燠火(おきび)
エピローグ 朝
二〇二六年の五月、茜が汐入に来た。
連休の中日で、電車は空いていたという。
茜は三十歳になっていた。介護施設の主任になって、後輩が四人ついたと言った。
「兄ちゃん、痩せた?」
「痩せてない」
「痩せたよ。ごはん食べてる?」
「食べてる」
「パンでしょ」
「パンだ」
茜は笑った。
その笑い方は、昔の、剥がれかけたシールのような笑い方ではなかった。
二人は、店を閉めてから、防波堤に登った。
五月の海は青くて、風がやわらかかった。
沖に、船が三艘出ていた。
「兄ちゃん」
茜が言った。
「わたし、いま、施設で人の最期に立ち会うことがあるの」
「うん」
「みんな、最後に、誰かの名前を呼ぶんだよ」
茜は膝を抱えて、海を見ていた。
「奥さんとか、子どもとか、猫とか」
「うん」
「おかあさん、誰の名前呼んだんだろうね」
湊は、答えられなかった。
「意識、なかったもんね」
「うん」
「でもさ」
茜は言った。
「わたし、たぶん、呼ばれてたと思う」
湊は、妹の横顔を見た。
「そういうことにしとく」
茜は笑った。
風が、髪を巻き上げていた。
その日、茜は父の骨壺を見た。
二階の押し入れの上の段に、白い布に包まれて置いてある。その隣に、封筒の箱
と、便箋の束がある。
茜は、しばらくそれを見ていた。
「わたし、この人のこと、まだ、わかんない」
彼女は言った。
「わかんないままでいい?」
「いいよ」
湊は言った。
「おれもわかってない」
「そっか」
茜は、骨壺に手を合わせた。
合わせてから、「あ、合わせちゃった」と言って、少し笑った。
夜、二人で夕飯を食べた。
売れ残ったパンと、漁協の人にもらった鯵の干物と、味噌汁。
茜は、パンと味噌汁の組み合わせについて十分ほど文句を言い、それから全部食
た。
「兄ちゃん」
「なに」
「あの人、来たの?」
湊は、箸を止めた。
「相良さんから聞いた」
茜は言った。
「来ました」
「そう」
茜は、味噌汁の椀を両手で持った。
「それで、どうなったの」
「どうにもならない」
湊は言った。
「許してもらってない。一生、許してもらえない」
「うん」
「それでいい」
「うん」
茜は、少し黙ってから、言った。
「兄ちゃん、幸せ?」
湊は、その質問に、答えるべきかどうか迷った。
迷ってから、答えた。
「わからない」
「そっか」
「でも」
湊は言った。
「明日も、パンを焼く」
茜は、うなずいた。
「うん」
彼女は言った。
「それでいいと思う」
茜は、皿を重ねながら、思い出したように言った。
「ピアノ、買ったよ」
「聞いてない」
「言ってない」
茜は流しに立った。
「電子ピアノだけどね。アパートだから」
「弾いてるのか」
「弾いてる」
水音のあいだに、茜の声が混じった。
「バイエルの、いちばん最初から。三十でバイエル」
「そうか」
「先生に、二十二年ぶりですって言ったら、いちばん最初からでいいですよって」
茜は蛇口を止めた。
布巾で手を拭いて、こちらを見た。
「兄ちゃん、あの曲、弾かないよ」
「うん」
「一生、弾かない」
「うん」
湊は、うなずいた。
「でも、ほかの曲は、全部弾く」
茜は言った。
「弾いていいことにした」
翌日は、雨だった。
昼過ぎに上がって、風が北から南に変わった。
茜が「今日、やろうか」と言った。
湊は、押し入れから骨壺を出した。
二人で、船に乗った。
漁協の三ツ木老人が、小さな漁船を出してくれた。老人は何も聞かなかった。ただ「沖まで出さんと、戻ってくるぞ」と言った。
港から三十分ほど走った。
陸が、細い線になった。
三ツ木老人はエンジンを切って、舳先のほうを向いて煙草を吸った。こちらを見な
いでいてくれた。
湊は、骨壺の蓋を開けた。
「兄ちゃんが先」
茜が言った。
湊は、手を入れた。
骨は、思ったより軽かった。
風上に投げないように、と誰かに言われたのを思い出して、風下に手を伸ばした。
白いものが、水面に落ちた。
落ちて、少しのあいだ浮いて、それから沈んだ。
茜が、手を入れた。
妹の手は、湊のより小さい。
茜は、両手ですくった。
「お父さん」
彼女は言った。
それが、二十二年ぶりに口に出した言葉だった。
湊は、その声を聞いて、海のほうを向いた。
茜は、手を開いた。
白いものが、風に散った。
「いってらっしゃい」
茜は言った。
「さようならじゃないよ。いってらっしゃい」
湊は、何も言わずに、骨壺を傾けた。
残りが、全部、海に落ちた。
壺の底に、粉が少し残った。
湊は、海水を汲んで、壺をゆすいだ。
その水も、海に返した。
帰りの船で、茜は舳先に座って、ずっと後ろを見ていた。
三ツ木老人が、湊の隣で言った。
「終わったか」
「はい」
「そうか」
老人は、舵を握ったまま言った。
「海はな、何でも受け取る」
湊は、うなずいた。
「文句も言わん。褒めもせん」
老人は言った。
「それが、いちばん楽なんじゃ」
港に着いたのは、日が傾く頃だった。
その晩、更紗に葉書を出した。
――父の骨を、海に還しました。それだけをお知らせします。
返事は、来なかった。
だが、翌月、更紗が店に来た。
更紗は、その後も、時々来た。
二か月に一度くらい、休みが合ったときに、内房線に乗ってくる。
朝のいちばん忙しい時間に来て、パンを買って、テーブルで食べて、昼前に帰る。
二人は、たくさんは話さない。
話すのは、たいてい、どうでもいいことだ。窯の目地が去年より広がったこと。蓮
が三年になったこと。相良の本がなかなか出ないこと。本間涼が刑務所で真面目に
やっているらしいこと。
一度だけ、雨の日に来たことがある。
九月の終わりだった。更紗は傘を持っていなかった。駅を出たときは降っていなか
ったのだという。肩から袖にかけて、濡れていた。
湊は、店の奥に入った。
押し入れの、空になった壺の隣に、それは置いてあった。
紺色の折りたたみ傘だ。
八年前、中野のアパートに置いていかれたものだった。あの日、更紗が荷物を運び
出したあと、押し入れの隅に残っていた。持ち主は、たぶん忘れたのではない。持
っていくものを選ぶとき、これは選ばれなかった。
湊はそれを、汐入まで持ってきていた。
一度も、使わないままだった。
カウンターに置くと、更紗はそれを見た。
二秒ほど、何も言わなかった。
「これ」
「はい」
「私の」
「はい」
更紗は、傘を手に取った。
留め具のマジックテープを、指でなぞった。
「持ってたんですね」
「捨てられませんでした」
湊は言った。
「捨てるのは、おれの権利じゃない気がして」
更紗は、しばらく傘を見ていた。
それから、こう言った。
「ずいぶん、重かったでしょう」
湊は、返事ができなかった。
傘の重さの話ではないことは、わかった。
「使ってください」
湊は言った。
「もう、ただの傘です」
「……そうですか」
更紗は傘を鞄に入れた。
入れてから、少し考えて、こう言った。
「私、これ、返しに来ませんよ」
「返さなくていいです」
「そうじゃなくて」
更紗は言った。
「返しに来る用事が、なくなるでしょう」
湊は、顔を上げた。
更紗は、こちらを見ていなかった。窓の外の雨を見ていた。
「用事がなくても、来ます」
彼女は言った。
「そういうことにしておいてください」
湊は、うなずいた。
その日、更紗は昼まで店にいた。
恋人ではない。
友人でもない。
そういう名前のついた関係では、たぶんない。
更紗は、いまも湊を許していない。
湊も、許してもらおうとは思っていない。
ただ、朝が来ると、二人とも起きる。
更紗は病院へ行き、湊は窯に火を入れる。
それだけのことが、二十三年かかった。
十一月に、早瀬蓮が店に来た。
高校三年になっていた。背が伸びて、湊より高くなっていた。
蓮は、カウンターに紙を一枚置いた。
履歴書だった。
「バイト、雇ってくれませんか」
湊は、その紙を見た。
写真が貼ってあった。学生服で、口を結んでいた。
湊は、人を雇わないと決めていた。
六年、その決まりを守ってきた。
「おじさん、朝早いでしょ」
蓮は言った。
「おれ、四時に起きられます」
「学校は」
「行きます。八時に上がらせてもらえれば」
「なんでパン屋なんだ」
蓮は、少し黙った。
「六年、あんパン食ったから」
湊は、履歴書を裏返した。
裏には何も書かれていなかった。
「雇うとなると」
湊は言った。
「おれは、雇う側になる」
「はい」
「雇う側は、自分の名前を書いた紙を、おまえに渡すことになる」
「はい」
「おれの名字、知ってるか」
「安西でしょ」
蓮は、当たり前のように言った。
「三ツ木のじいちゃんが言ってた」
「……ほかには」
「ほかにも聞いた」
蓮は、湊の目を見た。
「全部聞いた。中学のとき」
湊は、カウンターに手を置いた。
「それでも来たのか」
「六年、あんパン食ったから」
蓮は、同じことを二度言った。
湊は、履歴書をもう一度、表に返した。
名前の欄を見た。
早瀬蓮、と、丁寧な字で書いてあった。
「時給、安いぞ」
「知ってます」
「朝、寒いぞ」
「知ってます」
湊は、その紙を、レジの下の引き出しにしまった。
六年間、何も入れていなかった引き出しだった。
「来週から来い」
蓮は「うっす」と言って、あんパンを一つ買って帰った。
百四十円を、十円玉で払った。
もう、数えるのに時間はかからなかった。
二〇二六年、十二月十四日。
その日、汐入は朝から雨だった。
月曜だった。蓮の来ない日だ。
湊は、いつもの時間に起きた。
窯の灰をかき分けると、燠が赤かった。
薪を三本置いた。煙が上がり、揺れて、火になった。
湊は、その火を見ていた。
二十三年前の今日、この火と同じものが、三人の人間を焼いた。
そして今日、同じものが、この町の朝のパンを焼く。
火に、罪はない。
罪があるのは、火をつけた人間だ。
そして、その人間の血は、湊の中に流れている。
消えることはない。
湊は、それを消そうとするのをやめた。
灰をかぶって黒く見えても、掻けば赤い。
消えないものは、消えないまま、使うしかない。
六時五十分、シャッターを上げた。
雨の音が、大きくなって入ってきた。
最初の客は、漁協の老人だった。傘の雫を払いながら入ってきて、「今日はひどい
な」と言った。
「そうですね」
「バターロール四つと、コッペパン二つ」
「はい」
老人が出ていったあと、湊は店の外に出た。
傘をささずに、道の真ん中に立った。
雨は冷たかった。
北のほうの空を、見た。
群馬の方角だった。
今日、あの町では、一人の女の人が墓に来ているだろう。
母と妹の墓に。
もう一人いたはずの人は、もう、いない。
湊は、雨の中で、少しのあいだ立っていた。
それから、店に戻った。
前掛けで顔を拭いて、窯の扉を開けた。
二釜目のパンが、焼けていた。
鉄板を引き出して、台に置く。
パンが、音を立てた。
ぱち。
ぱち、ぱち。
皮が割れる音だ。
焼きたてのパンは、冷えていく数分のあいだだけ歌う。
沢渡甚吉は、この音を聞くために毎朝起きているのだと言っていた。
湊は、台の前に立って、その音を聞いた。
誰も見ていなかった。
誰も聞いていなかった。
パンは、ただ歌っていた。
やがて音がやんだ。
湊は、それを棚に並べた。
七時二十分、鈴が鳴った。
傘を畳む音がした。
湊は、顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
その日も、朝は来ていた。
連休の中日で、電車は空いていたという。
茜は三十歳になっていた。介護施設の主任になって、後輩が四人ついたと言った。
「兄ちゃん、痩せた?」
「痩せてない」
「痩せたよ。ごはん食べてる?」
「食べてる」
「パンでしょ」
「パンだ」
茜は笑った。
その笑い方は、昔の、剥がれかけたシールのような笑い方ではなかった。
二人は、店を閉めてから、防波堤に登った。
五月の海は青くて、風がやわらかかった。
沖に、船が三艘出ていた。
「兄ちゃん」
茜が言った。
「わたし、いま、施設で人の最期に立ち会うことがあるの」
「うん」
「みんな、最後に、誰かの名前を呼ぶんだよ」
茜は膝を抱えて、海を見ていた。
「奥さんとか、子どもとか、猫とか」
「うん」
「おかあさん、誰の名前呼んだんだろうね」
湊は、答えられなかった。
「意識、なかったもんね」
「うん」
「でもさ」
茜は言った。
「わたし、たぶん、呼ばれてたと思う」
湊は、妹の横顔を見た。
「そういうことにしとく」
茜は笑った。
風が、髪を巻き上げていた。
その日、茜は父の骨壺を見た。
二階の押し入れの上の段に、白い布に包まれて置いてある。その隣に、封筒の箱
と、便箋の束がある。
茜は、しばらくそれを見ていた。
「わたし、この人のこと、まだ、わかんない」
彼女は言った。
「わかんないままでいい?」
「いいよ」
湊は言った。
「おれもわかってない」
「そっか」
茜は、骨壺に手を合わせた。
合わせてから、「あ、合わせちゃった」と言って、少し笑った。
夜、二人で夕飯を食べた。
売れ残ったパンと、漁協の人にもらった鯵の干物と、味噌汁。
茜は、パンと味噌汁の組み合わせについて十分ほど文句を言い、それから全部食
た。
「兄ちゃん」
「なに」
「あの人、来たの?」
湊は、箸を止めた。
「相良さんから聞いた」
茜は言った。
「来ました」
「そう」
茜は、味噌汁の椀を両手で持った。
「それで、どうなったの」
「どうにもならない」
湊は言った。
「許してもらってない。一生、許してもらえない」
「うん」
「それでいい」
「うん」
茜は、少し黙ってから、言った。
「兄ちゃん、幸せ?」
湊は、その質問に、答えるべきかどうか迷った。
迷ってから、答えた。
「わからない」
「そっか」
「でも」
湊は言った。
「明日も、パンを焼く」
茜は、うなずいた。
「うん」
彼女は言った。
「それでいいと思う」
茜は、皿を重ねながら、思い出したように言った。
「ピアノ、買ったよ」
「聞いてない」
「言ってない」
茜は流しに立った。
「電子ピアノだけどね。アパートだから」
「弾いてるのか」
「弾いてる」
水音のあいだに、茜の声が混じった。
「バイエルの、いちばん最初から。三十でバイエル」
「そうか」
「先生に、二十二年ぶりですって言ったら、いちばん最初からでいいですよって」
茜は蛇口を止めた。
布巾で手を拭いて、こちらを見た。
「兄ちゃん、あの曲、弾かないよ」
「うん」
「一生、弾かない」
「うん」
湊は、うなずいた。
「でも、ほかの曲は、全部弾く」
茜は言った。
「弾いていいことにした」
翌日は、雨だった。
昼過ぎに上がって、風が北から南に変わった。
茜が「今日、やろうか」と言った。
湊は、押し入れから骨壺を出した。
二人で、船に乗った。
漁協の三ツ木老人が、小さな漁船を出してくれた。老人は何も聞かなかった。ただ「沖まで出さんと、戻ってくるぞ」と言った。
港から三十分ほど走った。
陸が、細い線になった。
三ツ木老人はエンジンを切って、舳先のほうを向いて煙草を吸った。こちらを見な
いでいてくれた。
湊は、骨壺の蓋を開けた。
「兄ちゃんが先」
茜が言った。
湊は、手を入れた。
骨は、思ったより軽かった。
風上に投げないように、と誰かに言われたのを思い出して、風下に手を伸ばした。
白いものが、水面に落ちた。
落ちて、少しのあいだ浮いて、それから沈んだ。
茜が、手を入れた。
妹の手は、湊のより小さい。
茜は、両手ですくった。
「お父さん」
彼女は言った。
それが、二十二年ぶりに口に出した言葉だった。
湊は、その声を聞いて、海のほうを向いた。
茜は、手を開いた。
白いものが、風に散った。
「いってらっしゃい」
茜は言った。
「さようならじゃないよ。いってらっしゃい」
湊は、何も言わずに、骨壺を傾けた。
残りが、全部、海に落ちた。
壺の底に、粉が少し残った。
湊は、海水を汲んで、壺をゆすいだ。
その水も、海に返した。
帰りの船で、茜は舳先に座って、ずっと後ろを見ていた。
三ツ木老人が、湊の隣で言った。
「終わったか」
「はい」
「そうか」
老人は、舵を握ったまま言った。
「海はな、何でも受け取る」
湊は、うなずいた。
「文句も言わん。褒めもせん」
老人は言った。
「それが、いちばん楽なんじゃ」
港に着いたのは、日が傾く頃だった。
その晩、更紗に葉書を出した。
――父の骨を、海に還しました。それだけをお知らせします。
返事は、来なかった。
だが、翌月、更紗が店に来た。
更紗は、その後も、時々来た。
二か月に一度くらい、休みが合ったときに、内房線に乗ってくる。
朝のいちばん忙しい時間に来て、パンを買って、テーブルで食べて、昼前に帰る。
二人は、たくさんは話さない。
話すのは、たいてい、どうでもいいことだ。窯の目地が去年より広がったこと。蓮
が三年になったこと。相良の本がなかなか出ないこと。本間涼が刑務所で真面目に
やっているらしいこと。
一度だけ、雨の日に来たことがある。
九月の終わりだった。更紗は傘を持っていなかった。駅を出たときは降っていなか
ったのだという。肩から袖にかけて、濡れていた。
湊は、店の奥に入った。
押し入れの、空になった壺の隣に、それは置いてあった。
紺色の折りたたみ傘だ。
八年前、中野のアパートに置いていかれたものだった。あの日、更紗が荷物を運び
出したあと、押し入れの隅に残っていた。持ち主は、たぶん忘れたのではない。持
っていくものを選ぶとき、これは選ばれなかった。
湊はそれを、汐入まで持ってきていた。
一度も、使わないままだった。
カウンターに置くと、更紗はそれを見た。
二秒ほど、何も言わなかった。
「これ」
「はい」
「私の」
「はい」
更紗は、傘を手に取った。
留め具のマジックテープを、指でなぞった。
「持ってたんですね」
「捨てられませんでした」
湊は言った。
「捨てるのは、おれの権利じゃない気がして」
更紗は、しばらく傘を見ていた。
それから、こう言った。
「ずいぶん、重かったでしょう」
湊は、返事ができなかった。
傘の重さの話ではないことは、わかった。
「使ってください」
湊は言った。
「もう、ただの傘です」
「……そうですか」
更紗は傘を鞄に入れた。
入れてから、少し考えて、こう言った。
「私、これ、返しに来ませんよ」
「返さなくていいです」
「そうじゃなくて」
更紗は言った。
「返しに来る用事が、なくなるでしょう」
湊は、顔を上げた。
更紗は、こちらを見ていなかった。窓の外の雨を見ていた。
「用事がなくても、来ます」
彼女は言った。
「そういうことにしておいてください」
湊は、うなずいた。
その日、更紗は昼まで店にいた。
恋人ではない。
友人でもない。
そういう名前のついた関係では、たぶんない。
更紗は、いまも湊を許していない。
湊も、許してもらおうとは思っていない。
ただ、朝が来ると、二人とも起きる。
更紗は病院へ行き、湊は窯に火を入れる。
それだけのことが、二十三年かかった。
十一月に、早瀬蓮が店に来た。
高校三年になっていた。背が伸びて、湊より高くなっていた。
蓮は、カウンターに紙を一枚置いた。
履歴書だった。
「バイト、雇ってくれませんか」
湊は、その紙を見た。
写真が貼ってあった。学生服で、口を結んでいた。
湊は、人を雇わないと決めていた。
六年、その決まりを守ってきた。
「おじさん、朝早いでしょ」
蓮は言った。
「おれ、四時に起きられます」
「学校は」
「行きます。八時に上がらせてもらえれば」
「なんでパン屋なんだ」
蓮は、少し黙った。
「六年、あんパン食ったから」
湊は、履歴書を裏返した。
裏には何も書かれていなかった。
「雇うとなると」
湊は言った。
「おれは、雇う側になる」
「はい」
「雇う側は、自分の名前を書いた紙を、おまえに渡すことになる」
「はい」
「おれの名字、知ってるか」
「安西でしょ」
蓮は、当たり前のように言った。
「三ツ木のじいちゃんが言ってた」
「……ほかには」
「ほかにも聞いた」
蓮は、湊の目を見た。
「全部聞いた。中学のとき」
湊は、カウンターに手を置いた。
「それでも来たのか」
「六年、あんパン食ったから」
蓮は、同じことを二度言った。
湊は、履歴書をもう一度、表に返した。
名前の欄を見た。
早瀬蓮、と、丁寧な字で書いてあった。
「時給、安いぞ」
「知ってます」
「朝、寒いぞ」
「知ってます」
湊は、その紙を、レジの下の引き出しにしまった。
六年間、何も入れていなかった引き出しだった。
「来週から来い」
蓮は「うっす」と言って、あんパンを一つ買って帰った。
百四十円を、十円玉で払った。
もう、数えるのに時間はかからなかった。
二〇二六年、十二月十四日。
その日、汐入は朝から雨だった。
月曜だった。蓮の来ない日だ。
湊は、いつもの時間に起きた。
窯の灰をかき分けると、燠が赤かった。
薪を三本置いた。煙が上がり、揺れて、火になった。
湊は、その火を見ていた。
二十三年前の今日、この火と同じものが、三人の人間を焼いた。
そして今日、同じものが、この町の朝のパンを焼く。
火に、罪はない。
罪があるのは、火をつけた人間だ。
そして、その人間の血は、湊の中に流れている。
消えることはない。
湊は、それを消そうとするのをやめた。
灰をかぶって黒く見えても、掻けば赤い。
消えないものは、消えないまま、使うしかない。
六時五十分、シャッターを上げた。
雨の音が、大きくなって入ってきた。
最初の客は、漁協の老人だった。傘の雫を払いながら入ってきて、「今日はひどい
な」と言った。
「そうですね」
「バターロール四つと、コッペパン二つ」
「はい」
老人が出ていったあと、湊は店の外に出た。
傘をささずに、道の真ん中に立った。
雨は冷たかった。
北のほうの空を、見た。
群馬の方角だった。
今日、あの町では、一人の女の人が墓に来ているだろう。
母と妹の墓に。
もう一人いたはずの人は、もう、いない。
湊は、雨の中で、少しのあいだ立っていた。
それから、店に戻った。
前掛けで顔を拭いて、窯の扉を開けた。
二釜目のパンが、焼けていた。
鉄板を引き出して、台に置く。
パンが、音を立てた。
ぱち。
ぱち、ぱち。
皮が割れる音だ。
焼きたてのパンは、冷えていく数分のあいだだけ歌う。
沢渡甚吉は、この音を聞くために毎朝起きているのだと言っていた。
湊は、台の前に立って、その音を聞いた。
誰も見ていなかった。
誰も聞いていなかった。
パンは、ただ歌っていた。
やがて音がやんだ。
湊は、それを棚に並べた。
七時二十分、鈴が鳴った。
傘を畳む音がした。
湊は、顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
その日も、朝は来ていた。

