べないでください」
「失礼しました」
神津は頭を下げた。
だが、言葉はもう法廷の空気の中に放たれていた。
千尋は、被告人席の牧野を見た。
牧野は、うつむいていた。
4
証人尋問の二日目、九月八日。
遠山千尋が、証言台に立った。
法廷の全員が、彼女を見ていた。被害者の娘が、被告人側の証人として立つ。傍聴席のメモを取る音が、いっせいに増えた。
「宣誓してください」
千尋は、宣誓書を読み上げた。声が震えた。
「良心に従って、真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います」
南雲が立った。
「証人。あなたと被害者、遠山克巳さんとの関係を述べてください」
「父です」
「あなたは、お父さんが亡くなるまで、三十四年前の事件について、何かご存じでしたか」
「何も知りませんでした」
「お父さんは、どんな方でしたか」
千尋は、少しのあいだ黙った。
「――わかりません」
傍聴席が、ざわついた。
「わからない、というのは」
「父のことを、私は知らなかったからです」
千尋は言った。
「私は、父を、無口で、家族に無関心で、他人の子どもばかり大事にする人だと思っていました。中学生のとき、面と向かってそう言ったこともあります。父は何も言い返しませんでした」
彼女は、法廷を見た。裁判員のうち、いちばん端の若い女性が、まっすぐに彼女を見ていた。
「父が亡くなったあと、書斎の引き出しから、ファイルが五冊出てきました。三十四年ぶんの新聞の切り抜きと、父のメモでした。平出真澄さんという名前を、私はそのとき初めて知りました」
「上申書を受け取った経緯を、述べてください」
千尋は、二月十四日の石段の下のことを話した。倉田咲穂という女性から手渡されたこと。それが平出真澄の妹であったこと。封は切られていなかったこと。
「読まれて、どう思われましたか」
「――地面が、なくなったような気持ちになりました」
千尋は言った。
「私が三十四年立っていた場所が、全部、嘘の上にあったんだと思いました」
南雲は、静かに続けた。
「証人。あなたは、その上申書を焼こうとしたそうですね」
「はい」
「なぜ、焼かなかったんですか」
千尋は、証言台の上で両手を組んだ。
「三つ、理由があります」
彼女は言った。
「一つ目は、平出咲穂さんです。あの人は、お姉さんがどう死んだのかを知らないまま、三十四年生きてきました。私の家の都合で、それを消す権利はありません」
「二つ目は」
「牧野常雄さんです」
千尋は、被告人席を見た。
牧野は、顔を上げなかった。
「あの人は、姪を死なせた男を三十四年守って、その男が死んだら、今度はその男の名誉まで守ろうとしました。もし私が上申書を焼いたら、あの人は少女殺しの犯人として一生を終えます。私は、それだけはさせたくなかった」
法廷が、しんとした。
「三つ目は」
千尋の声が、初めて震えた。
「父です」
彼女は、証言台の木の面を見ていた。
「父は、三十四年かけて、あの上申書を書きました。書けるようになるまでに、三十四年かかったんです。病気にならなければ、書けなかった。娘の私が、それを三分で燃やしたら」
彼女は、そこで言葉に詰まった。
「――あの人の人生は、何だったんですか」
傍聴席の、どこかで、鼻をすする音がした。
「以上です」
南雲が着席した。
5
検察官が立った。
「証人。確認します。被告人は、あなたのお父さんを殺した人物です」
「はい」
「あなたは、その被告人のために証言している。間違いありませんか」
「間違いです」
千尋は言った。
検察官の眉が、動いた。
「私は、牧野さんのために証言しているのではありません。父のために証言しています」
「しかし、あなたの証言は、被告人に有利に働きます」
「そうかもしれません」
「あなたは、被告人を許したのですか」
千尋は、答えなかった。
しばらくの沈黙のあと、彼女は言った。
「許すとか、許さないとか、そういう言葉が、この事件には合わないと思っています」
「合わない、とは」
「私の父は、十七歳の女の子を死なせて、三十四年黙っていました。牧野さんは、その父を三十四年守りました。私の母は、三十四年、知っていて訊きませんでした。平出咲穂さんは、姉を死なせた男のお金で高校に行きました」
千尋は、顔を上げた。
「この中に、まっすぐな人が一人もいないんです」
検察官は、次の質問を用意していなかったようだった。
「私も含めてです」千尋は続けた。「私は、上申書を焼こうとしました。庭で、ライターを持って立っていました。あと三十秒遅かったら、焼いていたと思います」
「……なぜ、焼かなかったのですか」
「風が強くて、火がつかなかったんです」
千尋は言った。
「それだけです。立派な理由じゃありません。火がつかないうちに、指がかじかんで、そうしたら、急に馬鹿らしくなって、家に入りました」
法廷の誰も、動かなかった。
「私が上申書を持ってきたのは、正義感からではありません。ただ、三十四年やってきたことを、私も同じようにやろうとしたのが、怖くなっただけです」
千尋は、まっすぐ前を見た。
「隠すのは、一度やると、癖になります。父を見ていて、そう思いました」
検察官は、しばらく千尋を見ていた。
それから、静かに言った。
「――以上です」
6
休廷になり、千尋は廊下に出た。
膝が笑っていた。壁に手をついて、しばらく呼吸を整えた。
「遠山さん」
振り返ると、悠が立っていた。傍聴席から出てきたのだろう。
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないです」
千尋は笑おうとして、失敗した。
「でも、言えました」
「はい。全部、あなたの気持ちは届きました」
二人は、しばらく黙って立っていた。
廊下の突き当たりの窓から、九月の光が入っていた。長野の空は、もう秋の色をしている。
そのとき、千尋は、廊下の反対側に立っている人影に気づいた。
倉田咲穂だった。
彼女は、傍聴席の抽選に毎日並んでいた。初日から一度も欠かさず、いちばん前の列に座っていた。
咲穂が、こちらへ歩いてきた。
千尋は、体をこわばらせた。
「遠山さん」
「――はい」
「証言、聞きました」
咲穂は、いつもと同じ、平坦な声で言った。
「ありがとうございました」
千尋は、何と答えていいかわからなかった。
「姉のことを、あんなに大きな声で言ってくれた人は、初めてです」
咲穂は言った。
「三十四年、姉は誰にも名前を呼ばれませんでした。事件の被害者A、女子高生、少女。姉には、平出真澄という名前があります」
千尋は、その顔を見た。
咲穂は、泣いていなかった。
「倉田さん」
千尋は言った。
「あなたは、明日も来ますか」
「来ます」
「最後まで」
「最後まで」
咲穂は言った。
そして、こう続けた。
「私は、この裁判が終わるのを、待っています」
千尋の背中を、冷たいものが走った。
なぜ、と訊く前に、咲穂は背を向けていた。
「倉田さん」
咲穂は、足を止めた。
「なぜ、あなたは牧野さんを助けようとしたんですか」
背中は、答えなかった。
「上申書を私に渡したのは、牧野さんが姉さんを殺したことになっていたからだと、あなたは言いました」
千尋は続けた。
「でも、いま、牧野さんはそれとは別の罪で裁かれています。父を殺した罪です。それは、あなたが渡しても渡さなくても、変わらなかった」
咲穂は、動かなかった。
「あなたは、何を待っているんですか」
長い沈黙のあとで、咲穂は言った。
「順番です」
彼女は、振り返らなかった。
「一人ずつしか、番は来ませんから」
彼女は歩いていった。
廊下の光の中に、その背中が消えるまで、千尋も悠も、動くことができなかった。