燠火(おきび)

第十章 父

 面会は、断られた。
 百八十五回目。百八十六回目。百八十七回目。
 湊は月に一度、申し込んだ。母のノートの続きに、日付と番号と結果を書いた。
 不許可。不許可。不許可。
 半年が過ぎた。
 湊は、それを店の日課の一部にした。毎月十日に申し込み、毎月末に結果を書く。パンを焼くのと同じことだ、と自分に言い聞かせた。届かなくても続ける。母がやっていたことを、自分もやる。
 二〇二三年の四月、封書が来た。
 千葉刑務所の名前ではなかった。
 差出人は、辻村静雄。教誨師、と肩書きがあった。
  安西湊様
  突然のお手紙をお許しください。私は千葉刑務所で教誨を担当しております僧侶です。
  お父上、安西邦夫さんとは、十四年のおつきあいになります。
  この度、安西さんのお身体のことについて、お知らせしなければならないことがございます。
  昨年秋の検査で、肺に腫瘍が見つかりました。手術のできる状態ではなく、現在は投薬による治療を受けております。
  主治医の見立てでは、年単位の余命は難しいとのことです。
  ご本人は、このことをご家族に知らせることを望んでおられません。
  ですので、この手紙は、私の一存で書いております。後日、安西さんに叱られることは覚悟しております。
  あなたが毎月、面会を申し込んでおられることを、私は知っております。
  安西さんも知っております。
  毎月、私は彼に言います。会ってみてはどうですか、と。
  毎月、彼は同じことを言います。
  「まだ、だめだ」
  なぜ「まだ」なのか、私にはわかりません。
  ただ、十四年つきあった私が申し上げられることは、一つだけです。
  あの人は、あなたに会いたくないのではありません。
  辻村静雄
 湊は、その手紙を三度読んだ。
 それから、翌月も、面会を申し込んだ。
 百九十六回目だった。
 五月十六日、許可が出た。
 千葉刑務所は、市街地の中にあった。
 高い塀と、その上の有刺鉄線。門の前に立つと、思っていたよりずっと普通の建物に見えた。役所か、工場のようだった。
 湊は受付で申請書を書いた。
 続柄の欄に「長男」と書いた。
 その三文字を書くのに、ペンが二度止まった。
 待合室で、四十分待った。
 同じ部屋に、六、七人いた。老いた女、赤ん坊を抱いた若い女、スーツの男。誰も話さなかった。天井の蛍光灯が一本、切れかけて点滅していた。
 名前を呼ばれた。
 安西さん。
 湊は立ち上がった。
 足が、うまく前に出なかった。
 面会室は、狭かった。
 三畳ほどの部屋の真ん中に、アクリル板がある。下のほうに、小さな穴が並んでいる。板の向こうにも同じくらいの空間があって、壁際に職員が座る椅子がある。
 湊は、手前のパイプ椅子に座った。
 膝の上で、両手を組んだ。
 汗ばんでいた。
 向こうの扉が開いた。
 職員が先に入り、そのあとから、痩せた老人が入ってきた。
 湊は、その人が誰なのか、一瞬わからなかった。
 白髪だった。刈り上げられた頭が、ほとんど白かった。
 背が縮んでいた。父は昔、湊より頭一つ大きかった。いま、目の前の人は、湊より小さいだろうと思った。
 顔は、こけていた。頬骨が出て、目が落ちくぼんでいた。
 安西邦夫は、六十六歳になっていた。
 父は、椅子に座った。
 座るとき、少しよろけて、机の縁に手をついた。
 その手を、湊は見た。
 小さかった。
 指が細くなって、皮が余っていた。
 爪のあいだの、あの黒い線が、なかった。
 もう長いこと、油染みのない手だった。
 湊は、その手を見た瞬間に、涙が出た。
 言葉より先に、体が反応した。
 父は、顔を上げなかった。
 膝の上を見ていた。
 二十分近く、そうしていた。
 職員が、時計を見た。
 湊は口を開いた。
「……父さん」
 父の肩が、わずかに動いた。
「湊です」
 父は、まだ顔を上げなかった。
「母さんが、死にました」
 湊は言った。
「四年前の八月です。くも膜下出血でした。パート先で倒れて、三日で」
 父は、動かなかった。
「知ってましたか」
 答えはなかった。
「茜は、生きてます」
 湊は続けた。
「一度、死のうとしました。でも、生きてます。いま、介護の仕事をしてます」
 父の手が、机の上で、少しだけ動いた。
「おれは、パン屋をやってます」
 湊は言った。
「千葉の、汐入っていう町で。小さい店です」
 そこまで言って、湊は言葉が続かなくなった。
 言いたかったことは、そんなことではなかった。
 二十年、考えていたはずのことが、一つも出てこなかった。
 沈黙が続いた。
 職員が咳払いをした。
 父が、初めて顔を上げた。
 湊は、その目を見た。
 思っていたのと違った。
 湊は、この二十年、父の目には何もないと思っていた。虚無か、狂気か、そういうものだと思っていた。
 そこにあったのは、怯えだった。
 六十六歳の男が、息子を怖がっていた。
 父は口を開いた。
 声は、掠れていて、小さかった。
「……大きくなったな」
 湊は、机に突っ伏した。
 嗚咽が止まらなかった。
 三十五歳の男が、面会室で、子どもみたいに泣いた。
 職員は何も言わなかった。
 父は、それを見ていた。
 やがて、こう言った。
「もう、来るな」
 湊は顔を上げた。
「なんでだよ」
 声が裏返った。
「なんで、いつも、そうなんだよ」
 父は目を逸らした。
「二十年、なんで会わなかったんだ」
「……」
「母さんが、百八十四回、申し込んだんだぞ」
 父の顎が、震えた。
「一回も会わないで、あの人、死んだんだぞ」
「知ってる」
 父が言った。
「知ってるんだったら――」
「知ってるから、会わなかった」
 湊は、言葉を失った。
 父は、机を見ていた。
「おれはな」
 父は言った。
「おれの顔を、おまえらに覚えててほしくなかった」
 湊は、口を開いたまま動けなかった。
「新聞に出た顔があるだろう。逮捕されたときの」
「……」
「あれで終わりにしてほしかった」
 父は言った。
「会えば、おまえは、いまのおれの顔を覚える」
 その声は、平坦だった。
「歳を取って、白くなって、痩せくれのおれの顔を、おまえが毎月覚えていくのが、いちばん怖かった」
「なんで」
 湊は言った。
「なんで、それが怖いんだよ」
 父は答えなかった。
 時間です、と職員が言った。
 三十分だった。
 湊は立ち上がった。
 立ち上がってから、思い出して、ポケットに手を入れた。
 真鍮の独楽を、アクリル板に押しつけた。
「これ」
 父が、それを見た。
 父の顔が、初めて、はっきりと変わった。
「まだ、持ってる」
 湊は言った。
「二十年、持ってる」
 父は、独楽を見ていた。
 板の向こうから、手が伸びかけて、途中で止まった。
 届かないことを、思い出したのだろう。
 父の手が、机の上に落ちた。
 職員に促されて、父は立ち上がった。
 扉のところで、一度だけ振り返った。
 何も言わなかった。
 扉が閉まった。
 湊は、しばらく椅子から立てなかった。
 職員に促されて廊下に出ると、待合室の隅に、作務衣の上に黒い羽織を着た老人が座っていた。
 湊が通り過ぎようとすると、その人が立ち上がった。
「安西さんの、息子さんですか」
 湊は足を止めた。
「辻村です」
 思っていたより小柄な人だった。七十を過ぎているだろう。頭は丸めていて、耳が大きかった。
「手紙を、ありがとうございました」
 湊が言うと、辻村は首を振った。
「叱られました」
「え」
「先週、こっぴどく。おまえは坊主のくせに約束を破る、と」
 辻村は笑った。皺が目尻に寄って、顔全体が柔らかくなった。
 二人は、刑務所の門を出て、通りを少し歩いた。
 辻村が「そこに、悪くない喫茶店があります」と言った。
 昭和のままの店だった。赤いビニールの椅子と、造花の入った花瓶。辻村はコーヒーを頼み、湊は同じものを頼んだ。
「十四年、話してきました」
 辻村はカップを持たずに言った。
「といっても、あの人は、あまり話しません」
「……そうでしょうね」
「月に一度、教誨室で四十分。最初の三年は、ほとんど一言も」
 辻村は指でカップの縁をなぞった。
「四年目に、初めて向こうから口をききました。なんと言ったと思いますか」
 湊は首を振った。
「『坊さん、鉄は溶けると、匂いがするんだ』」
 湊は、顔を上げた。
「工場の話です。あの人は、鉄の話だけはします。融点がどうとか、湯の色で温度がわかるとか。私はさっぱりわかりませんが、聞いています」
 辻村はそこで、初めてカップを持った。
「ほかの話は、しません。ご家族のことも、事件のことも」
「事件のことも」
「ええ」
「反省してないってことですか」
 湊は言った。声が硬くなるのを、自分でも感じた。
 辻村は、少し考えた。
「私は、反省という言葉を、あまり信用していません」
「……」
「三十年この仕事をしていると、よく喋る人ほど、早く忘れます。言葉にすると、片づくんです。人間は、口に出したものを、そのに置いてこられる」
 湊は、黙って聞いていた。
「あの人は、置きません」
 辻村は言った。
「二十年、抱えたままです。だから重い。重いから、動けない。面会に出てこないのも、たぶんそれです」
「重いって」
「あの人には、まだ何か、渡していないものがあります」
 湊は、辻村の顔を見た。
「なんですか、それは」
「わかりません」
 辻村は正直に言った。
「わかっていたら、十四年もかかりません」
 外を、下校時間の子どもたちが通っていった。三人、四人。ランドセルが窓の下を流れていく。
 辻村は、それを見ていた。
「一つだけ、思い当たることがあります」
「はい」
「毎年、十二月の教誨のとき、あの人は必ず、私にこう聞きます」
 辻村はゆっくりと言った。
「『坊さん、生きとる人間が黙っとるのは、罪か』」
 湊は、息を止めた。
「私はいつも、同じことを答えます。仏さまは、黙っている人間を罰しません。ただ、黙っている本人が、自分を罰します、と」
「……父は、なんて」
「『そうか』と言います。毎年です」
 辻村はコーヒーを飲み干した。
「十四年、同じ問答をしています」
 湊は、冷めていくカップを見つめていた。
 生きている人間が黙っているのは、罪か。
 それは、自分のことを言っているのだろうか。
 それとも――誰か、別の人間のことなのだろうか。
「安西さん」
 辻村が言った。
「来てください。断られても、来てください」
 湊は顔を上げた。
「あの人は、断りながら、待っています。私にはそう見えます」
「……なんで、そう思うんですか」
「面会不許可の紙に印をつけるとき、あの人は必ず、日付を見ます」
 辻村は言った。
「毎月、あなたが申し込む日を、覚えているんです」
 二度目の面会は、二か月後だった。
 今度は、断られなかった。
 父は、少しだけ話すようになった。
 といっても、質問に一言で答えるだけだ。
「体は」
「どうもない」
「薬、飲んでるんですか」
「飲んでる」
「痛みは」
「ない」
 嘘だ、と湊にはわかった。
 三度目の面会で、湊は仕事の話をした。
 窯の話をした。
 二十二年放っておかれた石窯を、漁協の男たちと直したこと。最初は底が焦げたこと。右奥が強くて左手前が弱いこと。
 父は、黙って聞いていた。
 話し終わると、父が言った。
「石は、動くぞ」
「え?」
「熱を入れたり冷ましたりしてると、石は動く。目地を毎年見ろ」
 湊は、ぽかんとした。
「……はい」
「膨らむんだ。鉄と同じだ」
 父は、そう言って、また黙った。
 湊はその夜、宿に帰ってから、そのやりとりを何度も思い出した。
 二十年ぶりに父から教わったことが、「石は動く」だった。
 湊は布団の中で、少し笑った。
 笑ってから、泣いた。
 四度目の面会で、父が聞いた。
「パンってのは」
「はい」
「うまいのか」
 湊は、返事に詰まった。
「……うまいと思います」
「そうか」
 父はうなずいた。
「食べたことないな」
「え」
「いや、あるか。食パンなら食う。ここでも出る」
「うちのは、そういうのじゃないんです」
 湊は言った。
「もっと、硬いやつです」
「硬いのか」
「はい。皮が硬くて、噛むと音がします」
 父は、しばらく黙っていた。
「そうか」
「……」
「音がするのか」
 湊は、うなずいた。
 その日、面会が終わるとき、父はまた「もう来るな」と言った。
 湊は「また来ます」と言った。
 五度目の面会は、十一月だった。
 その日、父は先に部屋に入っていた。
 湊が座ると、父は顔を上げて、こう言った。
「素麺を食ったな」
 湊は、意味がわからなかった。
「え」
「夏に。うちで。あいつが持ってきた」
 湊は、そこでようやく気づいた。
 二〇〇三年の夏。本間保が段ボールを抱えて玄関に立っていた日のことだ。
「……覚えてます」
「おまえ、三杯食った」
 父は言った。
「あいつが笑ってた。この子はよう食うな、って」
 湊は、何も言えなかった。
 二十年間、父の口から本間保の名前が出たことは、一度もなかった。
 法廷でも、供述でも、父は「社長に文句を言いに行った」としか言わなかった。動機を聞かれると、「気に入らんかった」と答えた。それが記事になり、身勝手な逆恨みという言葉が定着した。
 いま、父は、素麺の話をしていた。
「本間さん、どんな人だったんですか」
 湊は聞いた。
 父は、少し黙った。
「馬鹿だった」
「え」
「頭が悪いって意味じゃねえ」
 父は、机の木目を見ていた。
「あいつはな、三十年、あの工場にいた。溶解炉の前だ。夏場は五十度になる。汗がな、塩になって、作業着が白くなるんだ。洗っても落ちねえ。あいつの作業着は、いつも背中が白かった」
 湊は、黙って聞いた。
 父がこれだけ続けて喋るのを、生まれて初めて見た気がした。
「あるとき、若えのが炉の前で倒れた。二十歳そこそこのやつだ。あいつが引きずり出した。自分の腕を焼いてな」
「……」
「それで、あいつは会社に言ったんだ。休憩を増やしてくれ、送風機をつけてくれって。何度も言った」
「聞いてもらえたんですか」
「だめだ!、と言われた」
 父は言った。
「そのあと、あいつがやられた。プレス機にな。四十九だ」
 父の指が、机の上で一度、動いた。
「右手を、手首から先、持っていかれた。休憩もなしで十四時間立ってりゃ、手元は狂う。労災だ、って言ったら、会社は、勤務時間外だと言った」
「……なんでですか」
「あいつがあの時間まで残ってたのは、自分の判断だったからだ。書類上は、仕事は上がったことになってた」
 湊は、机の縁を握った。
「それで、息子さんが」
「頼みに来た。うちに」
 父は言った。
「泣かねえんだ、あの子は。泣かないで、こう言った。『安西さん、親父が三十年働いた証拠が、どこにもないんです』って」
 面会室が、静かになった。
 職員が、時計を見た。
「おれは、書類を集めた」
 父は続けた。
「作業日報のコピー。当直の記録。あいつが炉の温度を書いた紙。全部、こっそり持ち出した。三か月かけた」
 湊は、初めてその話を聞いた。
 あの秋、父が遅くまで帰らなかったのは、そういうことだったのだ。
「それで、どうなったんですか」
「捨てられた」
 父は言った。
「全部、社長に出した。そしたら、その場で、屑籠に入れた。おれの目の前で」
 父は、そこで少し息を吸った。
 息が浅かった。
「『安西くん、あんたは自分の生活を考えなさい』って言われた」
「……」
「そのとき、おれは、何も言わなかった」
 父は言った。
「その日は、何も言わずに帰った」
 湊は、その先を聞くのが怖かった。
 だが、聞かなければならなかった。
「それが、十二月の」
「十二月十四日だ」
 父は言った。
 そして、また黙った。
「父さん」
 湊は言った。
「それだけじゃ、火をつける理由にならない」
 父は答えなかった。
「あんたは、殺した。それはわかった。でも、火はいらなかった」
「……」
「なんで火をつけたんですか」
 父は、目を伏せた。
 その顔が、急に、ひどく年寄りに見えた。
「湊」
 父が、初めて名前を呼んだ。
 二十年ぶりだった。
 湊は、それだけで胸が詰まった。
「おまえ、店をやってるって言ったな」
「……はい」
「朝、火を入れるか」
「入れます。毎朝、三時に」
 父は、うなずいた。
「火はな」
 父は言った。
「一人でつけると、思うだろう」
 湊は、その言葉の意味がわからなかった。
「え」
 父は、それきり何も言わなかった。
 時間です、と職員が言った。
 帰りの電車の中で、湊はその言葉を何度も反芻した。
 火は、一人でつけると、思うだろう。
 言葉の順序がおかしい。日本語として、変だ。
 あとになって、湊はこう解釈することになる。
  一人でつけたと、思うだろう。
 だが、そのときの湊には、まだわからなかった。
 二〇二四年になった。
 父の体は、目に見えて痩せ細り、衰えていった。
 三月の面会では、父は車椅子で出てきた。
 六月には、話すのに息が切れるようになった。
「父さん」
 湊は言った。
「一つだけ、聞いていいですか」
 父は、湊を見た。
 聞かれることが、わかっている目だった。
「なんで、火をつけたんですか」
 面会室が、静かになった。
 職員がページをめくる音だけがした。
 父は、長いこと黙っていた。
 それから、言った。
「わからん」
「わからないわけない」
「わからん」
「二十年、そればっかりだ!」
 湊は机を叩いた。職員が「静かに」と言った。
 湊は声を落とした。
「あの日、あなたは社長を殺した。そこまではわかる。おれは、それはわかるんだ」
「……」
「でも、火をつける必要はなかった。逃げればよかった。逃げれば、あの人たちは死ななかった」
 父の手が、膝の上で握られていた。
「七歳の子が、寝てたんだ」
 湊は言った。
「茜と同じ教室で、ピアノを習ってた子が」
 父の顔が、歪んだ。
「あんたは、その子の顔を知ってたはずだ」
「――」
「知ってて、なんで火をつけたんだ!」
 父が、初めて声を上げた。
「言えん!」
 その声は、老人の声ではなかった。
 二十年前の、四十六歳の男の声だった。
 職員が立ち上がった。
 父は、肩で息をしていた。
 湊は、その顔を見た。
 父は泣いていた。
 窪んだ目から、涙が二筋、頬の皺を伝って落ちていた。
「……言えんのだ」
 父は言った。
「言ったら、終わりなんだ」
「何が終わるんだ」
 父は答えなかった。
 時間になった。
 父が連れていかれる直前、湊は言った。
「本間さんの息子さんに、会いました」
 父の動きが、止まった。
 車椅子の車輪が、床の上で、きっ、と鳴った。
 父はゆっくりと振り返った。
 その顔から、血の気が引いていた。
「涼か」
 父が言った。
 二十年ぶりに、その名前を口にしたような言い方だった。
「あいつ、何か言ったか」
 湊は、父の顔を見た。
 いま、この人は、何かを恐れている。
 二十年間、隠してきた何かを。
「何も」
 湊は言った。
「何も言いませんでした」
 父は、しばらく湊を見ていた。
 そして、目を閉じた。
 閉じたまま、小さく言った。
「そうか」
 その一言に、二十年分の何かが入っていた。
 湊には、まだそれが読めなかった。
 父は連れていかれた。
 湊は面会室を出て、廊下を歩き、門を出た。
 外は、六月の白い日差しだった。
 塀の上で、鳩が並んでいた。
 湊は、その塀を振り返った。
 この中に、あの人がいる。
 あの人は、言えないことを抱えたまま、死のうとしている。
 湊は、スマートフォンを取り出した。
 相良律の番号を出した。
 しばらく画面を見て、それから、通話ボタンを押した。
 三回のコールで、相良が出た。
「安西さん?」
「相良さん」
 湊は言った。
「本間涼のことを、調べてもらえませんか」
 電話の向こうで、相良が黙った。
 風が吹いて、塀の上の鳩が一斉に飛び立った。
「……なぜ、いま」
「父が、その名前を聞いて、顔色が変わり、怯えているようでした」
 湊は言った。
「二十年、何も言わなかった人が、怯えたんです」
 相良の声が、変わった。
 十五年ぶりに獲物を見つけた記者の声だった。
「三日ください」
 彼女は言った。
 結果的に、三日では終わらなかった。
 真相が湊のところに届くのは、それから八か月後――父が死んだ、十日後のことになる。
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