御神渡り(おみわたり)

第六章 鉄の階段

 1
 七年ぶりの家は、他人の家のようだった。
 合鍵はまだ持っていた。捨てられなかったのか、捨てそびれたのか、自分でもわからない。玄関の引き戸を開けると、冷えた空気が流れ出してきた。人のいない家の匂いがした。
 牧野悠は、靴を脱いで上がった。
 廊下の電気をつけて、最初に気づいたのは、物がないことだった。
 子どものころ、この廊下には物が溢れていた。工場から持ち帰った部品の箱、新聞の束、母が押し入れに入れきれなかった衣類。それが今は、何もない。板の間が、剥き出しのまま光っている。
 台所も同じだった。食器棚には茶碗が一つ、湯呑みが一つ、皿が二枚。それだけ。
 この家は、片づけられている。
 一人の人間が、もう戻らないつもりで片づけた家だ。
 悠は、居間の卓袱台に目を留めた。
 紙の束が、きちんと揃えて置かれていた。
 工場と土地の登記識別情報。預金通帳が三冊。生命保険の証書。そして、いちばん上に、便箋が一枚。
 悠は震える手でそれを取った。
 父の字だった。工場の伝票と同じ、角ばった、癖のある字。
 ――悠へ
 ――この家と土地は、売ってくれてかまわない。買い手がつかなければ、そのままにしておけ。
 ――保険は解約するな。おれが死ぬまで置いておけ。
 ――金は、少ないが残っている。灯里の学費にしてくれ。
 ――すまん。
 それだけだった。
 言い訳が一行もない。謝罪も、「すまん」の二文字だけ。
 悠は便箋を卓袱台に戻した。
 この人は、自首する前に、家の中を片づけて、財産の始末をつけて、息子に宛てて六行の手紙を書いた。それが済んでから、警察へ行った。
 用意周到すぎる。
 殺してしまって怖くなり、耐えきれずに出頭した人間の行動ではない。
 悠は、仏間の襖を開けた。
 仏壇の扉が開いていた。線香立てに、灰が新しい。花も枯れていない。誰かが、ついこのあいだ換えたのだ。
 写真立てが二つ。
 一つは母だった。五十代のころの、笑っている母。
 もう一つを、悠は初めて見た。
 制服姿の少女。セーラー服ではなく、紺のブレザー。髪が長い。証明写真だ。ニュースで見た顔と同じだった。
 平出真澄。
 悠は膝をついた。
 仏壇の下の引き出しを開けると、過去帳と、薄いノートが一冊入っていた。
 ノートを開いた。
 日付が並んでいた。
 ――平成五年一月十八日 晴 寒い
 ――平成六年一月十八日 雪
 ――平成七年一月十八日 曇
 三十四年ぶん。一年に一行ずつ。天気だけ。
 最後のページに、こう書いてあった。
 ――令和八年一月十八日 雪 これで、しまいにする。
 悠は、ノートを閉じた。
 閉じてから、もう一度開いて、その一行を見た。
 これで、しまいにする。
 その日は、遠山克巳が石段の下で見つかった日だ。

 2
 悠は仏間を出て、渡り廊下から工場に入った。
 スイッチを探り当てて押すと、水銀灯が数秒かかって点いた。青白い光が、埃をかぶった機械を照らし出した。
 八十トンのプレス機が三台。シャーリング。旋盤。すべてが油の膜をかぶって眠っている。廃業して八年、父はこれを一台も売らなかった。売れば金になったはずだ。
 悠は、奥の壁際を見た。
 鉄骨の階段があった。二階の資材置き場に上がる、幅の狭い、急な階段。
 父はここから真澄が落ちた、と供述したという。
 悠は階段に近づいた。
 手すりを掴んだ。冷たい鉄の感触。この階段を、悠は何百回も上り下りしている。小学生のころ、二階は秘密基地だった。母に叱られながら、ここで漫画を読んだ。
 その手が、止まった。
 悠は、階段の裾のあたりに屈み込んだ。
 基礎のコンクリートに、鉄骨のベースプレートがアンカーボルトで留まっている。ボルトの頭に、錆はほとんどない。溶接部の塗装も、周囲の建物に比べると新しい。
 悠は立ち上がり、周囲を見回した。
 壁の高いところに、古い塗装の色が残っている。もとの階段があった場所には、跡が残るはずだ。
 あった。
 いまの階段から二メートルほど離れた壁面に、うっすらと、別の形の取り付け跡があった。
 悠は、思い出していた。
 小学校の二年か三年のときだ。工場に大きなトラックが来て、二日がかりで作業をしていた。古い階段が切り取られて運び出され、新しいのが入った。父が「もう階段が保たん」と言っていた。
 あれは、いつだ。
 悠は工場の事務所に入った。壁のスチール棚に、ファイルが並んでいる。父は書類を捨てない人だった。
 三十分探して、悠はそれを見つけた。
 工事の請書だった。
 ――件名 工場内 鉄骨階段 撤去及び新設工事
 ――平成十年七月十日
 一九九八年。
 悠は、その紙を握りしめた。
 一九九二年一月、この工場に、いまの階段はなかった。
 父は、六年後に付け替えられた階段から、姪が落ちたと言っている。

 3
 外に出ると、雪がやんでいた。
 空気が刃物のように冷たい。悠は白い息を吐きながら、車のドアに手をかけた。
 そのとき、旧道のほうから、ヘッドライトが近づいてきた。
 軽自動車が、家の前で停まった。エンジンが切れる。降りてきたのは、若い女だった。ダウンコートの襟に顎を埋め、家の看板を見上げている。
 女は、悠に気づいた。
 二人はしばらく、雪明かりの中で向かい合っていた。
「――牧野さんの、ご家族の方ですか」
 女が先に口を開いた。
 悠は、答えるべきかどうか迷った。
「そうです」
 女の顔が、こわばった。
「息子さん?」
「はい」
「そうですか」
 女は、ゆっくりと近づいてきた。街灯の下に入ったとき、悠はその顔を見た。三十代半ばだろうか。目元が赤い。泣いたあとの顔だ。
「遠山千尋といいます」
 悠の体が固まった。
「遠山克巳の、娘です」
 沈黙が落ちた。
 除雪車の遠い音だけが、旧道の向こうから聞こえていた。
「……申し訳ありません」
 悠は、頭を下げた。深く。角度を測るような余裕はなかった。ただ、腰から折るように下げた。
「本当に、申し訳ありませんでした」
 返事はなかった。
 顔を上げると、千尋は、まっすぐに悠を見ていた。
「なぜ謝るんですか」
「え」
「あなたが殺したんですか」
 悠は言葉に詰まった。
「違います」
「じゃあ、なぜ謝るんですか」
 千尋の声は、震えていた。怒りで震えていた。
「私、謝ってほしくないんです。謝られたら、こっちは許すか許さないか決めなきゃいけない。そんなの、決められるわけない。父が死んで、十日しか経ってないんですよ」
 悠は、返す言葉を持たなかった。
「それに、あなたが謝ったら、あなたのお父さんは謝らなくていいことになる」
 千尋は言った。
「私は、あの人の口から謝罪の言葉を聞きたい」
 悠は、頷いた。
「私も、そう思います」
「え」
「私も、父の口から聞きたい。何一つ聞いていません。七年、会ってもいなかった」
 千尋の表情が、わずかに動いた。
「……七年」
「母が死んでから、父とは絶縁状態でした。今日、久しぶりにこの家に入って、初めて仏壇に平出真澄さんの写真があるのを見ました。私は、その人の存在も知りませんでした。母の姪ですから、私にとっては従姉です。それすら、知らなかった」
 悠は、自分の声が奇妙に平坦なのに気づいた。
「私は、父を知りません」
 千尋は、しばらく黙っていた。
 やがて、視線を落として、言った。
「……私もです」
 悠は千尋を見た。
「私も、父を知りませんでした」
 千尋は自嘲するように笑った。
「通夜に、二百人来たんです。みんな、父にお世話になったって。私、その人たちの誰一人、顔も名前も知らなかった。父が最後に何を考えてたかも知らない。父がどうして三十四年間、あなたのお父さんに毎月三万円払ってたのかも、知らない」
 悠の耳が、その数字を捉えた。
「三万円?」
「知りませんか」
「初耳です」
 千尋は、口の端を歪めた。
「私は、脅されてたんだと思ってます」
「父が、あなたのお父さんを?」
「ほかに理由がありますか」
 悠は、即答できなかった。
 あの家に、金の匂いはなかった。あの片づいた家、茶碗一つの食器棚。三十四年間、月三万円を受け取ってきた人間の暮らしとは思えない。
「わかりません」悠は正直に言った。「でも、うちに、そんな金はなかったと思います」
「じゃあ、どこに消えたんですか」
「わかりません」
 千尋は苛立ったように息を吐いた。
「あなた、さっきから、わかりませんばっかりですね」
「そうです」
 悠は言った。
「私は、何もわかっていません。ただ、一つだけ、わかったことがあります」
 悠は、握りしめていた紙を差し出した。
 千尋は、怪訝な顔でそれを受け取った。街灯の光にかざして読む。
「……工事の、請書?」
「うちの工場の、鉄の階段を付け替えたときのものです。父は警察に、その階段から真澄さんが落ちたと話しているそうです。ニュースでそう言っていました」
 千尋は日付を見た。
「平成十年」
「一九九八年です。事件の、六年後です」
 千尋の顔から、表情が消えた。
「どういう……ことですか」
「父は、噓をついています」
 悠は言った。自分の声が、雪の上で妙に大きく響いた。
「少なくとも、三十四年前のことについては」

 4
 千尋は、その紙を手に持ったまま、動かなかった。
「あなた、何が言いたいんですか」
 千尋の声は低かった。
「お父さんは無実だって言いたいんですか。娘の私に、それを言いに来たんですか」
「違います」
「じゃあ何ですか」
「わかりません」
 悠は言った。
「でも、父が嘘をついているなら、その嘘には理由があります。理由を知りたい。ただ、それだけです」
 千尋は紙を悠に突き返した。
「知ってどうするんですか」
「わかりません」
「またそれですか」
「はい」
 千尋は、悠の顔をじっと見た。
 それから、視線を外して、暗い工場のほうを見た。
「……見せてください」
「え」
「その階段」
 悠は千尋を見返した。
「あの、いま、ですか」
「いま以外、いつ見るんですか」
 千尋は先に立って、工場の入口に向かって歩き出した。
 悠は慌ててあとを追った。
 水銀灯が、また青白く点った。冷えきった空気の中に、油と鉄の匂いが漂っていた。
 千尋は、その匂いの中で立ち止まった。三十四年前、彼女の父親が知っていたはずの匂い。彼女がまだ、母親の腹の中にいたころの匂い。
「これが、その階段ですか」
「新しいほうです」
 悠は壁を指した。
「もとの階段は、あそこにありました」
 千尋は壁を見上げた。それから、自分でも意識しないまま、その場所に近づいて、床を見下ろした。
 コンクリートの床。油の染み。三十四年ぶんの、時間の層。
 千尋は、そこにしゃがみ込んだ。
 悠は声をかけられなかった。
 しばらくして、千尋が言った。
「牧野さん」
「はい」
「私、あなたのことを憎まなきゃいけないと思ってました」
「はい」
「でも、憎むにはあなたのこと、知らなすぎる」
 千尋は立ち上がって、振り返った。
「一緒に調べてくれませんか」
 悠は、目を見開いた。
「私は、父の名誉を守りたいんです」千尋は言った。「あなたは、お父さんの嘘の理由を知りたい。たぶん、同じ場所に行き着く」
「もし」悠は言った。「もし、行き着いた場所が、あなたの望むものじゃなかったら」
 千尋は、その質問を予想していなかったようだった。
 長い沈黙のあと、彼女は言った。
「それでも、知らないよりましです」
 悠には、その言葉が、彼女自身に言い聞かせるように聞こえた。
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