御神渡り(おみわたり)
プロローグ
土は、思っていたよりずっと硬かった。
スコップの先が根に当たるたび、腕の付け根に痺れが走った。男は歯を食いしばって足をかけ、体重のすべてを刃先に乗せる。凍った表土が割れ、その下から黒い土が現れた。冷たいのに、湯気のような匂いがした。生きているものの匂いだ、と男は思った。この山はまだ生きている。おれたちだけが死んでいる。
林道からは五十メートルほど奥に入っていた。落葉松の幹が、懐中電灯の光を受けて何十本も白く立ち上がる。牢屋の柵のようだ、と思ってから、男は自分の思いつきを笑った。柵の中にいるのはおれだ。だが柵に鍵をかけたのも、おれだ。
風が落ちた。雪が斜めから真っ直ぐに変わった。
「まだですか」
背後で声がした。震えている。寒さのせいだけではない。
男は振り返らなかった。振り返れば、その顔を見てしまう。見てしまえば、この手のスコップをその男の頭に叩きつけてしまう気がした。二時間前、工場の油まみれの床の上で、実際にそうしかけた。プレス機の脇に転がっていた鉄の棒を握って、振り上げた。
振り下ろせなかったのは、相手が逃げなかったからだ。
――殺してください。
あの男はそう言った。膝をついたまま、顔を上げて、目を逸らさずに。お願いします、殺してください、と。
だから殺さなかった。
「掘れ」
男は短く言って、二本目のスコップを足元に投げた。金属が凍った地面を打って、乾いた音を立てた。
「あんたが掘るんだ。あんたが埋めるんだ。おれは見てる」
しばらく、何も聞こえなかった。それから、スコップを拾う音がした。土に刃が入る音が、二つになった。
二人の男は、一時間、口をきかなかった。
穴が腰の深さまでになったころ、雪がやんだ。雲の切れ目から、驚くほど明るい月が出た。落葉松の影が地面に長く伸び、掘り上げた土の山を照らした。その脇に、ブルーシートに包まれた小さなものが置いてある。
小さい、と男は思った。
十七年生きた人間は、こんなに小さいものだったのか。
男はスコップを置いた。膝をつき、シートの端をめくった。少女の顔が出た。左の頬に擦り傷があるほかは、驚くほどきれいだった。眠っているように見えた。眠っているように見える、という言い方が、この世でいちばん残酷な嘘だということを、男はこのとき初めて知った。眠っている人間は、こんなに冷たくない。
三日前、この子は男の家の台所に立っていた。
――叔父さん、玉子焼きって砂糖入れる派?
入れる派だ、と男は答えた。少女は笑って、じゃあ次に来たとき作ってあげる、と言った。次に来たときに。
男は、少女の前髪を指で直した。土がかからないように、と思ってから、これから土をかけるのだと気づいて、手が止まった。
背後で、もう一人の男が声を殺して泣いていた。
男は立ち上がった。振り返って、初めてその顔を見た。三十歳の高校教師。真面目そうな、どこにでもいる顔。この四時間で十年ぶんの皺が刻まれた顔。
「泣くな」
男は言った。自分の声が、他人のもののように聞こえた。
「あんたには、泣く資格がない。おれにもない。おれたちはこれから、泣かずに生きるんだ」
教師は口を開いた。何か言おうとした。
「警察には行かせない」
男は言った。
「あんたを刑務所に入れたら、あんたは何年かで出てくる。出てきて、忘れる。人間は忘れる生きものだ。おれは、それがいちばん我慢ならない」
「じゃあ、どうすれば」
「生きろ」
男は、掘り上げたばかりの土の山を指した。
「教師を辞めるな。定年まで、いや死ぬまで、子どもの前に立ち続けろ。この子みたいな子を、一人でも多く救え。一人救うたびに、この夜を思い出せ。それがあんたの刑期だ。無期だ。仮釈放はない」
教師は、長いあいだ黙っていた。
それから、深く頭を下げた。額が、掘り返した土につくほど深く。
二人は少女を穴に降ろした。男は最後に、自分のジャンパーを脱いで、少女の顔にかけた。冷たいだろうから、という馬鹿げた理由でそうした自分を、男は生涯許さないことになる。
土をかける音は、雪の上ではやわらかかった。
埋め終えたとき、東の空が藍色に薄まりはじめていた。八ヶ岳の稜線が、影絵のように立ち上がってくる。
男は西を向いた。木立の切れ間の、ずっと下のほうに、白い平らなものが見えた。諏訪湖だった。全面が凍っている。
この冬は、御神渡りが立つ、と誰かが言っていた。
湖の氷は、夜の冷えと昼の緩みを繰り返すうちに、いつか自分の重みに耐えきれなくなって割れる。割れ目は轟音とともにせり上がり、湖を横切る一本の道になる。神が渡った跡だという。氷の下に何があったかを、そのとき湖は初めて自分で吐き出す。
いつか、この山も湖のように割れるのだろうか。
男は、そんなことは起きないと知っていた。土は湖とは違う。土は割れない。土は、載せたものをそのまま黙って抱いている。何十年でも。
だから男は、山を選んだのだ。
二人は山を下りた。
その日から三十四年、二人は一度も、その山に登らなかった。
スコップの先が根に当たるたび、腕の付け根に痺れが走った。男は歯を食いしばって足をかけ、体重のすべてを刃先に乗せる。凍った表土が割れ、その下から黒い土が現れた。冷たいのに、湯気のような匂いがした。生きているものの匂いだ、と男は思った。この山はまだ生きている。おれたちだけが死んでいる。
林道からは五十メートルほど奥に入っていた。落葉松の幹が、懐中電灯の光を受けて何十本も白く立ち上がる。牢屋の柵のようだ、と思ってから、男は自分の思いつきを笑った。柵の中にいるのはおれだ。だが柵に鍵をかけたのも、おれだ。
風が落ちた。雪が斜めから真っ直ぐに変わった。
「まだですか」
背後で声がした。震えている。寒さのせいだけではない。
男は振り返らなかった。振り返れば、その顔を見てしまう。見てしまえば、この手のスコップをその男の頭に叩きつけてしまう気がした。二時間前、工場の油まみれの床の上で、実際にそうしかけた。プレス機の脇に転がっていた鉄の棒を握って、振り上げた。
振り下ろせなかったのは、相手が逃げなかったからだ。
――殺してください。
あの男はそう言った。膝をついたまま、顔を上げて、目を逸らさずに。お願いします、殺してください、と。
だから殺さなかった。
「掘れ」
男は短く言って、二本目のスコップを足元に投げた。金属が凍った地面を打って、乾いた音を立てた。
「あんたが掘るんだ。あんたが埋めるんだ。おれは見てる」
しばらく、何も聞こえなかった。それから、スコップを拾う音がした。土に刃が入る音が、二つになった。
二人の男は、一時間、口をきかなかった。
穴が腰の深さまでになったころ、雪がやんだ。雲の切れ目から、驚くほど明るい月が出た。落葉松の影が地面に長く伸び、掘り上げた土の山を照らした。その脇に、ブルーシートに包まれた小さなものが置いてある。
小さい、と男は思った。
十七年生きた人間は、こんなに小さいものだったのか。
男はスコップを置いた。膝をつき、シートの端をめくった。少女の顔が出た。左の頬に擦り傷があるほかは、驚くほどきれいだった。眠っているように見えた。眠っているように見える、という言い方が、この世でいちばん残酷な嘘だということを、男はこのとき初めて知った。眠っている人間は、こんなに冷たくない。
三日前、この子は男の家の台所に立っていた。
――叔父さん、玉子焼きって砂糖入れる派?
入れる派だ、と男は答えた。少女は笑って、じゃあ次に来たとき作ってあげる、と言った。次に来たときに。
男は、少女の前髪を指で直した。土がかからないように、と思ってから、これから土をかけるのだと気づいて、手が止まった。
背後で、もう一人の男が声を殺して泣いていた。
男は立ち上がった。振り返って、初めてその顔を見た。三十歳の高校教師。真面目そうな、どこにでもいる顔。この四時間で十年ぶんの皺が刻まれた顔。
「泣くな」
男は言った。自分の声が、他人のもののように聞こえた。
「あんたには、泣く資格がない。おれにもない。おれたちはこれから、泣かずに生きるんだ」
教師は口を開いた。何か言おうとした。
「警察には行かせない」
男は言った。
「あんたを刑務所に入れたら、あんたは何年かで出てくる。出てきて、忘れる。人間は忘れる生きものだ。おれは、それがいちばん我慢ならない」
「じゃあ、どうすれば」
「生きろ」
男は、掘り上げたばかりの土の山を指した。
「教師を辞めるな。定年まで、いや死ぬまで、子どもの前に立ち続けろ。この子みたいな子を、一人でも多く救え。一人救うたびに、この夜を思い出せ。それがあんたの刑期だ。無期だ。仮釈放はない」
教師は、長いあいだ黙っていた。
それから、深く頭を下げた。額が、掘り返した土につくほど深く。
二人は少女を穴に降ろした。男は最後に、自分のジャンパーを脱いで、少女の顔にかけた。冷たいだろうから、という馬鹿げた理由でそうした自分を、男は生涯許さないことになる。
土をかける音は、雪の上ではやわらかかった。
埋め終えたとき、東の空が藍色に薄まりはじめていた。八ヶ岳の稜線が、影絵のように立ち上がってくる。
男は西を向いた。木立の切れ間の、ずっと下のほうに、白い平らなものが見えた。諏訪湖だった。全面が凍っている。
この冬は、御神渡りが立つ、と誰かが言っていた。
湖の氷は、夜の冷えと昼の緩みを繰り返すうちに、いつか自分の重みに耐えきれなくなって割れる。割れ目は轟音とともにせり上がり、湖を横切る一本の道になる。神が渡った跡だという。氷の下に何があったかを、そのとき湖は初めて自分で吐き出す。
いつか、この山も湖のように割れるのだろうか。
男は、そんなことは起きないと知っていた。土は湖とは違う。土は割れない。土は、載せたものをそのまま黙って抱いている。何十年でも。
だから男は、山を選んだのだ。
二人は山を下りた。
その日から三十四年、二人は一度も、その山に登らなかった。


