御神渡り(おみわたり)

第一章 明けの海

 1
 その朝、槻木神社の石段を最初に上ったのは、氏子総代の小平吉次だった。
 八十二歳。三十年以上、月に二度の掃除当番を欠かしたことがない。前の晩に六センチほど積もったから、竹箒では埒が明かないだろうと踏んで、軽トラの荷台からアルミのスコップを下ろした。息が白い。手袋をした指先が、すでに感覚をなくしかけている。
 鳥居をくぐって、五段ほど上ったところで、小平は足を止めた。
 石段の途中に、黒いものが落ちている。
 最初はごみ袋だと思った。近ごろは山の上まで来て粗大ごみを捨てていく者がいる。腹立たしい話だ、と思いながら十段ほど上って、小平は自分の口から短い声が出るのを聞いた。
 人だった。
 石段の左端、二十段目あたりに、男がうつ伏せに横たわっていた。紺色のダウンジャケット。灰色の髪。片方の靴が脱げて、三段下に転がっている。雪が、体の上に薄く積もっていた。積もる程度の時間、そこにいたということだ。
「あんた。おい、あんた」
 小平は膝をつき、肩に触れた。触れた瞬間に、わかった。
 この硬さは、生きているものの硬さではない。
 顔を覗き込んで、小平は今度こそ声を上げた。知っている顔だった。この神社の裏の坂を下りたところに住んでいる。去年の秋祭りでは獅子舞の笛を吹いていた。子どもらに勉強を教えている、あの先生だ。
「遠山さん……遠山先生」
 返事はなかった。
 開いた目の中に、雪が二つ、三つ、落ちて溶けずに残っていた。

 2
 遠山千尋がそれを知ったのは、その日の午前十時十四分だった。
 東京・神田の設計事務所は、日曜も半分は動いている。千尋は模型のスチレンボードをカッターで切りながら、テーブルの隅で震えたスマートフォンを横目で見た。母からだった。
 着信を切った。
 母の電話は、たいてい要領を得ない。町内会のこと、父の血圧のこと、去年送った林檎が届いたかどうか。千尋は月に一度、まとめて返信することにしていた。それでうまくやってきたつもりだった。
 三十秒後、また震えた。
 三度目で、千尋はカッターを置いた。
「もしもし」
『千尋、あのね』
 母の声は、いつもと同じ調子だった。だからよけいに、そのあとの言葉が耳に入ってこなかった。
『お父さんが、亡くなったって』
 スチレンボードの白い粉が、指の腹についていた。千尋はそれを見ていた。
「……何、それ」
『警察の人が来て、神社の石段のところで、って』
「病院じゃなくて?」
『もう、病院じゃないみたい』
 母は泣いていなかった。それが千尋には、何よりも不吉に思えた。
 新宿発の特急あずさに飛び乗ったのが十一時ちょうど。指定席は取れず、デッキに立ったまま、千尋は窓の外を見ていた。八王子を過ぎ、大月を過ぎ、笹子トンネルを抜けると、山の色が変わる。甲府盆地は乾いた茶色で、そこから先はどんどん白くなっていく。
 富士見のあたりで、車内が急に明るくなった。
 雪原だった。
 千尋は、この光景を子どものころから見ている。年に一度、正月に帰るときも、大学生のころ帰らなかった年も、車窓の景色だけは記憶の中で同じだった。父は、この景色のどこかで生きていた。生きているはずだった。
 実感がなかった。
 悲しいという感情の代わりに、頭の中で数字が回っていた。忌引きは何日取れるのか。金曜納品の外構図はどうするのか。母は一人で住み続けるのか、家は築四十年、耐震はどうだったか。
 自分は薄情な人間だ、と千尋は思った。
 でも、父と最後に話したのはいつだったろう。
 去年の正月だ。二日の朝、千尋が「もう帰る」と言ったとき、父は縁側でみかんを剥いていた。そうか、と言って、それだけだった。引き止めもしなかった。玄関まで見送りにも来なかった。母だけが門の外まで出てきて、「お父さん、あんたが来るからって、一昨日から掃除してたんだよ」と言った。
 そういう人だった。
 千尋は父のことを、三十四年間、よく知らないままここまで来た。

 3
 上諏訪の駅で、母の従弟が車で待っていた。斎場ではなく、まず警察署へ行くのだという。
「検視ってやつがあるらしくてなあ」と従弟は言った。「事故か事件か、まだわからんそうだ」
「事件……?」
「石段から落ちて頭を打ったんだが、そこだけじゃ死なんらしい。そのあと、朝まで雪ん中にいたと。凍え死にだって話もある」
 千尋は言葉を失った。
 朝まで。
 つまり父は、あの石段の上で、何時間も、生きていたということか。
 諏訪警察署の一階は、日曜のせいか閑散としていた。案内された小さな部屋に、母が座っていた。六十二歳。千尋が見るたびに小さくなっている。母は千尋の顔を見ると、初めて顔を歪めた。
「ごめんね、こんなことで呼んで」
 こんなことで、という言い方に、千尋は胸を突かれた。
 しばらくして、二人の男が入ってきた。年配のほうが名刺を出した。長野県警察本部刑事部捜査第一課、神津明。四十代後半だろうか。目の下に濃い隈があり、背広の肩に雪が溶けた跡が残っていた。もう一人は若く、梶谷と名乗った。
「本部の方が、いらっしゃるんですか」と千尋は訊いた。
「念のためです」神津は静かに言った。「事故の可能性も十分にあります。ただ、いくつか確認したいことがありまして」
 神津は手帳を開いた。
「亡くなられたのは、昨夜の午前一時から三時のあいだと見られています。直接の死因は、頭部を打ったことによる出血と、低体温症の複合、というのが検視の見立てです」
「複合、というのは」
「石段で頭を打たれた時点では、亡くなっていなかった、ということです」
 母が、小さく息を吸う音が聞こえた。
「ご主人は、夜中に外出される習慣がありましたか」神津は母に訊いた。
「いえ、そんなことは……」
「昨夜のことを、覚えている範囲で教えてください」
 母は膝の上で指を組んだ。
「夕飯は、六時半ごろに一緒に。そのあと、書斎に入って。十時ごろにお風呂に入る音がして、私は先に休みました。私の部屋は一階なんです。主人は二階なので」
「寝室は別々に?」
「二年ほど前から。主人が、夜中に起きて本を読むもんですから」
「では、ご主人が家を出た時刻はわからない」
「わかりません。朝、起きたら、いなくて。散歩かと思ったんです。時々、朝に湖まで歩く人でしたから」
 神津は頷き、それから顔を上げた。
「遠山さんは、槻木神社に、夜中に行かれる理由がありましたか」
 母は首を振った。千尋も同じだった。
 あの神社は、家から歩いて七、八分。子どものころ、夏祭りで綿飴を買ってもらった場所だ。真夜中に六十四歳の男が一人で上る場所ではない。
「もう一つ、伺います」神津は言った。「ご主人の携帯電話は、いまどちらにありますか」
 母が、はっとした顔をした。
「そういえば……見当たらなくて。充電器にも挿さっていなくて」
「現場にもありませんでした」
 部屋の空気が変わった。
 千尋は初めて、この人たちが「念のため」で来たのではないことを理解した。
「あの」千尋は言った。「父は、誰かに突き落とされたということですか」
 神津はすぐには答えなかった。ボールペンの尻で手帳を軽く叩いてから、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「石段の上部の雪に、踏み荒らされた跡がありました。ただ、夜のうちに降り続いていたので、足跡の形は残っていません。大きさも人数も特定できない。それから」
 神津は、若い刑事のほうを見た。梶谷が透明な袋を取り出し、テーブルに置いた。
 中に、黒いボタンが一つ入っていた。直径二センチほど。太い糸が、根元から千切れたように何本か残っている。
「これを、遠山さんが右手に握っておられました」
 千尋はボタンを見つめた。
「父の服の……」
「ご主人の着衣に、これに合うものはありません」
 母が、ゆっくりと首を横に振った。
「主人の服には、こんなボタン、ついてません」
 神津は袋を引き寄せ、内ポケットに戻した。
「もし、心当たりのある方がいらしたら、どんなことでも教えてください。ご主人が最近、誰かとトラブルを抱えていた、とか。悩んでおられた様子はありませんでしたか」
 母は答えられなかった。
 千尋も、答えられなかった。父が何に悩んでいたかなど、知るわけがない。父が何に喜んでいたかも、知らないのだ。

 4
 遺体との対面は、地下の一室だった。
 父は白い布の下にいた。顔だけが出ていた。左のこめかみに、大きな内出血の痕がある。それ以外は、驚くほど普通の顔だった。眠っている顔だ、と千尋は思い、そしてその言い方が嘘だと即座にわかった。眠っている人は、こんな色をしていない。
「お父さん」
 声に出してみた。何も起きなかった。
 千尋は父の頬に触れた。冷たいのは知っていた。それでも、指を引っ込めそうになるほど冷たかった。
 この人は、雪の中で何時間か、生きていたのだ。
 助けを呼べなかったのか。呼んだのに、誰も来なかったのか。それとも――
 千尋は、その先を考えたくなかった。
 部屋を出ると、母が廊下の椅子に浅く腰かけていた。千尋は隣に座った。
「お母さん」
「うん」
「お父さん、最近どうだった?」
 母はしばらく黙っていた。廊下の蛍光灯が一本、かすかに明滅していた。
「痩せたと思う」母は言った。「秋ごろから。ご飯の量が減って。病院に行けって言ったんだけど、行ってないって」
「病気?」
「わからない。訊いても、なんでもないって」
 母は、そこで一度言葉を切った。
「ただね、年末に一度、変なことを言ったの」
「変なこと?」
「大晦日の晩。紅白を見てて、急にね」
 母は自分の膝を見つめていた。
「――おれは、千尋にちゃんと謝ったことがあるかな、って」
 千尋は母の横顔を見た。
「何を?」
「わからない。私も訊いたのよ、何を謝るのって。そしたら、なんでもないって笑って、それきり」
 千尋の中で、何かが小さく軋んだ。
 謝る。父が。
 あの人が、私に何を。

 5
 その夜、千尋は実家に泊まった。
 自分の部屋は、高校時代のまま残されていた。学習机の上に、埃をかぶった参考書が並んでいる。母がときどき拭いているらしく、机の天板だけが妙にきれいだった。
 眠れず、千尋は階段を上がった。二階の奥が父の書斎だ。
 ドアを開けると、本の匂いがした。八畳ほどの部屋の三方が本棚で、国語教師らしく古典と近代文学が並んでいる。机の上には老眼鏡と、飲みかけの湯呑みがそのまま置かれていた。
 千尋は椅子に座った。父が毎晩座っていた椅子だ。座面がへこんでいる。
 窓のカーテンを開けると、諏訪湖が見えた。
 冬の湖は、街灯の光を鈍く跳ね返して、黒く広がっていた。凍っていない。ここ何年か、この湖はもう凍らない。子どものころは、一月になると全面が白くなって、父に手を引かれて湖畔を歩いた。
 ――ちひろ、聞こえるか。
 あれは何歳のときだったか。父が湖を指して言った。
 ――氷が鳴ってる。あの音がだんだん大きくなって、我慢しきれなくなると、氷が割れて、盛り上がって、道になるんだ。御神渡りっていう。神様が渡った跡だって言われてる。
 ――どうして割れるの。
 ――昼にゆるんで、夜に締まって、それを何十日も繰り返すからだ。ゆるんだり締まったりを続けると、氷は自分の重さで割れちまう。
 父は、湖を見たまま言った。
 ――でも、割れないと、下にあるものは、ずっと見えないままなんだよ。
 子どもの千尋には、意味がわからなかった。
 いまも、わからない。
 千尋は机の引き出しに手をかけた。開けようとして、やめた。
 まだ早い、と思った。父はまだ、この家のどこかにいるような気がする。勝手に引き出しを開けたら、叱られる。
 千尋は椅子に座ったまま、黒い湖を見ていた。
 このとき彼女は知らなかった。
 あと数日で、三十四年間凍りついていたものが、轟音を立てて割れることを。そして、割れた氷の下から現れるのが、彼女の父親の顔をした、まったく知らない人間だということを。
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