燠火(おきび)
第二章 名を捨てる
最初に来たのは、テレビ局の車だった。
白いワゴンが家の前に停まり、機材を担いだ男たちが降りてきた。次に新聞社が来た。夕方には、家の前の細い道が人と車で埋まった。
インターホンが鳴りつづけた。
母は電源を抜いた。すると今度は、玄関のドアを直接叩かれた。
「安西さん、少しだけお話を」
「奥さん、いらっしゃいますよね」
「息子さんは今日、学校に行かれましたか」
湊は台所の床に座り込んで、耳を塞いでいた。茜は母の膝の上で、ずっと同じ姿勢で固まっていた。
夜になっても、彼らは帰らなかった。
カーテンの隙間から外を見ると、道の向こう側に人影が並んでいた。近所の人たちもいた。昨日まで、道で会えば「湊くん、大きくなったねえ」と言っていた人たちだ。彼らは腕を組んで、家のほうを見ていた。
二日目の朝、ガラスが割れた。
茜の部屋の窓だった。幸い、茜はそのとき台所にいた。母が箒で破片を集めているあいだ、湊は床に落ちていた石を拾った。川原にあるような、大人の拳ほどの丸い石だった。
その日の午後、玄関のドアに赤いスプレーで字が書かれた。
人殺し。
母はバケツと雑巾で、それを何時間もこすった。落ちなかった。近所のホームセンターで薄め液を買おうとしたが、店に入るなり、店員が言った。
「うち、すみません、今日はもう」
まだ午後三時だった。
湊は学校に行きつづけた。
行かなければ負けたことになる、というような気持ちがあったのだと思う。十五歳の湊は、まだ、何かに「負ける」とか「勝つ」とかいう言い方が通用する世界にいるつもりでいた。
三日で、それは終わった。
最初は、誰も何も言わなかった。ただ、教室に入ると音が消えた。湊が席に着くと、周りの席の生徒が少しずつ椅子をずらした。給食の時間、湊の班のテーブルだけ、誰も座らなかった。
四日目に、上履きがなくなった。
五日目に、机の中に新聞の切り抜きが入っていた。焼け跡の写真だった。赤いペンで、丸が三つ描いてあった。
六日目、体育の着替えのときに、後ろから羽交い締めにされた。
三人だった。うち一人は、去年まで一緒にサッカーをしていた男だ。
「なあ、安西。おまえの親父、なんで火まで点けたの」
「知らない」
「知らないわけねえだろ。おまえんちの親父だろ」
「知らないんだよ」
「詩織ちゃん、七歳だぞ。七歳」
殴られた。
湊は殴り返さなかった。返せなかった。返す資格がない、と体のどこかが判断していた。
鼻血が床に落ちるのを、湊はぼんやり見ていた。
担任が湊を職員室に呼んだのは、その日の放課後だった。
三十代半ばの、まじめな男だった。悪い人ではなかったと思う。ただ、この状況に対処する方法を、どこでも習ってこなかっただけだ。
「安西な。しばらく、休んだらどうだ」
「休みたくないです」
「いや、おまえのためにも……あとな、学校のためにもだな」
そこで先生は言葉を切った。言ってしまってから、しまった、という顔をした。
湊は頭を下げて、職員室を出た。
次の日から、学校に行かなくなった。
受験は、しなかった。
願書は出してあった。二月の入試には、行けば受けられた。しかし年が明けたころ、母が言った。
「あの学校は、やめよう」
柏尾の子が大勢行く高校だった。合格しても、そこには湊を知っている人間が何十人もいる。
湊は何も言わなかった。母を責める気にはなれなかった。
その冬、母は毎日出かけた。
どこへ行くとも言わなかった。夕方になって帰ってくると、玄関でしばらく座り込んでいた。コートの肩に、白い糸くずのようなものがついていることがあった。線香の灰だと、あとで知った。
母は、謝りに行っていた。
戸倉家の親族。柏尾鉄工の従業員とその家族。近隣の家。焼けた工場の隣で商売をしていた店。
一月の終わりのある日、母が湊に言った。
「湊。一緒に来てくれないか」
行き先は、隣の市だった。
戸倉剛造の母親――更紗の祖母の家だ。生き残った更紗が引き取られた家だった。
電車とバスを乗り継いで、一時間半かかった。
古い平屋だった。庭に南天の赤い実がなっていた。母は門の前で、コートの襟を直して、湊の襟も直した。それから、インターホンを押した。
出てきたのは、八十近い、小柄な老女だった。
戸倉千代。
母は玄関先の三和土に膝をついた。コンクリートの上に、そのまま正座した。
「安西です。このたびは……」
「帰ってください」
千代の声は、湊が予想していたよりずっと静かだった。怒鳴られるものだと思っていた。罵られるものだと思っていた。そのほうが、ずっとよかった。
「息子と、嫁と、詩織を」
千代はそこまで言って、口を閉じた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがて千代が言った。
「あんたが謝って、返ってくるもんがありますか」
「……ありません」
「なら、謝らんでください」
「はい」
「謝るのは、あんたが楽になるためでしょう」
母は、床に額をつけた。
湊はその横で、同じように膝をついていた。膝の下のコンクリートが、氷のように冷たかった。
そのとき、家の奥で物音がした。
廊下の奥に、女の子が立っていた。
小学四年生。十歳。
髪を後ろで一つに結んで、灰色のトレーナーを着て、廊下の暗がりに、まっすぐ立っていた。
戸倉更紗だった。
湊は、顔を上げてしまった。
目が合った。
更紗は逃げなかった。泣いてもいなかった。ただ、湊の顔を見ていた。何の表情もなかった。何も入っていない、透明なガラス玉のような目だった。
千代が振り返って、「更紗、部屋に戻りなさい」と言った。
更紗は動かなかった。
「更紗」
更紗はゆっくりと踵を返して、廊下の奥へ消えた。
その足音が消えるまで、湊は息を止めていた。
帰りのバスの中で、母がぽつりと言った。
「あの子ね」
「うん」
「茜と、同じ教室で習ってたのよ。ピアノ」
湊は窓の外を見ていた。田んぼが、枯れた色をして流れていった。
「先生は、ときどき、お姉ちゃんのほうにも弾かせてたって。茜が言ってた。上手だったって」
母は、それきり黙った。
三月、一家は柏尾市を出た。
家は売った。買い手はなかなかつかず、ようやく決まった値段は、ローンの残りをかろうじて下回った。差額は借金になった。
行き先は、埼玉県の川越だった。母の姉の芳江が近くに住んでいたからだ。
引っ越しの日、湊は最後に家の中を歩いた。父が使っていた仕事着が、まだ洗面所の脱衣かごに入っていた。母が捨てそこねたのだろう。湊はそれを丸めて、ゴミ袋に入れた。油と汗の匂いがした。
真鍮の独楽は、ジャンパーのポケットに入れた。
川越に着いても、すぐに住むところは決まらなかった。
最初の二日間、一家は芳江伯母の家に泊まった。
伯母の家は、庭のある一戸建てだった。伯父は市役所に勤めていて、息子は大学生だった。
一日目の夜、伯母は鍋を作った。
湯気の立つ食卓で、伯父が「大変だったな」と言った。母は「ご迷惑をおかけします」と何度も頭を下げた。茜は、久しぶりに温かいものを食べて、少し元気になった。
二日目の夕方、湊は洗面所で顔を洗っていた。
廊下の向こうで、伯母と伯父が話しているのが聞こえた。
「いつまでいるの」
「いつまでって、決まるまでだろ」
「近所の人に、なんて言うのよ」
「親戚だって言えばいいだろ」
「言えるわけないでしょう。うちの子の就職だってこれからなのよ」
湊は、蛇口を止めた。
水音がなくなると、声がはっきり聞こえた。
「わたしだって、佳代ちゃんはかわいそうだと思うわよ。でもね」
そこで、伯母の声が下がった。
最後の一言だけ、聞こえた。
「……あの子たち、あの人の子でしょう」
湊は、タオルで顔を拭いた。
顔を上げると、鏡の中に自分がいた。
その夜、母に「明日、出よう」と言った。
母は何も聞かなかった。
翌朝、一家は駅前のビジネスホテルに移った。三日いて、それから安いアパートを見つけた。
伯母は玄関で泣いて、「ごめんね」と言った。
母は「とんでもない。助かりました」と言って、深く頭を下げた。
湊は、その二人を見ていた。
誰も悪くない、と思った。
悪いのは、前橋の拘置所にいる男だけだ。
そう思うことで、その日、湊はかろうじて歩いていた。
名前を変えたのは、その年の六月だった。
母は家庭裁判所に申し立てをして、氏の変更を許可された。安西から、母の旧姓の三堀へ。
三堀佳代子。三堀湊。三堀茜。
役所で新しい保険証を受け取ったとき、母が「これでもう、大丈夫だからね」と言った。
誰にともなく言っていた。
湊は、その紙に印刷された「三堀湊」という四文字を見つめた。
自分の名前ではない、と思った。
川越のアパートは、二階建ての一階だった。
二部屋と台所。壁が薄くて、隣の家のテレビの音が聞こえた。
引っ越しの日、母は隣と上の部屋に挨拶に行った。菓子折りを二つ持って、頭を下げて、名前を名乗って、それだけで帰ってきた。
それが、母がこの町でした最後の近所づきあいだった。
母は、町内会に入らなかった。回覧板は、玄関の外に置かれたまま、翌朝そのまま隣に回した。
スーパーの同僚と飲みに行くこともなかった。誘われても、必ず断った。
湊が「たまには行けば」と言うと、母はこう言った。
「行くとね、身の上話になるのよ」
それだけだった。
母は、髪を染めるのをやめた。化粧も、ほとんどしなくなった。目立たない色の服ばかり買うようになった。
湊は、母が自分の輪郭を消していくのを、毎日見ていた。
一度だけ、母がひどく慌てた日がある。
三年目の夏だ。スーパーの休憩室で、パートの誰かが週刊誌を読んでいた。「群馬の一家焼死、その後」という記事が載っていたらしい。
母は、その日、早退した。
帰ってきて、台所で震えていた。
「読まれた」
母は言った。
「誰かに、読まれた」
「誰も、母さんのことなんて知らないよ」
「知られるのよ」
母は言った。
「わたし、あの人と十八年一緒にいたんだから。顔に出るのよ」
湊は、母の顔を見た。
出ていなかった。
母の顔には、疲れしか出ていなかった。
同時に、これで少しは息ができる、とも思った。その二つの思いが同時にあることが、湊には気持ち悪かった。
新しい町で、湊は高校に入り直した。
定時制ではなく、全日制の私立に、一年遅れで入った。誰も湊を知らなかった。誰も湊の父を知らなかった。
湊は、そこで生まれて初めて「嘘をつく」ということを覚えた。
父はどこにいるのか。
――出ていった。小さいころに。
これは、嘘ではなかった。父はたしかに出ていった。
その言い方をすると、たいていの人は同情して、それ以上聞かなかった。
湊は嘘をつくのが、少しずつ上手くなった。
嘘が上手くなるにつれて、友達もできた。放課後に寄り道もした。誰かの家でゲームをしたりもした。
その帰り道、いつも同じことを考えた。
この人たちは、おれが誰の息子か知らない。
もし知ったら、明日から誰も口をきかない。
わかっていて、笑っている自分が、いちばん薄汚く思えた。
父の裁判は、二〇〇五年の九月に判決が出た。
前橋地裁。求刑は死刑だった。
判決は無期懲役。
母は毎回、傍聴に行った。湊は一度も行かなかった。行けと言われもしなかった。
母は、帰ってくると必ず、父の様子を話した。
湊は聞きたくなかったが、耳を塞ぐこともできなかった。
「今日はね、痩せてた」
「そう」
「髪、切ったみたい。前より白い」
「そう」
母は、判で押したように同じことを言った。父がどう見えたか。何を着ていたか。何回こちらを見たか。
父は一度も、傍聴席を見なかったという。
第三回公判のあと、母は帰ってきて、しばらく靴も脱がずに玄関に座っていた。
「どうしたの」
「弁護士さんがね」
母は言った。
「動機のことを、もっと詳しく話してくださいって、あの人にお願いしたんだって」
「うん」
「そうすれば、刑が軽くなるかもしれないからって」
「……」
「あの人、なんて言ったと思う」
湊は黙っていた。
「軽くしてもらう必要はない、って」
母は、靴を脱がずに言った。
「弁護士さん、困ってたって」
第五回公判では、遺族の意見陳述があった。
戸倉千代が、法廷に立った。
母はその日、家に帰ってから一言も口をきかなかった。
三日後に、少しだけ話した。
「おばあちゃんがね」
「うん」
「詩織ちゃんが、こんど発表会でメリーさんのひつじを弾くんですって、言ったの」
湊は、台所の椅子に座っていた。
「裁判長さんに向かって。うちの孫は、あと一週間で、メリーさんのひつじを弾くはずだったんです、って」
母の声が震えた。
「あの人、初めて顔を上げたって」
「……」
「初めて、顔を上げて、それで」
母は、そこで言葉が続かなくなった。
しばらくして、こう言った。
「そのあと、ずっと下を向いてた」
判決の日の夜、母が新聞の切り抜きを見せた。
湊は見なかった。
母は諦めて、それを仏壇の引き出しにしまった。仏壇には位牌がなかった。誰も死んでいなかったからだ。母はただ、しまう場所が他になかったのだと思う。
後年、湊は判決文を自分で読んだ。
被告人は、同僚の労災事故をめぐる会社の対応に強い憤りを抱いていたと認められる。しかしながら、その動機がいかに同情の余地を含むとしても、無関係の女性および七歳の児童を焼死させた結果は極めて重大であり――。
そして、こう書かれていた。
被告人は捜査段階および公判廷を通じ、放火の目的について明確な供述をしていない。「気づいたら火をつけていた」と述べるにとどまる。この点、犯行の悪質性を減じる事情は見出しがたい。
なぜ、火をつけたのか。
父はそれを、最後まで言わなかった。
言わないことによって、父は世間から最も憎まれる種類の人間になった。理解できない人間。反省しない人間。人でなし。
母は父に、何度も面会を申し込んだ。
父は、一度も応じなかった。
拘置所からの手紙も来なかった。母が出した手紙にも、返事がなかった。
服役先が千葉刑務所に決まったあとも、それは変わらなかった。
母は月に一度、面会の申し込みをしつづけた。そのたびに、面会が拒否されたという通知を受け取った。
「あの人は」と、あるとき母が言った。
「あの人は、わたしたちに愛想が尽きたのかしらね」
湊は答えなかった。
湊が高校を辞めたのは、二年の六月だった。
理由は単純だった。金がなかった。
母はパートを二つ掛け持ちしていたが、家の借金と、家賃と、二人の子どもの生活で、いつも足りなかった。母が夜中に電卓を叩く音を、湊は何度も聞いた。
それに、湊はもう、教室というものに耐えられなくなっていた。
みんなが将来の話をする。進学の話をする。何になりたいという話をする。
湊はそこに混じって、適当な相槌を打つ。将来のことなど、考えられるはずがなかった。湊の将来は、父が奪った三人分の未来の上に乗っている。
辞めると言ったとき、母は泣いた。
「お父さん、湊に、高校行けって言ったのに」
湊は初めて、母に向かって怒鳴った。
「あの人の言ったことなんか、どうでもいいだろ!」
母は、それきり何も言わなかった。
退学届を出しに行った日、担任に呼ばれた。
三十代半ばの、数学の教師だった。生徒指導室で、机を挟んで向かい合った。
湊は、用意してきた言葉を並べた。家の事情で、働かなければならなくなった。母に負担をかけられない。
担任は、黙って聞いていた。
聞き終わって、しばらく書類を見ていた。
それから、こう言った。
「三堀。おまえ、去年の秋の面談のとき、進路希望に何も書かなかったな」
「……はい」
「空欄で出したのは、学年でおまえだけだ」
湊は、下を向いた。
「何になりたいか、いまも書けないか」
「書けません」
「そうか」
担任は、それ以上聞かなかった。
書類に判を押して、湊のほうに滑らせた。
「一つだけ言っておく」
彼は言った。
「学校を辞めるのは、たいしたことじゃない。おれの兄貴も辞めた。いま、工務店の社長だ」
湊は、顔を上げた。
「たいしたことなのは、辞めたあと、朝、起きるかどうかだ」
担任は、湊の目を見て言った。
「起きろよ」
湊は、その言葉を、そのときはよくわからないまま持ち帰った。
あとになって、湊は何度もその言葉を思い出すことになる。
毎朝、二時四十分に目を覚ますようになってからは、特に。
あの担任は、たぶん、何かを知っていた。
湊は、そう思っている。
あの年、新聞に出た事件の犯人と、湊の顔立ちと、四月に入学してきた一年遅れの生徒。結びつけようと思えば、結びつけられなくはなかった。
担任は、何も聞かなかった。
最後まで、一度も。
その夜、湊は家を出て、街を歩いた。
行くあてはなかった。ポケットには、真鍮の独楽が入っていた。
夜の川越の街を、湊は三時間ほど歩いた。
やがて、脚が疲れて、どこかの商店街の裏に出た。
シャッターの並んだ、暗い通りだった。
そのうちの一軒だけ、明かりがついていた。
窓の中で、白い蒸気が上がっていた。
時計を見ると、深夜の二時半だった。
こんな時間に、誰が働いているのだろう、と湊は思った。
近づいてみると、扉のガラスに、粉を練る手が映っていた。
そして、匂いがした。
これまでの人生で、嗅いだことのない匂いだった。焼けた小麦と、バターと、それから、うまく言葉にできない、甘い煙のような匂い。
湊は、その匂いの前で、動けなくなった。
なぜだかわからない。
その場に立ったまま、湊は泣いていた。
事件から二年半、一度も泣かなかった男が、パン屋の裏口の前で、みっともなく声を上げて泣いた。
扉が開いた。
白い頭の、小柄な老人が顔を出した。粉だらけの前掛けをつけて、片手に長い木のへらを持っていた。
老人は、泣いている少年をしばらく眺めてから、言った。
「腹、減ってんのか」
白いワゴンが家の前に停まり、機材を担いだ男たちが降りてきた。次に新聞社が来た。夕方には、家の前の細い道が人と車で埋まった。
インターホンが鳴りつづけた。
母は電源を抜いた。すると今度は、玄関のドアを直接叩かれた。
「安西さん、少しだけお話を」
「奥さん、いらっしゃいますよね」
「息子さんは今日、学校に行かれましたか」
湊は台所の床に座り込んで、耳を塞いでいた。茜は母の膝の上で、ずっと同じ姿勢で固まっていた。
夜になっても、彼らは帰らなかった。
カーテンの隙間から外を見ると、道の向こう側に人影が並んでいた。近所の人たちもいた。昨日まで、道で会えば「湊くん、大きくなったねえ」と言っていた人たちだ。彼らは腕を組んで、家のほうを見ていた。
二日目の朝、ガラスが割れた。
茜の部屋の窓だった。幸い、茜はそのとき台所にいた。母が箒で破片を集めているあいだ、湊は床に落ちていた石を拾った。川原にあるような、大人の拳ほどの丸い石だった。
その日の午後、玄関のドアに赤いスプレーで字が書かれた。
人殺し。
母はバケツと雑巾で、それを何時間もこすった。落ちなかった。近所のホームセンターで薄め液を買おうとしたが、店に入るなり、店員が言った。
「うち、すみません、今日はもう」
まだ午後三時だった。
湊は学校に行きつづけた。
行かなければ負けたことになる、というような気持ちがあったのだと思う。十五歳の湊は、まだ、何かに「負ける」とか「勝つ」とかいう言い方が通用する世界にいるつもりでいた。
三日で、それは終わった。
最初は、誰も何も言わなかった。ただ、教室に入ると音が消えた。湊が席に着くと、周りの席の生徒が少しずつ椅子をずらした。給食の時間、湊の班のテーブルだけ、誰も座らなかった。
四日目に、上履きがなくなった。
五日目に、机の中に新聞の切り抜きが入っていた。焼け跡の写真だった。赤いペンで、丸が三つ描いてあった。
六日目、体育の着替えのときに、後ろから羽交い締めにされた。
三人だった。うち一人は、去年まで一緒にサッカーをしていた男だ。
「なあ、安西。おまえの親父、なんで火まで点けたの」
「知らない」
「知らないわけねえだろ。おまえんちの親父だろ」
「知らないんだよ」
「詩織ちゃん、七歳だぞ。七歳」
殴られた。
湊は殴り返さなかった。返せなかった。返す資格がない、と体のどこかが判断していた。
鼻血が床に落ちるのを、湊はぼんやり見ていた。
担任が湊を職員室に呼んだのは、その日の放課後だった。
三十代半ばの、まじめな男だった。悪い人ではなかったと思う。ただ、この状況に対処する方法を、どこでも習ってこなかっただけだ。
「安西な。しばらく、休んだらどうだ」
「休みたくないです」
「いや、おまえのためにも……あとな、学校のためにもだな」
そこで先生は言葉を切った。言ってしまってから、しまった、という顔をした。
湊は頭を下げて、職員室を出た。
次の日から、学校に行かなくなった。
受験は、しなかった。
願書は出してあった。二月の入試には、行けば受けられた。しかし年が明けたころ、母が言った。
「あの学校は、やめよう」
柏尾の子が大勢行く高校だった。合格しても、そこには湊を知っている人間が何十人もいる。
湊は何も言わなかった。母を責める気にはなれなかった。
その冬、母は毎日出かけた。
どこへ行くとも言わなかった。夕方になって帰ってくると、玄関でしばらく座り込んでいた。コートの肩に、白い糸くずのようなものがついていることがあった。線香の灰だと、あとで知った。
母は、謝りに行っていた。
戸倉家の親族。柏尾鉄工の従業員とその家族。近隣の家。焼けた工場の隣で商売をしていた店。
一月の終わりのある日、母が湊に言った。
「湊。一緒に来てくれないか」
行き先は、隣の市だった。
戸倉剛造の母親――更紗の祖母の家だ。生き残った更紗が引き取られた家だった。
電車とバスを乗り継いで、一時間半かかった。
古い平屋だった。庭に南天の赤い実がなっていた。母は門の前で、コートの襟を直して、湊の襟も直した。それから、インターホンを押した。
出てきたのは、八十近い、小柄な老女だった。
戸倉千代。
母は玄関先の三和土に膝をついた。コンクリートの上に、そのまま正座した。
「安西です。このたびは……」
「帰ってください」
千代の声は、湊が予想していたよりずっと静かだった。怒鳴られるものだと思っていた。罵られるものだと思っていた。そのほうが、ずっとよかった。
「息子と、嫁と、詩織を」
千代はそこまで言って、口を閉じた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがて千代が言った。
「あんたが謝って、返ってくるもんがありますか」
「……ありません」
「なら、謝らんでください」
「はい」
「謝るのは、あんたが楽になるためでしょう」
母は、床に額をつけた。
湊はその横で、同じように膝をついていた。膝の下のコンクリートが、氷のように冷たかった。
そのとき、家の奥で物音がした。
廊下の奥に、女の子が立っていた。
小学四年生。十歳。
髪を後ろで一つに結んで、灰色のトレーナーを着て、廊下の暗がりに、まっすぐ立っていた。
戸倉更紗だった。
湊は、顔を上げてしまった。
目が合った。
更紗は逃げなかった。泣いてもいなかった。ただ、湊の顔を見ていた。何の表情もなかった。何も入っていない、透明なガラス玉のような目だった。
千代が振り返って、「更紗、部屋に戻りなさい」と言った。
更紗は動かなかった。
「更紗」
更紗はゆっくりと踵を返して、廊下の奥へ消えた。
その足音が消えるまで、湊は息を止めていた。
帰りのバスの中で、母がぽつりと言った。
「あの子ね」
「うん」
「茜と、同じ教室で習ってたのよ。ピアノ」
湊は窓の外を見ていた。田んぼが、枯れた色をして流れていった。
「先生は、ときどき、お姉ちゃんのほうにも弾かせてたって。茜が言ってた。上手だったって」
母は、それきり黙った。
三月、一家は柏尾市を出た。
家は売った。買い手はなかなかつかず、ようやく決まった値段は、ローンの残りをかろうじて下回った。差額は借金になった。
行き先は、埼玉県の川越だった。母の姉の芳江が近くに住んでいたからだ。
引っ越しの日、湊は最後に家の中を歩いた。父が使っていた仕事着が、まだ洗面所の脱衣かごに入っていた。母が捨てそこねたのだろう。湊はそれを丸めて、ゴミ袋に入れた。油と汗の匂いがした。
真鍮の独楽は、ジャンパーのポケットに入れた。
川越に着いても、すぐに住むところは決まらなかった。
最初の二日間、一家は芳江伯母の家に泊まった。
伯母の家は、庭のある一戸建てだった。伯父は市役所に勤めていて、息子は大学生だった。
一日目の夜、伯母は鍋を作った。
湯気の立つ食卓で、伯父が「大変だったな」と言った。母は「ご迷惑をおかけします」と何度も頭を下げた。茜は、久しぶりに温かいものを食べて、少し元気になった。
二日目の夕方、湊は洗面所で顔を洗っていた。
廊下の向こうで、伯母と伯父が話しているのが聞こえた。
「いつまでいるの」
「いつまでって、決まるまでだろ」
「近所の人に、なんて言うのよ」
「親戚だって言えばいいだろ」
「言えるわけないでしょう。うちの子の就職だってこれからなのよ」
湊は、蛇口を止めた。
水音がなくなると、声がはっきり聞こえた。
「わたしだって、佳代ちゃんはかわいそうだと思うわよ。でもね」
そこで、伯母の声が下がった。
最後の一言だけ、聞こえた。
「……あの子たち、あの人の子でしょう」
湊は、タオルで顔を拭いた。
顔を上げると、鏡の中に自分がいた。
その夜、母に「明日、出よう」と言った。
母は何も聞かなかった。
翌朝、一家は駅前のビジネスホテルに移った。三日いて、それから安いアパートを見つけた。
伯母は玄関で泣いて、「ごめんね」と言った。
母は「とんでもない。助かりました」と言って、深く頭を下げた。
湊は、その二人を見ていた。
誰も悪くない、と思った。
悪いのは、前橋の拘置所にいる男だけだ。
そう思うことで、その日、湊はかろうじて歩いていた。
名前を変えたのは、その年の六月だった。
母は家庭裁判所に申し立てをして、氏の変更を許可された。安西から、母の旧姓の三堀へ。
三堀佳代子。三堀湊。三堀茜。
役所で新しい保険証を受け取ったとき、母が「これでもう、大丈夫だからね」と言った。
誰にともなく言っていた。
湊は、その紙に印刷された「三堀湊」という四文字を見つめた。
自分の名前ではない、と思った。
川越のアパートは、二階建ての一階だった。
二部屋と台所。壁が薄くて、隣の家のテレビの音が聞こえた。
引っ越しの日、母は隣と上の部屋に挨拶に行った。菓子折りを二つ持って、頭を下げて、名前を名乗って、それだけで帰ってきた。
それが、母がこの町でした最後の近所づきあいだった。
母は、町内会に入らなかった。回覧板は、玄関の外に置かれたまま、翌朝そのまま隣に回した。
スーパーの同僚と飲みに行くこともなかった。誘われても、必ず断った。
湊が「たまには行けば」と言うと、母はこう言った。
「行くとね、身の上話になるのよ」
それだけだった。
母は、髪を染めるのをやめた。化粧も、ほとんどしなくなった。目立たない色の服ばかり買うようになった。
湊は、母が自分の輪郭を消していくのを、毎日見ていた。
一度だけ、母がひどく慌てた日がある。
三年目の夏だ。スーパーの休憩室で、パートの誰かが週刊誌を読んでいた。「群馬の一家焼死、その後」という記事が載っていたらしい。
母は、その日、早退した。
帰ってきて、台所で震えていた。
「読まれた」
母は言った。
「誰かに、読まれた」
「誰も、母さんのことなんて知らないよ」
「知られるのよ」
母は言った。
「わたし、あの人と十八年一緒にいたんだから。顔に出るのよ」
湊は、母の顔を見た。
出ていなかった。
母の顔には、疲れしか出ていなかった。
同時に、これで少しは息ができる、とも思った。その二つの思いが同時にあることが、湊には気持ち悪かった。
新しい町で、湊は高校に入り直した。
定時制ではなく、全日制の私立に、一年遅れで入った。誰も湊を知らなかった。誰も湊の父を知らなかった。
湊は、そこで生まれて初めて「嘘をつく」ということを覚えた。
父はどこにいるのか。
――出ていった。小さいころに。
これは、嘘ではなかった。父はたしかに出ていった。
その言い方をすると、たいていの人は同情して、それ以上聞かなかった。
湊は嘘をつくのが、少しずつ上手くなった。
嘘が上手くなるにつれて、友達もできた。放課後に寄り道もした。誰かの家でゲームをしたりもした。
その帰り道、いつも同じことを考えた。
この人たちは、おれが誰の息子か知らない。
もし知ったら、明日から誰も口をきかない。
わかっていて、笑っている自分が、いちばん薄汚く思えた。
父の裁判は、二〇〇五年の九月に判決が出た。
前橋地裁。求刑は死刑だった。
判決は無期懲役。
母は毎回、傍聴に行った。湊は一度も行かなかった。行けと言われもしなかった。
母は、帰ってくると必ず、父の様子を話した。
湊は聞きたくなかったが、耳を塞ぐこともできなかった。
「今日はね、痩せてた」
「そう」
「髪、切ったみたい。前より白い」
「そう」
母は、判で押したように同じことを言った。父がどう見えたか。何を着ていたか。何回こちらを見たか。
父は一度も、傍聴席を見なかったという。
第三回公判のあと、母は帰ってきて、しばらく靴も脱がずに玄関に座っていた。
「どうしたの」
「弁護士さんがね」
母は言った。
「動機のことを、もっと詳しく話してくださいって、あの人にお願いしたんだって」
「うん」
「そうすれば、刑が軽くなるかもしれないからって」
「……」
「あの人、なんて言ったと思う」
湊は黙っていた。
「軽くしてもらう必要はない、って」
母は、靴を脱がずに言った。
「弁護士さん、困ってたって」
第五回公判では、遺族の意見陳述があった。
戸倉千代が、法廷に立った。
母はその日、家に帰ってから一言も口をきかなかった。
三日後に、少しだけ話した。
「おばあちゃんがね」
「うん」
「詩織ちゃんが、こんど発表会でメリーさんのひつじを弾くんですって、言ったの」
湊は、台所の椅子に座っていた。
「裁判長さんに向かって。うちの孫は、あと一週間で、メリーさんのひつじを弾くはずだったんです、って」
母の声が震えた。
「あの人、初めて顔を上げたって」
「……」
「初めて、顔を上げて、それで」
母は、そこで言葉が続かなくなった。
しばらくして、こう言った。
「そのあと、ずっと下を向いてた」
判決の日の夜、母が新聞の切り抜きを見せた。
湊は見なかった。
母は諦めて、それを仏壇の引き出しにしまった。仏壇には位牌がなかった。誰も死んでいなかったからだ。母はただ、しまう場所が他になかったのだと思う。
後年、湊は判決文を自分で読んだ。
被告人は、同僚の労災事故をめぐる会社の対応に強い憤りを抱いていたと認められる。しかしながら、その動機がいかに同情の余地を含むとしても、無関係の女性および七歳の児童を焼死させた結果は極めて重大であり――。
そして、こう書かれていた。
被告人は捜査段階および公判廷を通じ、放火の目的について明確な供述をしていない。「気づいたら火をつけていた」と述べるにとどまる。この点、犯行の悪質性を減じる事情は見出しがたい。
なぜ、火をつけたのか。
父はそれを、最後まで言わなかった。
言わないことによって、父は世間から最も憎まれる種類の人間になった。理解できない人間。反省しない人間。人でなし。
母は父に、何度も面会を申し込んだ。
父は、一度も応じなかった。
拘置所からの手紙も来なかった。母が出した手紙にも、返事がなかった。
服役先が千葉刑務所に決まったあとも、それは変わらなかった。
母は月に一度、面会の申し込みをしつづけた。そのたびに、面会が拒否されたという通知を受け取った。
「あの人は」と、あるとき母が言った。
「あの人は、わたしたちに愛想が尽きたのかしらね」
湊は答えなかった。
湊が高校を辞めたのは、二年の六月だった。
理由は単純だった。金がなかった。
母はパートを二つ掛け持ちしていたが、家の借金と、家賃と、二人の子どもの生活で、いつも足りなかった。母が夜中に電卓を叩く音を、湊は何度も聞いた。
それに、湊はもう、教室というものに耐えられなくなっていた。
みんなが将来の話をする。進学の話をする。何になりたいという話をする。
湊はそこに混じって、適当な相槌を打つ。将来のことなど、考えられるはずがなかった。湊の将来は、父が奪った三人分の未来の上に乗っている。
辞めると言ったとき、母は泣いた。
「お父さん、湊に、高校行けって言ったのに」
湊は初めて、母に向かって怒鳴った。
「あの人の言ったことなんか、どうでもいいだろ!」
母は、それきり何も言わなかった。
退学届を出しに行った日、担任に呼ばれた。
三十代半ばの、数学の教師だった。生徒指導室で、机を挟んで向かい合った。
湊は、用意してきた言葉を並べた。家の事情で、働かなければならなくなった。母に負担をかけられない。
担任は、黙って聞いていた。
聞き終わって、しばらく書類を見ていた。
それから、こう言った。
「三堀。おまえ、去年の秋の面談のとき、進路希望に何も書かなかったな」
「……はい」
「空欄で出したのは、学年でおまえだけだ」
湊は、下を向いた。
「何になりたいか、いまも書けないか」
「書けません」
「そうか」
担任は、それ以上聞かなかった。
書類に判を押して、湊のほうに滑らせた。
「一つだけ言っておく」
彼は言った。
「学校を辞めるのは、たいしたことじゃない。おれの兄貴も辞めた。いま、工務店の社長だ」
湊は、顔を上げた。
「たいしたことなのは、辞めたあと、朝、起きるかどうかだ」
担任は、湊の目を見て言った。
「起きろよ」
湊は、その言葉を、そのときはよくわからないまま持ち帰った。
あとになって、湊は何度もその言葉を思い出すことになる。
毎朝、二時四十分に目を覚ますようになってからは、特に。
あの担任は、たぶん、何かを知っていた。
湊は、そう思っている。
あの年、新聞に出た事件の犯人と、湊の顔立ちと、四月に入学してきた一年遅れの生徒。結びつけようと思えば、結びつけられなくはなかった。
担任は、何も聞かなかった。
最後まで、一度も。
その夜、湊は家を出て、街を歩いた。
行くあてはなかった。ポケットには、真鍮の独楽が入っていた。
夜の川越の街を、湊は三時間ほど歩いた。
やがて、脚が疲れて、どこかの商店街の裏に出た。
シャッターの並んだ、暗い通りだった。
そのうちの一軒だけ、明かりがついていた。
窓の中で、白い蒸気が上がっていた。
時計を見ると、深夜の二時半だった。
こんな時間に、誰が働いているのだろう、と湊は思った。
近づいてみると、扉のガラスに、粉を練る手が映っていた。
そして、匂いがした。
これまでの人生で、嗅いだことのない匂いだった。焼けた小麦と、バターと、それから、うまく言葉にできない、甘い煙のような匂い。
湊は、その匂いの前で、動けなくなった。
なぜだかわからない。
その場に立ったまま、湊は泣いていた。
事件から二年半、一度も泣かなかった男が、パン屋の裏口の前で、みっともなく声を上げて泣いた。
扉が開いた。
白い頭の、小柄な老人が顔を出した。粉だらけの前掛けをつけて、片手に長い木のへらを持っていた。
老人は、泣いている少年をしばらく眺めてから、言った。
「腹、減ってんのか」