御神渡り(おみわたり)
第十六章 順番
1
その日の公判は、そこで打ち切られた。
倉田咲穂は、法廷から出たところで、長野県警の捜査員に任意同行を求められた。彼女は抵抗しなかった。手を差し出す仕草さえした。手錠は、その場では使われなかった。
廊下の窓の下で、彼女は一度だけ立ち止まった。
千尋が、そこにいた。
二人は、向かい合った。
「遠山さん」
「はい」
「ごめんなさい」
咲穂は、そう言った。
千尋は、何も言えなかった。
「お父さんを、殺しました」
「――倉田さん」
「本当に、ごめんなさい」
咲穂は、深く頭を下げた。
そして、顔を上げたとき、彼女は初めて泣いていた。
三年間、あおば教室で子どもたちにお茶を淹れていた女が、四十二年ぶんの涙を流していた。
「連れていってください」
咲穂は、捜査員に言った。
「もう、いいです」
2
取調べは、翌日から始まった。
神津明は、その部屋に入る前に、廊下で一分ほど立ち止まった。
二か月前から、彼はこの女に辿り着けずにいた。携帯電話は自宅に置かれたまま動いていなかった。防犯カメラのない道を選んで歩いていた。彼女は、事前に何も準備していなかったのに、事後の隠し方だけが完璧だった。
いや、と神津は思った。
隠し方が完璧だったのではない。
隠す人間が、もう一人いたのだ。
彼は、ドアを開けた。
倉田咲穂は、パイプ椅子に座っていた。両手を膝に置き、背筋を伸ばしていた。
牧野常雄と、同じ座り方だった。
「話していただけますか」
神津は言った。
「はい」
咲穂は、静かに話しはじめた。
3
一月十七日の夜、二十二時十一分。
遠山克巳から電話があった。
『倉田さん。今夜、会えませんか』
「今夜、ですか」
『槻木神社に来てください。十二時半に。石段の上です』
「先生、そんな時間に」
『お願いします』
それだけだった。十九秒。
咲穂は、行かないつもりだった。だが、十一時を過ぎたころ、部屋の中を歩き回っている自分に気づいた。
彼女は、携帯電話をテーブルに置いたまま、家を出た。
なぜ携帯を置いていったのか、あとから何度も訊かれた。彼女はそのたびに、わからないと答えた。ただ、あの晩、あれを持っていく気になれなかった。誰にも呼び戻されたくなかった、としか言いようがない。
雪が降っていた。歩いて四十分の道を、彼女は歩いた。
石段を上りきったところに、二人の男が立っていた。
遠山克巳と、牧野常雄。
咲穂は、伯父の顔を三十四年ぶりに見た。
「咲穂ちゃんか」
伯父は、そう言った。
「大きくなったなあ」
咲穂は、返事ができなかった。
「倉田さん」
遠山克巳が言った。
「今日は、平出咲穂さん、と呼ばせてください」
咲穂は、その瞬間に、すべてを悟った。
「明後日――いえ、もう明日ですね。私は、諏訪警察署に行きます」
克巳は言った。
「その前に、あなたに話しておかなければならないことがあります。警察に話すより先に、あなたに言うのが、順番だと思いました」
彼は、雪の中に立っていた。コートも着ていない、ジャケットだけの姿だった。ひどく痩せていた。
「平成四年一月十八日の夜、あなたのお姉さんを死なせたのは、私です」
咲穂は、動かなかった。
克巳は、そこから十分ほどかけて、すべてを話した。酒を飲んで運転したこと。カーブで滑ったこと。真澄がシートベルトをしていなかったこと。牧野の工場に運んだこと。山に埋めたこと。車を潰したこと。三十四年、黙っていたこと。
咲穂は、一度も口を挟まなかった。
話し終えると、克巳は頭を下げた。雪の上に、そのまま膝をついた。
「申し訳ありませんでした」
牧野が、克巳の腕を掴んで立たせようとした。克巳は動かなかった。
咲穂は、そのとき、自分でも驚くほど落ち着いていた。
彼女は、こう訊いた。
「姉は、何か言いましたか」
克巳は、顔を上げた。
「最期に、何か言いましたか」
克巳の顔が、歪んだ。
「――言いました」
「教えてください」
「……せんせい、さむい、と」
咲穂は、頷いた。
「それから」
克巳は、雪の上で震えていた。
「さきほを、おねがい、と」
4
「そこから先のことは」
咲穂は、取調室で言った。
「あまり、覚えていません」
神津は、待った。
「気がついたら、両手が前に出ていました」
彼女は、自分の両手を見た。
「押した感触は、覚えています。厚いジャケットの下に、骨がありました。硬い骨でした。人の胸って、あんなに硬いんですね」
神津は、何も言わなかった。
「先生が、後ろに倒れました。石段が始まるところに、ちょうど踵がかかっていて。そのまま、落ちていきました」
咲穂は、言葉を止めた。
「音がしました。何回も」
部屋が、静かだった。
「あなたは、殺すつもりでしたか」
神津は訊いた。
咲穂は、しばらく考えた。
「わかりません」
彼女は言った。
「殺そうと思ってあそこに行ったわけではありません。でも、押したときに、私が何を考えていたかは、わかりません。何も考えていなかったとも言えるし、三十四年ぶん考えていたとも言えます」
「そのあとは」
「立っていました。石段の上に」
咲穂は言った。
「伯父さんが、私の腕を掴んで、こう言いました。――走れ」
神津は、ペンを止めた。
「走れ、と」
「はい」
「あなたは」
「走りました」
咲穂は言った。
「四十分の道を、走って帰りました。途中で二回転びました。膝が血だらけになりました。家に着いて、玄関で靴を脱いで、それで」
彼女は、そこで一度、深く息を吸った。
「そこから三週間、私は、待っていました」
「何を」
「警察が来るのを」
咲穂は、まっすぐ神津を見た。
「来ませんでした。代わりに、テレビで、伯父さんが自首したと言っていました」
彼女の声が、初めて震えた。
「私は、そのニュースを見て、床に座り込みました」
「なぜ、すぐに名乗り出なかったんですか」
「怖かったからです」
咲穂は言った。
「それだけです。ほかに理由はありません」
神津は、手帳を閉じた。
「では、なぜ上申書を遠山千尋さんに渡したんですか。あれを渡さなければ、事件は牧野さんの自白どおりに終わっていました」
咲穂は、長いあいだ黙っていた。
「伯父さんが、姉を殺したことになっていたからです」
「それだけですか」
「それだけです」
咲穂は言った。
神津は、その顔を見た。
この人は、たぶん嘘をついている、と神津は思った。だが、その嘘は、彼女自身に対する嘘だ。
「倉田さん」
「はい」
「あなたは、あの上申書を渡したとき、いずれ自分のところに来ると思っていましたね」
咲穂の目が、揺れた。
「あなたは、警察に捕まりたかったんじゃありませんか」
長い沈黙があった。
やがて、彼女は言った。
「――伯父さんの代わりに、私が入るべきでした」
5
九月十四日、長野地方検察庁は、牧野常雄に対する殺人被告事件の公訴を取り消した。
裁判所は公訴棄却の決定を出し、牧野は同日、勾留を解かれた。
拘置支所の門から出てきたのは、午後四時過ぎだった。
報道陣が二十人ほどいた。フラッシュが焚かれた。牧野は目を細め、少し背を丸めて歩いた。
その前に、白い軽自動車が停まった。
運転席から、牧野悠が降りてきた。
父子は、しばらく無言で向かい合った。
「乗ってください」
悠が言った。
「悠」
「あとにしましょう。ここ、うるさいので」
牧野常雄は、頷いて、助手席に乗った。
車が走り出すと、記者の一人が窓を叩いたが、悠は構わず出た。
二人は、しばらく喋らなかった。
諏訪バイパスに入ったところで、悠が口を開いた。
「灯里、高校に受かりました」
「そうか」
「後期で。第二志望ですけど」
「そうか」
牧野は、窓の外を見ていた。
「制服、この春に作りました。ちょっと大きめのを買ったんですけど、あの子、まだ伸びるみたいで、もう袖が短いです」
「そうか」
牧野は、何度も同じ言葉を繰り返した。
悠は、それ以上何も言わなかった。
湖が見えてきた。九月の諏訪湖は、水を張った鏡のように空を映していた。ヨットが二艘、遠くに浮かんでいた。
「悠」
「はい」
「おれは、七か月、家を空けた」
「はい」
「家は、どうなっとる」
「掃除しました」
悠は言った。
「先月、璃子と灯里と三人で行って、二日かけて。仏壇の花も換えました」
牧野は、前を向いたまま動かなかった。
「灯里が、写真を見て、この人誰って訊きました」
悠は続けた。
「真澄さんです、って答えました。お父さんのお母さんの、お姉さんの、娘さんだって。灯里は、じゃあ、わたしの、なに? って訊きました」
「なんと答えた」
「わからん、と答えました」
悠は、少し笑った。
「あとで調べたら、従叔母とかいうらしいです」
牧野は、しばらく黙っていた。
やがて、彼は言った。
「悠」
「はい」
「線香を、上げに行きたい」
「どこにですか」
「玉川だ」
悠は、ハンドルを握り直した。
「行きましょう」
「今からか」
「今からです」
6
その週の土曜日、牧野常雄は、遠山家を訪ねた。
千尋が玄関に出た。母は、退院して家にいた。
三人は、仏間に座った。
牧野は、遺影の前で長いあいだ手を合わせた。線香の煙が、まっすぐに立ち昇った。
手を下ろすと、彼は畳の上に額をつけた。
「申し訳ありませんでした」
千尋は、母を見た。母は、目を閉じていた。
「牧野さん、頭を上げてください」
「上げられません」
「上げてください」
牧野は、ゆっくりと体を起こした。
六十七歳の男は、七か月前より十歳老けて見えた。
「牧野さん」
千尋は言った。
「一つ、教えてください」
「はい」
「父は、最期に、何か言いましたか」
牧野の顔が、こわばった。
「法廷では、言えなかったことがあると思います。あそこは、大勢の人が聞いている場所でしたから」
千尋は言った。
「私に、伝言はありませんでしたか」
牧野は、しばらく畳を見つめていた。
「――ありました」
「聞かせてください」
「いいえ」
牧野は言った。
「伝言はありませんでした」
千尋は、その矛盾に戸惑った。
「どういう意味ですか」
「先生は、こう言ったんです」
牧野は、顔を上げた。
「――牧野さん。娘に、伝えてくれんか、と」
千尋の心臓が、鳴った。
「私は、なんだ、と訊きました。そうしたら、先生は、少し黙って、こう言いました」
牧野の目が、赤くなっていた。
「――いや、いい。おれが言わんかったことを、人に頼むのは、卑怯だ」
千尋は、息を吞んだ。
「それきりです。伝言は、ありませんでした」
千尋は、両手で顔を覆った。
母が、隣で肩を震わせていた。
「ただ」
牧野は言った。
「そのあと、一時間ほどして、先生は」
千尋は、顔を上げた。
「もう、ほとんど声が出ていませんでした。私は、耳を近づけました」
牧野は、自分の耳のあたりに手を当てた。
「――ちひろ、と」
千尋の視界が、白くなった。
「それだけです。名前だけです」
牧野は言った。
「その二分後に、息が止まりました」
千尋は、声を上げて泣いた。
三十四年、この人は一度も、そんなふうに私の名前を呼んだことがなかった。
小学校の運動会でも、大学の卒業式でも、東京へ発つ日の玄関でも。
最後の最後に、雪の中で、他人に聞かれるために呼んだ。
千尋は、泣きながら、それを許すことに決めた。
7
十月、県警本部の神津明は、有給休暇を取って、茅野の特別養護老人ホームを訪ねた。
綿貫良一は、面会室ではなく、日当たりのいい談話室にいた。
「綿貫さん」
声をかけると、老人はゆっくりと振り返った。
目に、光がなかった。
「どちらさん」
「県警の神津です。以前、一度お会いしました」
「そうかね」
綿貫は、窓のほうへ顔を戻した。
神津は、隣の椅子に腰かけた。
「綿貫さん。玉川の事件、覚えていますか」
老人は、答えなかった。
窓の外で、風が銀杏の木を揺らしていた。葉が、黄色くなりかけていた。
「平出真澄さん、という子の事件です」
綿貫は、じっと窓を見ていた。
神津は、続けた。
「犯人が、わかりました」
沈黙。
「三十四年前、その子は、車の事故で亡くなっていました。運転していたのは、担任の高校教師です。酒を飲んで運転していました。事故のあと、通報しなかった」
神津は、言葉を選ばずに話した。
「浅倉隆之さんは、無実でした」
老人の目が、わずかに動いた。
「綿貫さん。あなたは、間違っていませんでした」
神津は言った。
「あなたが受けた電話は、本物でした。あの電話をかけたのは、遠山克巳という男です。彼が上申書に書き残しています。あの夜、公衆電話から、浅倉じゃない、とだけ言って切った、と」
綿貫は、動かなかった。
神津は、しばらく待った。
何の反応もなかった。
彼は立ち上がり、頭を下げた。
「失礼しました」
談話室を出ようとしたとき、背後で声がした。
「刑事さん」
振り返った。
綿貫良一が、こちらを見ていた。
目に、光が戻っていた。
「泣いとったろう、あの声」
神津は、その場に立ち尽くした。
「泣いとった」
彼は、そう答えた。
綿貫は、頷いた。
そして、ゆっくりと窓のほうへ顔を戻した。
「そうか」
老人は言った。
「そうか」
それが、神津が綿貫良一と交わした最後の会話になった。
その日の公判は、そこで打ち切られた。
倉田咲穂は、法廷から出たところで、長野県警の捜査員に任意同行を求められた。彼女は抵抗しなかった。手を差し出す仕草さえした。手錠は、その場では使われなかった。
廊下の窓の下で、彼女は一度だけ立ち止まった。
千尋が、そこにいた。
二人は、向かい合った。
「遠山さん」
「はい」
「ごめんなさい」
咲穂は、そう言った。
千尋は、何も言えなかった。
「お父さんを、殺しました」
「――倉田さん」
「本当に、ごめんなさい」
咲穂は、深く頭を下げた。
そして、顔を上げたとき、彼女は初めて泣いていた。
三年間、あおば教室で子どもたちにお茶を淹れていた女が、四十二年ぶんの涙を流していた。
「連れていってください」
咲穂は、捜査員に言った。
「もう、いいです」
2
取調べは、翌日から始まった。
神津明は、その部屋に入る前に、廊下で一分ほど立ち止まった。
二か月前から、彼はこの女に辿り着けずにいた。携帯電話は自宅に置かれたまま動いていなかった。防犯カメラのない道を選んで歩いていた。彼女は、事前に何も準備していなかったのに、事後の隠し方だけが完璧だった。
いや、と神津は思った。
隠し方が完璧だったのではない。
隠す人間が、もう一人いたのだ。
彼は、ドアを開けた。
倉田咲穂は、パイプ椅子に座っていた。両手を膝に置き、背筋を伸ばしていた。
牧野常雄と、同じ座り方だった。
「話していただけますか」
神津は言った。
「はい」
咲穂は、静かに話しはじめた。
3
一月十七日の夜、二十二時十一分。
遠山克巳から電話があった。
『倉田さん。今夜、会えませんか』
「今夜、ですか」
『槻木神社に来てください。十二時半に。石段の上です』
「先生、そんな時間に」
『お願いします』
それだけだった。十九秒。
咲穂は、行かないつもりだった。だが、十一時を過ぎたころ、部屋の中を歩き回っている自分に気づいた。
彼女は、携帯電話をテーブルに置いたまま、家を出た。
なぜ携帯を置いていったのか、あとから何度も訊かれた。彼女はそのたびに、わからないと答えた。ただ、あの晩、あれを持っていく気になれなかった。誰にも呼び戻されたくなかった、としか言いようがない。
雪が降っていた。歩いて四十分の道を、彼女は歩いた。
石段を上りきったところに、二人の男が立っていた。
遠山克巳と、牧野常雄。
咲穂は、伯父の顔を三十四年ぶりに見た。
「咲穂ちゃんか」
伯父は、そう言った。
「大きくなったなあ」
咲穂は、返事ができなかった。
「倉田さん」
遠山克巳が言った。
「今日は、平出咲穂さん、と呼ばせてください」
咲穂は、その瞬間に、すべてを悟った。
「明後日――いえ、もう明日ですね。私は、諏訪警察署に行きます」
克巳は言った。
「その前に、あなたに話しておかなければならないことがあります。警察に話すより先に、あなたに言うのが、順番だと思いました」
彼は、雪の中に立っていた。コートも着ていない、ジャケットだけの姿だった。ひどく痩せていた。
「平成四年一月十八日の夜、あなたのお姉さんを死なせたのは、私です」
咲穂は、動かなかった。
克巳は、そこから十分ほどかけて、すべてを話した。酒を飲んで運転したこと。カーブで滑ったこと。真澄がシートベルトをしていなかったこと。牧野の工場に運んだこと。山に埋めたこと。車を潰したこと。三十四年、黙っていたこと。
咲穂は、一度も口を挟まなかった。
話し終えると、克巳は頭を下げた。雪の上に、そのまま膝をついた。
「申し訳ありませんでした」
牧野が、克巳の腕を掴んで立たせようとした。克巳は動かなかった。
咲穂は、そのとき、自分でも驚くほど落ち着いていた。
彼女は、こう訊いた。
「姉は、何か言いましたか」
克巳は、顔を上げた。
「最期に、何か言いましたか」
克巳の顔が、歪んだ。
「――言いました」
「教えてください」
「……せんせい、さむい、と」
咲穂は、頷いた。
「それから」
克巳は、雪の上で震えていた。
「さきほを、おねがい、と」
4
「そこから先のことは」
咲穂は、取調室で言った。
「あまり、覚えていません」
神津は、待った。
「気がついたら、両手が前に出ていました」
彼女は、自分の両手を見た。
「押した感触は、覚えています。厚いジャケットの下に、骨がありました。硬い骨でした。人の胸って、あんなに硬いんですね」
神津は、何も言わなかった。
「先生が、後ろに倒れました。石段が始まるところに、ちょうど踵がかかっていて。そのまま、落ちていきました」
咲穂は、言葉を止めた。
「音がしました。何回も」
部屋が、静かだった。
「あなたは、殺すつもりでしたか」
神津は訊いた。
咲穂は、しばらく考えた。
「わかりません」
彼女は言った。
「殺そうと思ってあそこに行ったわけではありません。でも、押したときに、私が何を考えていたかは、わかりません。何も考えていなかったとも言えるし、三十四年ぶん考えていたとも言えます」
「そのあとは」
「立っていました。石段の上に」
咲穂は言った。
「伯父さんが、私の腕を掴んで、こう言いました。――走れ」
神津は、ペンを止めた。
「走れ、と」
「はい」
「あなたは」
「走りました」
咲穂は言った。
「四十分の道を、走って帰りました。途中で二回転びました。膝が血だらけになりました。家に着いて、玄関で靴を脱いで、それで」
彼女は、そこで一度、深く息を吸った。
「そこから三週間、私は、待っていました」
「何を」
「警察が来るのを」
咲穂は、まっすぐ神津を見た。
「来ませんでした。代わりに、テレビで、伯父さんが自首したと言っていました」
彼女の声が、初めて震えた。
「私は、そのニュースを見て、床に座り込みました」
「なぜ、すぐに名乗り出なかったんですか」
「怖かったからです」
咲穂は言った。
「それだけです。ほかに理由はありません」
神津は、手帳を閉じた。
「では、なぜ上申書を遠山千尋さんに渡したんですか。あれを渡さなければ、事件は牧野さんの自白どおりに終わっていました」
咲穂は、長いあいだ黙っていた。
「伯父さんが、姉を殺したことになっていたからです」
「それだけですか」
「それだけです」
咲穂は言った。
神津は、その顔を見た。
この人は、たぶん嘘をついている、と神津は思った。だが、その嘘は、彼女自身に対する嘘だ。
「倉田さん」
「はい」
「あなたは、あの上申書を渡したとき、いずれ自分のところに来ると思っていましたね」
咲穂の目が、揺れた。
「あなたは、警察に捕まりたかったんじゃありませんか」
長い沈黙があった。
やがて、彼女は言った。
「――伯父さんの代わりに、私が入るべきでした」
5
九月十四日、長野地方検察庁は、牧野常雄に対する殺人被告事件の公訴を取り消した。
裁判所は公訴棄却の決定を出し、牧野は同日、勾留を解かれた。
拘置支所の門から出てきたのは、午後四時過ぎだった。
報道陣が二十人ほどいた。フラッシュが焚かれた。牧野は目を細め、少し背を丸めて歩いた。
その前に、白い軽自動車が停まった。
運転席から、牧野悠が降りてきた。
父子は、しばらく無言で向かい合った。
「乗ってください」
悠が言った。
「悠」
「あとにしましょう。ここ、うるさいので」
牧野常雄は、頷いて、助手席に乗った。
車が走り出すと、記者の一人が窓を叩いたが、悠は構わず出た。
二人は、しばらく喋らなかった。
諏訪バイパスに入ったところで、悠が口を開いた。
「灯里、高校に受かりました」
「そうか」
「後期で。第二志望ですけど」
「そうか」
牧野は、窓の外を見ていた。
「制服、この春に作りました。ちょっと大きめのを買ったんですけど、あの子、まだ伸びるみたいで、もう袖が短いです」
「そうか」
牧野は、何度も同じ言葉を繰り返した。
悠は、それ以上何も言わなかった。
湖が見えてきた。九月の諏訪湖は、水を張った鏡のように空を映していた。ヨットが二艘、遠くに浮かんでいた。
「悠」
「はい」
「おれは、七か月、家を空けた」
「はい」
「家は、どうなっとる」
「掃除しました」
悠は言った。
「先月、璃子と灯里と三人で行って、二日かけて。仏壇の花も換えました」
牧野は、前を向いたまま動かなかった。
「灯里が、写真を見て、この人誰って訊きました」
悠は続けた。
「真澄さんです、って答えました。お父さんのお母さんの、お姉さんの、娘さんだって。灯里は、じゃあ、わたしの、なに? って訊きました」
「なんと答えた」
「わからん、と答えました」
悠は、少し笑った。
「あとで調べたら、従叔母とかいうらしいです」
牧野は、しばらく黙っていた。
やがて、彼は言った。
「悠」
「はい」
「線香を、上げに行きたい」
「どこにですか」
「玉川だ」
悠は、ハンドルを握り直した。
「行きましょう」
「今からか」
「今からです」
6
その週の土曜日、牧野常雄は、遠山家を訪ねた。
千尋が玄関に出た。母は、退院して家にいた。
三人は、仏間に座った。
牧野は、遺影の前で長いあいだ手を合わせた。線香の煙が、まっすぐに立ち昇った。
手を下ろすと、彼は畳の上に額をつけた。
「申し訳ありませんでした」
千尋は、母を見た。母は、目を閉じていた。
「牧野さん、頭を上げてください」
「上げられません」
「上げてください」
牧野は、ゆっくりと体を起こした。
六十七歳の男は、七か月前より十歳老けて見えた。
「牧野さん」
千尋は言った。
「一つ、教えてください」
「はい」
「父は、最期に、何か言いましたか」
牧野の顔が、こわばった。
「法廷では、言えなかったことがあると思います。あそこは、大勢の人が聞いている場所でしたから」
千尋は言った。
「私に、伝言はありませんでしたか」
牧野は、しばらく畳を見つめていた。
「――ありました」
「聞かせてください」
「いいえ」
牧野は言った。
「伝言はありませんでした」
千尋は、その矛盾に戸惑った。
「どういう意味ですか」
「先生は、こう言ったんです」
牧野は、顔を上げた。
「――牧野さん。娘に、伝えてくれんか、と」
千尋の心臓が、鳴った。
「私は、なんだ、と訊きました。そうしたら、先生は、少し黙って、こう言いました」
牧野の目が、赤くなっていた。
「――いや、いい。おれが言わんかったことを、人に頼むのは、卑怯だ」
千尋は、息を吞んだ。
「それきりです。伝言は、ありませんでした」
千尋は、両手で顔を覆った。
母が、隣で肩を震わせていた。
「ただ」
牧野は言った。
「そのあと、一時間ほどして、先生は」
千尋は、顔を上げた。
「もう、ほとんど声が出ていませんでした。私は、耳を近づけました」
牧野は、自分の耳のあたりに手を当てた。
「――ちひろ、と」
千尋の視界が、白くなった。
「それだけです。名前だけです」
牧野は言った。
「その二分後に、息が止まりました」
千尋は、声を上げて泣いた。
三十四年、この人は一度も、そんなふうに私の名前を呼んだことがなかった。
小学校の運動会でも、大学の卒業式でも、東京へ発つ日の玄関でも。
最後の最後に、雪の中で、他人に聞かれるために呼んだ。
千尋は、泣きながら、それを許すことに決めた。
7
十月、県警本部の神津明は、有給休暇を取って、茅野の特別養護老人ホームを訪ねた。
綿貫良一は、面会室ではなく、日当たりのいい談話室にいた。
「綿貫さん」
声をかけると、老人はゆっくりと振り返った。
目に、光がなかった。
「どちらさん」
「県警の神津です。以前、一度お会いしました」
「そうかね」
綿貫は、窓のほうへ顔を戻した。
神津は、隣の椅子に腰かけた。
「綿貫さん。玉川の事件、覚えていますか」
老人は、答えなかった。
窓の外で、風が銀杏の木を揺らしていた。葉が、黄色くなりかけていた。
「平出真澄さん、という子の事件です」
綿貫は、じっと窓を見ていた。
神津は、続けた。
「犯人が、わかりました」
沈黙。
「三十四年前、その子は、車の事故で亡くなっていました。運転していたのは、担任の高校教師です。酒を飲んで運転していました。事故のあと、通報しなかった」
神津は、言葉を選ばずに話した。
「浅倉隆之さんは、無実でした」
老人の目が、わずかに動いた。
「綿貫さん。あなたは、間違っていませんでした」
神津は言った。
「あなたが受けた電話は、本物でした。あの電話をかけたのは、遠山克巳という男です。彼が上申書に書き残しています。あの夜、公衆電話から、浅倉じゃない、とだけ言って切った、と」
綿貫は、動かなかった。
神津は、しばらく待った。
何の反応もなかった。
彼は立ち上がり、頭を下げた。
「失礼しました」
談話室を出ようとしたとき、背後で声がした。
「刑事さん」
振り返った。
綿貫良一が、こちらを見ていた。
目に、光が戻っていた。
「泣いとったろう、あの声」
神津は、その場に立ち尽くした。
「泣いとった」
彼は、そう答えた。
綿貫は、頷いた。
そして、ゆっくりと窓のほうへ顔を戻した。
「そうか」
老人は言った。
「そうか」
それが、神津が綿貫良一と交わした最後の会話になった。