燠火(おきび)

第十一章 燠火

 最後の面会は、二〇二五年の一月十六日だった。
 父は、車椅子で出てきた。
 毛布を膝にかけていた。呼吸のたびに、喉の奥で細い音が鳴っていた。頬はもう、骨の形がそのまま出ていた。
 湊は、アクリル板の前に座った。
「父さん」
 父は、ゆっくりと目を開けた。
 焦点が合うのに、少し時間がかかった。
「……ああ」
「湊です」
「わかる」
 父はそう言って、少し笑った。
 笑うのを見たのは、二十一年ぶりだった。
 その日は、話らしい話をしなかった。
 湊が店のことを話し、父が時々うなずいた。汐入の海のこと。冬は北風が強くて、窯の煙が横に流れること。あんパンを買いに来る中学生のこと。
「その子はな」
 父が言った。
「朝、飯を食ってないんだろう」
「……はい」
「そうか」
 父は、少しのあいだ、天井のほうを見ていた。
「大きくしてやれ」
「してます」
「そうか」
 父は目を閉じた。
 しばらく、そのまま眠っているように見えた。
 職員が「安西さん」と声をかけた。父は目を開けた。
「湊」
「はい」
「あれ、あるか」
 湊は、ポケットから真鍮の独楽を出した。
 父は、それを見た。
「回してくれ」
「……ここでですか」
「ああ」
 湊は、職員のほうを見た。
 職員は、しばらく迷ってから、小さくうなずいた。
 湊は、独楽を机の上に置いた。
 アクリル板のすぐ手前。父から、いちばん近い場所に。
 親指と人差し指で軸をつまんで、ひねった。
 独楽が回った。
 小さな真鍮の塊が、机の上でまっすぐに立って、光を跳ね返しながら回った。
 三十一年前、父が旋盤で削り出したものだ。
 父は、身を乗り出した。
 毛布がずり落ちた。父はそれに気づかず、アクリル板に額をつけるようにして、独楽を見ていた。
 独楽は、回りつづけた。
 三十秒。一分。
 軸がわずかに揺れて、それでも倒れなかった。
 父の口が動いた。
「……まだ、回るな」
「回ります」
 湊は言った。
「一分半、回ります」
 父の目から、涙が落ちた。
 落ちて、机に小さな染みを作った。
「重心が」
 父は言った。
「真ん中にあると、倒れん」
「はい」
「ずれてると、すぐ倒れる」
 独楽が、遅くなった。
 軸が大きく揺れて、ふらつき、円を描いて、それから、こと、と横に倒れた。
 父は、それをじっと見ていた。
 そして、言った。
「おれは、ずれてた」
 湊は、独楽に手を伸ばせなかった。
「父さん」
「湊」
「はい」
「すまなかった」
 父は言った。
 二十一年で、初めてだった。
 湊は、何も言えなかった。
 言えないまま、時間が来た。
 父は車椅子で運ばれていった。
 扉のところで、また振り返った。
 今度は、口が動いた。
 声は聞こえなかった。
 あとになって、湊はその唇の形を何度も思い返した。
 たぶん、こう言っていた。
 ――ありがとう。
 安西邦夫は、二〇二五年二月三日の未明に死んだ。
 六十八歳だった。
 死因は肺がん。看取ったのは、刑務所の医務官と、教誨師の辻村静雄だった。
 湊は、電話で知らされた。
 その朝も、湊は窯に火を入れていた。
 電話を切って、そのまま、仕込みを続けた。
 その日、パンは全部焼いた。全部売った。
 閉店して、シャッターを下ろして、湊は店の床に座った。
 泣かなかった。
 涙は、あの独楽が倒れた日に、全部使ってしまった気がした。
 遺体の引き取りに、湊と茜で行った。
 火葬は、千葉市内の斎場でやった。
 参列者は三人だった。湊、茜、辻村。
 相良律も来たが、彼女は焼香だけして、すぐに帰った。
 骨は、思っていたより少なかった。
 係の人が「がんの方は、骨がもろくなります」と言った。
 茜が、箸を持つ手を震わせながら、骨を拾った。
 二十九歳の妹は、一言も泣かなかった。
 骨壺を抱えて斎場を出るとき、茜が言った。
「兄ちゃん」
「うん」
「わたし、この人の顔、思い出せない」
「……」
「八歳で最後に見たきりだから」
 茜は、骨壺を抱え直した。
「でもね、いま、少しだけ、悲しい」
「うん」
「なんで悲しいんだろう」
 湊は、答えられなかった。
 辻村静雄から、遺品を受け取ったのは、その一週間後だった。
 千葉刑務所の応接室で、湊は七十を過ぎた僧侶と向かい合った。
 辻村は、痩せた、静かな人だった。
「安西さんは、荷物の少ない方でした」
 辻村は言った。
 机の上に、段ボールが一つ置かれた。
 中身は、こうだった。
 眼鏡。
 湯呑み。
 文庫本が三冊。すべて、時代小説だった。
 ノートが一冊。
 そして、便箋の束が、輪ゴムで括られて、何十も。
 湊は、その束を見た。
「これは」
「お手紙です」
 辻村は言った。
「二十年分の」
「……誰に宛てた」
「あなたと、妹さんと、お母さまです」
 湊は、束を一つ手に取った。
 いちばん上の便箋に、宛名が書いてあった。
 安西湊へ。
「出さなかったんですか」
「はい」
「なぜ」
 辻村は、少しのあいだ、湯呑みを見ていた。
「三百二十七通あります」
 彼は言った。
「私は、それを何度も勧めました。出しなさい、と。一通でいい、と」
「……」
「安西さんは、毎回、こう言いました」
 辻村は湊を見た。
「出したら、返事が来る。返事が来たら、おれは、生きてしまう」
 湊は、便箋の束を握った。
「あの人はね、安西さん」
 辻村は言った。
「自分に、希望が生まれるのを、怖がっていました」
「……」
「希望を持ってしまったら、償えなくなると思っていたんです」
 湊は、目を閉じた。
「間違ってると思います」
 辻村は静かに言った。
「私は十四年、そう言いつづけました。でも、あの人は聞かなかった」
 彼はそこで、少しだけ苦笑した。
「頑固な人でした」
「……知ってます」
「あなたのお母さまからのお手紙は、全部、読んでいました」
 湊は顔を上げた。
「面会は断っても、手紙は受け取っていました。二百三十七通、全部です」
 辻村は言った。
「何度も読み返して、ぼろぼろになったので、私が保管しておりました。棺に入れました」
 湊は、その言葉を飲み込むのに時間がかかった。
「読んで、返事を書いて、出さなかったんですか」
「はい」
「二十年」
「はい」
 湊は、段ボールを両手で抱えた。
 重かった。
 紙というのは、まとまると、こんなに重い。
 汐入に帰って、湊は手紙を読んだ。
 三日かかった。
 最初の一通は、二〇〇四年三月の日付だった。
  湊へ
  父です。
  いま、拘置所にいます。ここは思ったより静かです。
  書くことがありません。何を書けばいいのかわかりません。
  高校へ行けと言ったのに、行けなくしたのはおれです。
  すまん。
  邦夫
 それだけだった。
 便箋一枚に、五行。
 二通目は、七月だった。
  湊へ
  母さんから手紙が来ました。
  おまえが名字を変えたと書いてありました。
  それでいい。
  もう、おれの名前を使うな。
  邦夫
 湊は、一通ずつ読んだ。
 最初の数年は、短かった。三行や五行のものが多い。
 だが、年を追うごとに、少しずつ長くなっていった。
 二〇一〇年の手紙には、こうあった。
  湊へ
  母さんの手紙で、おまえがパン屋になったと知りました。
  パン屋というのは、朝が早いそうだな。
  おれは工場のころ、六時に出ていた。おまえはもっと早いのか。
  昨日、ここの工場で、旋盤を触らせてもらった。六年ぶりに触った。
  手が覚えていた。
  情けない話だが、少しうれしかった。
  うれしいと思ったことが、申し訳なかった。
  邦夫
 二〇一三年の束は、厚かった。
 その年、手紙は月に二通、三通と増えていた。
  湊へ
  母さんの手紙に、おまえにいい人がいると書いてありました。
  看護婦さんだそうだな。いまは看護師と言うのか。
  母さんは会ったことがないそうだ。だから
  名前も知らん。
  書きようがない。
  ただ、一つだけ思ったことを書く。
  その人は、おまえの何を知っているのか。
  知っていて、そばにいるのか。
  知らないで、そばにいるのか。
  どちらにしても、おまえはいつか、言わなければならん。
  言ったら、いなくなるかもしれん。
  それでも、言わないでそばに居させているのは、おれと同じことだ。
  おれは、母さんに何も言わずに二十年やっている。
  これは、いいやり方ではない。
  邦夫
 湊は、その手紙を二度読んだ。
 二〇一三年の秋。あの年の暮れ、湊は更紗に打ち明けた。工場の火事の話を、十二月十四日の夜に。
 父は、それを知らずに、同じ月に、同じことを書いていた。
 湊は、便箋を裏返してみた。何も書かれていなかった。
 その隣の束は、二〇一八年だった。
 二〇一八年の九月から、十二月にかけて、十一通あった。
 どれも、宛名が「茜へ」になっていた。
  茜へ
  辻村さんから聞きました。
  おまえが、あんなことをしたと聞きました。
  おれは、いま、この便箋を三枚だめにしました。
  字が書けませんでした。
  おまえは八つだった。
  おれが最後に見たとき、おまえは前歯が抜けていた。ピアノの発表会の前で、
  歯抜けの顔が写真に残るのが嫌だと泣いていた。
  母さんが、大丈夫、笑わなければ写らないよと言っていた。
  おまえは、笑わない練習をしていた。
  鏡の前で、口を結んで。
  あれから十五年、おまえは、ずっと笑わない練習をしてきたんじゃないか。
  おれのせいだ。
  茜。
  結婚がだめになったそうだな。
  その男を恨むな。
  恨む相手はここにいる。
  だが、その恨みを、おまえの中に抱え込むな。
  おれに向けろ。手紙で送れ。何を書いてもいい。
  おれは受け取る。それだけはできる。
  邦夫
 その手紙も、出されていなかった。
 次の一通は、十日後の日付だった。
  茜へ
  昨日、おまえの夢を見ました。
  夢の中で、おまえは八つのままでした。
  「お父さん、ピアノ聞いて」と言われました。
  おれは聞きました。
  メリーさんのひつじでした。
  目が覚めて、おれは、しばらく起きられませんでした。
  あの曲は、聞いてはいけない曲になった。
  おまえのせいでもなく、おまえの弾いた曲のせいでもない。
  おれが、あの曲を殺した。
  すまん。
  邦夫
 湊は、その束を、輪ゴムで括り直した。
 茜に渡さなければならない。
 だが、いつ渡すべきか、湊には判断がつかなかった。
 結局、四月に、湊は茜を汐入に呼んだ。
 店の二階で、束を渡した。
 茜は、その場では読まなかった。
 紙袋に入れて、抱えて帰った。
 二週間後に、電話が来た。
「兄ちゃん」
「うん」
「読んだ」
「そうか」
 電話の向こうで、茜は少し黙った。
「わたし、この人のこと、何も知らないと思ってた」
「うん」
「でも、この人は、わたしのこと、知ってた」
 茜の声が、震えた。
「歯が抜けてたこと、覚えてた」
 湊は、受話器を持ったまま、天井を見た。
「兄ちゃん」
「うん」
「わたし、ピアノ、買おうかな」
 湊は、目を閉じた。
「買え」
 話が、先に行った。
 二月の、三日間の夜に戻る。
 二〇一九年の九月に、こういうものがあった。
  佳代子へ
  辻村さんから聞きました。
  おまえが死んだと聞きました。
  おれは、その日、飯を食いました。
  朝も、昼も、晩も食いました。それが、いちばん腹が立ちました。
  おまえの手紙は、二百三十七通、全部持っています。
  最初の年の手紙に、こう書いてあった。
  「あなたが何をしたか、わたしにはまだわかりません。でも、あなたが朝ごはん 
  に何を食べていたかは、わたしが知っています」
  あれから十五年、その一行を読み返して生きました。
  離婚届を出さなかったな。
  ばかなやつだ。
  邦夫
 湊は、その手紙を膝に置いて、長いこと動けなかった。
 三日目の夜、いちばん最後の束にたどりついた。
 日付は、二〇二五年一月十七日。
 最後の面会の、翌日だった。
 便箋は五枚あった。
 字が、震えていた。
  湊へ
  昨日、おまえが独楽を回すのを見た。
  あれを削ったのは、おまえが六つの年だ。
  削っているとき、おれは、この子はこれを大人になるまで持っているだろうかと 
  思った。
  持っていた。
  だから、書く。
  もう時間がない。書いておかなければならない。
  あの日のことを書く。
  二〇〇三年十二月十四日。おれは、工場へ行った。
  戸倉さんに会って、本間のことを、もう一度話すつもりだった。労災の書類を出
  し直してくれと頼むつもりだった。本間の遺族に、せめて金が行くようにと。
  戸倉さんは、笑った。
  あの人は、こう言った。
  「本間は自分で死んだんだ。おれは殺してない。だいたい、あの日、判を押した
  のはあんただろう」
  その通りだった。
  おれは、鉄の棒を掴んだ。
  そして気がついたら殴っていた。
  戸倉さんは動かなくなっていた。
  おれは、床に座り込んでいた。
  そのとき、工場の入口に、人が立っていた。
  本間の息子の、涼だった。
  十九だった。
  あの子は、ポリタンクを持っていた。片手にライターを持っていた。
  あの子も、来ていたのだ。
  おれと、同じ晩に、同じ場所に、同じことをしに来ていた。
  あの子は、震えていた。泣いていた。
  「おじさん、おれ、やる」と言った。
  「おれがやるから、おじさんは帰って」と言った。
  おれは、あの子の手からライターを取り上げた。
  あの子は、床に灯油をぶちまけていた。もう撒いてしまっていた。
  おれは、こう思った。
  この子は十九だ。この子にはまだ、未来が人生がある。
  おれは、もう終わっている。
  だから、おれがやる。
  おれは、火をつけた。
  これが、火をつけた理由だ。
  二十一年、誰にも言わなかった理由でもある。
  湊。
  ここから先を、よく読んでほしい。
  おれは、火をつけたとき、隣の家のことを、頭から失くしていた。
  嘘だと思うだろう。おれもそう思う。
  あの家には、真弓さんがいて、詩織ちゃんがいた。おれは二人を知っていた。詩
  織ちゃんは、茜と同じ教室でピアノを習っていた。夏祭りで、うちの茜と手をつ  
  ないで歩いていたのを見たことがある。
  知っていたのに、あの一瞬、頭になかった。
  人間というのは、そういうものだ。
  おれは、それを知った。
  火が渡り廊下に走ったとき、おれは思い出した。
  走った。
  入れなかった。
  二階の窓に明かりがついた。おれは名前を呼んだ。呼んだが、届かなかった。
  涼が、おれの腕を引いた。あの子は、何が起きているのかまだわかっていなかっ
  た。
  おれは、あの子を引きずって逃げた。
  逃げながら、後ろで、ガラスが割れる音がした。
  湊。
  おれが殺したのだ。
  涼ではない。おれだ。
  灯油を撒いたのはあの子だが、火をつけたのはおれだ。もしおれがあの子から取 
  り上げなければ、あの子が火をつけていたか。わからない。撒いただけで、震え
  て、逃げたかもしれない。
  だが、おれは取り上げた。そして、つけた。
  だから、おれが殺した。
  あの子には、逃げろと言った。誰にも言うなと言った。
  この二十一年、あの子が名乗り出なかったのは、おれがそう言ったからだ。
  十九の子どもに、そう言った。
  あの子の二十一年を、おれは奪った。
  どちらにしても、おれは奪ってばかりだ。
  湊。
  なぜ、おまえに会わなかったか。
  おまえは必ず、聞くからだ。
  なぜ火をつけたのかと。
  おまえに聞かれたら、おれは答える。おれは、おまえには嘘がつけない。
  答えたら、涼が捕まる。
  だから、会わなかった。
  母さんにも、同じ理由で会わなかった。
  もう一つある。
  これが、本当のところだ。
  おれは、おまえに、おれの中に何があるのかを、見せたくなかった。
  おれは普通の男だった。人を殴ったこともなかった。虫も殺さん、とまでは言わ 
  んが、まあ、普通の男だった。
  その普通の男が、あの晩、人を殴って殺した。
  その普通の男が、隣に子どもが寝ているのを忘れて、火をつけた。
  そういうものが、おれの中に巣食っていた。
  おまえの中にも、入っているかもしれない。
  おれは、それが怖かった。
  だから、おまえがおれを見て、おれのことを考える時間を、少しでも減らしたか
  った。
  考えるな。似ていると思うな。
  湊。
  おまえは、おれの息子だ。
  だが、おまえは、おれではない。
  おれが火をつけた朝に、おまえは火をつけていない。
  おまえは毎朝、火をつけて、パンを焼いている。
  同じ火だ。使い方が違うだけだ。
  それでいい。
  それが全部だ。
  最後に、一つだけ、嘘をついたことを謝る。
  あの日、おまえの部屋で、高校へ行けと言った。
  あのとき、おれはもう、工場へ行くつもりだった。何が起きるかも、うすうすわ
  かっていた。
  わかっていて、高校へ行けと言った。
  あれは遺言のつもりだった。
  卑怯だった。
  行けるはずがなかった。
  すまなかった。
  邦夫
 湊は、その手紙を読み終えて、便箋を膝に置いた。
 時計を見た。
 午前二時四十分だった。
 毎朝、目が覚める時間だった。
 湊は立ち上がって、階段を下りた。
 窯の扉を開けて、灰をかき分けた。
 赤いものがあった。
 燠だった。
 湊は薪を三本置いた。白い煙が上がり、揺れて、ふっと橙に変わった。
 火がついた。
 湊は、その火を、長いこと見ていた。
 本間涼が汐入に来たのは、それから五日後だった。
 相良律が連れてきた。
 二人は、閉店後の店に入ってきた。
 涼は、前に来たときよりずっと痩せていた。
 湊の顔を見ると、その場に膝をついた。
「すみませんでした」
 床に額をつけた。
「やめてください」
 湊は言った。
「立ってください」
 涼は動かなかった。
「おれです」
 彼は言った。
「おれが、灯油を撒きました」
 湊は、床にしゃがんで、涼の肩を掴んだ。
「知ってます」
 涼が顔を上げた。
「父の手紙を、読みました」
 涼の顔が、崩れた。
 四十を過ぎた男が、床の上で、声を上げて泣いた。
 相良が、静かに言った。
「本間さんは、二週間前に私のところに来ました」
 湊は顔を上げた。
「私が調べていることを、どこかで知ったようです」
 涼は、しゃくり上げながら言った。
「おじさんが、もう長くないって、聞いたんです」
「……」
「去年の夏に。柏尾の元従業員から」
 涼は袖で顔を拭いた。
「そしたら、急に、怖くなって」
 彼は言った。
「あの人が死んだら、おれ、一生このままなんだって」
 湊は、何も言わなかった。
「おれ、あの晩から、二十一年、毎晩、灯油の匂いがするんです」
 涼は言った。
「風呂に入っても、飯食っても、匂うんです」
 湊は、涼の背中を見ていた。
 この人は、二十一年、灯油の匂いを抱いて生きてきた。
 自分は、二十一年、名前を隠して生きてきた。
 母は、二十一年、返される封筒を出し続けた。
 父は、二十一年、出さない手紙を書き続けた。
 誰も、あの晩から出ていない。
 誰一人として、あの晩のことから出ていない。
「本間さん」
 湊は言った。
「どうするつもりですか」
 涼は、しばらく黙っていた。
「自首します」
 彼は言った。
「明日、行きます」
「時効は」
 湊が言うと、相良が答えた。
「ありません。この事件は、時効廃止の対象です」
 湊は、うなずいた。
「父の手紙には」
 湊は言った。
「あなたを捕まえさせるな、と書いてありました」
 涼が、また崩れそうになった。
「でも」
 湊は続けた。
「それは、父が決めることじゃない」
 彼は、涼の目を見た。
「決めるのは、あなたと、それから」
 湊は、そこで言葉を切った。
「戸倉更紗さんです」
 涼は、翌日、群馬県警に出頭した。
 現住建造物等放火の幇助と、殺人の幇助で逮捕された。
 報道は、大きかった。
 二十一年前の事件の共犯者が名乗り出た、という見出しが、三日間ニュースに出
 た。
 安西邦夫の名前も、また出た。
 湊の店にも、二社が来た。
 湊は、玄関に「取材はお断りします」と紙を貼った。それだけだった。
 二〇二五年の三月、湊は手紙を書いた。
 宛先は、東京の病院ではなく、群馬の実家跡でもなかった。
 相良が調べてくれた、更紗のいまの住所だった。
 湊は、便箋を十枚使った。
 書き直しは、四十回を超えた。
 最終的に、こういう文面になった。
  戸倉更紗様
  二度と来るなと言われた者が手紙を書くことを、まずお詫びします。
  これは、私の弁明ではありません。
  あなたには、知る権利のあることが二つあります。
  一つは、私の父が二月三日に死んだこと。
  もう一つは、あの晩、何があったかということです。
  父の書いたものを、そのまま同封します。
  読むかどうかは、あなたが決めてください。
  読まずに捨てても、それはあなたの権利です。
  私は、あなたに謝りません。
  謝れば、私が楽になるだけだからです。それは、二十一年前に、あなたのおばあ 
  さまが私の母に言ったことです。
  私は、いま、千葉の海のそばで、パン屋をやっています。
  毎朝二時四十分に起きて、三時に火を入れて、パンを焼いています。
  あなたが朝ごはんを食べられなくなったことを、私は知っています。
  それを私が返す方法は、ありません。
  ただ、私は焼きつづけます。
  あなたのためではありません。
  あなたのためだと言ったら、それはまた、あなたの人生を私の償いに使うことに
  なるからです。
  私は、私が生きていくために焼きます。
  その上で、もし、いつか。
  いつか、あなたが朝ごはんを食べられるようになったときに。
  そのとき、この世界のどこかに、私が焼いたパンもある、というだけのことで
  す。
  それ以上のことは、望みません。
  安西湊
 湊は、その手紙を投函した。
 汐入の郵便局の、赤いポストだった。
 封筒を落としたとき、中で軽い音がした。
 返事は、来なかった。
 春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来た。
 湊は、毎朝、火を入れた。
 一日も、休まなかった。
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