御神渡り(おみわたり)

第四章 加害者家族

 1
 牧野悠がその報せを受けたのは、五時間目の授業中だった。
 美術室の窓際で、中学二年の女子が絵の具を溶いている。テーマは「わたしの好きな場所」。三十人が三十枚のベニヤ板に向かい、思い思いの風景を描いている。悠はその間を回りながら、水の量が多すぎる子に「筆先だけ、ちょんちょんと」と声をかけていた。
 教頭がドアのガラス越しに手招きしたのは、そのときだ。
「牧野先生。ちょっと」
 廊下に出ると、教頭の顔が白かった。
「あの、お父さんの、名前は常雄さん、でよかったかね」
「はい」
「今、警察から学校に連絡が入って」
 悠は最初、父が死んだのだと思った。
 六十七歳。一人暮らし。持病はないと聞いていたが、あの家は寒い。冬に一人で倒れて、そのまま。ありうる話だ。そして、そのときの自分の感情がどうなるのかを、悠は何度か想像したことがあった。
 だが教頭が言ったのは、まったく違う言葉だった。
「自首なさったそうです。人を、殺めたと」
 悠は、その日の五時間目のことを、あとになってほとんど思い出せなくなる。美術室に戻って授業を最後まで続けたことだけは覚えている。窓際の女子が描いていたのが諏訪湖の花火だったことも。だがその間に自分が何を喋ったのかは、まるで記憶がない。
 放課後、校長室に呼ばれた。
 教育委員会の人間が二人、すでに来ていた。
「牧野先生、まずは、お父さんのことについて我々が事情を伺う立場にないことは承知しています」
 年配のほうがそう前置きした。前置きから入る話は、たいてい碌な話ではない。
「ただ、報道が出ますと、保護者の方から問い合わせが来ることが予想されます。学校としての対応を、あらかじめ」
「私は、どうすればいいでしょうか」と悠は訊いた。
 二人は顔を見合わせた。
「しばらく、お休みになるという選択肢もあります」
「休職ということですか」
「特別休暇の扱いで。もちろん、先生に非があるわけではありません。ただ、生徒の動揺ということもございますし」
 悠は膝の上で手を握った。
「生徒が動揺するのは、私が学校にいるからですか。それとも、私が急にいなくなるからですか」
 誰も答えなかった。

 2
 家に帰ると、玄関に妻の靴と、娘の靴が両方あった。
 午後四時。中学三年の娘が、この時間に家にいるはずがない。二月の公立高校前期選抜まで、あと三週間しかない。
 リビングに入ると、璃子がテーブルの前に座っていた。テレビがついている。ローカル局の夕方のニュースだった。
『――一九九二年に発生した、当時十七歳の女子高校生が殺害された事件について、時効成立後に犯行を認める供述をしており』
 画面に、父の家が映っていた。錆びた看板。半分下りたシャッター。三十年前から変わらない、あの建物。
 璃子が振り返った。目が真っ赤だった。
「灯里が」
「え」
「学校で、言われたって。もう、ネットに書かれてるみたい」
 悠は階段を駆け上がった。
 娘の部屋のドアをノックした。返事はなかった。もう一度叩いた。
「灯里。入るぞ」
 開けると、灯里はベッドの上に膝を抱えて座っていた。制服のままだった。スマートフォンが、床に投げ出されている。画面が明るいままだった。
「ごめんな」
 悠は、それしか言えなかった。
 灯里は顔を上げなかった。
「……おじいちゃんが?」
「うん」
「ほんとに?」
「わからない」
 嘘ではなかった。悠は、まだ何も信じていなかった。信じるための材料が一つもなかった。
「三十四年前って、お父さんが二歳とか」
「二歳だ」
「その頃から、ずっと?」
 灯里は膝に顔を埋めた。
「みんな、知ってた。私が教室に入ったら、みんな黙った。それで、そのあと、ずっと私の背中を見てた」
 悠は、娘のベッドの端に腰かけた。
 この子には何の関係もない。三十四年前、この子はこの世界にはまだいなかった。父の血が四分の一流れているというだけの理由で、なぜこの子が教室で白い目で見られなければならないのか。
 だが、その理不尽を口にしたところで、何も変わらない。
「灯里」
「なに」
「明日、学校、休むか」
 灯里は顔を上げた。目が腫れていた。
「休んだら、認めたことにならない?」
 悠は言葉に詰まった。
 十五歳の子どもが、そんなことを考えなければならない。
「認めることになんか、ならない」
 悠は言った。
「おまえは何もしてない。おまえが休んでも、行っても、何も変わらない。だから、楽なほうを選べばいい」
 灯里は、しばらく黙っていた。
 それから、小さな声で言った。
「お父さん。私、おじいちゃんの顔、思い出せないんだけど」
 悠は、天井を見上げた。
 それは、自分のせいだった。

 3
 牧野悠が父の家を出たのは、十八歳のときだった。
 東京の美術系の大学に行きたいと言ったとき、父は一言、金は出さん、と言った。
「工場を継げとは言わん。だが、絵で食えると思うな」
 父はそう言った。
 悠は奨学金とアルバイトで四年間を過ごし、帰省もほとんどしなかった。卒業して、絵で食えないことを知って、教員免許を取り直して長野に戻った。中学の美術教師になった。父は何も言わなかった。おめでとうも、よかったなも、ない。
 母だけが泣いて喜んだ。
 母は、いつも一人だった。
 悠が中学生のころ、父は月に一度、土曜の夕方になると出かけた。行き先は言わない。帰りは夜中だった。子ども心にも、それが何かの逢い引きに見えた。
 一度、母に訊いたことがある。
 ――お父さん、どこ行くの。
 母は、洗い物の手を止めずに言った。
 ――お父さんにも、お父さんの用があるの。
 ――浮気じゃないの。
 そのとき初めて、母は手を止めて振り返った。
 ――悠。それだけは、絶対に違う。
 母の顔は、笑っていなかった。怒ってもいなかった。ただ、ひどく疲れて見えた。
 あの顔を、悠は今も覚えている。
 母は二〇一九年に死んだ。膵臓癌が見つかったのが九月で、正月を越せなかった。最後の一週間、母は個室のベッドで、ほとんど眠っていた。
 最後に目を開けたとき、母は父の手を握って、こう言った。
 ――お父さん。もう、いいよ。
 悠には、意味がわからなかった。
 父は何も言わなかった。ただ、母の手を握り返して、頭を下げた。深く、いつまでも。
 葬儀のあと、悠は父にそのことを訊いた。母さんは何を「もういい」と言ったのか、と。
 父は、答えなかった。
 その代わりに、こう言った。
 ――悠。これからは、おれのことは他人だと思え。
 悠はその言葉に切れた。何だそれは、母さんが死んだ日に言うことか、と怒鳴った。父は黙って聞いていた。そして最後に、頼む、とだけ言った。
 それから七年、悠は父の家の敷居を跨いでいない。

 4
 夜、悠は諏訪警察署に行った。
 当然、会えるとは思っていなかった。それでも、行かずにいられなかった。
 受付で名乗ると、しばらく待たされ、私服の若い刑事が下りてきた。梶谷と名乗った。
「申し訳ありません。お父様は現在、勾留中でして、接見は弁護人に限られます」
「弁護士は」
「本人が国選を希望されましたので、明日には決まると思います」
 悠は自分の膝を見ていた。
「あの」
「はい」
「父は、なぜ自首したんですか」
 梶谷は、少し困った顔をした。
「捜査に関することは、お答えできません」
「じゃあ、質問を変えます」
 悠は顔を上げた。
「父は、自分から言い出したんですか。それとも、警察に疑われて、追い詰められて認めたんですか」
 梶谷は答えなかったが、その沈黙が答えだった。
 自分から言い出したのだ。
 誰にも疑われていなかったのに。三十四年、誰にも。
「牧野さん」
 背後から声がした。振り返ると、四十代後半の男が階段を下りてくるところだった。目の下に隈がある。神津と名乗った。
「少しだけ、お時間をいただけますか」
 通されたのは、一階の相談室だった。パイプ椅子と、傷だらけの机。
「一つだけ、お訊きしたいことがあります」神津は言った。「お父さんの作業着のことです」
「作業着?」
「紺色か黒の、防寒ジャンパー。ボタンが黒い樹脂のもの。心当たりはありませんか」
「……工場をやってた頃は、ずっとそういうのを着てました。でも、七年前から会ってないので、今のことはわかりません」
「七年前」
「母の葬式のあとが、最後です」
 神津は頷いた。それから、少し口調を変えた。
「牧野さん。お母さんは、どんな方でしたか」
 悠は面食らった。
「なぜ、母のことを」
「三十四年前、平出真澄さんが行方不明になったとき、身元確認や捜索願を出しに動いておられたのは、お母様なんです。当時の記録に、何度も名前が出てくる」
 悠は、机の上の自分の手を見た。
 母。真澄。
 その名前を、悠は聞いたことがなかった。従姉がいたことすら、知らなかった。
「母は、その人のことを、一度も話しませんでした」
「一度も?」
「はい。写真も、見たことがない」
 神津は、しばらく黙っていた。
「牧野さん。ご自宅の仏壇に、写真立てが二つありましたね。一つはお母様。もう一つは」
 悠は首を振った。
「知りません。七年、入っていませんから」
 神津は、それ以上訊かなかった。
 立ち上がりかけて、悠は言った。
「刑事さん。父は、ほんとうにやったんですか」
 神津は、椅子から立ち上がるところだった。
 その動きが、一瞬、止まった。
「そう供述しています」
「そういう答えは、答えじゃないです」
 悠は自分でも驚くほど強い声を出していた。
「私の娘は、明日から学校で殺人犯の孫として生きるんです。三週間後に高校を受験するんです。妻は今晩、実家に電話をかけて、しばらく灯里を預かってもらえないかと相談してます。私は、明日から職場に行けるかどうかもわからない」
 悠の声が震えた。
「それでも、父がほんとうにやったのなら、私たちは受け入れます。加害者の家族として生きます。でも、もし違うのなら」
 言葉が続かなかった。
 神津は、悠の顔を見ていた。
「牧野さん」
「はい」
「私は、警察官として、いま言うべきでないことを言います」
 神津の声は低かった。
「あなたのお父さんの供述には、私が納得できていない部分があります。ただし、それは無罪という意味ではない。もっと悪い意味かもしれない。それでも、私は確かめます」
 悠は、その言葉を飲み込むのに時間がかかった。
「もっと悪い意味って、何ですか」
「わかりません。まだ」
 神津は、初めてかすかに笑った。笑いというより、疲れた顔の筋肉が少し動いただけのように見えた。
「ただ、三十四年も嘘をつき続けられる人間は、めったにいません。もし、あなたのお父さんがそれをやってのけたのなら、そこには相当な理由があるはずです」

 5
 家に帰ると、リビングの電気が消えていた。
 台所に、ラップのかかった皿が二枚。璃子と灯里は、二階で寝ているようだった。
 悠は皿を電子レンジに入れ、温まるのを待った。回転する皿を見ながら、ふと、母の言葉を思い出していた。
 ――お父さん。もう、いいよ。
 もう、いい。
 何が。
 もう隠さなくていい、という意味だったのか。
 もう自分を責めなくていい、という意味だったのか。
 それとも――もう、あの人を許してあげて、という意味だったのか。
 電子レンジが鳴った。
 悠は皿を取り出し、一人でテーブルに座った。冷めた煮物と、白いご飯。ひと口食べて、味がわからないことに気づいた。
 スマートフォンが震えた。
 璃子からのメッセージだった。二階にいるのに、メッセージで送ってくる。それだけで、この家の中に何が起きているかがわかった。
 『明日、母が灯里を迎えに来る。しばらく預ける。私は残る』
 悠は、その画面を長いあいだ見つめていた。
 私は残る。
 それがどれほどの覚悟か、悠にはわかった。璃子はこの町で生まれ育っている。明日から、彼女は「殺人犯の息子の嫁」としてスーパーのレジに並ぶことになる。
 悠は返信を打った。
 消した。
 もう一度打った。
 『ありがとう』
 送信して、悠は箸を置いた。
 窓の外で、風が鳴っていた。旧道のほうから、除雪車の音が近づいてくる。この町の冬の音だ。子どものころ、この音で目を覚ました。父はもう工場にいて、母は台所で味噌汁を温めていた。
 あの家に、真澄という名前の少女が来るはずだった夜が、確かにあった。
 そして、来なかった。
 悠は立ち上がり、玄関に向かった。コートを羽織り、車のキーを掴んだ。
 行き先は決まっていた。
 七年ぶりに、あの家の敷居を跨ぐ。
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