燠火(おきび)
第十二章 三月の客
湊は、あんパンを二つ、紙の袋に入れた。
更紗は財布を出して、二百八十円をきっちり置いた。
湊はそれを受け取った。受け取らないという選択肢は、なかった。
「あの」
湊は言った。
「もしよければ、座っていきませんか」
店の隅に、椅子が二脚とテーブルが一つある。老人が休むために置いたものだ。
更紗は少し迷って、それから座った。
湊はシャッターを半分下ろした。まだ四時半だが、今日はもう店を閉めることにした。
湯を沸かして、茶を淹れた。
テーブルに湯呑みを二つ置いて、向かいに座った。
更紗は袋を開けなかった。膝の上に置いたまま、両手で持っていた。
「久しぶりです」
湊が言った。
「七年と、四か月です」
更紗が即答した。
湊は、その正確さに、少し息を詰めた。
「手紙、読みました」
更紗は言った。
「去年の三月に届いて、四月に読みました」
「……」
「一か月、置いてありました。台所の、電気の検針票と一緒に」
彼女は湯呑みに手を伸ばした。持ち上げて、口をつけずに、また置いた。
「捨てようと思って、三回、ゴミの袋に入れました」
湊は黙って聞いていた。
「三回とも、出しました」
更紗は言った。
「四月の、雨の日に読みました。夜勤明けで、頭がぼんやりしてたので、そういう日なら読めると思って」
「……」
「読めませんでした」
彼女は少し笑った。ひどく疲れた笑い方だった。
「途中で吐きました」
湊は、湯呑みを見ていた。
「二日かけて、全部読みました」
更紗は言った。
「あなたのお父さんの字は、震えていました」
「はい」
「あの人が、母と妹を殺したときのことを、あんなに細かく書いているのを読んで」
更紗の声が、初めて揺れた。
「私、なんて言えばいいのか、わからなくなりました」
窓の外を、自転車が通った。ベルの音が遠ざかっていった。
「あなたのお父さんは」
更紗は言った。
「妹の名前を、書いてましたね」
「はい」
「詩織ちゃん、って」
「はい」
「夏祭りで、あなたの妹さんと手をつないで歩いてた、って」
更紗は、そこで言葉に詰まった。
「……私、その日のこと、覚えてるんです」
湊は顔を上げた。
「二〇〇三年の、八月です。柏尾神社のお祭りで。私、十歳で、もうお祭りなんてつまんないって言って、家にいたんです」
更紗の目に、涙が溜まっていった。
「詩織だけ、母と行きました」
「……」
「あの子、りんご飴を買ってもらって、半分残して持って帰ってきたんです。お姉ちゃんに、って」
彼女は手の甲で目を押さえた。
「そのりんご飴、私、食べなかったんです。溶けてべたべたしてたから、いらないって言って」
湊は、テーブルの木目を見ていた。
言葉を出せば、この人の記憶を汚す気がした。
「四か月後に、あの子は死にました」
更紗は言った。
「私は、りんご飴を食べなかった姉として、二十二年生きました」
しばらく、二人とも黙っていた。
窯の奥で、灰が落ちる音がした。
「本間さんの裁判に、行きました」
更紗が言った。
「去年の十一月です。前橋地裁でした」
「……はい」
「私、意見陳述をしました」
湊は、息を止めた。
「被害者参加制度っていうのがあって、遺族が法廷で話せるんです。私、それを使いました」
更紗は湯呑みを両手で包んだ。
「二十二年前は、私は十歳だったので、何もできませんでした。あなたのお父さんの裁判は、おばあちゃんが全部行きました。私は、行かせてもらえませんでした」
「……」
「だから、今度は行こうと思って」
彼女は言った。
「本間さんは、ずっと下を向いてました」
湊は、うなずいた。
「私は、こう言いました」
更紗の声が、少し高くなった。法廷で話すときの声に戻ったのかもしれない。
「――あなたが灯油を撒いたとき、私の妹は七歳でした。あなたは十九歳でした。あなたのお父さんは、会社に手を奪われて、お金がなくて、死にました。それは、本当に気の毒なことだと思います」
更紗は続けた。
「――でも、私の妹には、何の関係もありませんでした」
湊は、目を閉じた。
「――あなたが二十一年苦しんだことは、私の妹の二十一年を返しません。あなたが自首したことも、返しません」
更紗の声が、震えはじめた。
「――私は、あなたを許しません」
彼女は言った。
「――ただ、私は、あなたに死んでほしいとは思いません」
湊は、顔を上げた。
「――私の家族は、もう誰もいません。父も、母も、妹も、祖母も、いません。私だけです。だから、もうこれ以上、誰かがいなくなるのは、たくさんです」
更紗は、そこで一度、大きく息を吸った。
「――刑務所に入って、出てきて、それから、あなたは働いてください」
湊の目に、熱いものが上がってきた。
「――ちゃんと働いて、税金を払って、腹の立つことがあっても火をつけないで、生きてください」
更紗は、湯呑みを置いた。
「――それが、私が言える精一杯です」
店の中は、静かだった。
外で、風が電線を鳴らしていた。
「本間さんは」
湊は聞いた。
「泣いてました」
更紗は言った。
「判決は、懲役六年でした」
「……そうですか」
「短いと思いますか」
「わかりません」
「私も、わかりません」
更紗は言った。
「六年で妹が帰ってくるなら、六年でもいいですけど」
湊は、何も言えなかった。
更紗は、湯呑みの茶を少し飲んだ。
冷めているはずだったが、彼女は気にしていないようだった。
「おばあちゃんの話を、していいですか」
彼女は言った。
「はい」
「あなたのお母さんに、ひどいことを言った人です」
湊は、うなずいた。
二〇〇四年の一月。玄関先で母が土下座して、戸倉千代が「謝るのは、あんたが楽になるためでしょう」と言った日のことだ。
「私、あとで聞きました。中学のときに」
更紗は言った。
「おばあちゃんが、自分から話したんです。あんたの家に、加害者の奥さんが来た。わたしは追い返した、って」
「……」
「それで、こう言いました。『あれは、わたしの人生でいちばん、性根の悪いことをした日だった』って」
湊は、顔を上げた。
「性根が悪い?」
「はい」
更紗は言った。
「おばあちゃんは、あの日のことを、ずっと悔いてました」
湊は、その言葉を飲み込めなかった。
「でも、あれは、正しいことじゃないんですか」
「正しかったと思います」
更紗は言った。
「でも、正しいことと、性根がいいことは、別なんだそうです」
「……」
「おばあちゃんは言いました。『あの人は、殴られに来たんだ。それがわかっていたから、わたしは言葉で殴った。殴りたかったから殴ったんじゃない。殴れば、あの人が少しは楽になると思ったからだ』」
湊は、息をのんだ。
「『でもね、更紗。わたしは、あのとき、たしかに気持ちよかったんだよ』」
更紗の声が、低くなった。
「『人を殴って気持ちよかった人間が、人殺しを責める資格があるのかね』」
店の中が、しんとした。
「おばあちゃんは、そのあと十八年、その話を私にしか、しませんでした」
更紗は言った。
「四年前の十一月に死にました。九十六でした」
「……お悔やみ申し上げます」
「言わなくていいです」
更紗は言った。
「そういうの、あなたが言うと、変になるので」
「……はい」
「最後の一年は、病院にいました。私が勤めてる病院ではなくて、群馬の療養型です」
彼女は湯呑みを両手で包んだ。
「認知症が入っていて、日によって、私が誰かわからなくなりました」
「はい」
「ある日、私を詩織だと思ったんです」
湊は、更紗の顔を見た。
「『詩織ちゃん、ピアノは弾けたかい』って」
更紗の目に、また涙が溜まった。
「私、その日、詩織になりました」
「……」
「『弾けたよ、おばあちゃん』って言いました」
彼女は、袖で目を押さえた。
「そしたら、おばあちゃん、笑ったんです。十九年ぶりに笑った顔でした」
湊は、テーブルの下で拳を握っていた。
「そのあと、こう言いました」
更紗は言った。
「『じゃあ、もう、いいねえ』」
「……」
「その二日後に、死にました」
更紗は、湯呑みを置いた。
「私、あの二日間のことを、ずっと考えてます」
彼女は言った。
「私は、嘘をつきました。詩織のふりをして、弾けたよって言いました」
「……」
「でも、あれで、おばあちゃんは、二十年ぶりに笑ったんです」
更紗は、湊を見た。
「嘘は、悪いことですよね」
湊は、その目を見返した。
この人は、いま、自分に何を聞いているのか。
「……わかりません」
湊は正直に言った。
「私も、わかりません」
更紗は言った。
「だから、あなたのお父さんが二十一年黙っていたことを、私は、悪いことだとしか言えないんですけど」
彼女は、そこで少し息を吸った。
「言い切れないんです」
更紗は言った。
「言い切れなくなったのが、腹立たしいんです」
更紗は、膝の上の袋を見た。
「私、あなたを許すために来たんじゃありません」
彼女は言った。
「はい」
「一生、許しません。手紙を読んでも、お父さんが死んでも、変わりません」
「はい」
「あなたのお父さんは、私の母と妹を殺しました。理由がどうであれ、殺したことは殺したことです。それは、どんな事情でも薄まりません」
「はい」
「あなたは、そのことを二十二年、知っていて、私に黙っていました。五年半、毎日、私に嘘をつきました」
「……はい」
「それも、許しません」
湊は、うなずいた。
「わかっています」
「わかってないです」
更紗は言った。
「あなた、あの手紙に、私に謝らないって書いたでしょう」
「はい」
「あれ、腹が立ちました」
湊は顔を上げた。
「すごく、腹が立ちました」
更紗は言った。
「格好つけないでください」
「……」
「謝ってください」
湊は、その言葉を理解するのに、数秒かかった。
「あなたが楽になるとか、そんなのはどうでもいいです。私は、あなたに謝ってほしいんです」
更紗の目から、涙がこぼれた。
「五年半、嘘つかれたことを、謝ってほしいんです」
湊は、椅子から腰を上げた。
床に膝をついて、両手をついた。
「すみませんでした」
声が出なかった。
「本当に、すみませんでした」
額を、床につけた。
更紗は、それを止めなかった。
湊は、そのままの姿勢で泣いた。
更紗も、椅子に座ったまま泣いていた。
二人は、同じ部屋で、別々に泣いた。
どれくらいそうしていたか、わからない。
やがて、更紗が言った。
「もういいです」
湊は顔を上げた。
更紗は、鼻をすすって、袖で顔を拭いていた。
「ひどい顔してますね、お互い」
「……はい」
湊は椅子に戻った。
更紗は、鞄から何かを取り出した。
古い楽譜だった。
茶色く変色した、バイエルの教本。
湊は、それを見て、体が固まった。
「持ってきました」
更紗は言った。
「これ、捨てられなくて。二十二年」
彼女はページをめくって、あの見開きを開いた。
メリーさんの ひつじ。
「詩織は、この曲を最後まで弾けませんでした」
更紗は言った。
「途中で必ず間違えて、そこでやめちゃうんです。四小節目の、ソのところで」
「……」
「発表会は、十二月二十一日でした」
更紗は指で、譜面をなぞった。
「一週間、足りませんでした」
湊は、その指を見ていた。
左手の甲に、うっすらと色の違う帯があった。
十三年前、湊が窯から出した鉄板でつけた跡だ。
更紗は、湊の視線に気づいた。
「これ、まだ残ってます」
彼女は左手を上げて、光にかざした。
「消えないんですよ」
「……すみません」
「謝らないでください。これは謝ってほしくない」
更紗は言った。
「これは、私が残しておきたかったやつです」
湊は、彼女の顔を見た。
「あの五年半が、全部嘘だったとは思いたくないんです」
更紗は言った。
「思いたくないだけで、思ってもいいことなのかは、わかりません」
彼女は手を下ろした。
「私、この七年で、二回、看護師を辞めようとしました」
更紗は言った。
「朝ごはんが食べられなくて、体重が十キロ落ちて、夜勤ができなくなって」
「……」
「でも、辞めませんでした」
「なぜですか」
「熱傷ユニットに、七歳の子が入ってくるからです」
更紗は、まっすぐ湊を見た。
「あの子たちは、治ります。ちゃんと治って、家に帰ります」
彼女は言った。
「私は、その子たちが帰るのを見るのが、好きなんです」
湊は、うなずいた。
「私の妹は帰りませんでした。でも、あの子たちは帰ります」
更紗は言った。
「それが、私が生きてる理由です。あなたが、パンを焼くのと同じです」
「……」
「同じにしないでほしいですか」
「いえ」
湊は言った。
「同じだと言ってもらえて、こんなにありがたいことはありません」
更紗は、袋を開けた。
あんパンを一つ、取り出した。
両手で持って、しばらく見ていた。
それから、口元に持っていって、止めた。
手が震えていた。
「……だめだ」
彼女は言った。
「まだ、だめです」
パンを袋に戻した。
「すみません」
「いいんです」
湊は言った。
「いいんです」
更紗は、袋の口を丁寧に折った。
「持って帰ります」
「はい」
「明日の朝、やってみます」
「はい」
二人は、しばらく黙って座っていた。
窓の外が、暗くなってきた。
海のほうから、船の汽笛が聞こえた。
「今日は、どこに泊まるんですか」
湊が聞いた。
「駅前に、民宿があるって聞いたので」
「坂上さんのとこですね。大家さんです」
「そうなんですか」
「電話しておきます」
更紗は立ち上がった。
鞄を持って、コートのボタンを留めた。
扉のところで、彼女は振り返った。
「安西さん」
「はい」
「お父さんのお墓は、どこですか」
湊は、少し驚いた。
「まだ、ないんです」
彼は言った。
「骨は、うちの二階に置いてあります」
「なぜですか」
「入れる墓がないんです」
湊は言った。
「柏尾の墓は、事件のあと、親戚が改葬しました。父の名前は、どこにも入れられません」
更紗は、うなずいた。
「そうですか」
彼女は言った。
「私の母と妹の墓は、群馬にあります」
「……はい」
「毎年、命日に行きます」
「はい」
更紗は、扉のノブに手をかけた。
「あなたのお父さんの骨を、そこには入れさせません」
「わかっています」
「一生、入れさせません」
「はい」
彼女は言った。
「でも、海にでも撒くんだったら、それは、私には止められません」
湊は、彼女の顔を見た。
更紗は、少し目を伏せた。
「勝手なことを言いました」
「いえ」
「おやすみなさい」
鈴が鳴った。
更紗は出ていった。
湊は、扉のガラス越しに、その背中が道の角を曲がるまで見ていた。
その夜、湊は仕込みをしながら、何度も手が止まった。
あんパンの餡を炊きなおした。
いつもは前日の夜に炊いたものを使う。だがその晩は、小豆を新しく水に浸けた。豆が戻るのに時間がかかるので、間に合わないとわかっていた。
それでも、浸けた。
午前三時、窯に火を入れた。
燠は、赤かった。
薪を置くと、白い煙が上がって、揺れて、橙に変わった。
湊は、その火を見ながら、父の手紙の一節を思い出していた。
――同じ火だ。使い方が違うだけだ。
六時五十分、シャッターを上げた。
海から、風が入ってきた。
三月の終わりの、生ぬるい風だった。
最初の客は、漁協の老人だった。
「今日は静かだね」
「そうですね」
老人はバターロールを四つと、コッペパンを二つ買って、出ていった。
七時二十分に、更紗が来た。
昨日と同じコートだった。目が腫れていた。
彼女は、棚を一通り見た。
バゲット。カンパーニュ。バターロール。クロワッサン。食パン。そして、あんパン。
「あの」
更紗が言った。
「いちばん、なんでもないやつをください」
「なんでもないやつ」
「特別じゃないやつです」
湊は、食パンを一斤取った。
スライスするかと聞くと、しないでいい、と言われた。
更紗は、それを持ってテーブルに座った。
湊は、皿と、バターと、ナイフを出した。
更紗は首を振った。
「そのままでいいです」
彼女は、袋を開けた。
パンの端を、指でちぎった。
小さな一片だった。
それを、口に入れた。
噛んだ。
湊は、カウンターの内側から、それを見ていた。
更紗は、目を閉じて噛んでいた。
ゆっくり、何度も噛んだ。
喉が動いた。
飲み込んだ。
彼女は、目を開けた。
そして、もう一片ちぎった。
二片目を口に入れたところで、更紗の顔が崩れた。
泣きながら、噛んでいた。
噛んで、飲み込んで、また泣いた。
「更紗さん」
湊が言いかけると、彼女は手を上げて制した。
喋らないで、という意味だった。
更紗は、そのまま、パンを食べつづけた。
三片目。四片目。
涙が、テーブルに落ちていた。
五片目を飲み込んだあと、彼女は袋を閉じた。
両手で顔を覆った。
肩が、大きく上下していた。
湊は、カウンターから出なかった。
出てはいけないと思った。
この人が、七年かけて取り戻したものに、自分が近づいてはいけない。
やがて、更紗が顔を上げた。
目も鼻も、真っ赤だった。
「安西さん」
「はい」
彼女は言った。
「……食べられました」
湊は、その場に立っていられなくなった。
カウンターの下に手をついて、体を支えた。
「はい」
彼は言った。
「はい」
それしか言えなかった。
鈴が鳴った。
扉が開いて、自転車を止めた高校生が入ってきた。
早瀬蓮だった。
「おはようございます」
「おはよう」
蓮は棚のあんパンを取って、レジに持ってきた。
百四十円。今日は十円玉が四枚と、百円玉が一枚だった。
蓮は、テーブルで泣いている女の人を、ちらりと見た。
それから、湊を見た。
「……なんかあった?」
「なんもない」
「ふうん」
蓮は、あんパンの袋を提げて、扉に向かった。
出ていく直前に、振り返って言った。
「おじさん、あんパン、また大きくなってない?」
湊は、少し笑った。
「気のせいだ」
「絶対大きい」
蓮は、扉を開けた。
朝の光が、店の中に斜めに差し込んだ。
更紗が、その光の中で、顔を上げた。
そして、蓮に向かって、頭を下げた。
蓮は面食らって、慌てて頭を下げ返して、走っていった。
自転車のベルの音が、遠ざかっていった。
更紗は、その音を聞いていた。
それから、湊のほうを見て、言った。
「いい子ですね」
「はい」
「あの子は、朝ごはんを食べてる」
更紗は言った。
「それは、いいことです」
湊は、うなずいた。
「はい」
窯の中で、次の一釜が、静かに膨らんでいた。
更紗は財布を出して、二百八十円をきっちり置いた。
湊はそれを受け取った。受け取らないという選択肢は、なかった。
「あの」
湊は言った。
「もしよければ、座っていきませんか」
店の隅に、椅子が二脚とテーブルが一つある。老人が休むために置いたものだ。
更紗は少し迷って、それから座った。
湊はシャッターを半分下ろした。まだ四時半だが、今日はもう店を閉めることにした。
湯を沸かして、茶を淹れた。
テーブルに湯呑みを二つ置いて、向かいに座った。
更紗は袋を開けなかった。膝の上に置いたまま、両手で持っていた。
「久しぶりです」
湊が言った。
「七年と、四か月です」
更紗が即答した。
湊は、その正確さに、少し息を詰めた。
「手紙、読みました」
更紗は言った。
「去年の三月に届いて、四月に読みました」
「……」
「一か月、置いてありました。台所の、電気の検針票と一緒に」
彼女は湯呑みに手を伸ばした。持ち上げて、口をつけずに、また置いた。
「捨てようと思って、三回、ゴミの袋に入れました」
湊は黙って聞いていた。
「三回とも、出しました」
更紗は言った。
「四月の、雨の日に読みました。夜勤明けで、頭がぼんやりしてたので、そういう日なら読めると思って」
「……」
「読めませんでした」
彼女は少し笑った。ひどく疲れた笑い方だった。
「途中で吐きました」
湊は、湯呑みを見ていた。
「二日かけて、全部読みました」
更紗は言った。
「あなたのお父さんの字は、震えていました」
「はい」
「あの人が、母と妹を殺したときのことを、あんなに細かく書いているのを読んで」
更紗の声が、初めて揺れた。
「私、なんて言えばいいのか、わからなくなりました」
窓の外を、自転車が通った。ベルの音が遠ざかっていった。
「あなたのお父さんは」
更紗は言った。
「妹の名前を、書いてましたね」
「はい」
「詩織ちゃん、って」
「はい」
「夏祭りで、あなたの妹さんと手をつないで歩いてた、って」
更紗は、そこで言葉に詰まった。
「……私、その日のこと、覚えてるんです」
湊は顔を上げた。
「二〇〇三年の、八月です。柏尾神社のお祭りで。私、十歳で、もうお祭りなんてつまんないって言って、家にいたんです」
更紗の目に、涙が溜まっていった。
「詩織だけ、母と行きました」
「……」
「あの子、りんご飴を買ってもらって、半分残して持って帰ってきたんです。お姉ちゃんに、って」
彼女は手の甲で目を押さえた。
「そのりんご飴、私、食べなかったんです。溶けてべたべたしてたから、いらないって言って」
湊は、テーブルの木目を見ていた。
言葉を出せば、この人の記憶を汚す気がした。
「四か月後に、あの子は死にました」
更紗は言った。
「私は、りんご飴を食べなかった姉として、二十二年生きました」
しばらく、二人とも黙っていた。
窯の奥で、灰が落ちる音がした。
「本間さんの裁判に、行きました」
更紗が言った。
「去年の十一月です。前橋地裁でした」
「……はい」
「私、意見陳述をしました」
湊は、息を止めた。
「被害者参加制度っていうのがあって、遺族が法廷で話せるんです。私、それを使いました」
更紗は湯呑みを両手で包んだ。
「二十二年前は、私は十歳だったので、何もできませんでした。あなたのお父さんの裁判は、おばあちゃんが全部行きました。私は、行かせてもらえませんでした」
「……」
「だから、今度は行こうと思って」
彼女は言った。
「本間さんは、ずっと下を向いてました」
湊は、うなずいた。
「私は、こう言いました」
更紗の声が、少し高くなった。法廷で話すときの声に戻ったのかもしれない。
「――あなたが灯油を撒いたとき、私の妹は七歳でした。あなたは十九歳でした。あなたのお父さんは、会社に手を奪われて、お金がなくて、死にました。それは、本当に気の毒なことだと思います」
更紗は続けた。
「――でも、私の妹には、何の関係もありませんでした」
湊は、目を閉じた。
「――あなたが二十一年苦しんだことは、私の妹の二十一年を返しません。あなたが自首したことも、返しません」
更紗の声が、震えはじめた。
「――私は、あなたを許しません」
彼女は言った。
「――ただ、私は、あなたに死んでほしいとは思いません」
湊は、顔を上げた。
「――私の家族は、もう誰もいません。父も、母も、妹も、祖母も、いません。私だけです。だから、もうこれ以上、誰かがいなくなるのは、たくさんです」
更紗は、そこで一度、大きく息を吸った。
「――刑務所に入って、出てきて、それから、あなたは働いてください」
湊の目に、熱いものが上がってきた。
「――ちゃんと働いて、税金を払って、腹の立つことがあっても火をつけないで、生きてください」
更紗は、湯呑みを置いた。
「――それが、私が言える精一杯です」
店の中は、静かだった。
外で、風が電線を鳴らしていた。
「本間さんは」
湊は聞いた。
「泣いてました」
更紗は言った。
「判決は、懲役六年でした」
「……そうですか」
「短いと思いますか」
「わかりません」
「私も、わかりません」
更紗は言った。
「六年で妹が帰ってくるなら、六年でもいいですけど」
湊は、何も言えなかった。
更紗は、湯呑みの茶を少し飲んだ。
冷めているはずだったが、彼女は気にしていないようだった。
「おばあちゃんの話を、していいですか」
彼女は言った。
「はい」
「あなたのお母さんに、ひどいことを言った人です」
湊は、うなずいた。
二〇〇四年の一月。玄関先で母が土下座して、戸倉千代が「謝るのは、あんたが楽になるためでしょう」と言った日のことだ。
「私、あとで聞きました。中学のときに」
更紗は言った。
「おばあちゃんが、自分から話したんです。あんたの家に、加害者の奥さんが来た。わたしは追い返した、って」
「……」
「それで、こう言いました。『あれは、わたしの人生でいちばん、性根の悪いことをした日だった』って」
湊は、顔を上げた。
「性根が悪い?」
「はい」
更紗は言った。
「おばあちゃんは、あの日のことを、ずっと悔いてました」
湊は、その言葉を飲み込めなかった。
「でも、あれは、正しいことじゃないんですか」
「正しかったと思います」
更紗は言った。
「でも、正しいことと、性根がいいことは、別なんだそうです」
「……」
「おばあちゃんは言いました。『あの人は、殴られに来たんだ。それがわかっていたから、わたしは言葉で殴った。殴りたかったから殴ったんじゃない。殴れば、あの人が少しは楽になると思ったからだ』」
湊は、息をのんだ。
「『でもね、更紗。わたしは、あのとき、たしかに気持ちよかったんだよ』」
更紗の声が、低くなった。
「『人を殴って気持ちよかった人間が、人殺しを責める資格があるのかね』」
店の中が、しんとした。
「おばあちゃんは、そのあと十八年、その話を私にしか、しませんでした」
更紗は言った。
「四年前の十一月に死にました。九十六でした」
「……お悔やみ申し上げます」
「言わなくていいです」
更紗は言った。
「そういうの、あなたが言うと、変になるので」
「……はい」
「最後の一年は、病院にいました。私が勤めてる病院ではなくて、群馬の療養型です」
彼女は湯呑みを両手で包んだ。
「認知症が入っていて、日によって、私が誰かわからなくなりました」
「はい」
「ある日、私を詩織だと思ったんです」
湊は、更紗の顔を見た。
「『詩織ちゃん、ピアノは弾けたかい』って」
更紗の目に、また涙が溜まった。
「私、その日、詩織になりました」
「……」
「『弾けたよ、おばあちゃん』って言いました」
彼女は、袖で目を押さえた。
「そしたら、おばあちゃん、笑ったんです。十九年ぶりに笑った顔でした」
湊は、テーブルの下で拳を握っていた。
「そのあと、こう言いました」
更紗は言った。
「『じゃあ、もう、いいねえ』」
「……」
「その二日後に、死にました」
更紗は、湯呑みを置いた。
「私、あの二日間のことを、ずっと考えてます」
彼女は言った。
「私は、嘘をつきました。詩織のふりをして、弾けたよって言いました」
「……」
「でも、あれで、おばあちゃんは、二十年ぶりに笑ったんです」
更紗は、湊を見た。
「嘘は、悪いことですよね」
湊は、その目を見返した。
この人は、いま、自分に何を聞いているのか。
「……わかりません」
湊は正直に言った。
「私も、わかりません」
更紗は言った。
「だから、あなたのお父さんが二十一年黙っていたことを、私は、悪いことだとしか言えないんですけど」
彼女は、そこで少し息を吸った。
「言い切れないんです」
更紗は言った。
「言い切れなくなったのが、腹立たしいんです」
更紗は、膝の上の袋を見た。
「私、あなたを許すために来たんじゃありません」
彼女は言った。
「はい」
「一生、許しません。手紙を読んでも、お父さんが死んでも、変わりません」
「はい」
「あなたのお父さんは、私の母と妹を殺しました。理由がどうであれ、殺したことは殺したことです。それは、どんな事情でも薄まりません」
「はい」
「あなたは、そのことを二十二年、知っていて、私に黙っていました。五年半、毎日、私に嘘をつきました」
「……はい」
「それも、許しません」
湊は、うなずいた。
「わかっています」
「わかってないです」
更紗は言った。
「あなた、あの手紙に、私に謝らないって書いたでしょう」
「はい」
「あれ、腹が立ちました」
湊は顔を上げた。
「すごく、腹が立ちました」
更紗は言った。
「格好つけないでください」
「……」
「謝ってください」
湊は、その言葉を理解するのに、数秒かかった。
「あなたが楽になるとか、そんなのはどうでもいいです。私は、あなたに謝ってほしいんです」
更紗の目から、涙がこぼれた。
「五年半、嘘つかれたことを、謝ってほしいんです」
湊は、椅子から腰を上げた。
床に膝をついて、両手をついた。
「すみませんでした」
声が出なかった。
「本当に、すみませんでした」
額を、床につけた。
更紗は、それを止めなかった。
湊は、そのままの姿勢で泣いた。
更紗も、椅子に座ったまま泣いていた。
二人は、同じ部屋で、別々に泣いた。
どれくらいそうしていたか、わからない。
やがて、更紗が言った。
「もういいです」
湊は顔を上げた。
更紗は、鼻をすすって、袖で顔を拭いていた。
「ひどい顔してますね、お互い」
「……はい」
湊は椅子に戻った。
更紗は、鞄から何かを取り出した。
古い楽譜だった。
茶色く変色した、バイエルの教本。
湊は、それを見て、体が固まった。
「持ってきました」
更紗は言った。
「これ、捨てられなくて。二十二年」
彼女はページをめくって、あの見開きを開いた。
メリーさんの ひつじ。
「詩織は、この曲を最後まで弾けませんでした」
更紗は言った。
「途中で必ず間違えて、そこでやめちゃうんです。四小節目の、ソのところで」
「……」
「発表会は、十二月二十一日でした」
更紗は指で、譜面をなぞった。
「一週間、足りませんでした」
湊は、その指を見ていた。
左手の甲に、うっすらと色の違う帯があった。
十三年前、湊が窯から出した鉄板でつけた跡だ。
更紗は、湊の視線に気づいた。
「これ、まだ残ってます」
彼女は左手を上げて、光にかざした。
「消えないんですよ」
「……すみません」
「謝らないでください。これは謝ってほしくない」
更紗は言った。
「これは、私が残しておきたかったやつです」
湊は、彼女の顔を見た。
「あの五年半が、全部嘘だったとは思いたくないんです」
更紗は言った。
「思いたくないだけで、思ってもいいことなのかは、わかりません」
彼女は手を下ろした。
「私、この七年で、二回、看護師を辞めようとしました」
更紗は言った。
「朝ごはんが食べられなくて、体重が十キロ落ちて、夜勤ができなくなって」
「……」
「でも、辞めませんでした」
「なぜですか」
「熱傷ユニットに、七歳の子が入ってくるからです」
更紗は、まっすぐ湊を見た。
「あの子たちは、治ります。ちゃんと治って、家に帰ります」
彼女は言った。
「私は、その子たちが帰るのを見るのが、好きなんです」
湊は、うなずいた。
「私の妹は帰りませんでした。でも、あの子たちは帰ります」
更紗は言った。
「それが、私が生きてる理由です。あなたが、パンを焼くのと同じです」
「……」
「同じにしないでほしいですか」
「いえ」
湊は言った。
「同じだと言ってもらえて、こんなにありがたいことはありません」
更紗は、袋を開けた。
あんパンを一つ、取り出した。
両手で持って、しばらく見ていた。
それから、口元に持っていって、止めた。
手が震えていた。
「……だめだ」
彼女は言った。
「まだ、だめです」
パンを袋に戻した。
「すみません」
「いいんです」
湊は言った。
「いいんです」
更紗は、袋の口を丁寧に折った。
「持って帰ります」
「はい」
「明日の朝、やってみます」
「はい」
二人は、しばらく黙って座っていた。
窓の外が、暗くなってきた。
海のほうから、船の汽笛が聞こえた。
「今日は、どこに泊まるんですか」
湊が聞いた。
「駅前に、民宿があるって聞いたので」
「坂上さんのとこですね。大家さんです」
「そうなんですか」
「電話しておきます」
更紗は立ち上がった。
鞄を持って、コートのボタンを留めた。
扉のところで、彼女は振り返った。
「安西さん」
「はい」
「お父さんのお墓は、どこですか」
湊は、少し驚いた。
「まだ、ないんです」
彼は言った。
「骨は、うちの二階に置いてあります」
「なぜですか」
「入れる墓がないんです」
湊は言った。
「柏尾の墓は、事件のあと、親戚が改葬しました。父の名前は、どこにも入れられません」
更紗は、うなずいた。
「そうですか」
彼女は言った。
「私の母と妹の墓は、群馬にあります」
「……はい」
「毎年、命日に行きます」
「はい」
更紗は、扉のノブに手をかけた。
「あなたのお父さんの骨を、そこには入れさせません」
「わかっています」
「一生、入れさせません」
「はい」
彼女は言った。
「でも、海にでも撒くんだったら、それは、私には止められません」
湊は、彼女の顔を見た。
更紗は、少し目を伏せた。
「勝手なことを言いました」
「いえ」
「おやすみなさい」
鈴が鳴った。
更紗は出ていった。
湊は、扉のガラス越しに、その背中が道の角を曲がるまで見ていた。
その夜、湊は仕込みをしながら、何度も手が止まった。
あんパンの餡を炊きなおした。
いつもは前日の夜に炊いたものを使う。だがその晩は、小豆を新しく水に浸けた。豆が戻るのに時間がかかるので、間に合わないとわかっていた。
それでも、浸けた。
午前三時、窯に火を入れた。
燠は、赤かった。
薪を置くと、白い煙が上がって、揺れて、橙に変わった。
湊は、その火を見ながら、父の手紙の一節を思い出していた。
――同じ火だ。使い方が違うだけだ。
六時五十分、シャッターを上げた。
海から、風が入ってきた。
三月の終わりの、生ぬるい風だった。
最初の客は、漁協の老人だった。
「今日は静かだね」
「そうですね」
老人はバターロールを四つと、コッペパンを二つ買って、出ていった。
七時二十分に、更紗が来た。
昨日と同じコートだった。目が腫れていた。
彼女は、棚を一通り見た。
バゲット。カンパーニュ。バターロール。クロワッサン。食パン。そして、あんパン。
「あの」
更紗が言った。
「いちばん、なんでもないやつをください」
「なんでもないやつ」
「特別じゃないやつです」
湊は、食パンを一斤取った。
スライスするかと聞くと、しないでいい、と言われた。
更紗は、それを持ってテーブルに座った。
湊は、皿と、バターと、ナイフを出した。
更紗は首を振った。
「そのままでいいです」
彼女は、袋を開けた。
パンの端を、指でちぎった。
小さな一片だった。
それを、口に入れた。
噛んだ。
湊は、カウンターの内側から、それを見ていた。
更紗は、目を閉じて噛んでいた。
ゆっくり、何度も噛んだ。
喉が動いた。
飲み込んだ。
彼女は、目を開けた。
そして、もう一片ちぎった。
二片目を口に入れたところで、更紗の顔が崩れた。
泣きながら、噛んでいた。
噛んで、飲み込んで、また泣いた。
「更紗さん」
湊が言いかけると、彼女は手を上げて制した。
喋らないで、という意味だった。
更紗は、そのまま、パンを食べつづけた。
三片目。四片目。
涙が、テーブルに落ちていた。
五片目を飲み込んだあと、彼女は袋を閉じた。
両手で顔を覆った。
肩が、大きく上下していた。
湊は、カウンターから出なかった。
出てはいけないと思った。
この人が、七年かけて取り戻したものに、自分が近づいてはいけない。
やがて、更紗が顔を上げた。
目も鼻も、真っ赤だった。
「安西さん」
「はい」
彼女は言った。
「……食べられました」
湊は、その場に立っていられなくなった。
カウンターの下に手をついて、体を支えた。
「はい」
彼は言った。
「はい」
それしか言えなかった。
鈴が鳴った。
扉が開いて、自転車を止めた高校生が入ってきた。
早瀬蓮だった。
「おはようございます」
「おはよう」
蓮は棚のあんパンを取って、レジに持ってきた。
百四十円。今日は十円玉が四枚と、百円玉が一枚だった。
蓮は、テーブルで泣いている女の人を、ちらりと見た。
それから、湊を見た。
「……なんかあった?」
「なんもない」
「ふうん」
蓮は、あんパンの袋を提げて、扉に向かった。
出ていく直前に、振り返って言った。
「おじさん、あんパン、また大きくなってない?」
湊は、少し笑った。
「気のせいだ」
「絶対大きい」
蓮は、扉を開けた。
朝の光が、店の中に斜めに差し込んだ。
更紗が、その光の中で、顔を上げた。
そして、蓮に向かって、頭を下げた。
蓮は面食らって、慌てて頭を下げ返して、走っていった。
自転車のベルの音が、遠ざかっていった。
更紗は、その音を聞いていた。
それから、湊のほうを見て、言った。
「いい子ですね」
「はい」
「あの子は、朝ごはんを食べてる」
更紗は言った。
「それは、いいことです」
湊は、うなずいた。
「はい」
窯の中で、次の一釜が、静かに膨らんでいた。