燠火(おきび)
第九章 海のある町
汐入は、人口が三千を切った町だった。
駅の周りに商店が七軒あって、そのうち三軒はシャッターが下りていた。バスは一日六本。若い人はみんな木更津か千葉に出ていて、残っているのは漁協と、老人と、犬だった。
貸店舗の持ち主は、坂上という八十過ぎの婆さんだった。
電話をかけると、婆さんは「パン屋?」と三回聞き返した。
「あんた、若いの」
「三十一です」
「若い。ばかだね」
「はい」
「ここでパン屋やっても、儲からんよ」
「儲けなくていいんです」
湊がそう言うと、婆さんは電話の向こうで笑った。
「じゃあ、来なさい」
家賃は月に三万五千円だった。
保証金も礼金も取らなかった。
「うちの人が死んでから、二十二年、空いてるんだ。誰かが使ってくれるほうがいい」
窯は生きていた。
中を掃除して、煙突の詰まりを取り、崩れかけた口のレンガを積み直した。手伝ってくれたのは、隣の漁協の男たちだった。彼らは面白がって、休みの日に道具を持ってきた。
「これ、餅屋の窯だろ。おれが子どものころ、正月に鏡餅並べてたよ」
「炭も焼いてたって聞いたな」
「パン焼けんのか、こんなんで」
「焼けます」
湊は言った。
「石が厚いから、むしろいいです」
最初の試し焼きは、二〇二〇年の八月だった。
湊は前の晩から薪を燃やして、朝、生地を入れた。
三十分後に出したパンは、底が真っ黒に焦げていた。
二回目は、焼けなかった。
三回目で、ようやく形になった。
窯には癖がある。この窯は右奥が強く、左手前が弱かった。二十二年ぶりに火を入れた石は、なかなか熱を蓄えなかった。三日焚き続けて、四日目にようやく落ち着いた。
じいさんの言葉が、正しかった。
――一日でも離れてみろ。火は言うことを聞かなくなる。
二十二年、離れていた火だった。
開店は、十月一日にした。
看板は、町の看板屋に頼んだ。屋号を聞かれて、湊は五分ほど黙った。
「まるみ」と言いかけて、やめた。あの名前は、あの店のものだ。自分が継いでいいものではない。
結局、町の名前を言った。
汐入ベーカリー
開店の前の晩、湊はハツに手紙を書いた。名古屋の娘の家から、震える字で返事が来た。
――うちの人が喜びます。丸実も喜びます。みなちゃん、ごはんちゃんと食べてね。
開業届を出すとき、湊は迷った。
書類の「氏名」の欄で、ペンが止まった。
三堀湊。
十六年、この名前だった。
湊は、家庭裁判所に申し立てをした。
氏の変更は、正当な理由がなければ認められない。湊は、正当な理由を書いた。書きながら、自分でも何を書いているのかわからなくなった。
――私は父の犯した罪と無関係ではありません。名を変えることで、私は無関係であるふりをしてきました。それは、被害を受けた方々に対しても、私自身に対しても、誠実ではないと考えるに至りました。
審判は、三か月かかった。
認められた。
新しい住民票を受け取った日、湊はそれを店の裏で長いこと眺めていた。
安西湊。
十六年ぶりに、自分の名前を持った。
うれしくはなかった。
ただ、足の裏が地面についた気がした。
最初の一か月、パンはほとんど売れなかった。
一日に五個の日もあった。売れ残ったパンで、湊は三食を済ませた。
二か月目に、漁協の老人が来るようになった。
窯を直すのを手伝ってくれた男たちだ。彼らは義理で買ってくれた。
「これ、うまいな」
初めてそう言われたとき、湊は返事ができなかった。
「そうですか」としか言えなかった。
その冬、湊は坂上の婆さんに、家賃を一か月待ってもらった。
頭を下げに行くと、婆さんは茶を出して、饅頭を出して、それから言った。
「あんた、何を謝ってんの」
「家賃です」
「そんなもん、二か月でも三か月でも待つよ」
婆さんは言った。
「あの窯にまた火が入っただけで、わたしゃ元は取れてる」
湊は、湯呑みを持ったまま黙った。
「うちの人がね、あそこで炭を焼いてたんだ。戦争から帰ってきて、五十年」
婆さんは仏壇のほうを見た。
「あの人が死んだ日にね、窯の火を落としたの。それから二十二年、冷たいまんまだった」
「……」
「窯ってのは、冷えると割れるんだよ。知ってた?」
「いえ」
「石が縮んで、目地が抜けて、じきに崩れる。だから、ほんとは、火を落としちゃいけないんだ」
婆さんは、饅頭を割った。
「あんたが来て、あの窯、二十二年ぶりに温かいんだよ」
湊は、うつむいた。
「泣くんじゃないよ」
「……はい」
「男が泣くと、饅頭がしょっぱくなる」
二〇二一年の春、湊は町内会の掃除に出た。
海岸のゴミ拾いだ。四十人ほどが集まって、二時間、砂浜を歩いた。
終わったあと、漁協の集会所で豚汁が出た。
湊は端に座って、それを食べていた。
隣に、いつも来る老人が座った。三ツ木という名前だと、その日初めて知った。
「安西さん」
「はい」
「あんた、去年、名字変えたろう」
湊は、椀を持つ手を止めた。
「役場の増田さんが言っとった。手続きの書類、見たって」
湊は、豚汁の椀を膝に置いた。
この町は、三千人しかいない。
役場の人間も、漁協の人間も、隣に住んでいる。
「三ツ木さん」
「うん」
「おれは」
言おうとした。
三ツ木老人が、手を上げてそれを止めた。
「知っとるよ」
湊は、老人の横顔を見た。
「群馬のあれだろ。工場のやつ」
「……はい」
「わしはな、あんたがこの町に来た月に、調べた」
老人は、豚汁の汁を飲んだ。
「わしだけじゃない。漁協で、三人くらい調べた」
湊は、その言葉を、静かに受けた。
いつか来るとわかっていた日が、ようやく来た、と思った。
ここも出ていくことになるのだろう。
「それでな」
三ツ木は言った。
「相談したんだ。どうする、って」
「……」
「言わんことにした」
湊は、顔を上げた。
「あんたが言うまで、こっちからは言わん。そう決めた」
老人は、椀を置いた。
「一年半、待っとったんだが、あんた、なかなか言わんな」
湊は、口を開いたが、声が出なかった。
「わしらはな、安西さん」
三ツ木は言った。
「あんたの親父さんのパンを食っとるんじゃない。あんたのパンを食っとる」
「……」
「そこは、分けて考える」
彼はそう言って、立ち上がった。
「明日も、バターロール四つ頼むわ」
湊は、椀を持ったまま、動けなかった。
周りでは、四十人が豚汁を食べながら、天気の話をしていた。
誰も、湊のほうを見ていなかった。
見ないでいてくれている、ということが、湊にはわかった。
その日、湊は集会所を出て、堤防に登って、海を見た。
三月の海は、まだ冬の色をしていた。
湊は、そこで初めて、声を出さずに笑った。
笑ってから、泣いた。
じいさんが言っていたことを、思い出した。
――どんな夜が来ても、朝が来る。そしたら人は腹が減る。
人は腹が減る。
人殺しの息子が焼いたパンでも、腹は膨れる。
それは、たぶん、この世界でいちばん公平なことだった。
三か月目に、駅前のたばこ屋の婆さんが、店の外に「パン屋あります まっすぐ三分」という手書きの紙を貼ってくれた。
半年目に、隣町の主婦が車で来るようになった。
一年目には、朝の常連が十人になった。
湊は、朝が来るたびに、火を入れた。
特別なことは何も起きなかった。
早瀬蓮が最初に来たのは、二〇二一年の四月だった。
中学一年になったばかりの、痩せた男の子だった。
自転車を止めて、店の前で二十分、立っていた。
湊が「どうぞ」と声をかけると、逃げた。
次の日も来た。また逃げた。
三日目に、店に入ってきて、あんパンを一つ買った。百四十円。
小銭を十円玉で出した。数えるのに時間がかかった。
四日目からは、毎朝来た。
いつも同じ時間、七時五十分。あんパンを一つ。
あるとき、蓮が「明日でいい?」と言った。
三十円足りなかった。
「いいよ」
湊はそう言って、袋に入れて渡した。
翌朝、蓮はきっちり三十円持ってきた。十円玉が三枚だった。
「ありがとう」
「別に」
蓮は、それだけ言って自転車で走っていった。
湊は、その背中を見送りながら、この子は朝ごはんをこれで済ませているのだ、と気づいた。
母親が夜の仕事をしているらしい、というのは、あとで漁協の老人から聞いた。父親はいないという。
それから、湊はあんパンを少し大きくした。
値段は変えなかった。
蓮は気づかなかった。
その年の七月、蓮の母親が店に来た。
夜の八時過ぎで、店はもう閉めていた。湊が裏で片づけをしていると、表の戸を叩く音がした。
開けると、若い女が立っていた。三十そこそこに見えた。化粧はしていたが、顔は疲れていた。
「早瀬です」
女は言った。
「蓮の、母親です」
湊は、店の電気をつけた。
「あの子が、ここでパン買ってるって、聞いて」
「はい」
「いくらですか」
女は財布を出した。
「え」
「ツケてもらってるんじゃないんですか」
湊は、首を振った。
「もらってます。全部」
「……ほんとに?」
「ほんとです」
女は、財布を持ったまま、少し黙った。
「あの子、嘘つくんです」
彼女は言った。
「わたしに気を遣って。夕飯いらないとか、腹減ってないとか」
「……」
「食べてないの、知ってるんですけど」
湊は、カウンターの上を布巾で拭いた。拭くところなど、もうなかった。
「あんパン、一個です」
湊は言った。
「百四十円。毎朝、七時五十分に来ます。十円玉で払います。そしてゆっくりと数えます」
女は、湊の顔を見た。
「一度だけ、三十円足りない日がありました。次の日に、きっちり持ってきました」
「……」
「そういう子です」
女は、うつむいた。
肩が一度だけ、上下した。
「わたし、あの子に、何もしてやれてない」
「毎朝、起きてるじゃないですか」
湊は言った。
「あの子」
「え」
「七時五十分に、ちゃんと起きて、自転車に乗って、パンを買いに来ます」
湊は、布巾を置いた。
「それは、誰かが起こしてるからです」
女は、口を押さえた。
しばらく、声を殺していた。
湊は、その間、何も言わなかった。売れ残ったパンを袋に詰めて、レジ台の端に置いた。
「持って帰ってください」
「そんな」
「捨てるだけなんで」
嘘だった。その日の売れ残りは、三個しかなかった。湊は棚の奥から、翌朝に自分が食べるつもりだった食パンを出して、一緒に入れた。
女は、袋を受け取った。
「あの」
彼女は言った。
「お店の人に、こんなこと言うのもあれですけど」
「はい」
「なんで、そんなに、あの子のこと見てるんですか」
湊は、答えなかった。
答えられなかった。
朝ごはんを一人で食べる子どもが、どういう顔で自転車をこぐか。
母親を心配させないために、腹が減っていないと言う子どもが、どういう顔で嘘をつくか。
それを、湊は知っていた。
二十歳の秋、川越のアパートで、湊は同じ嘘を、母親についていた。
「別に」
湊は言った。
「お客さんなんで」
女は、それ以上聞かなかった。
頭を下げて、袋を抱えて、暗い道を帰っていった。
翌朝、蓮はいつもどおり七時五十分に来た。
いつもどおり、十円玉を十四枚、カウンターに並べた。
「おじさん」
「なに」
「昨日、母ちゃん来た?」
「来てない」
湊は言った。
蓮は、湊の顔をじっと見た。
「ふうん」
それだけ言って、あんパンを持って出ていった。
自転車のペダルを踏む音が、遠ざかった。
湊は、その音を最後まで聞いていた。
二〇二一年の十二月、相良律から電話があった。
「戸倉千代さんが亡くなりました」
湊は、電話を握ったまま、しばらく黙った。
「いつですか」
「先月です。老衰でした。九十六歳」
「……そうですか」
「戸倉更紗さんが、最後まで看たそうです」
湊は、店の壁にもたれた。
窓の外は、冬の海だった。
「これで、あの人の家族は」
言いかけて、やめた。
「はい」
相良が答えた。
「誰もいなくなりました」
湊は、その夜、封筒の箱を開けた。
百八十四通は、汐入に持ってきていた。押し入れの上の段に、そのまま置いてあった。
湊はそれを一通ずつ、床に並べた。
六畳の部屋いっぱいに、十六年が並んだ。
この封筒を受け取り拒否しつづけた人は、もういない。
湊は、封筒の宛名を見た。
戸倉千代様。
この人は、息子と、嫁と、七歳の孫を一度に失って、それから十八年生きた。
残った孫娘を育てて、育て終えて、死んだ。
毎月、赤いスタンプを押して、封筒を郵便局に持っていった。
あの人にとって、それは何だったのだろう。
湊にはわからなかった。
わかると言ったら、嘘になる。
湊は封筒を箱に戻した。
戻しながら、更紗のことを考えた。
いま、あの人はどこで、何をしているのだろう。
誰が、あの人の隣で葬式に座ったのだろう。
考えて、自分にその資格がないことを思い出して、やめた。
本間涼が現れたのは、二〇二二年の六月だった。
雨の日だった。
午後二時過ぎ、客のいない時間だ。
扉の鈴が鳴って、男が入ってきた。
三十代後半。中肉中背。作業着のようなグレーのジャンパーを着ていた。傘を持っていなかったので、髪から水が垂れていた。
男は、棚を見なかった。
まっすぐカウンターに来て、湊を見た。
「安西湊さん」
湊は手を止めた。
「はい」
「本間涼といいます」
湊の中で、何かが落ちる音がした。
「本間、保の息子です」
湊は、カウンターに手をついた。
男の顔を見た。
言われてみれば、面影があった。よく笑う人だった、あのおじさんの。
いや、そうではない。
湊は、この顔を、一度見ている。
二〇〇三年十一月。柏尾の、庭に自転車が三台ある平屋。合わない黒いスーツを着て、喪主の席に座っていた若い男。
焼香のとき、目が合った。互いに頭を下げた。
あのときの顔だ。
いま、目の前の男は笑っていなかった。
「お父さんのことは」
湊が言いかけると、涼が遮った。
「何も言わなくていいです」
「……」
「あんたが言うことは、何もない」
涼はカウンターに肘をついた。
「おれね、あんたのこと、ずっと探してました」
「なんのために」
「一発、殴りたくて」
涼は言った。
湊は、動かなかった。
「殴りますか」
湊は言った。
「そうしたいなら、どうぞ」
涼は、湊を見た。
それから、ふっと力を抜いて、笑った。
嫌な笑い方だった。
「そう言われると、殴れないんだよな」
彼はカウンターの前の丸椅子に、勝手に座った。
「知ってます? おれの人生」
「知りません」
「あんたの親父のせいで、めちゃくちゃです」
涼は言った。
「あの事件のあと、うちの親父の名前、ずっと出たんですよ。動機のところで。労災を隠された同僚が自殺した、その友人が逆上して、って」
「……」
「新聞に出るたび、うちの近所じゃ、うちの親父が焚きつけたことになった」
湊は黙って聞いていた。
「おれ、当時十九ですよ。専門学校の二年で。ちょうど就職決まってた」
「……」
「内定、取り消されました」
涼は指でカウンターを叩いた。
「理由は言われませんでした。でも、わかるでしょう」
「……はい」
「そのあと、地元に帰って、何年か働いて、結婚しようとしました。相手の親に反対されました。事件のことじゃなくて、親父が自殺したことで。血筋がどうとか」
涼は乾いた声で笑った。
「うちの親父、右手なくして、金なくて、死んだだけなんですよ。誰も殺してない。誰も傷つけてない。それでも、こうです」
湊は、何も言えなかった。
この人は、被害者の遺族でも加害者の家族でもない。
どちらでもないのに、同じ場所に落とされた人だ。
「あんたのとこは、どうです」
涼が聞いた。
「妹さん、いましたよね」
湊の表情が変わったのを、涼は見逃さなかった。
「あ、悪い。そっちも、いろいろあったか」
「……はい」
「そりゃそうだ」
涼は、しばらく黙って、雨の音を聞いていた。
やがて、彼は言った。
「おれ、ここに来る前に、一回、柏尾に行ったんです」
「……」
「工場、もうないですよ。更地です。何にもない。草だけ」
「そうですか」
「あの、社長の家があったところ、いま、月極駐車場になってる」
湊は、目を伏せた。
「あそこに立って、思いました」
涼は言った。
「なんで、火なんだろうって」
湊は顔を上げた。
涼の顔から、笑いが消えていた。
「あんたの親父、社長を殺したのはわかる。おれだって、あの社長は殺されて当然だと思う。それはいい」
「……」
「けど、なんで火をつけたんだ」
湊は、答えられなかった。
涼は、しばらく湊の顔を見ていた。
その目には、憎しみとは違う何かが混じっていた。
怯えのようなものだった。
「あんた、聞いたことあるんですか。親父さんに」
「ありません」
「なんで」
「会ってくれないんです」
湊は言った。
「十九年、一度も」
涼の表情が、揺れた。
わずかに、しかしはっきりと、揺れた。
「……そうか」
彼は椅子から立ち上がった。
「そうか」
もう一度、言った。
「本間さん」
湊は呼び止めた。
「なにか、知ってるんですか」
涼は、扉に手をかけたまま止まった。
背中を向けたまま、動かなかった。
雨が屋根を打つ音が、店の中に満ちた。
「いや」
涼は言った。
「知らねえよ」
彼は扉を開けた。
鈴が鳴った。
「あんた、パン屋なんだな」
涼は、外に出てから、そう言った。
「毎朝、火をつけて」
湊は、その言葉に打たれたように立ち尽くした。
涼は雨の中を歩いていった。傘をささずに、背中を丸めて。
湊は、その日、一睡もできなかった。
朝、いつものように窯に火を入れた。
薪をくべながら、手が止まった。
毎朝、火をつけて。
十六年、湊は毎朝、火をつけてきた。
父が二人を焼き殺した火と、同じものを。
湊は、窯の前に座り込んだ。
燠が、灰の下で赤かった。
消えていなかった。何をどうしても、消えなかった。
その日の午後、湊は千葉刑務所に電話をかけた。
面会の申し込み方法を尋ねた。
母のノートの続きを書くことにした。
百八十五回目だった。
駅の周りに商店が七軒あって、そのうち三軒はシャッターが下りていた。バスは一日六本。若い人はみんな木更津か千葉に出ていて、残っているのは漁協と、老人と、犬だった。
貸店舗の持ち主は、坂上という八十過ぎの婆さんだった。
電話をかけると、婆さんは「パン屋?」と三回聞き返した。
「あんた、若いの」
「三十一です」
「若い。ばかだね」
「はい」
「ここでパン屋やっても、儲からんよ」
「儲けなくていいんです」
湊がそう言うと、婆さんは電話の向こうで笑った。
「じゃあ、来なさい」
家賃は月に三万五千円だった。
保証金も礼金も取らなかった。
「うちの人が死んでから、二十二年、空いてるんだ。誰かが使ってくれるほうがいい」
窯は生きていた。
中を掃除して、煙突の詰まりを取り、崩れかけた口のレンガを積み直した。手伝ってくれたのは、隣の漁協の男たちだった。彼らは面白がって、休みの日に道具を持ってきた。
「これ、餅屋の窯だろ。おれが子どものころ、正月に鏡餅並べてたよ」
「炭も焼いてたって聞いたな」
「パン焼けんのか、こんなんで」
「焼けます」
湊は言った。
「石が厚いから、むしろいいです」
最初の試し焼きは、二〇二〇年の八月だった。
湊は前の晩から薪を燃やして、朝、生地を入れた。
三十分後に出したパンは、底が真っ黒に焦げていた。
二回目は、焼けなかった。
三回目で、ようやく形になった。
窯には癖がある。この窯は右奥が強く、左手前が弱かった。二十二年ぶりに火を入れた石は、なかなか熱を蓄えなかった。三日焚き続けて、四日目にようやく落ち着いた。
じいさんの言葉が、正しかった。
――一日でも離れてみろ。火は言うことを聞かなくなる。
二十二年、離れていた火だった。
開店は、十月一日にした。
看板は、町の看板屋に頼んだ。屋号を聞かれて、湊は五分ほど黙った。
「まるみ」と言いかけて、やめた。あの名前は、あの店のものだ。自分が継いでいいものではない。
結局、町の名前を言った。
汐入ベーカリー
開店の前の晩、湊はハツに手紙を書いた。名古屋の娘の家から、震える字で返事が来た。
――うちの人が喜びます。丸実も喜びます。みなちゃん、ごはんちゃんと食べてね。
開業届を出すとき、湊は迷った。
書類の「氏名」の欄で、ペンが止まった。
三堀湊。
十六年、この名前だった。
湊は、家庭裁判所に申し立てをした。
氏の変更は、正当な理由がなければ認められない。湊は、正当な理由を書いた。書きながら、自分でも何を書いているのかわからなくなった。
――私は父の犯した罪と無関係ではありません。名を変えることで、私は無関係であるふりをしてきました。それは、被害を受けた方々に対しても、私自身に対しても、誠実ではないと考えるに至りました。
審判は、三か月かかった。
認められた。
新しい住民票を受け取った日、湊はそれを店の裏で長いこと眺めていた。
安西湊。
十六年ぶりに、自分の名前を持った。
うれしくはなかった。
ただ、足の裏が地面についた気がした。
最初の一か月、パンはほとんど売れなかった。
一日に五個の日もあった。売れ残ったパンで、湊は三食を済ませた。
二か月目に、漁協の老人が来るようになった。
窯を直すのを手伝ってくれた男たちだ。彼らは義理で買ってくれた。
「これ、うまいな」
初めてそう言われたとき、湊は返事ができなかった。
「そうですか」としか言えなかった。
その冬、湊は坂上の婆さんに、家賃を一か月待ってもらった。
頭を下げに行くと、婆さんは茶を出して、饅頭を出して、それから言った。
「あんた、何を謝ってんの」
「家賃です」
「そんなもん、二か月でも三か月でも待つよ」
婆さんは言った。
「あの窯にまた火が入っただけで、わたしゃ元は取れてる」
湊は、湯呑みを持ったまま黙った。
「うちの人がね、あそこで炭を焼いてたんだ。戦争から帰ってきて、五十年」
婆さんは仏壇のほうを見た。
「あの人が死んだ日にね、窯の火を落としたの。それから二十二年、冷たいまんまだった」
「……」
「窯ってのは、冷えると割れるんだよ。知ってた?」
「いえ」
「石が縮んで、目地が抜けて、じきに崩れる。だから、ほんとは、火を落としちゃいけないんだ」
婆さんは、饅頭を割った。
「あんたが来て、あの窯、二十二年ぶりに温かいんだよ」
湊は、うつむいた。
「泣くんじゃないよ」
「……はい」
「男が泣くと、饅頭がしょっぱくなる」
二〇二一年の春、湊は町内会の掃除に出た。
海岸のゴミ拾いだ。四十人ほどが集まって、二時間、砂浜を歩いた。
終わったあと、漁協の集会所で豚汁が出た。
湊は端に座って、それを食べていた。
隣に、いつも来る老人が座った。三ツ木という名前だと、その日初めて知った。
「安西さん」
「はい」
「あんた、去年、名字変えたろう」
湊は、椀を持つ手を止めた。
「役場の増田さんが言っとった。手続きの書類、見たって」
湊は、豚汁の椀を膝に置いた。
この町は、三千人しかいない。
役場の人間も、漁協の人間も、隣に住んでいる。
「三ツ木さん」
「うん」
「おれは」
言おうとした。
三ツ木老人が、手を上げてそれを止めた。
「知っとるよ」
湊は、老人の横顔を見た。
「群馬のあれだろ。工場のやつ」
「……はい」
「わしはな、あんたがこの町に来た月に、調べた」
老人は、豚汁の汁を飲んだ。
「わしだけじゃない。漁協で、三人くらい調べた」
湊は、その言葉を、静かに受けた。
いつか来るとわかっていた日が、ようやく来た、と思った。
ここも出ていくことになるのだろう。
「それでな」
三ツ木は言った。
「相談したんだ。どうする、って」
「……」
「言わんことにした」
湊は、顔を上げた。
「あんたが言うまで、こっちからは言わん。そう決めた」
老人は、椀を置いた。
「一年半、待っとったんだが、あんた、なかなか言わんな」
湊は、口を開いたが、声が出なかった。
「わしらはな、安西さん」
三ツ木は言った。
「あんたの親父さんのパンを食っとるんじゃない。あんたのパンを食っとる」
「……」
「そこは、分けて考える」
彼はそう言って、立ち上がった。
「明日も、バターロール四つ頼むわ」
湊は、椀を持ったまま、動けなかった。
周りでは、四十人が豚汁を食べながら、天気の話をしていた。
誰も、湊のほうを見ていなかった。
見ないでいてくれている、ということが、湊にはわかった。
その日、湊は集会所を出て、堤防に登って、海を見た。
三月の海は、まだ冬の色をしていた。
湊は、そこで初めて、声を出さずに笑った。
笑ってから、泣いた。
じいさんが言っていたことを、思い出した。
――どんな夜が来ても、朝が来る。そしたら人は腹が減る。
人は腹が減る。
人殺しの息子が焼いたパンでも、腹は膨れる。
それは、たぶん、この世界でいちばん公平なことだった。
三か月目に、駅前のたばこ屋の婆さんが、店の外に「パン屋あります まっすぐ三分」という手書きの紙を貼ってくれた。
半年目に、隣町の主婦が車で来るようになった。
一年目には、朝の常連が十人になった。
湊は、朝が来るたびに、火を入れた。
特別なことは何も起きなかった。
早瀬蓮が最初に来たのは、二〇二一年の四月だった。
中学一年になったばかりの、痩せた男の子だった。
自転車を止めて、店の前で二十分、立っていた。
湊が「どうぞ」と声をかけると、逃げた。
次の日も来た。また逃げた。
三日目に、店に入ってきて、あんパンを一つ買った。百四十円。
小銭を十円玉で出した。数えるのに時間がかかった。
四日目からは、毎朝来た。
いつも同じ時間、七時五十分。あんパンを一つ。
あるとき、蓮が「明日でいい?」と言った。
三十円足りなかった。
「いいよ」
湊はそう言って、袋に入れて渡した。
翌朝、蓮はきっちり三十円持ってきた。十円玉が三枚だった。
「ありがとう」
「別に」
蓮は、それだけ言って自転車で走っていった。
湊は、その背中を見送りながら、この子は朝ごはんをこれで済ませているのだ、と気づいた。
母親が夜の仕事をしているらしい、というのは、あとで漁協の老人から聞いた。父親はいないという。
それから、湊はあんパンを少し大きくした。
値段は変えなかった。
蓮は気づかなかった。
その年の七月、蓮の母親が店に来た。
夜の八時過ぎで、店はもう閉めていた。湊が裏で片づけをしていると、表の戸を叩く音がした。
開けると、若い女が立っていた。三十そこそこに見えた。化粧はしていたが、顔は疲れていた。
「早瀬です」
女は言った。
「蓮の、母親です」
湊は、店の電気をつけた。
「あの子が、ここでパン買ってるって、聞いて」
「はい」
「いくらですか」
女は財布を出した。
「え」
「ツケてもらってるんじゃないんですか」
湊は、首を振った。
「もらってます。全部」
「……ほんとに?」
「ほんとです」
女は、財布を持ったまま、少し黙った。
「あの子、嘘つくんです」
彼女は言った。
「わたしに気を遣って。夕飯いらないとか、腹減ってないとか」
「……」
「食べてないの、知ってるんですけど」
湊は、カウンターの上を布巾で拭いた。拭くところなど、もうなかった。
「あんパン、一個です」
湊は言った。
「百四十円。毎朝、七時五十分に来ます。十円玉で払います。そしてゆっくりと数えます」
女は、湊の顔を見た。
「一度だけ、三十円足りない日がありました。次の日に、きっちり持ってきました」
「……」
「そういう子です」
女は、うつむいた。
肩が一度だけ、上下した。
「わたし、あの子に、何もしてやれてない」
「毎朝、起きてるじゃないですか」
湊は言った。
「あの子」
「え」
「七時五十分に、ちゃんと起きて、自転車に乗って、パンを買いに来ます」
湊は、布巾を置いた。
「それは、誰かが起こしてるからです」
女は、口を押さえた。
しばらく、声を殺していた。
湊は、その間、何も言わなかった。売れ残ったパンを袋に詰めて、レジ台の端に置いた。
「持って帰ってください」
「そんな」
「捨てるだけなんで」
嘘だった。その日の売れ残りは、三個しかなかった。湊は棚の奥から、翌朝に自分が食べるつもりだった食パンを出して、一緒に入れた。
女は、袋を受け取った。
「あの」
彼女は言った。
「お店の人に、こんなこと言うのもあれですけど」
「はい」
「なんで、そんなに、あの子のこと見てるんですか」
湊は、答えなかった。
答えられなかった。
朝ごはんを一人で食べる子どもが、どういう顔で自転車をこぐか。
母親を心配させないために、腹が減っていないと言う子どもが、どういう顔で嘘をつくか。
それを、湊は知っていた。
二十歳の秋、川越のアパートで、湊は同じ嘘を、母親についていた。
「別に」
湊は言った。
「お客さんなんで」
女は、それ以上聞かなかった。
頭を下げて、袋を抱えて、暗い道を帰っていった。
翌朝、蓮はいつもどおり七時五十分に来た。
いつもどおり、十円玉を十四枚、カウンターに並べた。
「おじさん」
「なに」
「昨日、母ちゃん来た?」
「来てない」
湊は言った。
蓮は、湊の顔をじっと見た。
「ふうん」
それだけ言って、あんパンを持って出ていった。
自転車のペダルを踏む音が、遠ざかった。
湊は、その音を最後まで聞いていた。
二〇二一年の十二月、相良律から電話があった。
「戸倉千代さんが亡くなりました」
湊は、電話を握ったまま、しばらく黙った。
「いつですか」
「先月です。老衰でした。九十六歳」
「……そうですか」
「戸倉更紗さんが、最後まで看たそうです」
湊は、店の壁にもたれた。
窓の外は、冬の海だった。
「これで、あの人の家族は」
言いかけて、やめた。
「はい」
相良が答えた。
「誰もいなくなりました」
湊は、その夜、封筒の箱を開けた。
百八十四通は、汐入に持ってきていた。押し入れの上の段に、そのまま置いてあった。
湊はそれを一通ずつ、床に並べた。
六畳の部屋いっぱいに、十六年が並んだ。
この封筒を受け取り拒否しつづけた人は、もういない。
湊は、封筒の宛名を見た。
戸倉千代様。
この人は、息子と、嫁と、七歳の孫を一度に失って、それから十八年生きた。
残った孫娘を育てて、育て終えて、死んだ。
毎月、赤いスタンプを押して、封筒を郵便局に持っていった。
あの人にとって、それは何だったのだろう。
湊にはわからなかった。
わかると言ったら、嘘になる。
湊は封筒を箱に戻した。
戻しながら、更紗のことを考えた。
いま、あの人はどこで、何をしているのだろう。
誰が、あの人の隣で葬式に座ったのだろう。
考えて、自分にその資格がないことを思い出して、やめた。
本間涼が現れたのは、二〇二二年の六月だった。
雨の日だった。
午後二時過ぎ、客のいない時間だ。
扉の鈴が鳴って、男が入ってきた。
三十代後半。中肉中背。作業着のようなグレーのジャンパーを着ていた。傘を持っていなかったので、髪から水が垂れていた。
男は、棚を見なかった。
まっすぐカウンターに来て、湊を見た。
「安西湊さん」
湊は手を止めた。
「はい」
「本間涼といいます」
湊の中で、何かが落ちる音がした。
「本間、保の息子です」
湊は、カウンターに手をついた。
男の顔を見た。
言われてみれば、面影があった。よく笑う人だった、あのおじさんの。
いや、そうではない。
湊は、この顔を、一度見ている。
二〇〇三年十一月。柏尾の、庭に自転車が三台ある平屋。合わない黒いスーツを着て、喪主の席に座っていた若い男。
焼香のとき、目が合った。互いに頭を下げた。
あのときの顔だ。
いま、目の前の男は笑っていなかった。
「お父さんのことは」
湊が言いかけると、涼が遮った。
「何も言わなくていいです」
「……」
「あんたが言うことは、何もない」
涼はカウンターに肘をついた。
「おれね、あんたのこと、ずっと探してました」
「なんのために」
「一発、殴りたくて」
涼は言った。
湊は、動かなかった。
「殴りますか」
湊は言った。
「そうしたいなら、どうぞ」
涼は、湊を見た。
それから、ふっと力を抜いて、笑った。
嫌な笑い方だった。
「そう言われると、殴れないんだよな」
彼はカウンターの前の丸椅子に、勝手に座った。
「知ってます? おれの人生」
「知りません」
「あんたの親父のせいで、めちゃくちゃです」
涼は言った。
「あの事件のあと、うちの親父の名前、ずっと出たんですよ。動機のところで。労災を隠された同僚が自殺した、その友人が逆上して、って」
「……」
「新聞に出るたび、うちの近所じゃ、うちの親父が焚きつけたことになった」
湊は黙って聞いていた。
「おれ、当時十九ですよ。専門学校の二年で。ちょうど就職決まってた」
「……」
「内定、取り消されました」
涼は指でカウンターを叩いた。
「理由は言われませんでした。でも、わかるでしょう」
「……はい」
「そのあと、地元に帰って、何年か働いて、結婚しようとしました。相手の親に反対されました。事件のことじゃなくて、親父が自殺したことで。血筋がどうとか」
涼は乾いた声で笑った。
「うちの親父、右手なくして、金なくて、死んだだけなんですよ。誰も殺してない。誰も傷つけてない。それでも、こうです」
湊は、何も言えなかった。
この人は、被害者の遺族でも加害者の家族でもない。
どちらでもないのに、同じ場所に落とされた人だ。
「あんたのとこは、どうです」
涼が聞いた。
「妹さん、いましたよね」
湊の表情が変わったのを、涼は見逃さなかった。
「あ、悪い。そっちも、いろいろあったか」
「……はい」
「そりゃそうだ」
涼は、しばらく黙って、雨の音を聞いていた。
やがて、彼は言った。
「おれ、ここに来る前に、一回、柏尾に行ったんです」
「……」
「工場、もうないですよ。更地です。何にもない。草だけ」
「そうですか」
「あの、社長の家があったところ、いま、月極駐車場になってる」
湊は、目を伏せた。
「あそこに立って、思いました」
涼は言った。
「なんで、火なんだろうって」
湊は顔を上げた。
涼の顔から、笑いが消えていた。
「あんたの親父、社長を殺したのはわかる。おれだって、あの社長は殺されて当然だと思う。それはいい」
「……」
「けど、なんで火をつけたんだ」
湊は、答えられなかった。
涼は、しばらく湊の顔を見ていた。
その目には、憎しみとは違う何かが混じっていた。
怯えのようなものだった。
「あんた、聞いたことあるんですか。親父さんに」
「ありません」
「なんで」
「会ってくれないんです」
湊は言った。
「十九年、一度も」
涼の表情が、揺れた。
わずかに、しかしはっきりと、揺れた。
「……そうか」
彼は椅子から立ち上がった。
「そうか」
もう一度、言った。
「本間さん」
湊は呼び止めた。
「なにか、知ってるんですか」
涼は、扉に手をかけたまま止まった。
背中を向けたまま、動かなかった。
雨が屋根を打つ音が、店の中に満ちた。
「いや」
涼は言った。
「知らねえよ」
彼は扉を開けた。
鈴が鳴った。
「あんた、パン屋なんだな」
涼は、外に出てから、そう言った。
「毎朝、火をつけて」
湊は、その言葉に打たれたように立ち尽くした。
涼は雨の中を歩いていった。傘をささずに、背中を丸めて。
湊は、その日、一睡もできなかった。
朝、いつものように窯に火を入れた。
薪をくべながら、手が止まった。
毎朝、火をつけて。
十六年、湊は毎朝、火をつけてきた。
父が二人を焼き殺した火と、同じものを。
湊は、窯の前に座り込んだ。
燠が、灰の下で赤かった。
消えていなかった。何をどうしても、消えなかった。
その日の午後、湊は千葉刑務所に電話をかけた。
面会の申し込み方法を尋ねた。
母のノートの続きを書くことにした。
百八十五回目だった。