御神渡り(おみわたり)

エピローグ 御神渡り

 1
 倉田咲穂――平出咲穂の判決公判は、十一月十二日に開かれた。
 罪名は傷害致死。長野地裁は、懲役三年、執行猶予五年を言い渡した。
 裁判長は、判決理由の中でこう述べた。
「被告人の行為は、人の命を奪った重大なものであり、たとえ一瞬の激情によるものであっても、正当化されるものではない。しかしながら、本件は、被害者自身が三十四年前に被告人の姉の生命を奪い、これを隠匿したという、極めて特異な経緯の下に発生したものである。被害者が救助を明確に拒絶したこと、被告人が三週間の逡巡ののち、いかなる捜査の追及も受けないうちに自ら名乗り出たこと、被告人がこれまで社会的に非難されるべき行いをしてこなかったこと、そして被害者の遺族が、被告人の厳重な処罰を望まない旨を明言していることを、当裁判所は重く見る」
 傍聴席の最前列に、遠山千尋が座っていた。
 被害者参加人としてではなく、ただの傍聴人として。
 情状証人として法廷に立ったのは、彼女だった。検察官は難色を示したが、弁護人が請求し、裁判所が認めた。
 千尋が証言台で述べたのは、たった三つのことだ。
 父は末期の膵臓がんで、あと数か月の命だったこと。
 父は自ら救急車を拒んだこと。
 そして――
「私は、この人に、姉を返してもらっていません」
 千尋は言った。
「でも、この人も、私に父を返せません。返せないものを取り合っても、何も戻ってきません。だから、もう、やめたいんです」
 牧野常雄の処分が決まったのは、その翌月だった。
 犯人隠避および証拠隠滅。三十四年前の死体遺棄と犯人隠避は、とうに時効が完成している。問われたのは、二〇二六年一月十七日の夜、遠山克巳の携帯電話を諏訪湖に投棄し、平出咲穂を庇って虚偽の自白をした行為だけだった。
 懲役一年六か月、執行猶予三年。
 判決の日、法廷を出た牧野は、廊下で待っていた息子に一言だけ言った。
「帰るか」
「はい」
 悠は、父の腕を取った。
 六十七歳の男は、その手を振り払わなかった。

 2
 あおば教室は、いったん閉じた。
 二月から半年、教室は開かれなかった。報道が押し寄せ、看板は二度落書きをされ、大家からは契約更新をしないと通告された。
 河西武明が動いたのは、判決が出た十二月だった。
 彼は、かつての教え子たちに手紙を出した。十四年ぶんの名簿があった。あおば教室を出て、高校を出て、大学を出て、あるいは出ずに働いている、六十八人。
 返事は、四十一通来た。
 年が明けた一月、上諏訪の公民館の一室で、あおば教室は再開した。名前は変えなかった。
「変えるかどうか、ずいぶん迷ったよ」
 河西は、千尋に言った。
「あいつがやったことは、人殺しだ。それを、看板に残していいのかとね」
「それで、どうして残したんですか」
「教え子の一人が、返事にこう書いてきた」
 河西は、老眼鏡を外した。
「――遠山先生がどんな人だったかは、いま知りました。でも、僕に分数を教えてくれたのは、あの人です。分数は、悪い人が教えても分数です」
 千尋は、笑った。それから、泣いた。
 新しいあおば教室には、ボランティアが三人いる。
 そのうちの一人が、牧野悠だ。
 毎週火曜と木曜の夜、彼は絵を教えている。生徒は、いまのところ四人。そのうち二人は、去年の秋まで学校に行っていなかった子どもだ。
 灯里は、四月から高校生になる。後期選抜で合格した県立高校の制服が、部屋のドアに吊るしてある。
 合格発表の日、彼女は父にこう言った。
「お父さん。おじいちゃんに言ってきて」
「電話でいいか」
「だめ。会って言って」
 悠は、その日、父の家に行った。
 常雄は、玄関先で話を聞いて、それだけか、と言った。それから、台所へ引っ込んだ。
 しばらくして、戻ってきた。
 手に、封筒を持っていた。中に、三万円入っていた。
「制服代だ」
 悠は、その金額の意味を、たぶん父より深く理解した。
 受け取った。

 3
 二〇二七年一月十七日。
 諏訪湖が、全面結氷した。
 五年ぶりだった。
 その日から三日間、湖の表面で音が鳴り続けた。深夜、氷の下から、腹に響くような低い音が上がる。地元の人間は、それを聞くと窓を開けて外を見る。
 一月二十日の早朝、八剱神社の神職と氏子が湖畔に集まった。
 拝観式である。
 午前六時、まだ暗い湖の上に、白い筋が走っていた。
 下諏訪から上諏訪へ向かって、氷が盛り上がり、割れ、押し合いながら、一本の道になっている。高さは、高いところで六十センチほど。人が歩けそうな幅ではない。だが、確かに、道に見える。
 神職が、五年ぶりの御神渡りの出現を宣言した。
 その群衆の中に、遠山千尋がいた。
 隣に、牧野悠が立っていた。
 二人は、堤防の上から、湖を見ていた。
「本当に、道みたいですね」
 千尋は言った。
「昔の人は、これを神様が渡った跡だと思ったんですよね」
「上社の男神が、下社の女神のところへ通った跡だ」
 悠が言った。
「中学の授業でやりました」
「ロマンチックですね」
「そうでもないですよ」
 悠は言った。
「昔は、これで作物の出来を占ったんです。筋の向きとか、割れ方とかで。当たらないと、けっこう恨まれたらしい」
 千尋は笑った。
 白い息が、朝の空気に散った。
 湖の向こうに、八ヶ岳が見えていた。稜線が、朝日を受けて薄い桃色になっている。あの山の裾のどこかに、三十四年間、一人の少女が埋まっていた場所がある。
「牧野さん」
「はい」
「父が、私が小学生のときに言ったんです」
 千尋は、湖を見たまま言った。
「湖が凍らない年のことを、明けの海っていうんだ、って。私が、割れないほうがきれいなのにって言ったら、父はこう言いました」
 彼女は、少し間を置いた。
「――でも、割れないと、下にあるものは、ずっと見えないままなんだよ」
 悠は、何も言わなかった。
「あのとき、私は意味がわかりませんでした」
 千尋は言った。
「いまも、たぶん半分しかわかっていません。でも、父はあのとき、たぶん自分に言ってたんだと思います」
 朝日が、堤防の上まで届いた。
 湖の氷が、一瞬、白から金色に変わった。
 その瞬間、湖のどこか遠くで、音がした。
 バキン、という、乾いた、大きな音だった。
 群衆から、小さなどよめきが上がった。
 千尋は、その音を、体の芯で聞いた。

 4
 同じころ、諏訪警察署の駐車場で、神津明が車のエンジンをかけていた。
 助手席に、梶谷陸が乗り込んできた。
「行きましょうか」
「ああ」
 二人は、新しい事件の現場に向かうところだった。強盗致傷。犯人はもう見当がついている。三日で終わる仕事だ。
 車が国道に出たとき、梶谷が言った。
「神津さん。御神渡り、見に行きました?」
「行っとらん」
「今朝、拝観式だったらしいですよ。五年ぶりだって」
「そうか」
 神津は、前を見ていた。
「梶谷」
「はい」
「おまえ、去年おれが言ったこと、覚えてるか」
「なんでしたっけ」
「割れないままの氷はない、と言った」
 梶谷は、少し考えてから言った。
「言ってましたね。何十年かかっても、いつかは割れるって」
「あれはな」
 神津は、信号で車を止めた。
「半分、嘘だ」
「嘘ですか」
「割れないまま溶ける氷も、たくさんある」
 神津は言った。
「おれが扱ってきた事件で、下まで見えたのは、そう多くない。ほとんどは、明けの海のまま春が来る」
 梶谷は、黙っていた。
 信号が青になった。
「だがな」
 神津は、アクセルを踏んだ。
「割れたときには、必ず音がする。そのときにその場にいて、音を聞ける仕事は、そう多くない」
「はい」
「だから、まあ」
 神津は、少しだけ口の端を上げた。
「悪くない仕事だ」

 5
 その日の午後、千尋と悠は、八ヶ岳の林道へ向かった。
 玉川の、あの場所である。
 雪が積もっていて、車は途中までしか入れなかった。二人は、そこから三十分歩いた。
 現場には、小さな石が置かれていた。誰が置いたものかは、わからない。ただ、去年の夏には無かったものだ。
 石の前に、花が供えてあった。
 新しかった。凍っていない。今日、誰かが来た。
 千尋は、辺りを見回した。
 雪の上に、足跡が二人ぶん残っていた。一つは大きく、一つは小さい。二つの足跡は、来た方向へまっすぐ戻っていた。
 千尋は、花の隣に、自分の持ってきた花を置いた。
 それから、鞄から小さな包みを出した。
 悠が、それを見た。
「なんですか」
「玉子焼きです」
 千尋は言った。
「砂糖、入れました」
 彼女は、包みを開き、石の前に置いた。
 しゃがんだまま、両手を合わせた。
 悠も、隣にしゃがんだ。
 風が、木々の梢を鳴らして通り過ぎていった。
 落ちた雪が、日を受けて光った。
 どこか下のほうで、水の音がしていた。雪解けにはまだ早い。それでも、沢の水は、氷の下を流れている。
「牧野さん」
 千尋は、目を閉じたまま言った。
「はい」
「私、この人に、会ったことがないんです」
「はい」
「でも、この人がいなかったら、私は生まれてないんです」
 千尋は言った。
「父は、この人を死なせたあと、生きろって言われて、生きて、母と結婚して、私が生まれました。私の三十四年は、この人の三十四年を、そのまま奪って作られてるんです」
 悠は、答えなかった。
 答えられる言葉が、なかった。
「だから、私は」
 千尋は、目を開けた。
「ちゃんと生きないと、いけないんだと思います」
 彼女は、立ち上がった。
 膝の雪を払い、山道の下のほうを見た。
 木々の切れ間から、遠く、諏訪湖が見えた。
 白い湖面に、一本の細い筋が、朝より少しはっきりと走っていた。
 氷は、まだ鳴っていた。
 その音は、山の上まで届いてはこなかった。だが、千尋には聞こえた気がした。
 三十四年、誰にも見えなかったものが、いま、割れて、日に当たっている。
 千尋は、しばらくその白い筋を見ていた。
 それから、振り返って言った。
「帰りましょうか」
「はい」
 二人は、雪の道を下りはじめた。
 うしろで、風が一度だけ強く吹いて、供えた花を少し揺らした。
 やがて、静かになった。
< 18 / 19 >

この作品をシェア

pagetop