燠火(おきび)

第四章 東京

 ブーランジェリー・エトワは、高円寺の駅から歩いて八分の、住宅街に近い裏通りにあった。
 オーナーシェフは榊という五十男で、フランスで七年修業したという。腕は確かだった。性格は最悪だった。
 朝、生地の状態が気に入らないと、湊の前でボウルごとゴミ箱に叩き込んだ。
「これを客に出す気か」
「すみません」
「謝るな。直せ」
 湊はそこで、七年働いた。
 まるみ製パンで覚えたのは「火」だった。エトワで覚えたのは「精度」だった。
 水温を〇・五度単位で計る。加水率を一パーセント刻みで変える。同じ生地を、季節ごとに二十通りに作り分ける。甚吉が腕を突っ込んで三つ数えていたことを、榊は数字とグラフで管理していた。
 どちらが正しいということはない、と湊は思った。じいさんの窯は生き物で、榊の厨房は機械だった。生き物には機嫌があり、機械には誤差がある。どちらも、毎日つきあうしかない。
 二十三歳から三十歳までの七年間、湊はほとんど休まなかった。
 休むと、考えてしまうからだ。
 榊は、湊のことをほとんど何も聞かなかった。
 履歴書は見た。前の店の名前も聞いた。それだけだった。
 一度だけ、閉店後に二人で残っていたとき、榊が言った。
「おまえ、なんで川越から出てきた」
「店が、閉まったので」
「そりゃ聞いた。なんで東京に来たかって聞いてる」
 湊は、答えに詰まった。
「……誰も知らないところが、よかったので」
 榊は、笑いも怒りもしなかった。
 煙草に火をつけて、換気扇の下で吸った。
「おれもそうだった」
 彼は言った。
「二十四でフランスに行った。誰も知らねえところに行きたかっただけだ。パンなんかどうでもよかった」
 湊は、榊の背中を見た。
「向こうで、七年いた。最初の三年は皿洗いだ。フランス語もできねえ。ある日、パン屋の親父に言われた」
 榊は煙を吐いた。
「――おまえは、逃げてきたのか、探しに来たのか、どっちだ」
「……なんて答えたんですか」
「逃げてきた、って言った」
 榊は言った。
「そしたら、そのじいさん、じゃあうちで働け、って」
 彼は煙草を消した。
「逃げてきたやつのほうが、朝に強いんだとよ」
 湊は、その言葉を長く覚えていた。
 東京での暮らしは、湊にとって、ひとつだけ楽なことがあった。
 誰も、湊の名前を疑わなかった。
 三堀という名字は、この街では何の意味も持たなかった。誰も出身を気にせず、誰も「三堀って、どこの三堀?」とは聞かなかった。川越では、まだ時々そういう目があった。同じ埼玉の中で、群馬は隣だった。
 東京は、隣になかった。
 湊は東中野の、風呂なしの六畳を借りた。家賃は四万二千円だった。銭湯まで歩いて七分かかった。冬はその七分が地獄だった。
 それでも、湊はその部屋が好きだった。
 誰も訪ねてこないからだ。
 問題は、年に何度かある飲み会だった。
 エトワの従業員は、湊を入れて五人いた。年に二度、榊が金を出して、駅前の居酒屋で飲んだ。
 二回目の冬、入って半年の若い男が、湊の隣に座った。斉藤という、専門学校を出たばかりの二十歳だった。
「三堀さんって、実家どこすか」
 湊は、ビールを置いた。
「埼玉」
「埼玉のどこ」
「川越」
「へえ。近いじゃないすか。帰らないんすか、正月」
「帰らない」
「なんでですか」
 斉藤は悪気なく聞いた。悪気がないぶん、逃げ道がなかった。
「親、いないんで」
 湊は言った。
 嘘ではなかった。父はいないことになっていた。母は、いた。
「あ」
 斉藤の顔が固まった。
「すんません」
「別に」
「いや、ほんと、すんません。おれ、そういうの、鈍くて」
「気にしなくていい」
 湊は、枝豆を食べた。
 味はしなかった。
 この会話を、湊は過去に四回している。
 毎回、同じ順番で進む。出身を聞かれ、帰省を聞かれ、親を聞かれる。そして「親、いないんで」と言うと、相手は必ず謝る。謝られると、話は終わる。
 便利な嘘だった。
 便利なぶん、使うたびに、湊は自分の中の何かが薄くなっていくのを感じた。
 母は生きている。川越のアパートで、朝から夕方まで惣菜を詰めて、月に一度、封筒に糊をつけて返事のこない手紙を出している。
 トイレに立った帰りに、榊が煙草を吸っているのに出くわした。
 店の外だった。冷えていた。
「悪いな」
 榊が言った。
「あいつ、ばかだから」
「いえ」
「おまえ、あれ、嘘だろ」
 湊は、榊の顔を見た。
 榊は前を向いたまま、煙を吐いていた。
「履歴書の緊急連絡先、女の名前だった。同じ名字で、続柄が空欄。おまえ、あそこだけ書かなかったよな」
「……」
「母親だろ」
 湊は、答えなかった。
「言わなくていい」
 榊は言った。
「おれも、二十年、親の墓の場所を知らねえことにしてた」
 彼は灰を落とした。
「フランスにいるあいだにな、親父が死んだんだ。連絡は来た。帰らなかった」
「……」
「帰らなかった理由は、いまでも自分でわかってねえ」
 榊は煙草を消して、携帯灰皿に入れた。
「でな、湊」
 初めて名前で呼ばれた。
「嘘ついてもいい。ただ、嘘の相手を間違えるな」
「……どういう意味ですか」
「他人には、いくらでもつけばいい。どうせ他人だ」
 榊は店の戸に手をかけた。
「自分につくと、パンに出る」
 彼は中に入っていった。
 湊は、しばらくそこに立っていた。
 その夜、部屋に帰って、湊は母に電話をかけた。
 三か月ぶりだった。
 母は最初、何かあったのかと思ったらしく、声が固かった。何もない、と言うと、安心したように天気の話をした。
 電話を切ってから、湊は畳に寝転がって、天井を見た。
 自分が今日、何人に嘘をついたか、数えようとした。
 途中でやめた。
 二〇一三年の五月、店にアルバイトの募集を出した。
 販売の女の子が急に辞めたのだ。榊は面接が嫌いだった。
「湊、おまえも入れ。おれが変な奴を採ったら、困るのはおまえだ」
 面接は、閉店後の店内で行われた。
 四人来た。三人目までは、湊はほとんど何も聞かなかった。榊が質問し、湊は履歴書を眺め、相槌を打った。
 四人目が入ってきた。
 紺色のカーディガンを着た、髪の短い女だった。二十歳前後だろう。化粧は薄く、目つきが静かだった。愛想笑いをしなかった。
 湊は履歴書を受け取り、視線を落とした。
 戸倉更紗。
 一九九三年四月十二日生まれ。
 群馬県柏尾市出身。
 湊は、その三行を三回読んだ。
 目の前で、榊が何か話していた。志望動機はどうとか、シフトはどうとか。声は聞こえていたが、意味が入ってこなかった。
 顔を上げた。
 女はまっすぐ榊のほうを向いて、質問に答えていた。
 十年前の廊下の暗がりに立っていた、あの顔だった。
 輪郭が伸びて、髪型が変わって、それでも同じ目だった。何も入っていない、透明なガラス玉のような目。
「三堀」
 榊に呼ばれて、湊は我に返った。
「あ、はい」
「なんか聞くことあるか」
 湊は口を開いた。何を言えばいいのかわからなかった。
「……看護学生さんなんですね」
「はい。三年です。来年、国家試験なので、卒業までの一年になりますけど」
「朝、早いですけど、大丈夫ですか」
「朝が、いいんです」
 更紗は言った。
「夜はあまり眠れないので」
 その言い方が、あまりに事務的で、湊は返す言葉を失った。
 更紗は採用された。
 週三日、朝六時から十時まで。パンを並べ、レジを打ち、掃除をする。
 初日から、驚くほど仕事ができた。
 覚えが早く、動作に無駄がなく、指示を二度聞き返さなかった。ただ、笑わなかった。客に対しても、「ありがとうございました」と言うときの声は丁寧だが、平坦だった。
 榊は「愛想はねえが、間違えねえ女だ」と言って気に入った。
 湊は、彼女がいる四時間、まともに息ができなかった。
 辞めよう、と思った。
 何度も思った。
 この店を辞めて、どこか遠くへ行けばいい。北海道でも九州でもいい。パン屋はどこにでもある。
 辞めなかった。
 理由は自分でもわからなかった。いや、わかっていた。認めたくなかっただけだ。
 湊は、知りたかったのだ。
 あの夜、家族を三人失った十歳の女の子が、十年後、どんな顔をして生きているのか。
 どんなふうに笑うのか、何を食べるのか、朝に何を考えるのか。
 自分の父が壊した人生の、その後を。
 それは償いではなかった。
 もっと汚いものだった。湊はそのことを知っていて、なお、目を離せなかった。
 六月の終わり、更紗が火傷をした。
 朝の混雑時、湊が窯から出した鉄板を、更紗が受け取ろうとしたときだった。二人の呼吸が半拍ずれて、鉄板の縁が更紗の左手の甲に当たった。
 じゅっ、という音がした。
「戸倉さん!」
 湊は鉄板を放り出して、更紗の腕を掴んで流しに引っ張った。水を出して、手を突っ込ませた。
「すみません、おれが」
「いえ、私が手を出すのが早かったので」
 更紗は淡々と言った。
 十分、水で冷やした。手の甲に、赤い帯のような跡ができていた。
「病院、行ってください。今すぐ」
「これくらいなら、大丈夫です」
「大丈夫じゃないです」
 湊の声が、思ったより大きくなった。
 更紗が顔を上げた。初めて、少し驚いた表情をした。
 湊は自分でも動揺していた。手が震えていた。
 火傷。
 自分の店の、自分の窯から出した鉄板で、この人に火傷を負わせた。
 冷たい水が流しに落ちる音が、耳の奥で反響していた。
「三堀さん」
 更紗が言った。
「私、火傷は平気なんです」
「え?」
「痛いのは痛いけど、怖くはないので」
 更紗は水を止めて、ハンカチで手を押さえた。
「じゃあ、開店の準備してきます」
 その日の夜、湊は眠れなかった。
 更紗の火傷は、二週間で治った。うっすらと色の違う帯が残ったが、本人はまったく気にしていないようだった。
 その件以来、更紗は少しだけ湊に話しかけるようになった。
 パンのことだった。
「三堀さんが焼いたパン、榊さんのとちょっと違いますよね」
「わかりますか」
「クラムが違います。三堀さんのほうが、穴が不揃い」
「……それ、褒めてます?」
「わかりません。でも私は、そっちのほうが好きです」
 湊は返事に困った。
 更紗は続けた。
「揃ってるものって、なんか、怖くないですか」
 それが、この人と交わした最初の、仕事以外の会話だった。
 八月の初め、商店街に祭りの提灯が並んだ。
 朝、更紗がその下を通って店に来た。
「お祭りですね」
 湊が言うと、更紗は「そうですね」と答えた。
 それから、少し間を置いて、こう言った。
「私、お祭り、苦手なんです」
「そうですか」
「人が多いのと、あと」
 更紗はエプロンの紐を結びながら言った。
「火を使うものが多いので」
 湊は、レジの釣り銭を数える手を止めた。
「花火とか、たこ焼きの鉄板とか、ろうそくとか」
 更紗は、平然と続けた。
「べつに、怖いわけじゃないんです。ただ、目で追ってしまうんです。あそこに火がある、あそこにもある、って」
 彼女は棚にトングを並べた。
「一晩じゅう、火を数えてます」
「……」
「疲れるので、行かないことにしてます」
 湊は、何と言えばいいのかわからなかった。
 その晩、店を閉めたあと、湊は祭りの提灯の下を歩いた。
 射的の屋台にライターがあった。焼きそばの鉄板の下でガスが燃えていた。りんご飴の屋台の裏で、店主が煙草に火をつけていた。
 湊は、数えた。
 二百メートルの通りで、十七あった。
 この町で暮らすというのは、毎日、火の中を歩くということだった。
 あの人は、それを十年やっている。
 湊は、そのことを、それまで一度も考えたことがなかった。
 夏が過ぎ、秋になった。
 更紗は八月に実習が始まって、シフトが週二日に減った。実習明けに店に来る日は、顔が白かった。
 あるとき、湊は思わず聞いた。
「大丈夫ですか。無理してませんか」
「してます」
 更紗はあっさり答えた。
「でも、無理をしていないと、余計なことを考えるので」
「余計なこと」
「そうです」
 更紗はレジの下を布巾で拭きながら、言った。
「三堀さんは、ありますか。考えたくないから、体を動かしてる、みたいなこと」
 湊は、答えられなかった。
 答えられないことが、答えになっていた。
 更紗はそれ以上、聞かなかった。
 この人は、他人の沈黙を尊重する人だ、と湊は思った。
 自分がそうしてほしいからだ。
 十月の終わり、朝の客足が切れた時間に、更紗が言った。
「三堀さん。私、就職先、決まりそうです」
「もう、決まるんですか」
「内定です。四月からです」
 更紗はレジ台を拭きながら言った。
「都内の、大きい病院です」
「そうですか。おめでとうございます」
「まだ言わないでください。榊さんに、辞めるって言えてないので」
 湊は笑った。
 更紗は布巾を絞って、思い出したように付け足した。
「熱傷ユニットに行きたいんです」
「ねっしょう」
「やけどです」
 湊は、成形していた生地から手を離した。
「希望は、出せるだけ出しました。第三希望まで書く欄があるんですけど、三つとも同じことを書きました」
「……三つとも」
「はい。そうすれば、いつか回してもらえると思って」
 更紗は、平然と言った。
「何年かかっても、行きます」
 湊は、何を言えばいいのかわからなかった。
 この人は、火傷を負った人の傍らで働くことを、自分から選んだ。
 夜眠れない人が。
 祭りの火を一晩じゅう数えてしまう人が。
「なんで、そこなんですか」
 湊は聞いた。
 更紗は、少し考えた。
「いちばん、痛いところだからです」
「……」
「私、他のところに行っても、たぶんだめなんです」
 彼女は言った。
「内科でも外科でも、どこにいても、頭の中では火傷のことを考えてるので。だったら、そこにいたほうが、まだ役に立つと思って」
 湊は、うなずくことしかできなかった。
「変ですか」
「いえ」
「変だって言われました。学校の先生に」
 更紗は言った。
「あなたには重すぎるって」
「……」
「重いから行くんです、って言い返しました」
 彼女は布巾を畳んで、棚に置いた。
「そしたら、先生、黙りました」
 湊は、その横顔を見ていた。
 この人は、逃げない。
 自分は、十年逃げている。名前を変えて、生まれた町を消して、他人の前で嘘をついている。
 同じ夜に人生を焼失した二人が、こんなにも違う方向に走っている。
 湊は、そのことを恥じた。
 恥じながら、同時に、この人のそばにいたいと思った。
 その二つが同時にあることが、湊にはどうしようもなかった。
 十二月になった。
 商店街に電飾がついた。パン屋にはシュトーレンの季節が来て、榊は毎年これを大量に作る。生地に洋酒漬けの果物を練り込み、焼いて、バターを塗って、砂糖をまぶす。何百本と作る。
 十二月十四日は、土曜日だった。
 湊はその日、朝から手が止まりがちだった。
 毎年、この日はそうだった。何をしていても、頭の隅で北の空が赤く燃えている。
 更紗は、その日のシフトに入っていた。
 朝から、いつもと同じだった。パンを並べ、レジを打ち、客に「ありがとうございました」と言った。
 閉店後、榊が先に帰った。
 湊は翌日の仕込みをしていた。更紗が、なぜか帰らずに、店のカウンターの椅子に座っていた。
「戸倉さん、上がっていいですよ」
「はい」
 更紗は動かなかった。
 湊は生地を計りながら、時々ちらりと目をやった。
 更紗は、両手を膝の上に置いて、じっと店の窓を見ていた。ガラスに電飾の赤や緑が映っていた。
 やがて、彼女が言った。
「三堀さん」
「はい」
「今日、十二月十四日なんです」
 湊の手が止まった。
 更紗は窓を見たままだった。
「十年前の今日、私の家が燃えました」
 厨房の換気扇が回る音だけがしていた。
「火事?」
 自分の声が、他人のもののように聞こえた。
「放火です」
 更紗は言った。
「父の会社の従業員が、父を殺して、火をつけました。母と、妹が、二階で寝ていて、逃げられませんでした」
 湊は、粉の袋を握っていた。指が白くなっていた。
「妹は七歳でした」
 更紗は続けた。
「私はその日、おばあちゃんの家に泊まっていたんです。前の日にちょっと母と喧嘩して、意地を張って。それで、たまたま」
 湊は何か言わなければならなかった。
 何も言えなかった。
「私だけ、たまたま生き残りました」
 更紗は初めて、湊のほうを向いた。
 その顔は泣いていなかった。
「ごめんなさい。急にこんな話」
「いえ」
「誰かに一度、普通に言ってみたかったんです。深刻な顔をされないで」
「……深刻な顔、してますよ」
 更紗は少しだけ、口の端を動かした。笑ったのかもしれない。
「してますね」
 湊は、粉の袋を台に置いた。
 手が震えていて、置いた拍子に粉が舞った。白い粉が、電飾の光の中でゆっくり落ちていった。
「その人は」
 湊は聞いた。聞いてはいけない、と思いながら、口が動いていた。
「どうなったんですか」
「無期懲役です」
「……」
「まだ生きてます。刑務所で」
 更紗は椅子から立ち上がって、コートを着た。
「あの人には、家族がいたそうです」
 湊の心臓が、一度、大きく打った。
「奥さんと、子どもが二人」
 更紗はマフラーを巻きながら言った。
「事件のあと、うちに謝りに来ました。おばあちゃんの家に」
 湊は動けなかった。
「私、見てました。廊下から」
 湊の視界の端が、暗くなった。
「男の子がいました。中学生くらいの」
 更紗は、そこで言葉を切った。
 そして、湊のほうを見た。
 まっすぐ、正面から。
 その目が何を見ているのか、湊にはわからなかった。
「……その子のこと、私、長いあいだ思い出せなかったんです。顔も覚えてなかった」
 更紗は、鞄を肩にかけた。
「でも最近、たまに思い出すんです」
「……なんで」
「わかりません」
 更紗は扉のノブに手をかけた。
「あの子は、いま、どうしてるんだろうって」
 鈴が鳴った。
 冷たい風が入ってきて、台の上の粉を舞い上げた。
「お先に失礼します。おつかれさまでした」
 扉が閉まった。
 湊は、そのままの姿勢で、十分ほど動かなかった。
 やがて膝が折れて、床にしゃがみ込んだ。
 厨房のタイルは冷たかった。
 言わなければならない、と思った。
 いま、追いかけて、あの人を捕まえて、言わなければならない。
 その男は、おれです。
 あなたのお母さんと妹さんを殺した男の、息子です。
 湊は立ち上がった。
 扉まで、三歩だった。
 三歩が、動けなかった。
 言えば、この人はここからいなくなる。
 言えば、二度と会えない。
 その考えが浮かんだ瞬間、湊は自分の中に、想像したこともないほど醜いものがあるのを見た。
 自分は、この人を失いたくない。
 罪悪感ではなかった。同情でもなかった。償いでもなかった。
 好きなのだ、と思った。
 二十五歳になって、生まれて初めて、湊は誰かをそういうふうに思った。
 よりによって、この人を。
 湊は扉に額をつけて、長いこと、そこに立っていた。
 ガラスの向こうで、商店街の電飾が、赤と緑に瞬いていた。
 あの夜の空の色に、少しだけ似ていた。
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