御神渡り(おみわたり)

第二章 善人の履歴

 1
 諏訪警察署に置かれた捜査本部は、貼り出された紙の数のわりに静かだった。
 神津明は、ホワイトボードの前に立って腕を組んでいた。中央に、遠山克巳の顔写真が貼られている。地域の広報誌から取ったものらしく、子どもたちに囲まれて笑っていた。
「どうですか」
 梶谷陸が、缶コーヒーを二本持ってきた。神津は受け取り、指先を温めた。
「どうもこうも、まだ何も出てないだろう」
「それが不思議なんですよ」
 梶谷は自分の分を開けながら言った。二十九歳。去年の春に本部に上がってきたばかりで、まだ現場の空気に馴染んでいない。悪くない、と神津は思っている。馴染みすぎた刑事は、見えるはずのものを見なくなる。
「聞き込みに回って、悪口が一つも出てこないんです。こんなことは初めてです」
「善人だからな」
「善人って、いるんですか。ほんとうに」
 神津は笑わなかった。
「善人はいる。ただし、善人になった理由がある」
 梶谷は意味がわからないという顔をした。神津は説明しなかった。
 遠山克巳の履歴は、ホワイトボードの右半分にすでに書き出されている。
 昭和三十六年(一九六一年)十一月、諏訪郡生まれ。地元の高校から信州大学教育学部へ。昭和五十九年、県立諏訪東高等学校に赴任。以後、県内の高校を三校まわり、平成二十年から再び諏訪東高校。令和四年――二〇二二年三月に定年退職。翌年から、元同僚の河西武明とともに無償の学習支援教室「あおば」を開設。
 妻・美和子。長女・千尋。前科なし。借金なし。女性関係の噂なし。宗教活動なし。政治活動なし。
 書けば書くほど、空白が増えていくような履歴だった。
「あおば教室ってのは、どんな塾なんだ」と神津は訊いた。
「塾じゃないみたいですね。公民館の一室を借りて、週三回。中学生が中心で、月謝は取らない。生活保護世帯とかひとり親家庭とか、塾に行けない子を中心に受け入れてると。市の福祉課からの紹介もあるそうです」
「無料で、何人だ」
「登録二十七人。実際に来てるのは二十人くらい。ボランティアが五人」
 神津は腕組みを解いた。
「行こう」
「まだ午前中ですよ」
「教室は夕方からだが、人はいる」

 2
 湖畔近くの公民館は、外壁の塗装が剥げかけた、昭和の建物だった。
 二階の第二学習室に、六十代半ばの男が一人でいた。プリントの束をホチキスで留めている。声をかけると、男は立ち上がって深く頭を下げた。
「河西です。あおばの、まあ、副担任みたいなもんです」
 黒縁の眼鏡をかけた、痩せた男だった。目が赤い。
「昨日から、何度も夢に出てくるんですわ」河西は椅子を勧めながら言った。「あいつが教室の後ろに立って、河西、そのプリント間違っとるぞって」
「遠山さんとは、長いんですか」
「長いです。諏訪東で十年、一緒でした。あいつが国語で、わたしが数学」
 神津は手帳を開いた。
「単刀直入に伺います。遠山さんを恨んでいた人物に、心当たりはありますか」
「ありません」河西は即答した。それから、言い直した。「いや……ないと言い切るのは、傲慢かもしれません。人間は誰でも、知らんうちに誰かを傷つけとる。ただ、少なくともわたしの知る限りでは、遠山を悪く言う人間はおらんかった」
「教え子との金銭トラブルは」
「ないでしょう。あいつは金を貸す側の人間でしたから。返せとは言わん男でした」
「貸していた?」
 河西は少し口ごもった。
「……何度かは。卒業生で、どうにも困っとる子がおって。三万とか、五万とか」
「記録は」
「あるわけないでしょう」河西は苦笑した。「そういう男です。あいつは、金は貸すもんじゃなくて、置いてくるもんだって言っとった」
 神津は書き留めた。この言葉が、あとになって別の意味を持つことになるとは、このとき思わなかった。
「教室のことを、教えてもらえますか」
 河西は立ち上がって、壁際の棚から出席簿を出した。
「ここに来る子はね、刑事さん。勉強ができんのじゃないんです。勉強どころじゃない子なんです」
 ページをめくりながら、河西は淡々と話した。
 母親が夜の仕事で、夕飯を一人で食べる中学生。父親が病気で働けず、自分がコンビニのバイトで家計を支えている高校生。家に帰りたくなくて、閉館時間まで図書館にいる子。
「遠山は、来た子に必ず飯を出しました。おにぎりとか、豚汁とか。うちの女房が作るんです。うち、子どもがおらんもんで」
 河西は眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「あいつは、月謝を取らんかっただけじゃない。自分の年金から、材料費も光熱費も出しとった。一円ももらわんかった。わたしが、少しは寄付を募ろうと言っても、首を縦に振らん」
「なぜでしょう」
「わかりません」
 河西は眼鏡をかけ直した。
「ただ、一度だけね」
 神津はペンを止めた。
「三年ほど前です。教室の帰りに二人で飲んだとき、あいつが妙なことを言った。酔っとったんでしょう。おれはな河西、と言うんです。おれは、罰を受けとるんだ、って」
「罰」
「はい。冗談かと思って、笑ったんです。何の罰だ、女房に浮気でもばれたかって。そしたら、あいつ、笑わんかった」
 河西は、そのときの顔を思い出すように黙り込んだ。
「――おれには、無期懲役がついとる。そう言いました」
 部屋の隅で、暖房機が音を立てて燃え上がった。
「どういう意味でしょう」
「訊きました。訊いたら、あいつは、なんでもない、酔っ払いの戯言だ、と言って、それきりです。二度とその話はしませんでした」
 神津は、ゆっくりと手帳に「無期懲役」と書いた。

 3
 署に戻ると、鑑識からの続報が机に載っていた。
 現場のボタン。黒い樹脂製、直径二十ミリ。国内メーカーの作業用防寒ジャンパーに広く使われる汎用品で、年間数十万個が流通している。糸は白のポリエステル。ボタンの裏の凹みに、微量の油分が付着していた。切削油の一種。機械加工の現場で使われるものだという。
「工場関係者ですかね」梶谷が言った。
「そう決めつけるな。汎用品ってことは、ホームセンターでも売ってるってことだ」
 もう一つ、通信記録の解析結果があった。
 遠山克巳の携帯電話は、一月十八日午前二時七分に電源が落ちている。最後の位置情報は槻木神社の周辺。以後、電波は完全に途絶えている。
 そして、通話履歴。
 一月十七日の夜、遠山克巳は二本の電話をかけていた。
 二十一時四十六分、通話時間五十二秒。相手の番号は、牧野常雄。
 二十二時十一分、通話時間、わずか十九秒。相手は、倉田咲穂。
「両方とも、初めて出てくる名前だな」
「牧野常雄。六十七歳。牧野プレス工業の元社長です。会社は二〇一八年に廃業してます」
 神津は顔を上げた。
「プレス工業」
「はい。金属プレス。切削油……使いますよね」
 梶谷の声に、抑えきれない興奮が混じっていた。神津は手を上げて制した。
「もう一人は」
「倉田咲穂。四十二歳。えー、住所は諏訪市内のアパート。職業は、介護施設のパート職員。それと」
 梶谷は資料をめくった。
「あおば教室のボランティア名簿に、名前があります」
 神津は椅子の背にもたれた。
 死の四時間ほど前に、二人に電話をかけている。一人は元町工場の社長、もう一人は自分の教室のボランティア。どちらも五十二秒と十九秒。長い話ではない。用件だけを伝える長さだ。
 呼び出したのだ、と神津は思った。

 4
 牧野常雄の家は、旧道沿いにあった。
 母屋の隣に、平屋のスレート屋根の建物がある。錆びた看板に「牧野プレス工業株式会社」の文字が残っていた。シャッターは半分下りていて、その隙間から、埃をかぶった機械の脚が見えた。
 インターホンを押しても、返事はなかった。三度押して、諦めかけたとき、母屋の引き戸が開いた。
 背の高い老人が立っていた。
 六十七歳という年齢のわりに、肩が厚い。作業ズボンに、色の褪せた紺のフリース。頬がこけていて、無精髭が白かった。目だけが、妙に落ち着いていた。
「警察の方ですか」
 こちらが名乗る前に、老人はそう言った。
「牧野常雄さんですね」
「はい」
「遠山克巳さんのことで、少しお話を伺いたいのですが」
 牧野は、瞬きをしなかった。
「亡くなったんですね」
「ご存じでしたか」
「回覧板が回ってきましたので」
 嘘だ、と神津は直感した。日曜の朝に見つかった遺体の情報が、月曜の昼に回覧板で回るはずがない。だが、指摘はしなかった。
「上がっていただくところがなくて、申し訳ない」牧野は言った。「立ち話でよろしいですか」
 玄関の三和土は、驚くほど片づいていた。傘立てに傘が一本。靴が一足。それだけだ。
「一月十七日の夜、遠山さんから電話がありましたね」
「ありました」
「どんな用件で」
「明日、少し話がある、と」
「時間と場所は」
「翌日の夜、七時に、私の家で」
 神津は梶谷と目を合わせた。
「神社ではなく、こちらのお宅で?」
「はい」
「では、遠山さんはなぜ、その晩のうちに槻木神社にいたんでしょう」
「知りません」
 牧野の声には、いっさいの動揺がなかった。むしろ、答えを何度も練習してきたような滑らかさがあった。
「十七日の深夜、どちらにおられましたか」
「家で寝ていました」
「証明してくれる方は」
「一人暮らしですから、おりません」
 神津は牧野の顔をじっと見た。
 この男は、隠している。それは間違いない。だが、隠している人間特有の落ち着きのなさがない。むしろ逆だ。この男は、こちらが何を訊くかを知っている。知っていて、待っている。
「遠山さんとは、どういうご関係ですか」
 初めて、牧野の目が動いた。ほんの少し、視線が下がった。
「……古い知り合いです」
「どのくらい」
「三十年以上になります」
「どういうきっかけで」
 牧野は答えなかった。
 長い沈黙のあと、老人は言った。
「刑事さん。私は、あなた方に嘘をつくのが得意ではありません」
 神津は待った。
「だから、今日はここまでにしてください。次に話すときは、全部お話しします」
「次、というのは」
「そのうちです」
 牧野は頭を下げ、引き戸に手をかけた。
 閉まりかけた戸の隙間から、神津は玄関の奥を見た。廊下の突き当たりに、仏壇があった。写真立てが二つ。一つは中年の女性。もう一つは――距離があって、はっきりとは見えなかったが、若い娘のように見えた。制服を着ているようだった。
 戸が閉まった。

 5
 軽自動車に戻り、梶谷がエンジンをかけた。
「怪しいですね。あれ、完全に何か知ってますよ」
「ああ」
「今夜にでも、任意で引っ張りますか」
 神津は答えなかった。フロントガラスの向こうで、雪がまた降りはじめていた。旧道の先に、湖が細く見えている。
「梶谷。おまえ、御神渡りって見たことあるか」
「え? いや、ないです。ここ何年も出てないでしょう」
「出ない年は、明けの海と言うんだ」
「アケノウミ」
「氷が張らずに、湖が開いたまま冬が明ける。神様が渡らなかった年だ」神津は湖を見ていた。「爺さんが言ってた。明けの海の年は、隠しごとが楽な年だってな」
「どういう意味ですか」
「氷が割れなきゃ、下にあるものは出てこない」
 神津は目を細めた。
「だがな、割れないままの氷はない。何十年かかっても、いつかは割れる。割れるときには、必ず音がする」
 梶谷が怪訝な顔をしているのがわかった。
 この四日後に、その音は鳴った。
 一月二十二日、木曜日の午前九時二十分。
 牧野常雄は、一人で諏訪警察署の玄関を入ってきた。
 受付の警察官に、彼はこう言った。
「三十四年前に、女の子を一人殺しました。それを知られたので、先週の土曜の晩、遠山克巳さんを、あの石段から突き落としました。自首します」
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