御神渡り(おみわたり)
第七章 名乗らない声
1
「階段の件ですが」
神津明は、取調室でそう切り出した。
勾留十日目。牧野常雄の頬は、さらにこけていた。それでも背筋は伸びている。
「あなたが以前おっしゃった、工場の鉄骨階段。あれが設置されたのは、平成十年七月です。事件の六年後だ」
牧野は、瞬きをした。
一秒。二秒。
「そうでしたか」
「そうでしたか、では困ります」
「私の記憶違いです」
牧野は、あっさりと言った。
「あのころの階段は、木でした。木の階段から落ちたんです。付け替えたのは、木が腐って危なくなったからです」
神津は、机の下で自分の膝を掴んだ。
滑らかすぎる。
嘘をつく人間は、指摘されると必ず一度、詰まる。詰まって、言い訳を探して、それから修正する。この男は探さない。用意された嘘を言うだけだ。
「牧野さん」
「はい」
「あなたは、三十四年前の一月十八日の夜、どんな服を着ていましたか」
「作業着です」
「色は」
「紺だったと思います」
「靴は」
「安全靴です」
「その晩、夕飯は何を食べましたか」
牧野の口が、わずかに開いた。
そして、閉じた。
「――覚えていません」
神津は、初めて手応えを感じた。
「覚えていない、とおっしゃいましたね」
「はい」
「三十四年前の夕飯のことは覚えていない。だが、着ていた服の色と靴の種類は覚えている」
「服は、いつも同じでしたから」
「なるほど」
神津は手帳を閉じた。
「では、もう一つだけ。真澄さんの遺体を運んだトラック。車種は」
「日産のアトラスです」
「色は」
「白です」
「ナンバーは」
「そこまでは」
「そのトラックは、いまどこに」
「二十年以上前に廃車にしました」
神津は立ち上がった。
「牧野さん。あなたは、私が何を訊いても答えられる」
牧野は答えなかった。
「一つだけ、教えてください。あなたは、なぜ答えられるんですか」
初めて、牧野の目が神津の目を捉えた。
「三十四年、毎日考えてきたからです」
それは、噓には聞こえなかった。
2
特別養護老人ホーム「やつがね」は、茅野市の郊外にあった。
面会室に現れた老人は、車椅子ではなく、自分の足で歩いてきた。八十一歳。背は縮んでいるが、肩幅は広い。
「綿貫良一さん、でよろしいですか」
「そうだが、あんた誰さ」
「県警本部の神津といいます」
綿貫良一は、しばらく神津の顔を見ていた。
「本部? やけに若いな」
「四十八です」
「若いよ、そりゃ」
綿貫は笑って、椅子に座った。
神津は、面会前に施設の職員から聞いた話を思い出していた。三年前から認知症の症状があり、進行は緩やかだが、直近の記憶が保てない。ただし、昔のことは驚くほどよく覚えている。とくに、仕事のこと。
「玉川の女子高生の件で、伺いました」
綿貫の表情が変わった。
背筋が伸びた。目に光が入った。四十年前に鍛え直された筋肉が、記憶の中から起き上がってくるのが見えるようだった。
「平出真澄」
綿貫は、そう言った。
「昭和四十九年十一月三日生まれ。諏訪東高校二年。行方不明が平成四年一月十八日。骨が出たのが六年の五月十七日。土曜だ。山菜採りの夫婦が見つけた」
神津は、鳥肌が立つのを感じた。
「よく覚えておられる」
「忘れられるかい」
綿貫は、両手を膝に置いた。
「わしはあの事件で、人を一人、殺しとる」
神津はペンを止めた。
「浅倉隆之さんのことですか」
「継父だ。塗装工の。酒癖が悪くてな。娘に手を上げとったのも本当だ。だが、殺しちゃおらんかった」
「証拠が出なかった、ということですか」
「出なかったんじゃない。ないんだ」
綿貫は、はっきりと言った。
「わしらは五年、あの男を追った。任意で呼んで、朝から晩まで取り調べた。家の前に車を停めて見張った。近所に聞き込みをして、あいつの仕事先にも行った。塗装屋の仕事はそれで辞めさせられた。女房は出ていった。あいつは酒を飲んで、平成九年の秋に、自分ちの物置で首を吊った」
綿貫の声は乾いていた。
「遺書に、一行だけあった。――やってません。それだけだ」
神津は、何も言えなかった。
「わしらは、犯人を捕まえられんかった上に、無実の男を殺した」綿貫は言った。「だから、時効が来た日も、わしは一睡もできんかった」
「綿貫さん」神津は言った。「当時、公表していない事実がありましたね」
「ガラスか」
「はい」
「あれがなあ」
綿貫は、天井を見上げた。
「あの子の髪の毛と、セーターの繊維の中から、細かいガラスが出た。フロントガラスの合わせガラスだ。ずいぶん細かく砕けとった。それも、かなりの量が」
「車に轢かれた、ということでしょうか」
「轢かれたんなら、下半身の骨がもっと折れる。あの子は、頭と、左の腕と、肋骨と、骨盤の右だ」
綿貫は、自分の体の左側を手で示した。
「投げ出されとる」
「投げ出された?」
「車の中から、外へだ。シートベルトをしとらん人間が、事故ったときの折れ方だよ。前に飛んで、フロントガラスを突き破って、外の何かに当たる」
神津は、体が冷たくなるのを感じた。
「あの子は、事故で死んだんだ」
綿貫は、静かに言った。
「わしはそう思っとった。だが、事故なら、なんで山に埋める。事故なら、なんで通報せん。それがわからんかった」
「上には言われましたか」
「言ったさ。だが、上は殺しで動いとった。それに、事故だとしたら、車が見つからにゃならん。県内の修理工場を片っ端から当たったが、それらしいのは出んかった」
綿貫は、そこで言葉を切った。
窓の外で、鳥が飛び立つ音がした。
「一つ、な」
綿貫は言った。
「言えんかったことがある」
「なんでしょう」
「電話だ」
「電話」
「平成六年の、骨が出た直後だ。茅野署の代表にかかってきた。夜だった。わしが取った」
綿貫は、宙を見ていた。
「男の声だ。若くはない。三十過ぎくらいか。名乗らん」
「なんと」
「――浅倉じゃない」
綿貫は言った。
「それだけだ。それだけ言って、切れた」
神津は、ゆっくりと息を吐いた。
「逆探知は」
「あの時代だ。無理さ。公衆電話だろう」
「その情報は、記録に」
「上げなかった」
綿貫は、初めて目を伏せた。
「悪戯だと思った。いや、思いたかった。あのとき、わしらはもう浅倉で決めとった。あの電話一本を上げたら、また全部やり直しだ。捜査本部が三十人動いとった。わしは巡査部長で、四十九だった」
老人の手が、膝の上で震えていた。
「あの電話を上げとったら、浅倉は死ななかったかもしれん」
神津は、その手を見ていた。
三十二年。この老人は、たった一本の電話を、三十二年抱えてきた。
「綿貫さん」
「なんだ」
「その声、もし今、聞いたらわかりますか」
綿貫は、少し笑った。
「わからんよ。わしは、自分がさっき何を食ったかも忘れる」
そして、こう言った。
「でも、覚えとることが一つある」
「はい」
「あの声はな、泣いとった」
3
施設を出ると、外は明るかった。
久しぶりの晴天だった。八ヶ岳が白く、輪郭が痛いほどはっきりと見えた。
車に戻り、神津はしばらくエンジンをかけなかった。
「梶谷」
「はい」
「牧野の供述で、車の話は一度も出てきてない」
「はい」
「ガラスのことも、当然、出てこない」
「本人が知らないからですね」
「いや」
神津は、フロントガラスの向こうの山を見ていた。
「知ってるはずだ」
「え?」
「三十四年前、誰かがあの子を土に埋めた。埋めたやつは、あの子の髪にガラスが入っていたことを見ている可能性が高い。少なくとも、あの子が車から放り出されたことは知っている」
神津は、キーを回した。
「牧野は、それを絶対に言わない」
「なぜです」
「言えば、車の話になるからだ」
エンジンがかかった。
「車の話になれば、運転していた人間の話になる」
梶谷が、はっと顔を上げた。
「牧野は――誰かを庇ってる」
「三十四年、庇い続けてきたんだ」
神津はハンドルを握った。
「その庇ってきた相手が、先週、死んだ」
4
同じころ、遠山千尋と牧野悠は、玉川の林道にいた。
除雪が入っているのは途中までで、あとは轍の跡を頼りに歩いた。三十分ほど上ったところで、悠が足を止めた。
「たぶん、このあたりです」
悠は、市立図書館で複写してきた当時の新聞の地図と、スマートフォンの地形図を見比べていた。
落葉松の林だった。三十四年ぶんの時間が経っていても、林はそれほど変わらない。木は太くなり、下草が増えただけだ。
千尋は、林の中に入った。
雪は膝まであった。歩くたびに、乾いた音がする。
どこだろう、と千尋は思った。この林のどこかに、十七歳の少女が二年間、埋まっていた。
千尋は立ち止まり、振り返った。
木立の切れ間から、下界が見えた。
諏訪湖だった。
白くはない。この冬も凍っていない。冬の陽を浴びて、鈍く光る鉛色の面が、盆地の底に広がっていた。
「湖が見える」
千尋は言った。
悠が隣に来た。
「ほんとだ」
二人は、しばらく黙ってそれを見ていた。
「牧野さん」
「はい」
「私、ずっと考えてるんです」
千尋は湖から目を離さずに言った。
「父は、なぜこの事件にこだわったのか。担任だったからと言えば、それまでです。でも、三十四年です。三十四年間、切り抜きを集めて、毎年一月十八日にノートに何か書いて、毎月三万円を送って」
「三万円は、うちの父に」
「そう思ってました」
千尋は言った。
「でも、警察の人に訊いたんです。父の口座から、あなたのお父さんの口座に振り込まれていた三万円は、どうなっていたんですかって。教えてもらえませんでした。教えてもらえなかったってことは、何かあるんです」
悠は、雪の上を見ていた。
「うちには、そんな金、なかったです」
「じゃあ、どこに行ったんでしょう」
悠は答えなかった。
風が渡り、落葉松の細い枝が鳴った。
「牧野さん」
「はい」
「怖いことを言ってもいいですか」
「どうぞ」
千尋は、深く息を吸った。
「父が、この事件に関わっていたとしたら」
悠は、千尋のほうを見た。
「関わっていた、というのは」
「わかりません。でも」
千尋の唇が震えていた。寒さのせいではなかった。
「あの人は、罰を受けてるって言ってたそうです。父の友達が、警察にそう証言したって、母が聞いてきました。無期懲役がついてる、って」
「無期懲役」
「そんな言葉、普通は使いません」
千尋は、両手を口元に当てた。
「私、ここに来るまで、この事件のことを、父が追いかけた正義の話だと思ってたんです。でも、この林に立って、湖を見たら」
彼女は、そこで一度、言葉を切った。
「父は、ここに来たことがあると思った」
悠は、何も言えなかった。
「牧野さん」
千尋は振り返った。目が真っ赤だった。
「私、やめたほうがいいですか」
「何をですか」
「調べるの」
悠は、雪の中に立っていた。
この人は、ほんとうは答えを知っている、と悠は思った。知っていて、誰かに止めてほしいのだ。
「私は」
悠は言った。
「私は、やめられません。私の娘が、いま、学校に行けなくなっているので」
千尋は、悠の顔を見た。
「でも、遠山さんは、やめてもいいと思います」
悠は続けた。
「あなたは、お父さんを立派な人だと思ったまま生きられる。私にはそれができない。だから私は続けます。でも、あなたが降りることを、私は責めません」
千尋は、長いあいだ黙っていた。
それから、林の奥に向き直った。誰も立ち入らない、雪の積もった落葉松の下。三十四年前の一月十九日の未明、二人の男がスコップを振るった場所。
「降りません」
千尋は言った。
「もし父が何かをしたのなら、それを知らないまま、あの人の娘として生きるほうが、私には無理です」
「階段の件ですが」
神津明は、取調室でそう切り出した。
勾留十日目。牧野常雄の頬は、さらにこけていた。それでも背筋は伸びている。
「あなたが以前おっしゃった、工場の鉄骨階段。あれが設置されたのは、平成十年七月です。事件の六年後だ」
牧野は、瞬きをした。
一秒。二秒。
「そうでしたか」
「そうでしたか、では困ります」
「私の記憶違いです」
牧野は、あっさりと言った。
「あのころの階段は、木でした。木の階段から落ちたんです。付け替えたのは、木が腐って危なくなったからです」
神津は、机の下で自分の膝を掴んだ。
滑らかすぎる。
嘘をつく人間は、指摘されると必ず一度、詰まる。詰まって、言い訳を探して、それから修正する。この男は探さない。用意された嘘を言うだけだ。
「牧野さん」
「はい」
「あなたは、三十四年前の一月十八日の夜、どんな服を着ていましたか」
「作業着です」
「色は」
「紺だったと思います」
「靴は」
「安全靴です」
「その晩、夕飯は何を食べましたか」
牧野の口が、わずかに開いた。
そして、閉じた。
「――覚えていません」
神津は、初めて手応えを感じた。
「覚えていない、とおっしゃいましたね」
「はい」
「三十四年前の夕飯のことは覚えていない。だが、着ていた服の色と靴の種類は覚えている」
「服は、いつも同じでしたから」
「なるほど」
神津は手帳を閉じた。
「では、もう一つだけ。真澄さんの遺体を運んだトラック。車種は」
「日産のアトラスです」
「色は」
「白です」
「ナンバーは」
「そこまでは」
「そのトラックは、いまどこに」
「二十年以上前に廃車にしました」
神津は立ち上がった。
「牧野さん。あなたは、私が何を訊いても答えられる」
牧野は答えなかった。
「一つだけ、教えてください。あなたは、なぜ答えられるんですか」
初めて、牧野の目が神津の目を捉えた。
「三十四年、毎日考えてきたからです」
それは、噓には聞こえなかった。
2
特別養護老人ホーム「やつがね」は、茅野市の郊外にあった。
面会室に現れた老人は、車椅子ではなく、自分の足で歩いてきた。八十一歳。背は縮んでいるが、肩幅は広い。
「綿貫良一さん、でよろしいですか」
「そうだが、あんた誰さ」
「県警本部の神津といいます」
綿貫良一は、しばらく神津の顔を見ていた。
「本部? やけに若いな」
「四十八です」
「若いよ、そりゃ」
綿貫は笑って、椅子に座った。
神津は、面会前に施設の職員から聞いた話を思い出していた。三年前から認知症の症状があり、進行は緩やかだが、直近の記憶が保てない。ただし、昔のことは驚くほどよく覚えている。とくに、仕事のこと。
「玉川の女子高生の件で、伺いました」
綿貫の表情が変わった。
背筋が伸びた。目に光が入った。四十年前に鍛え直された筋肉が、記憶の中から起き上がってくるのが見えるようだった。
「平出真澄」
綿貫は、そう言った。
「昭和四十九年十一月三日生まれ。諏訪東高校二年。行方不明が平成四年一月十八日。骨が出たのが六年の五月十七日。土曜だ。山菜採りの夫婦が見つけた」
神津は、鳥肌が立つのを感じた。
「よく覚えておられる」
「忘れられるかい」
綿貫は、両手を膝に置いた。
「わしはあの事件で、人を一人、殺しとる」
神津はペンを止めた。
「浅倉隆之さんのことですか」
「継父だ。塗装工の。酒癖が悪くてな。娘に手を上げとったのも本当だ。だが、殺しちゃおらんかった」
「証拠が出なかった、ということですか」
「出なかったんじゃない。ないんだ」
綿貫は、はっきりと言った。
「わしらは五年、あの男を追った。任意で呼んで、朝から晩まで取り調べた。家の前に車を停めて見張った。近所に聞き込みをして、あいつの仕事先にも行った。塗装屋の仕事はそれで辞めさせられた。女房は出ていった。あいつは酒を飲んで、平成九年の秋に、自分ちの物置で首を吊った」
綿貫の声は乾いていた。
「遺書に、一行だけあった。――やってません。それだけだ」
神津は、何も言えなかった。
「わしらは、犯人を捕まえられんかった上に、無実の男を殺した」綿貫は言った。「だから、時効が来た日も、わしは一睡もできんかった」
「綿貫さん」神津は言った。「当時、公表していない事実がありましたね」
「ガラスか」
「はい」
「あれがなあ」
綿貫は、天井を見上げた。
「あの子の髪の毛と、セーターの繊維の中から、細かいガラスが出た。フロントガラスの合わせガラスだ。ずいぶん細かく砕けとった。それも、かなりの量が」
「車に轢かれた、ということでしょうか」
「轢かれたんなら、下半身の骨がもっと折れる。あの子は、頭と、左の腕と、肋骨と、骨盤の右だ」
綿貫は、自分の体の左側を手で示した。
「投げ出されとる」
「投げ出された?」
「車の中から、外へだ。シートベルトをしとらん人間が、事故ったときの折れ方だよ。前に飛んで、フロントガラスを突き破って、外の何かに当たる」
神津は、体が冷たくなるのを感じた。
「あの子は、事故で死んだんだ」
綿貫は、静かに言った。
「わしはそう思っとった。だが、事故なら、なんで山に埋める。事故なら、なんで通報せん。それがわからんかった」
「上には言われましたか」
「言ったさ。だが、上は殺しで動いとった。それに、事故だとしたら、車が見つからにゃならん。県内の修理工場を片っ端から当たったが、それらしいのは出んかった」
綿貫は、そこで言葉を切った。
窓の外で、鳥が飛び立つ音がした。
「一つ、な」
綿貫は言った。
「言えんかったことがある」
「なんでしょう」
「電話だ」
「電話」
「平成六年の、骨が出た直後だ。茅野署の代表にかかってきた。夜だった。わしが取った」
綿貫は、宙を見ていた。
「男の声だ。若くはない。三十過ぎくらいか。名乗らん」
「なんと」
「――浅倉じゃない」
綿貫は言った。
「それだけだ。それだけ言って、切れた」
神津は、ゆっくりと息を吐いた。
「逆探知は」
「あの時代だ。無理さ。公衆電話だろう」
「その情報は、記録に」
「上げなかった」
綿貫は、初めて目を伏せた。
「悪戯だと思った。いや、思いたかった。あのとき、わしらはもう浅倉で決めとった。あの電話一本を上げたら、また全部やり直しだ。捜査本部が三十人動いとった。わしは巡査部長で、四十九だった」
老人の手が、膝の上で震えていた。
「あの電話を上げとったら、浅倉は死ななかったかもしれん」
神津は、その手を見ていた。
三十二年。この老人は、たった一本の電話を、三十二年抱えてきた。
「綿貫さん」
「なんだ」
「その声、もし今、聞いたらわかりますか」
綿貫は、少し笑った。
「わからんよ。わしは、自分がさっき何を食ったかも忘れる」
そして、こう言った。
「でも、覚えとることが一つある」
「はい」
「あの声はな、泣いとった」
3
施設を出ると、外は明るかった。
久しぶりの晴天だった。八ヶ岳が白く、輪郭が痛いほどはっきりと見えた。
車に戻り、神津はしばらくエンジンをかけなかった。
「梶谷」
「はい」
「牧野の供述で、車の話は一度も出てきてない」
「はい」
「ガラスのことも、当然、出てこない」
「本人が知らないからですね」
「いや」
神津は、フロントガラスの向こうの山を見ていた。
「知ってるはずだ」
「え?」
「三十四年前、誰かがあの子を土に埋めた。埋めたやつは、あの子の髪にガラスが入っていたことを見ている可能性が高い。少なくとも、あの子が車から放り出されたことは知っている」
神津は、キーを回した。
「牧野は、それを絶対に言わない」
「なぜです」
「言えば、車の話になるからだ」
エンジンがかかった。
「車の話になれば、運転していた人間の話になる」
梶谷が、はっと顔を上げた。
「牧野は――誰かを庇ってる」
「三十四年、庇い続けてきたんだ」
神津はハンドルを握った。
「その庇ってきた相手が、先週、死んだ」
4
同じころ、遠山千尋と牧野悠は、玉川の林道にいた。
除雪が入っているのは途中までで、あとは轍の跡を頼りに歩いた。三十分ほど上ったところで、悠が足を止めた。
「たぶん、このあたりです」
悠は、市立図書館で複写してきた当時の新聞の地図と、スマートフォンの地形図を見比べていた。
落葉松の林だった。三十四年ぶんの時間が経っていても、林はそれほど変わらない。木は太くなり、下草が増えただけだ。
千尋は、林の中に入った。
雪は膝まであった。歩くたびに、乾いた音がする。
どこだろう、と千尋は思った。この林のどこかに、十七歳の少女が二年間、埋まっていた。
千尋は立ち止まり、振り返った。
木立の切れ間から、下界が見えた。
諏訪湖だった。
白くはない。この冬も凍っていない。冬の陽を浴びて、鈍く光る鉛色の面が、盆地の底に広がっていた。
「湖が見える」
千尋は言った。
悠が隣に来た。
「ほんとだ」
二人は、しばらく黙ってそれを見ていた。
「牧野さん」
「はい」
「私、ずっと考えてるんです」
千尋は湖から目を離さずに言った。
「父は、なぜこの事件にこだわったのか。担任だったからと言えば、それまでです。でも、三十四年です。三十四年間、切り抜きを集めて、毎年一月十八日にノートに何か書いて、毎月三万円を送って」
「三万円は、うちの父に」
「そう思ってました」
千尋は言った。
「でも、警察の人に訊いたんです。父の口座から、あなたのお父さんの口座に振り込まれていた三万円は、どうなっていたんですかって。教えてもらえませんでした。教えてもらえなかったってことは、何かあるんです」
悠は、雪の上を見ていた。
「うちには、そんな金、なかったです」
「じゃあ、どこに行ったんでしょう」
悠は答えなかった。
風が渡り、落葉松の細い枝が鳴った。
「牧野さん」
「はい」
「怖いことを言ってもいいですか」
「どうぞ」
千尋は、深く息を吸った。
「父が、この事件に関わっていたとしたら」
悠は、千尋のほうを見た。
「関わっていた、というのは」
「わかりません。でも」
千尋の唇が震えていた。寒さのせいではなかった。
「あの人は、罰を受けてるって言ってたそうです。父の友達が、警察にそう証言したって、母が聞いてきました。無期懲役がついてる、って」
「無期懲役」
「そんな言葉、普通は使いません」
千尋は、両手を口元に当てた。
「私、ここに来るまで、この事件のことを、父が追いかけた正義の話だと思ってたんです。でも、この林に立って、湖を見たら」
彼女は、そこで一度、言葉を切った。
「父は、ここに来たことがあると思った」
悠は、何も言えなかった。
「牧野さん」
千尋は振り返った。目が真っ赤だった。
「私、やめたほうがいいですか」
「何をですか」
「調べるの」
悠は、雪の中に立っていた。
この人は、ほんとうは答えを知っている、と悠は思った。知っていて、誰かに止めてほしいのだ。
「私は」
悠は言った。
「私は、やめられません。私の娘が、いま、学校に行けなくなっているので」
千尋は、悠の顔を見た。
「でも、遠山さんは、やめてもいいと思います」
悠は続けた。
「あなたは、お父さんを立派な人だと思ったまま生きられる。私にはそれができない。だから私は続けます。でも、あなたが降りることを、私は責めません」
千尋は、長いあいだ黙っていた。
それから、林の奥に向き直った。誰も立ち入らない、雪の積もった落葉松の下。三十四年前の一月十九日の未明、二人の男がスコップを振るった場所。
「降りません」
千尋は言った。
「もし父が何かをしたのなら、それを知らないまま、あの人の娘として生きるほうが、私には無理です」