御神渡り(おみわたり)
第五章 三万円
1
通夜は、一月二十四日の夜だった。
会場に入りきらなかった。
斎場の職員が慌てて折りたたみ椅子を追加し、それでも足りず、駐車場に立ったまま焼香を待つ列ができた。ダウンジャケットを着た中学生が、母親と並んで震えながら順番を待っていた。
遠山千尋は、喪主席で頭を下げ続けた。
顔を知らない人ばかりだった。
「先生には、うちの息子が本当にお世話になって」
「私、遠山先生に助けてもらったんです。三十年前ですけど」
「先生がいなかったら、高校を辞めてました」
みんな、そう言った。
千尋は、そのたびに「ありがとうございます」と言った。ほかに言うことがなかった。父の何を知っているのか、と喉元まで出かかった言葉を、何度も飲み込んだ。
ここにいる誰もが、私より父を知っている。
それが、耐えがたかった。
報道はすでに大きくなっていた。
『時効の壁 三十四年前の少女殺し 元教師を口封じか』
『恩師の死 教え子ら悲しみ』
テレビは連日、あおば教室を映していた。無償で子どもたちに勉強を教えていた元高校教師。彼は三十四年前の未解決事件の真相を掴み、告発しようとして殺された。犯人は、被害少女の叔父。時効で罪に問われないはずの男が、それでも過去を隠すために、正義の人を殺した。
美しい物語だった。
千尋自身も、その物語を信じていた。信じることで、かろうじて立っていられた。
告別式の翌々日、千尋は東京に戻る予定だった。
だが、戻らなかった。
2
二階の書斎に上がったのは、二十七日の午後だった。
母は、階下で香典の整理をしている。千尋は父の机の前に座り、右の一番下の引き出しに手をかけた。
開けた。
中には、A4のファイルが五冊、立てて入っていた。
背表紙に、父の几帳面な字で年号が振ってある。「1992-1994」「1995-2000」――そして最後の一冊が「2020-」。
千尋は一冊目を引き出した。
開いた瞬間、息が止まった。
新聞の切り抜きだった。
――諏訪郡の女子高生、行方不明。
――八ヶ岳山麓の林道で白骨遺体。身元は行方不明の女子高生か。
――殺人事件として捜査本部。
三十年以上前の紙は茶色く変色し、触ると乾いた音がした。ページをめくるたびに、同じ少女の顔写真が現れる。制服姿の、髪の長い、笑っていない写真。証明写真を引き伸ばしたものだ。
平出真澄。
千尋は、その名前を初めてはっきりと意識した。
ファイルは切り抜きだけではなかった。父の手書きのメモが挟まっている。地図のコピーに赤い丸。バス停の時刻表。日付ごとの、誰かの証言の要約。
三十四年ぶん。
千尋は、五冊目を手に取った。
最新のファイルだ。ここには切り抜きはほとんどなく、代わりに、罫線のノートを破ったらしい紙が何枚も挟まっていた。
父の字。だが、書斎の几帳面な字ではない。震えている。
――一月十八日。三十三回目。今年も何もできなかった。
――咲穂さんは元気にしているだろうか。会いたいという気持ちは、傲慢だ。
――節子さんが亡くなった。もう、あの人しか残っていない。
――検査結果。膵臓。ステージⅣ。医師は半年と言った。ようやく、期限が切られた。
千尋の指が止まった。
ようやく、期限が切られた。
癌の告知を受けた人間の書く言葉ではない。
その次のページに、一行だけあった。
――もう、待たなくていい。
千尋は、ファイルを膝に置いたまま動けなくなった。
父は、何を待っていたのか。
3
夕方、千尋は階下に降りた。
母は、香典帳と電卓を前にして座っていた。老眼鏡がずり落ちている。
「お母さん」
「なあに」
「お父さんの通帳、どこにある?」
母は顔を上げた。
「なんで?」
「相続の手続き。全部の口座を出さないといけないから」
嘘ではなかった。だが、それが目的でないことも自分でわかっていた。
母は、仏間の押し入れから古い菓子箱を出してきた。中に、通帳が七冊、輪ゴムでまとめられていた。信用金庫、地方銀行、ゆうちょ。
千尋は、それを台所のテーブルに広げた。
年金の入金。公共料金の引き落とし。生活費の出金。何の変哲もない、六十四歳の男の生活の記録。
その中に、一つだけ、異質なものがあった。
諏訪の信用金庫の口座。毎月二十五日に、同じ金額が出ている。
三万円。
振込先の名義は、カタカナで印字されていた。
マキノ ツネオ
千尋は、その文字を三度読んだ。
牧野常雄。
父を殺した男の名前だ。
通帳を遡った。この一冊は二〇一九年からのもので、七年ぶん、毎月欠かさず三万円が放り込まれている。毎月かならず。
「お母さん」
千尋の声が変わったのが、自分でもわかった。
「これ、何」
母が覗き込んだ。老眼鏡を上げ、目を細めた。
「……ああ、それね」
「知ってたの」
「知ってた」
母は、あっさりと言った。
「昔から。ずっと前から」
「ずっと前って、いつから」
「あんたが生まれてすぐくらいには、もう」
千尋は、椅子から立ち上がっていた。
「三十年以上、この人にお金を渡してたってこと?」
「そうね」
「どうして」
「訊いたことないの」
「訊いたことがない?」
千尋の声が高くなった。
「毎月三万よ。三十年で、千万を超えるのよ。それを、訊いたことがない?」
母は、通帳を見つめたまま動かなかった。
「一度だけ、訊いたことがある」
母は言った。
「あんたが小学校に上がる年の春。何のお金なのって。そしたら、お父さんが、ごめん、って言ったの」
「ごめん?」
「ごめん、訊かないでくれって。それだけ。それきり、私は訊かなかった」
「なんで訊かないの!」
千尋は叫んでいた。自分でも驚くほどの大声だった。
「三十年よ。お母さん、三十年間、夫が何に金を払ってるかも知らないで暮らしてたの。それは、それで、」
言葉が出てこなかった。
母は、静かに言った。
「知りたくなかったのよ」
千尋は口を閉じた。
「私はね、千尋。知ったら、この生活がなくなると思ったの」
母は、初めて娘の顔を見た。
「あんたがまだ小さくて、お父さんは真面目に働いてて、日曜には三人でスーパーに行って、夏は花火を見に行って。そういう暮らしがあった。訊いたら、それが全部なくなる気がした。だから、訊かなかった」
母の目に、涙はなかった。
「私は、卑怯者よ。三十年、目をつぶった」
千尋は、椅子に座り直した。
膝が震えていた。
「お母さん。これ、たぶん、脅されてたんだよ」
千尋は言った。
「牧野って人が、お父さんに、金を要求してたんだ。三十四年前の事件のことを、お父さんは知ってた。だから口止め料を――ううん、逆だ。お父さんは牧野を告発したかったのに、何かの弱みを握られてて、それで払わされてた。それでずっと苦しんで、癌になって、もう失うものがないから、警察に行こうとして」
千尋の声は震えていた。
「それで、殺されたんだ」
母は、何も言わなかった。
千尋は、その筋書きに縋りついていた。
それなら、父はやはり被害者だ。三十四年間、悪人に食い物にされ、それでも最後には正しいことをしようとした人だ。
その物語なら、私は父を誇れる。
4
夜、千尋は東京の事務所に電話を入れ、忌引き明けもしばらく休むと伝えた。所長は、事情はニュースで見た、と言って、必要なだけ休めと言ってくれた。
電話を切って、千尋は再び書斎に上がった。
ファイルの最後の一冊、その裏表紙の内ポケットに、写真が一枚入っていた。
平出真澄の顔写真ではなかった。
スナップ写真だ。色が褪せている。高校のグラウンドらしき場所で、体操着姿の女子生徒たちが並んでいる。その端に、若い父が写っていた。三十歳の父。髪が黒い。今よりずっと痩せている。
そして、その隣に、髪の長い少女が立っていた。
笑っている。
新聞に載っていた、あの証明写真の少女とは別人のような顔だった。前歯が見える、大きな、屈託のない笑顔。
千尋は写真を裏返した。
父の字で、日付が書いてあった。
――1991.10.5
事件の三か月前だ。
千尋は、その写真を長いあいだ見ていた。
この少女が笑っている隣で、父も少しだけ笑っている。ぎこちなく、照れくさそうに。
私は、父のこんな顔を見たことがない。
そう思った瞬間、千尋の中で何かが崩れた。
嗚咽が喉から出た。膝から力が抜けて、床に座り込んだ。写真を胸に押しつけて、声を上げて泣いた。
悲しかったのではなかった。
悔しかった。
この人は、私の父親だったはずなのに。
なぜ、私はこの人のことを、こんなに知らないのだろう。
5
同じ夜、諏訪警察署の一室で、神津明は一枚の紙を見ていた。
金融機関への照会結果だった。
遠山克巳名義の口座から、牧野常雄名義の口座へ、毎月三万円。記録が確認できるのは電子データの残る二十年ぶんだが、信用金庫の担当者は「もっと前からあったはずだ」と証言している。
だが、神津が注目したのは、そこではなかった。
もう一枚の紙。
牧野常雄名義の口座の、入出金明細。
毎月二十五日、遠山克巳から三万円が入る。
そして毎月二十六日、同じ口座から三万円が出ていく。
振込先の名義。
クラタ サキホ
神津は、ボールペンの尻でこめかみを叩いた。
「梶谷」
「はい」
「牧野は、遠山から受け取った金を、そのまま倉田咲穂に送ってる」
「え」
「三十四年、右から左だ。一円も自分の懐に入れてない」
梶谷が、机の反対側から身を乗り出した。
「口止め料じゃない、ってことですか」
「口止め料なら、自分で使うだろう」
神津は椅子の背にもたれた。
「これは、仕送りだ」
窓の外は、真っ暗だった。
「じゃあ、倉田咲穂って、誰なんですか」
神津は答えなかった。
答えは、たぶん、もう出ている。だが、口に出すのが怖かった。
三十四年前、平出真澄には、七歳の妹がいた。
名前を、咲穂といった。
通夜は、一月二十四日の夜だった。
会場に入りきらなかった。
斎場の職員が慌てて折りたたみ椅子を追加し、それでも足りず、駐車場に立ったまま焼香を待つ列ができた。ダウンジャケットを着た中学生が、母親と並んで震えながら順番を待っていた。
遠山千尋は、喪主席で頭を下げ続けた。
顔を知らない人ばかりだった。
「先生には、うちの息子が本当にお世話になって」
「私、遠山先生に助けてもらったんです。三十年前ですけど」
「先生がいなかったら、高校を辞めてました」
みんな、そう言った。
千尋は、そのたびに「ありがとうございます」と言った。ほかに言うことがなかった。父の何を知っているのか、と喉元まで出かかった言葉を、何度も飲み込んだ。
ここにいる誰もが、私より父を知っている。
それが、耐えがたかった。
報道はすでに大きくなっていた。
『時効の壁 三十四年前の少女殺し 元教師を口封じか』
『恩師の死 教え子ら悲しみ』
テレビは連日、あおば教室を映していた。無償で子どもたちに勉強を教えていた元高校教師。彼は三十四年前の未解決事件の真相を掴み、告発しようとして殺された。犯人は、被害少女の叔父。時効で罪に問われないはずの男が、それでも過去を隠すために、正義の人を殺した。
美しい物語だった。
千尋自身も、その物語を信じていた。信じることで、かろうじて立っていられた。
告別式の翌々日、千尋は東京に戻る予定だった。
だが、戻らなかった。
2
二階の書斎に上がったのは、二十七日の午後だった。
母は、階下で香典の整理をしている。千尋は父の机の前に座り、右の一番下の引き出しに手をかけた。
開けた。
中には、A4のファイルが五冊、立てて入っていた。
背表紙に、父の几帳面な字で年号が振ってある。「1992-1994」「1995-2000」――そして最後の一冊が「2020-」。
千尋は一冊目を引き出した。
開いた瞬間、息が止まった。
新聞の切り抜きだった。
――諏訪郡の女子高生、行方不明。
――八ヶ岳山麓の林道で白骨遺体。身元は行方不明の女子高生か。
――殺人事件として捜査本部。
三十年以上前の紙は茶色く変色し、触ると乾いた音がした。ページをめくるたびに、同じ少女の顔写真が現れる。制服姿の、髪の長い、笑っていない写真。証明写真を引き伸ばしたものだ。
平出真澄。
千尋は、その名前を初めてはっきりと意識した。
ファイルは切り抜きだけではなかった。父の手書きのメモが挟まっている。地図のコピーに赤い丸。バス停の時刻表。日付ごとの、誰かの証言の要約。
三十四年ぶん。
千尋は、五冊目を手に取った。
最新のファイルだ。ここには切り抜きはほとんどなく、代わりに、罫線のノートを破ったらしい紙が何枚も挟まっていた。
父の字。だが、書斎の几帳面な字ではない。震えている。
――一月十八日。三十三回目。今年も何もできなかった。
――咲穂さんは元気にしているだろうか。会いたいという気持ちは、傲慢だ。
――節子さんが亡くなった。もう、あの人しか残っていない。
――検査結果。膵臓。ステージⅣ。医師は半年と言った。ようやく、期限が切られた。
千尋の指が止まった。
ようやく、期限が切られた。
癌の告知を受けた人間の書く言葉ではない。
その次のページに、一行だけあった。
――もう、待たなくていい。
千尋は、ファイルを膝に置いたまま動けなくなった。
父は、何を待っていたのか。
3
夕方、千尋は階下に降りた。
母は、香典帳と電卓を前にして座っていた。老眼鏡がずり落ちている。
「お母さん」
「なあに」
「お父さんの通帳、どこにある?」
母は顔を上げた。
「なんで?」
「相続の手続き。全部の口座を出さないといけないから」
嘘ではなかった。だが、それが目的でないことも自分でわかっていた。
母は、仏間の押し入れから古い菓子箱を出してきた。中に、通帳が七冊、輪ゴムでまとめられていた。信用金庫、地方銀行、ゆうちょ。
千尋は、それを台所のテーブルに広げた。
年金の入金。公共料金の引き落とし。生活費の出金。何の変哲もない、六十四歳の男の生活の記録。
その中に、一つだけ、異質なものがあった。
諏訪の信用金庫の口座。毎月二十五日に、同じ金額が出ている。
三万円。
振込先の名義は、カタカナで印字されていた。
マキノ ツネオ
千尋は、その文字を三度読んだ。
牧野常雄。
父を殺した男の名前だ。
通帳を遡った。この一冊は二〇一九年からのもので、七年ぶん、毎月欠かさず三万円が放り込まれている。毎月かならず。
「お母さん」
千尋の声が変わったのが、自分でもわかった。
「これ、何」
母が覗き込んだ。老眼鏡を上げ、目を細めた。
「……ああ、それね」
「知ってたの」
「知ってた」
母は、あっさりと言った。
「昔から。ずっと前から」
「ずっと前って、いつから」
「あんたが生まれてすぐくらいには、もう」
千尋は、椅子から立ち上がっていた。
「三十年以上、この人にお金を渡してたってこと?」
「そうね」
「どうして」
「訊いたことないの」
「訊いたことがない?」
千尋の声が高くなった。
「毎月三万よ。三十年で、千万を超えるのよ。それを、訊いたことがない?」
母は、通帳を見つめたまま動かなかった。
「一度だけ、訊いたことがある」
母は言った。
「あんたが小学校に上がる年の春。何のお金なのって。そしたら、お父さんが、ごめん、って言ったの」
「ごめん?」
「ごめん、訊かないでくれって。それだけ。それきり、私は訊かなかった」
「なんで訊かないの!」
千尋は叫んでいた。自分でも驚くほどの大声だった。
「三十年よ。お母さん、三十年間、夫が何に金を払ってるかも知らないで暮らしてたの。それは、それで、」
言葉が出てこなかった。
母は、静かに言った。
「知りたくなかったのよ」
千尋は口を閉じた。
「私はね、千尋。知ったら、この生活がなくなると思ったの」
母は、初めて娘の顔を見た。
「あんたがまだ小さくて、お父さんは真面目に働いてて、日曜には三人でスーパーに行って、夏は花火を見に行って。そういう暮らしがあった。訊いたら、それが全部なくなる気がした。だから、訊かなかった」
母の目に、涙はなかった。
「私は、卑怯者よ。三十年、目をつぶった」
千尋は、椅子に座り直した。
膝が震えていた。
「お母さん。これ、たぶん、脅されてたんだよ」
千尋は言った。
「牧野って人が、お父さんに、金を要求してたんだ。三十四年前の事件のことを、お父さんは知ってた。だから口止め料を――ううん、逆だ。お父さんは牧野を告発したかったのに、何かの弱みを握られてて、それで払わされてた。それでずっと苦しんで、癌になって、もう失うものがないから、警察に行こうとして」
千尋の声は震えていた。
「それで、殺されたんだ」
母は、何も言わなかった。
千尋は、その筋書きに縋りついていた。
それなら、父はやはり被害者だ。三十四年間、悪人に食い物にされ、それでも最後には正しいことをしようとした人だ。
その物語なら、私は父を誇れる。
4
夜、千尋は東京の事務所に電話を入れ、忌引き明けもしばらく休むと伝えた。所長は、事情はニュースで見た、と言って、必要なだけ休めと言ってくれた。
電話を切って、千尋は再び書斎に上がった。
ファイルの最後の一冊、その裏表紙の内ポケットに、写真が一枚入っていた。
平出真澄の顔写真ではなかった。
スナップ写真だ。色が褪せている。高校のグラウンドらしき場所で、体操着姿の女子生徒たちが並んでいる。その端に、若い父が写っていた。三十歳の父。髪が黒い。今よりずっと痩せている。
そして、その隣に、髪の長い少女が立っていた。
笑っている。
新聞に載っていた、あの証明写真の少女とは別人のような顔だった。前歯が見える、大きな、屈託のない笑顔。
千尋は写真を裏返した。
父の字で、日付が書いてあった。
――1991.10.5
事件の三か月前だ。
千尋は、その写真を長いあいだ見ていた。
この少女が笑っている隣で、父も少しだけ笑っている。ぎこちなく、照れくさそうに。
私は、父のこんな顔を見たことがない。
そう思った瞬間、千尋の中で何かが崩れた。
嗚咽が喉から出た。膝から力が抜けて、床に座り込んだ。写真を胸に押しつけて、声を上げて泣いた。
悲しかったのではなかった。
悔しかった。
この人は、私の父親だったはずなのに。
なぜ、私はこの人のことを、こんなに知らないのだろう。
5
同じ夜、諏訪警察署の一室で、神津明は一枚の紙を見ていた。
金融機関への照会結果だった。
遠山克巳名義の口座から、牧野常雄名義の口座へ、毎月三万円。記録が確認できるのは電子データの残る二十年ぶんだが、信用金庫の担当者は「もっと前からあったはずだ」と証言している。
だが、神津が注目したのは、そこではなかった。
もう一枚の紙。
牧野常雄名義の口座の、入出金明細。
毎月二十五日、遠山克巳から三万円が入る。
そして毎月二十六日、同じ口座から三万円が出ていく。
振込先の名義。
クラタ サキホ
神津は、ボールペンの尻でこめかみを叩いた。
「梶谷」
「はい」
「牧野は、遠山から受け取った金を、そのまま倉田咲穂に送ってる」
「え」
「三十四年、右から左だ。一円も自分の懐に入れてない」
梶谷が、机の反対側から身を乗り出した。
「口止め料じゃない、ってことですか」
「口止め料なら、自分で使うだろう」
神津は椅子の背にもたれた。
「これは、仕送りだ」
窓の外は、真っ暗だった。
「じゃあ、倉田咲穂って、誰なんですか」
神津は答えなかった。
答えは、たぶん、もう出ている。だが、口に出すのが怖かった。
三十四年前、平出真澄には、七歳の妹がいた。
名前を、咲穂といった。