御神渡り(おみわたり)
第十五章 二時間
1
九月十日、木曜日。第四回公判。
被告人質問の日だった。
牧野常雄は、証言台の椅子に座った。証人と違い、被告人は宣誓をしない。嘘をついても偽証罪にはならない。この国の法律は、被告人に黙る権利と、嘘をつく権利を認めている。
南雲玲奈が立った。
「被告人。三十四年前の一月十八日の夜のことから伺います」
「はい」
「あなたは、平出真澄さんが来るのを待ってましたね」
「待っていました」
「どこで」
「工場です。母屋には女房がいましたが、私は工場で仕事をしながら待っていました」
「何時ごろ来る予定でしたか」
「夜の八時です」
「来ませんでしたね」
「来ませんでした」
「あなたは、何をしていましたか」
牧野は、少し黙った。
「――待っていました」
「何時まで」
「一時ごろまでです」
法廷が、静まった。
「五時間、待っておられたんですか」
「はい」
「その間、何をしていましたか」
「機械を磨いていました」
牧野は言った。
「手を動かしていないと、変なことを考えるので」
南雲は、頷いた。
「そして、遠山克巳さんの車が来た」
「来ました」
「そのときのことを、話していただけますか」
牧野は、証言台の前の空間を見ていた。
「車の音がして、外に出ました。先生が降りてきて、私の顔を見て、何も言わないんです。ただ、助手席のドアを開けて、そこに立っていた」
牧野の声は、平坦だった。
「中に、真澄がいました」
彼は、そこで一度、口を閉じた。
「私は、あの子を抱えて、工場の床に寝かせました。オイルの染みた床でした。毛布を取ってきて、その上に寝かせ直しました。オイルの上に寝かせるのが、なんだか、嫌で」
裁判員の一人が、目を伏せた。
「脈を見ました。ありませんでした。瞼を上げました。私は昔、消防団におりましたので、そのくらいのことはわかります」
「それから」
「鉄の棒を取りました」
「なぜですか」
「殺すためです」
牧野は言った。
「遠山克巳を、殺すつもりでした」
「殺さなかったのは、なぜですか」
「あの人が、殺してくださいと言ったからです」
牧野は、初めて南雲のほうを見た。
「膝をついて、こっちを見て、殺してください、と。逃げも隠れもしなかった」
「それで、どうされましたか」
「腹が立ちました」
牧野は言った。
「こいつは、楽になろうとしている、と思いました。死ねば終わりです。刑務所に入っても、何年かで終わりです。私は、こいつに終わってほしくなかった」
「だから、生きろとおっしゃった」
「言いました」
「その言葉を、あなたは後悔していますか」
長い沈黙があった。
「――しています」
牧野は言った。
「あのとき警察を呼んでいれば、真澄はちゃんと弔われました。母親のところに帰れました。私はそれを、しなかった。私は、あの子を二度、土に埋めたんです」
南雲は、静かに訊いた。
「二度、というのは」
「一度目は、山にです」
牧野は言った。
「二度目は、三十四年です」
2
検察官の反対質問は、鋭かった。
「被告人。あなたはいま、三十四年間、被害者を憎んでいたと述べていますね」
「述べました」
「では伺います。なぜ、被害者に毎月三万円を渡す役目を、三十二年間も引き受けたのですか」
「真澄が、そう頼んだからです」
「被害者ではなく、亡くなった姪御さんに頼まれたと」
「あの子の最期の言葉です。咲穂を、おねがい、と」
「あなたは、その言葉を直接聞いていませんね」
「聞いていません」
「遠山さんから聞いた話ですね」
「はい」
「では、それが本当かどうか、あなたにはわからないはずだ」
牧野は、検察官を見た。
「わかります」
「なぜですか」
「真澄は、そういう子でしたから」
検察官は、次の質問に移った。
「被告人。あなたは、被害者を突き落としたあと、一時間そばにいたと供述しています。なぜ、その場を離れなかったのですか」
「死ぬのを見届けるためです」
「見届ける必要が、なぜありましたか」
「殺したかったからです」
「では、なぜ首を絞めなかったのですか」
法廷が、ざわめいた。
「異議あり」南雲が立った。「侮辱的です」
「異議を却下します」裁判長は言った。「検察官、質問の趣旨を明確に」
「はい」
検察官は、被告人席に一歩近づいた。
「被告人。あなたは、被害者が生きていることを知っていた。意識もあった。あなたは、確実に殺そうと思えばできたはずです。石で殴ることも、雪に顔を埋めることも、首を絞めることもできた。しかし、あなたは何もせず、ただ隣に座っていた」
検察官は、裁判員のほうを向いた。
「それは、殺意のある人間の行動でしょうか」
牧野は、答えなかった。
「被告人。答えてください」
「――手が動きませんでした」
牧野は言った。
「怖かったからですか」
「わかりません」
「以上です」
検察官は着席した。
千尋は、その一連のやりとりを、被害者参加人席から見ていた。
この検察官は、有罪を立証しに来ているのではない、と千尋は思った。
この人も、確かめようとしている。
3
午後二時十五分。
「被害者参加人から、被告人に対する質問があります」
裁判長が言った。
「遠山千尋さん。前へどうぞ」
千尋は立ち上がった。
膝が震えていた。手元のメモは、昨夜三時間かけて書いたものだ。だが、そこに書いてある最初の質問を、彼女は使わなかった。
牧野常雄が、証言台からこちらを見ていた。
「牧野さん」
千尋は言った。
「はい」
「私は、あなたに、恨み言を言うために立っていません」
牧野は、頷いた。
「教えてほしいことが、いくつかあります」
「はい」
「まず、ボタンのことです」
千尋は言った。
「父の右手に、あなたのジャンパーのボタンが握られていました。あなたは、押されるときに掴まれたと供述しています」
「はい」
「私は、建築の設計をしています。人が階段を上り下りするときの寸法や姿勢を、仕事で毎日考えています」
千尋は、法廷のスクリーンに映された現場写真を見た。
「石段の一段の高さは、十六センチ。踏み面は三十センチ。父の身長は百六十八センチ、あなたは百七十六センチです」
裁判員たちが、姿勢を正した。
「あなたが上の段に立って、下の段の父の胸を両手で押したとします。そのとき、父の手が届くのは、あなたの腕か、肩か、せいぜい胸の高さです」
千尋は、自分の胸のあたりに手を当てた。
「でも、ボタンは、あなたのジャンパーの前立ての、上から三つ目のものだと供述されています。前立ての三つ目は、みぞおちのあたりです」
法廷が、静まった。
「父が立った姿勢で、あなたのみぞおちのボタンを掴むのは、不自然です」
千尋は、牧野を見た。
「でも、あなたがしゃがんでいたなら、自然です」
牧野の顔から、表情が消えた。
「石段の下で、父は仰向けか、うつ伏せに倒れていた。あなたは、その隣にしゃがんだ。父は、下から手を伸ばして、あなたのみぞおちのあたりを掴んだ」
千尋は言った。
「牧野さん。父は、あなたを掴んだんじゃありません。あなたを、止めたんじゃないですか」
牧野は、動かなかった。
「あなたは、携帯電話を出したんじゃありませんか」
誰も、声を出さなかった。
「あなたが救急車を呼ぼうとした。それを、父が掴んで止めた。だから、ボタンが取れた」
千尋の声は、震えていなかった。
「違いますか」
牧野は、長いあいだ、証言台の木目を見ていた。
千尋は、待った。
法廷の空調の音だけが、聞こえていた。
「――違いません」
牧野は言った。
傍聴席が、ざわめいた。裁判長が、木槌を使わずに「お静かに」と言った。
「牧野さん」
千尋は言った。
「父は、なんと言いましたか」
牧野は、目を閉じた。
「呼ぶな、と」
千尋の呼吸が、止まった。
「私は、死ぬぞと言いました。あんた、脚が動いとらん、頭から血が出とる、このままだと凍え死ぬぞ、と」
牧野の声が、低くなった。
「先生は、笑いました」
「笑った」
「はい。笑って、こう言いました。――牧野さん、三十四年、あんたに生きろと言われて生きた。もう、いいだろう」
千尋は、証言台の縁を掴んだ。
「私は、それでも呼ぼうとしました。携帯を出しました。そうしたら、先生が手を伸ばして、私の胸を掴んだんです。ものすごい力でした。あんな力が、どこに残っていたのか」
牧野は、自分の胸のあたりを、無意識に押さえていた。
「ボタンが、飛びました」
法廷は、水を打ったようだった。
「私は、携帯をしまいました」
牧野は言った。
「そして、隣に座りました」
4
「牧野さん」
千尋は、声を絞り出した。
「そのあと、二時間、何を話しましたか」
「――ほとんど、何も」
「ほとんど、というのは」
牧野は、そこで初めて、顔を歪めた。
「先生が、寒い、と言いました」
千尋の目から、涙が落ちた。
真澄の最期の言葉と、同じ言葉だった。
「私は、自分のジャンパーを脱いで、掛けました」
牧野は言った。
「掛けてから、三十四年前に、真澄に自分のジャンパーを掛けたことを思い出しました。同じことをしている、と思いました」
彼は、そこで一度、息を継いだ。
「それで、私は、三十四年間、一度も訊けなかったことを訊きました」
「なんですか」
「あの子は、苦しんだか、と」
千尋は、口を手で覆った。
「先生は、少し黙って、それから言いました。――寒い、と言いました。それだけです、と」
牧野の肩が、震えはじめた。
「私は、あの子の最期の言葉を、そのとき初めて聞いたんです。三十四年経って、雪の中で」
傍聴席で、誰かが嗚咽を漏らした。
「それから、先生は、こう言いました」
牧野は、顔を上げた。目が濡れていた。
「――牧野さん。おれは、あんたに一度も、ありがとうと言っていない」
千尋は、その場に崩れそうになった。だが、立っていた。
「私は、言うなと言いました。あんたにありがとうと言われる筋合いはない、と」
牧野は言った。
「そうしたら、先生が言いました。――あんたが生きろと言ってくれなかったら、おれはあの晩に死んでいた。娘の顔も見ていない。あの子たちにも会っていない。おれの三十四年は、あんたがくれたものだ」
牧野は、拳で目を拭った。
「私は、それを聞いて」
彼は、そこで言葉に詰まった。
「――私は、三十四年、あの人を憎んでいたつもりでした。憎むことで、真澄に謝罪しているつもりでした」
牧野の声が、崩れた。
「でも、あの雪の中で、私は、あの人の手を握っていました」
法廷の誰も、動かなかった。
「握ってしまってから、気がついたんです。私は、この人を憎んでいなかった」
牧野は、両手で顔を覆った。
「三十四年、私は、この人と一緒に、あの晩から抜けられないでいただけでした」
5
休廷が宣言されるかと思われた。
だが、裁判長は宣言しなかった。彼は、千尋のほうを見て、小さく頷いた。続けてよい、という合図だった。
千尋は、深く息を吸った。
「牧野さん。最後に、二つだけ」
「はい」
「父は、何時に亡くなりましたか」
「二時を、少し過ぎたころだと思います」
「あなたは、それを確認しましたか」
「しました」
「それから、どうしましたか」
「先生の携帯を探しました」
牧野は言った。
「石段の途中に落ちていました。拾って、ポケットに入れました」
「なぜですか」
牧野の答えが、初めて遅れた。
「記録を、消したかったからです」
「何の記録ですか」
牧野は、答えなかった。
千尋は、一歩前に出た。
「牧野さん。父はその夜、二人に電話をかけています。九時四十六分にあなた、十時十一分に、もう一人に」
牧野の顔が、白くなった。
「あなたが消したかったのは、その二本目の記録ですね」
「――違います」
「牧野さん」
千尋の声は、静かだった。
「あなたが押したなら、あなたは携帯を持ち帰る必要がありません。一本目の記録には、あなたの番号が残っている。それを消せないなら、二本目を消しても意味がない」
傍聴席が、どよめいた。
「あなたが携帯を持ち去った理由は、一つしかありません。あなた以外の誰かの番号を、消したかったからです」
千尋は、牧野をまっすぐに見た。
「牧野さん。あの晩、石段の上には、三人いましたね」
牧野は、答えなかった。
彼は、顔を上げ、天井を見た。
それから、はっきりと言った。
「いません」
「牧野さん」
「私一人です」
「牧野さん――」
「私が押しました」
牧野は、大きな声を出した。
「私が押して、私が見殺しにしました。それでいいでしょう。それが事実です」
彼の声は、割れていた。
「これ以上、何を掘り返すんですか」
千尋は、その言葉に打たれた。
「もう、終わりにしてください」
牧野は言った。
「私は、六十七です。刑務所で死にます。それでいいんです。もう、誰も、これ以上」
「牧野さん」
千尋は言った。
「あなたが守ろうとしているその人は、今日、この法廷にいます」
法廷の空気が、凍った。
牧野の顔が、はっきりと恐怖に変わった。
「三日間、傍聴席のいちばん前に座っています」
千尋は、振り返らなかった。
「あなたは、三十四年前も、その人のお姉さんを守れませんでした」
牧野の口が、開いた。
「だから、今度こそ守ろうとしている。違いますか」
沈黙が、法廷を満たした。
そのとき。
傍聴席で、椅子の軋む音がした。
誰かが、立ち上がった。
法廷の全員が、その方向を見た。
いちばん前の列、右から三番目。
黒っぽいジャケットを着た、細い女が立っていた。髪を後ろで束ね、化粧気のない顔で、まっすぐに被告人席を見ていた。
牧野常雄が、証言台から半分立ち上がった。
「――咲穂ちゃん」
三十四年ぶりに、その名前が声に出された。
女は、傍聴席の柵に手をかけた。
そして、法廷全体に届く声で、こう言った。
「押したのは、私です」
裁判長が、木槌を握った。
「静粛に。傍聴人は着席してください」
「押したのは、私です」
咲穂は、もう一度言った。
「私が、遠山克巳さんを、あの石段から突き落としました」
法廷が、爆発した。
記者が立ち上がり、傍聴人がざわめき、廷吏が動いた。裁判長が木槌を三度打った。
その音の中で、牧野常雄が叫んだ。
「言うな!」
老人は、証言台から身を乗り出していた。刑務官が二人がかりで押さえた。
「咲穂ちゃん、言うな! おまえは何もしとらん! おれがやったんだ! おれが――」
「伯父さん」
咲穂の声が、その叫びを断ち切った。
法廷が、しんとした。
彼女は、まっすぐに老人を見ていた。
「三十四年、ありがとうございました」
咲穂は言った。
「もう、いいです」
牧野常雄は、その場に崩れ落ちた。
六十七歳の老人が、法廷の床に膝をつき、声を上げて泣いた。
千尋は、被害者参加人席の前に立ったまま、動けなかった。
九月の光が、法廷の高い窓から差し込んでいた。埃が、その光の中でゆっくりと回っていた。
三十四年、凍っていたものが、いま、音を立てて割れた。
九月十日、木曜日。第四回公判。
被告人質問の日だった。
牧野常雄は、証言台の椅子に座った。証人と違い、被告人は宣誓をしない。嘘をついても偽証罪にはならない。この国の法律は、被告人に黙る権利と、嘘をつく権利を認めている。
南雲玲奈が立った。
「被告人。三十四年前の一月十八日の夜のことから伺います」
「はい」
「あなたは、平出真澄さんが来るのを待ってましたね」
「待っていました」
「どこで」
「工場です。母屋には女房がいましたが、私は工場で仕事をしながら待っていました」
「何時ごろ来る予定でしたか」
「夜の八時です」
「来ませんでしたね」
「来ませんでした」
「あなたは、何をしていましたか」
牧野は、少し黙った。
「――待っていました」
「何時まで」
「一時ごろまでです」
法廷が、静まった。
「五時間、待っておられたんですか」
「はい」
「その間、何をしていましたか」
「機械を磨いていました」
牧野は言った。
「手を動かしていないと、変なことを考えるので」
南雲は、頷いた。
「そして、遠山克巳さんの車が来た」
「来ました」
「そのときのことを、話していただけますか」
牧野は、証言台の前の空間を見ていた。
「車の音がして、外に出ました。先生が降りてきて、私の顔を見て、何も言わないんです。ただ、助手席のドアを開けて、そこに立っていた」
牧野の声は、平坦だった。
「中に、真澄がいました」
彼は、そこで一度、口を閉じた。
「私は、あの子を抱えて、工場の床に寝かせました。オイルの染みた床でした。毛布を取ってきて、その上に寝かせ直しました。オイルの上に寝かせるのが、なんだか、嫌で」
裁判員の一人が、目を伏せた。
「脈を見ました。ありませんでした。瞼を上げました。私は昔、消防団におりましたので、そのくらいのことはわかります」
「それから」
「鉄の棒を取りました」
「なぜですか」
「殺すためです」
牧野は言った。
「遠山克巳を、殺すつもりでした」
「殺さなかったのは、なぜですか」
「あの人が、殺してくださいと言ったからです」
牧野は、初めて南雲のほうを見た。
「膝をついて、こっちを見て、殺してください、と。逃げも隠れもしなかった」
「それで、どうされましたか」
「腹が立ちました」
牧野は言った。
「こいつは、楽になろうとしている、と思いました。死ねば終わりです。刑務所に入っても、何年かで終わりです。私は、こいつに終わってほしくなかった」
「だから、生きろとおっしゃった」
「言いました」
「その言葉を、あなたは後悔していますか」
長い沈黙があった。
「――しています」
牧野は言った。
「あのとき警察を呼んでいれば、真澄はちゃんと弔われました。母親のところに帰れました。私はそれを、しなかった。私は、あの子を二度、土に埋めたんです」
南雲は、静かに訊いた。
「二度、というのは」
「一度目は、山にです」
牧野は言った。
「二度目は、三十四年です」
2
検察官の反対質問は、鋭かった。
「被告人。あなたはいま、三十四年間、被害者を憎んでいたと述べていますね」
「述べました」
「では伺います。なぜ、被害者に毎月三万円を渡す役目を、三十二年間も引き受けたのですか」
「真澄が、そう頼んだからです」
「被害者ではなく、亡くなった姪御さんに頼まれたと」
「あの子の最期の言葉です。咲穂を、おねがい、と」
「あなたは、その言葉を直接聞いていませんね」
「聞いていません」
「遠山さんから聞いた話ですね」
「はい」
「では、それが本当かどうか、あなたにはわからないはずだ」
牧野は、検察官を見た。
「わかります」
「なぜですか」
「真澄は、そういう子でしたから」
検察官は、次の質問に移った。
「被告人。あなたは、被害者を突き落としたあと、一時間そばにいたと供述しています。なぜ、その場を離れなかったのですか」
「死ぬのを見届けるためです」
「見届ける必要が、なぜありましたか」
「殺したかったからです」
「では、なぜ首を絞めなかったのですか」
法廷が、ざわめいた。
「異議あり」南雲が立った。「侮辱的です」
「異議を却下します」裁判長は言った。「検察官、質問の趣旨を明確に」
「はい」
検察官は、被告人席に一歩近づいた。
「被告人。あなたは、被害者が生きていることを知っていた。意識もあった。あなたは、確実に殺そうと思えばできたはずです。石で殴ることも、雪に顔を埋めることも、首を絞めることもできた。しかし、あなたは何もせず、ただ隣に座っていた」
検察官は、裁判員のほうを向いた。
「それは、殺意のある人間の行動でしょうか」
牧野は、答えなかった。
「被告人。答えてください」
「――手が動きませんでした」
牧野は言った。
「怖かったからですか」
「わかりません」
「以上です」
検察官は着席した。
千尋は、その一連のやりとりを、被害者参加人席から見ていた。
この検察官は、有罪を立証しに来ているのではない、と千尋は思った。
この人も、確かめようとしている。
3
午後二時十五分。
「被害者参加人から、被告人に対する質問があります」
裁判長が言った。
「遠山千尋さん。前へどうぞ」
千尋は立ち上がった。
膝が震えていた。手元のメモは、昨夜三時間かけて書いたものだ。だが、そこに書いてある最初の質問を、彼女は使わなかった。
牧野常雄が、証言台からこちらを見ていた。
「牧野さん」
千尋は言った。
「はい」
「私は、あなたに、恨み言を言うために立っていません」
牧野は、頷いた。
「教えてほしいことが、いくつかあります」
「はい」
「まず、ボタンのことです」
千尋は言った。
「父の右手に、あなたのジャンパーのボタンが握られていました。あなたは、押されるときに掴まれたと供述しています」
「はい」
「私は、建築の設計をしています。人が階段を上り下りするときの寸法や姿勢を、仕事で毎日考えています」
千尋は、法廷のスクリーンに映された現場写真を見た。
「石段の一段の高さは、十六センチ。踏み面は三十センチ。父の身長は百六十八センチ、あなたは百七十六センチです」
裁判員たちが、姿勢を正した。
「あなたが上の段に立って、下の段の父の胸を両手で押したとします。そのとき、父の手が届くのは、あなたの腕か、肩か、せいぜい胸の高さです」
千尋は、自分の胸のあたりに手を当てた。
「でも、ボタンは、あなたのジャンパーの前立ての、上から三つ目のものだと供述されています。前立ての三つ目は、みぞおちのあたりです」
法廷が、静まった。
「父が立った姿勢で、あなたのみぞおちのボタンを掴むのは、不自然です」
千尋は、牧野を見た。
「でも、あなたがしゃがんでいたなら、自然です」
牧野の顔から、表情が消えた。
「石段の下で、父は仰向けか、うつ伏せに倒れていた。あなたは、その隣にしゃがんだ。父は、下から手を伸ばして、あなたのみぞおちのあたりを掴んだ」
千尋は言った。
「牧野さん。父は、あなたを掴んだんじゃありません。あなたを、止めたんじゃないですか」
牧野は、動かなかった。
「あなたは、携帯電話を出したんじゃありませんか」
誰も、声を出さなかった。
「あなたが救急車を呼ぼうとした。それを、父が掴んで止めた。だから、ボタンが取れた」
千尋の声は、震えていなかった。
「違いますか」
牧野は、長いあいだ、証言台の木目を見ていた。
千尋は、待った。
法廷の空調の音だけが、聞こえていた。
「――違いません」
牧野は言った。
傍聴席が、ざわめいた。裁判長が、木槌を使わずに「お静かに」と言った。
「牧野さん」
千尋は言った。
「父は、なんと言いましたか」
牧野は、目を閉じた。
「呼ぶな、と」
千尋の呼吸が、止まった。
「私は、死ぬぞと言いました。あんた、脚が動いとらん、頭から血が出とる、このままだと凍え死ぬぞ、と」
牧野の声が、低くなった。
「先生は、笑いました」
「笑った」
「はい。笑って、こう言いました。――牧野さん、三十四年、あんたに生きろと言われて生きた。もう、いいだろう」
千尋は、証言台の縁を掴んだ。
「私は、それでも呼ぼうとしました。携帯を出しました。そうしたら、先生が手を伸ばして、私の胸を掴んだんです。ものすごい力でした。あんな力が、どこに残っていたのか」
牧野は、自分の胸のあたりを、無意識に押さえていた。
「ボタンが、飛びました」
法廷は、水を打ったようだった。
「私は、携帯をしまいました」
牧野は言った。
「そして、隣に座りました」
4
「牧野さん」
千尋は、声を絞り出した。
「そのあと、二時間、何を話しましたか」
「――ほとんど、何も」
「ほとんど、というのは」
牧野は、そこで初めて、顔を歪めた。
「先生が、寒い、と言いました」
千尋の目から、涙が落ちた。
真澄の最期の言葉と、同じ言葉だった。
「私は、自分のジャンパーを脱いで、掛けました」
牧野は言った。
「掛けてから、三十四年前に、真澄に自分のジャンパーを掛けたことを思い出しました。同じことをしている、と思いました」
彼は、そこで一度、息を継いだ。
「それで、私は、三十四年間、一度も訊けなかったことを訊きました」
「なんですか」
「あの子は、苦しんだか、と」
千尋は、口を手で覆った。
「先生は、少し黙って、それから言いました。――寒い、と言いました。それだけです、と」
牧野の肩が、震えはじめた。
「私は、あの子の最期の言葉を、そのとき初めて聞いたんです。三十四年経って、雪の中で」
傍聴席で、誰かが嗚咽を漏らした。
「それから、先生は、こう言いました」
牧野は、顔を上げた。目が濡れていた。
「――牧野さん。おれは、あんたに一度も、ありがとうと言っていない」
千尋は、その場に崩れそうになった。だが、立っていた。
「私は、言うなと言いました。あんたにありがとうと言われる筋合いはない、と」
牧野は言った。
「そうしたら、先生が言いました。――あんたが生きろと言ってくれなかったら、おれはあの晩に死んでいた。娘の顔も見ていない。あの子たちにも会っていない。おれの三十四年は、あんたがくれたものだ」
牧野は、拳で目を拭った。
「私は、それを聞いて」
彼は、そこで言葉に詰まった。
「――私は、三十四年、あの人を憎んでいたつもりでした。憎むことで、真澄に謝罪しているつもりでした」
牧野の声が、崩れた。
「でも、あの雪の中で、私は、あの人の手を握っていました」
法廷の誰も、動かなかった。
「握ってしまってから、気がついたんです。私は、この人を憎んでいなかった」
牧野は、両手で顔を覆った。
「三十四年、私は、この人と一緒に、あの晩から抜けられないでいただけでした」
5
休廷が宣言されるかと思われた。
だが、裁判長は宣言しなかった。彼は、千尋のほうを見て、小さく頷いた。続けてよい、という合図だった。
千尋は、深く息を吸った。
「牧野さん。最後に、二つだけ」
「はい」
「父は、何時に亡くなりましたか」
「二時を、少し過ぎたころだと思います」
「あなたは、それを確認しましたか」
「しました」
「それから、どうしましたか」
「先生の携帯を探しました」
牧野は言った。
「石段の途中に落ちていました。拾って、ポケットに入れました」
「なぜですか」
牧野の答えが、初めて遅れた。
「記録を、消したかったからです」
「何の記録ですか」
牧野は、答えなかった。
千尋は、一歩前に出た。
「牧野さん。父はその夜、二人に電話をかけています。九時四十六分にあなた、十時十一分に、もう一人に」
牧野の顔が、白くなった。
「あなたが消したかったのは、その二本目の記録ですね」
「――違います」
「牧野さん」
千尋の声は、静かだった。
「あなたが押したなら、あなたは携帯を持ち帰る必要がありません。一本目の記録には、あなたの番号が残っている。それを消せないなら、二本目を消しても意味がない」
傍聴席が、どよめいた。
「あなたが携帯を持ち去った理由は、一つしかありません。あなた以外の誰かの番号を、消したかったからです」
千尋は、牧野をまっすぐに見た。
「牧野さん。あの晩、石段の上には、三人いましたね」
牧野は、答えなかった。
彼は、顔を上げ、天井を見た。
それから、はっきりと言った。
「いません」
「牧野さん」
「私一人です」
「牧野さん――」
「私が押しました」
牧野は、大きな声を出した。
「私が押して、私が見殺しにしました。それでいいでしょう。それが事実です」
彼の声は、割れていた。
「これ以上、何を掘り返すんですか」
千尋は、その言葉に打たれた。
「もう、終わりにしてください」
牧野は言った。
「私は、六十七です。刑務所で死にます。それでいいんです。もう、誰も、これ以上」
「牧野さん」
千尋は言った。
「あなたが守ろうとしているその人は、今日、この法廷にいます」
法廷の空気が、凍った。
牧野の顔が、はっきりと恐怖に変わった。
「三日間、傍聴席のいちばん前に座っています」
千尋は、振り返らなかった。
「あなたは、三十四年前も、その人のお姉さんを守れませんでした」
牧野の口が、開いた。
「だから、今度こそ守ろうとしている。違いますか」
沈黙が、法廷を満たした。
そのとき。
傍聴席で、椅子の軋む音がした。
誰かが、立ち上がった。
法廷の全員が、その方向を見た。
いちばん前の列、右から三番目。
黒っぽいジャケットを着た、細い女が立っていた。髪を後ろで束ね、化粧気のない顔で、まっすぐに被告人席を見ていた。
牧野常雄が、証言台から半分立ち上がった。
「――咲穂ちゃん」
三十四年ぶりに、その名前が声に出された。
女は、傍聴席の柵に手をかけた。
そして、法廷全体に届く声で、こう言った。
「押したのは、私です」
裁判長が、木槌を握った。
「静粛に。傍聴人は着席してください」
「押したのは、私です」
咲穂は、もう一度言った。
「私が、遠山克巳さんを、あの石段から突き落としました」
法廷が、爆発した。
記者が立ち上がり、傍聴人がざわめき、廷吏が動いた。裁判長が木槌を三度打った。
その音の中で、牧野常雄が叫んだ。
「言うな!」
老人は、証言台から身を乗り出していた。刑務官が二人がかりで押さえた。
「咲穂ちゃん、言うな! おまえは何もしとらん! おれがやったんだ! おれが――」
「伯父さん」
咲穂の声が、その叫びを断ち切った。
法廷が、しんとした。
彼女は、まっすぐに老人を見ていた。
「三十四年、ありがとうございました」
咲穂は言った。
「もう、いいです」
牧野常雄は、その場に崩れ落ちた。
六十七歳の老人が、法廷の床に膝をつき、声を上げて泣いた。
千尋は、被害者参加人席の前に立ったまま、動けなかった。
九月の光が、法廷の高い窓から差し込んでいた。埃が、その光の中でゆっくりと回っていた。
三十四年、凍っていたものが、いま、音を立てて割れた。