御神渡り(おみわたり)

第三章 三十四年前の名前

 1
 取調室は、三畳ほどの広さしかない。
 牧野常雄は、パイプ椅子に浅く腰かけ、背筋を伸ばしていた。両手を膝の上に揃えている。指の関節が太く、爪の際に、洗っても落ちない黒いものが残っていた。四十年、鉄を扱ってきた手だ。
 神津明は、その向かいに座った。梶谷が壁際の机で記録係を務める。
「牧野さん。まず、確認させてください」
「はい」
「あなたは今朝、この署の受付で、三十四年前に女性を殺害した、と話されました。間違いありませんね」
「間違いありません」
「その女性の名前を、言えますか」
 牧野は、一瞬だけ目を閉じた。
「平出真澄さん。十七歳」
 神津は手元の紙を見た。今朝、県警の記録係に急いで洗い出させたリストの一行が、そこにある。
 ――平成六年五月、茅野市玉川、林道脇の土中より白骨死体発見。身元は諏訪郡在住の高校生・平出真澄(当時十七歳)。平成四年一月十八日夜より行方不明。殺人・死体遺棄事件として捜査本部設置。平成十九年一月十八日、公訴時効成立。
 時効。
 神津は、その二文字を長く見つめた。
 二〇一〇年に殺人の公訴時効は廃止された。だがそれは、その時点でまだ時効が完成していない事件にしか適用されない。平出真澄の事件は、その三年前に、法の上ではすでに終わっている。
 誰が殺したと名乗り出ても、この国はもう、その人間を裁くことができない。
「牧野さん」神津は言った。「あなたは、平出真澄さんとどういう関係でしたか」
「姪です」
 部屋の空気が止まった。
 梶谷がキーボードを打つ手を止めたのが、背中でわかった。
「姪、というのは」
「私の女房の、姉の娘です。女房は節子といいます。旧姓は岩下。節子の姉が、平出多恵子。多恵子さんの長女が、真澄でした」
 神津は、ゆっくりと息を吐いた。
「つまり、あなたは真澄さんの――」
「叔父です」
 牧野は、まったく声を震わせずに言った。
「私は、姪を殺しました」

 2
 牧野常雄の供述は、驚くほど整理されていた。
 平成四年、一九九二年。牧野は三十三歳。父から継いだ牧野プレス工業の二代目社長で、従業員は十九人いた。バブルが弾けた直後で、受注は前年の六割に落ちていた。
 妻の節子は、姉の家庭を心配していた。姉の多恵子は夫を早くに亡くし、四年前に浅倉隆之という男と再婚していた。浅倉は塗装工で、酒を飲むと荒れた。長女の真澄が、しばしば体に痣を作っていることを、節子は知っていた。
「一月に入って、節子が、真澄をうちで預かると言い出しました」牧野は言った。「姉さんには内緒で、しばらくうちに置く。高校を出るまででいい、と」
「あなたは賛成したんですか」
「反対はしませんでした」
「一月十八日の晩に、何があったんですか」
 牧野は、視線を机の上に落とした。
「その晩、真澄が家に来ることになっていました。夜の八時ごろ、工場のほうに来たんです。母屋には節子がいて、待っていましたが、真澄はなぜか、先に工場に来た」
「なぜ工場に」
「私が、まだそこにいたからです。灯りがついていたから、そちらに寄ったんでしょう」
「それで」
 牧野は、しばらく黙っていた。
 神津は待った。取調べで最も大事なのは、待つことだ。
「あの子は、きれいな子でした」
 牧野は、そう言った。
 神津は自分の眉が動くのを抑えた。
「――続けてください」
「工場には、私と真澄の二人だけでした。私は、あの子に……」
 牧野の喉が上下した。
「手を出そうとしました」
「具体的に言ってください」
「腕を掴んで、引き寄せました。あの子は逃げようとしました。叫び声を上げられたら終わりだと思って、押さえつけました。もみ合ううちに、あの子が鉄の階段から落ちて、頭を打ちました」
「階段」
「工場の二階へ上がる、鉄骨の階段です。今もあります」
「落ちて、どうなりましたか」
「動かなくなりました」
「その時点で、亡くなっていたと?」
「息をしていませんでした」
「救急車は」
「呼びませんでした」
 牧野は顔を上げた。目が乾いていた。泣く器官が、とうに壊れてしまった人間の目だった。
「そのあと、私は真澄をトラックの荷台に載せて、玉川の林道へ運びました。スコップは工場にありました。埋めたのは、日付が変わったあとです。朝方まで、かかりました」
「奥さんは」
「母屋で寝ていました。夜中に帰った私に、真澄は来なかったのかと訊きました。私は、来なかった、と答えました」
「奥さんは、その後どうされましたか」
「探しました。姉さんと一緒に、警察にも行きました。二年後に骨が見つかったときも、身元確認に行ったのは節子です」
 牧野は、そこで初めて、わずかに息を乱した。
「節子は、七年前に死にました。膵臓癌でした」
 神津は、手帳の上でペンを止めた。
 この男は、いま、自分の妻に対して行った三十四年ぶんの裏切りを、他人事のように語っている。
 それが本当なら、この男は化け物だ。
 だが。
 神津の中の、二十六年間現場に立ってきた部分が、警報を鳴らしていた。
 何かが、噛み合っていない。

 3
「では、遠山克巳さんの件です」
 神津は話を切り替えた。
「遠山さんとは、いつからの知り合いですか」
「真澄の担任でした」
「三十四年前の」
「はい。真澄が二年のときの担任です。あの子が行方不明になったあと、遠山先生は何度もうちに来ました。心当たりはないか、と」
「そのころから、遠山さんはあなたを疑っていた?」
「いいえ。あのころは違います」
「では、いつから」
「十年ほど前からです」
 牧野は淡々と言った。
「遠山先生は、真澄のことをずっと引きずっていました。事件の資料を自分で集めて、当時のことを調べ回っていた。そのうち、私に訊くようになった。あの晩、真澄はほんとうに来なかったのか、と。何度も、何度も」
「なぜ今になって、殺すことになったんですか」
「去年の秋です」
 牧野は、初めて視線を上げた。
「遠山先生から電話がありました。癌になった、と。余命は半年だと言われた、と」
 神津の背中を、冷たいものが走った。
 これは調べればすぐに裏が取れる。裏が取れるということは、嘘ではないということだ。
「先生は言いました。死ぬ前に、警察に行く。おまえのことを話す、と」
「あなたは、どう答えましたか」
「やめてくれ、と言いました」
「なぜです。時効なんですよ。三十四年前の件で、あなたが裁かれることはない」
「法律は、そうでしょう」
 牧野は、静かに言った。
「でも、私には息子がいます。孫もいます。息子は学校の教師をしています。孫は中学三年生です。あの子らに罪はない。」
 神津は言葉を返せなかった。
「一月十七日の夜、九時四十六分に、遠山先生から電話がありました。明日、話がある、と。私はその場では、翌日の夜に家で会うと答えました。でも、待てなかった」
「待てなかった、というのは」
「夜中に、私のほうから先生に電話をかけ直しました。今から会いたい、と。場所は槻木神社にしました。人が来ないところで話がしたかった」
 神津は手を挙げた。
「待ってください。あなたが、遠山さんに電話をかけた?」
「はい」
「時刻は」
「十二時を回っていたと思います」
 神津は梶谷を見た。梶谷が首を横に振った。
 通信記録に、そんな発信はない。牧野の携帯からも、固定電話からも、その時間帯に遠山克巳への発信は記録されていない。
「あなたの電話は、どちらから」
「家の固定電話です」
「わかりました。続けてください」
 神津は、そこを突かなかった。まだ早い。
「石段の上で、先生と話しました」牧野は続けた。「先生は、明日、諏訪署に行くと言いました。もう決めたことだ、と。私は、頼むからやめてくれと言いました。それでも、だめだと言われました」
「それで」
「押しました」
 牧野は右手を、机の上に上げた。ゆっくりと、前に押し出す仕草をした。
「両手で、胸のあたりを。先生は後ろに倒れて、そのまま石段を落ちていきました。途中で頭を打つ音がしました」
「そのあとは」
「怖くなって、逃げました」
「そのまま?」
「そのまま帰りました。家に着いたのは、一時半ごろだと思います」
「遠山さんの携帯電話は」
「石段の下に落ちていたので、拾って持ち帰りました。通話の記録が残っていると思ったので」
「今、どこに」
「湖に捨てました。ヨットハーバーの桟橋の先から」
 神津は目を閉じた。
 筋は通っている。あまりにも通りすぎている。
「牧野さん」
 神津は目を開けた。
「あなたは、遠山さんが石段の下でどうなっていたか、確認しましたか」
「いいえ」
「近づいてもいない?」
「近づいていません。落ちるのを見て、すぐに逃げました」
「では、遠山さんの右手に、これが握られていた理由を説明できますか」
 神津は、透明な袋に入ったボタンを机に置いた。
 牧野は、それを見た。
 ほんの一瞬、ほんとうに一瞬だけ、この男の目に何かが揺れた。神津はそれを見逃さなかった。
「……押したときに、掴まれたんでしょう」
「あなたの服のものですか」
「私の作業ジャンパーのものです。押されるとき、先生が私の胸元を掴んだんだと思います」
「そのジャンパーは」
「一緒に湖に捨てました」
 神津はボタンを引き寄せた。
 この男は、すべてを説明する。すべてを説明する人間を、神津は信用しない。
 人は、自分がほんとうにやったことについては、必ずどこかで「覚えていません」と言う。人間の記憶はそんなに親切にできていない。とくに、人を殺した夜の記憶は。

 4
 その日の夕方、捜査本部の空気は一変していた。
 署長が本部長に電話をかけている。広報担当がプレスリリースの文面を練っている。誰もが浮き足立っていた。三十四年前の未解決事件と、現在進行形の殺人が、一本の線でつながったのだ。地方の警察署にとって、これ以上の事件はない。
「神津さん、何ですかその顔」
 梶谷が言った。神津は書類の束を睨んでいた。
「玉川の司法解剖の記録だ。平成六年のやつ」
 三十二年前の紙のコピーは、文字が滲んでいた。
 白骨死体。損傷は、頭蓋骨左側頭部の陥没骨折。加えて――
「左前腕の尺骨、骨折。左第四から第六肋骨、骨折。骨盤右側、亀裂骨折」
 神津は読み上げた。
「多いですね」
「多い。それに、種類が違う」
「種類?」
「階段から落ちて頭を打った人間の骨の折れ方じゃない、ということだ」
 神津は資料をめくった。
「それと、これだ。遺留物」
 ――遺体の毛髪および着衣の繊維中より、微小なガラス片を多数検出。強化ガラス、自動車用フロントガラスと同種のもの。
「自動車のガラス」梶谷が言った。
「発表されていない。当時の捜査本部は、これを伏せた」
「伏せた理由は」
「決まってる。犯人しか知らない事実にするためだ」
 神津は資料を机に置いた。
「牧野は、それを言わなかった。工場の階段から落ちて頭を打った、としか言っていない。車のことは一言も出てこない」
「じゃあ……牧野は、やってない?」
「わからん」
 神津は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
 三十四年前の犯人ではないとしたら、なぜ自分がやったと言うのか。
 時効の成立した事件だ。名乗り出ても罪には問われない。だが、名乗り出れば、世間から一生「少女殺し」と呼ばれる。息子は教壇に立てなくなり、孫は学校に行けなくなる。
 息子と孫を守りたい、とこの男は言った。
 その口で、息子と孫を最も深く傷つける嘘をついている。
 矛盾している。
 いや――と神津は思った。
 矛盾していない、としたら。
 その嘘によってしか守れないものが、ほかに、あるとしたら。
「梶谷」
「はい」
「鑑識の現場写真、全部持ってこい」
「どれをですか」
「全部だ。とくに、遺体の周りの雪を写したやつ」

 5
 三十分後、神津は一枚の写真を手にしていた。
 斜め上から撮影された遺体の全景。うつ伏せの遠山克巳。その周囲に、降ったばかりの新雪。
 だが、遺体の右側、五十センチほどの範囲だけ、雪の表面の質感が違っていた。
 押し固められている。
 人が一人、そこに長く座っていたような形に。
 神津は写真を裏返し、鑑識の所見を読んだ。
 ――被害者右側方に、圧痕あり。圧雪の下層に人体接触による融解と再凍結の痕跡。滞留時間は少なくとも一時間以上と推定。
 神津は、その紙を長いあいだ見ていた。
 誰かが、そこにいた。
 遠山克巳が石段の下で息を引き取るまで、その隣に、一時間以上、座っていた人間がいる。
 押して逃げた、と牧野は言った。
 ならば、この雪の窪みは、誰のものだ。
 窓の外は、もう暗かった。神津は立ち上がり、ブラインドの隙間から外を見た。
 雪が、また降りはじめていた。
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