燠火(おきび)
第四章 東京
ブーランジェリー・エトワは、高円寺の駅から歩いて八分の、住宅街に近い裏通りにあった。
オーナーシェフは榊という五十男で、フランスで七年修業したという。腕は確かだった。性格は最悪だった。
朝、生地の状態が気に入らないと、湊の前でボウルごとゴミ箱に叩き込んだ。
「これを客に出す気か」
「すみません」
「謝るな。直せ」
湊はそこで、七年働いた。
まるみ製パンで覚えたのは「火」だった。エトワで覚えたのは「精度」だった。
水温を〇・五度単位で計る。加水率を一パーセント刻みで変える。同じ生地を、季節ごとに二十通りに作り分ける。甚吉が腕を突っ込んで三つ数えていたことを、榊は数字とグラフで管理していた。
どちらが正しいということはない、と湊は思った。じいさんの窯は生き物で、榊の厨房は機械だった。生き物には機嫌があり、機械には誤差がある。どちらも、毎日つきあうしかない。
二十三歳から三十歳までの七年間、湊はほとんど休まなかった。
休むと、考えてしまうからだ。
榊は、湊のことをほとんど何も聞かなかった。
履歴書は見た。前の店の名前も聞いた。それだけだった。
一度だけ、閉店後に二人で残っていたとき、榊が言った。
「おまえ、なんで川越から出てきた」
「店が、閉まったので」
「そりゃ聞いた。なんで東京に来たかって聞いてる」
湊は、答えに詰まった。
「……誰も知らないところが、よかったので」
榊は、笑いも怒りもしなかった。
煙草に火をつけて、換気扇の下で吸った。
「おれもそうだった」
彼は言った。
「二十四でフランスに行った。誰も知らねえところに行きたかっただけだ。パンなんかどうでもよかった」
湊は、榊の背中を見た。
「向こうで、七年いた。最初の三年は皿洗いだ。フランス語もできねえ。ある日、パン屋の親父に言われた」
榊は煙を吐いた。
「――おまえは、逃げてきたのか、探しに来たのか、どっちだ」
「……なんて答えたんですか」
「逃げてきた、って言った」
榊は言った。
「そしたら、そのじいさん、じゃあうちで働け、って」
彼は煙草を消した。
「逃げてきたやつのほうが、朝に強いんだとよ」
湊は、その言葉を長く覚えていた。
東京での暮らしは、湊にとって、ひとつだけ楽なことがあった。
誰も、湊の名前を疑わなかった。
三堀という名字は、この街では何の意味も持たなかった。誰も出身を気にせず、誰も「三堀って、どこの三堀?」とは聞かなかった。川越では、まだ時々そういう目があった。同じ埼玉の中で、群馬は隣だった。
東京は、隣になかった。
湊は東中野の、風呂なしの六畳を借りた。家賃は四万二千円だった。銭湯まで歩いて七分かかった。冬はその七分が地獄だった。
それでも、湊はその部屋が好きだった。
誰も訪ねてこないからだ。
問題は、年に何度かある飲み会だった。
エトワの従業員は、湊を入れて五人いた。年に二度、榊が金を出して、駅前の居酒屋で飲んだ。
二回目の冬、入って半年の若い男が、湊の隣に座った。斉藤という、専門学校を出たばかりの二十歳だった。
「三堀さんって、実家どこすか」
湊は、ビールを置いた。
「埼玉」
「埼玉のどこ」
「川越」
「へえ。近いじゃないすか。帰らないんすか、正月」
「帰らない」
「なんでですか」
斉藤は悪気なく聞いた。悪気がないぶん、逃げ道がなかった。
「親、いないんで」
湊は言った。
嘘ではなかった。父はいないことになっていた。母は、いた。
「あ」
斉藤の顔が固まった。
「すんません」
「別に」
「いや、ほんと、すんません。おれ、そういうの、鈍くて」
「気にしなくていい」
湊は、枝豆を食べた。
味はしなかった。
この会話を、湊は過去に四回している。
毎回、同じ順番で進む。出身を聞かれ、帰省を聞かれ、親を聞かれる。そして「親、いないんで」と言うと、相手は必ず謝る。謝られると、話は終わる。
便利な嘘だった。
便利なぶん、使うたびに、湊は自分の中の何かが薄くなっていくのを感じた。
母は生きている。川越のアパートで、朝から夕方まで惣菜を詰めて、月に一度、封筒に糊をつけて返事のこない手紙を出している。
トイレに立った帰りに、榊が煙草を吸っているのに出くわした。
店の外だった。冷えていた。
「悪いな」
榊が言った。
「あいつ、ばかだから」
「いえ」
「おまえ、あれ、嘘だろ」
湊は、榊の顔を見た。
榊は前を向いたまま、煙を吐いていた。
「履歴書の緊急連絡先、女の名前だった。同じ名字で、続柄が空欄。おまえ、あそこだけ書かなかったよな」
「……」
「母親だろ」
湊は、答えなかった。
「言わなくていい」
榊は言った。
「おれも、二十年、親の墓の場所を知らねえことにしてた」
彼は灰を落とした。
「フランスにいるあいだにな、親父が死んだんだ。連絡は来た。帰らなかった」
「……」
「帰らなかった理由は、いまでも自分でわかってねえ」
榊は煙草を消して、携帯灰皿に入れた。
「でな、湊」
初めて名前で呼ばれた。
「嘘ついてもいい。ただ、嘘の相手を間違えるな」
「……どういう意味ですか」
「他人には、いくらでもつけばいい。どうせ他人だ」
榊は店の戸に手をかけた。
「自分につくと、パンに出る」
彼は中に入っていった。
湊は、しばらくそこに立っていた。
その夜、部屋に帰って、湊は母に電話をかけた。
三か月ぶりだった。
母は最初、何かあったのかと思ったらしく、声が固かった。何もない、と言うと、安心したように天気の話をした。
電話を切ってから、湊は畳に寝転がって、天井を見た。
自分が今日、何人に嘘をついたか、数えようとした。
途中でやめた。
二〇一三年の五月、店にアルバイトの募集を出した。
販売の女の子が急に辞めたのだ。榊は面接が嫌いだった。
「湊、おまえも入れ。おれが変な奴を採ったら、困るのはおまえだ」
面接は、閉店後の店内で行われた。
四人来た。三人目までは、湊はほとんど何も聞かなかった。榊が質問し、湊は履歴書を眺め、相槌を打った。
四人目が入ってきた。
紺色のカーディガンを着た、髪の短い女だった。二十歳前後だろう。化粧は薄く、目つきが静かだった。愛想笑いをしなかった。
湊は履歴書を受け取り、視線を落とした。
戸倉更紗。
一九九三年四月十二日生まれ。
群馬県柏尾市出身。
湊は、その三行を三回読んだ。
目の前で、榊が何か話していた。志望動機はどうとか、シフトはどうとか。声は聞こえていたが、意味が入ってこなかった。
顔を上げた。
女はまっすぐ榊のほうを向いて、質問に答えていた。
十年前の廊下の暗がりに立っていた、あの顔だった。
輪郭が伸びて、髪型が変わって、それでも同じ目だった。何も入っていない、透明なガラス玉のような目。
「三堀」
榊に呼ばれて、湊は我に返った。
「あ、はい」
「なんか聞くことあるか」
湊は口を開いた。何を言えばいいのかわからなかった。
「……看護学生さんなんですね」
「はい。三年です。来年、国家試験なので、卒業までの一年になりますけど」
「朝、早いですけど、大丈夫ですか」
「朝が、いいんです」
更紗は言った。
「夜はあまり眠れないので」
その言い方が、あまりに事務的で、湊は返す言葉を失った。
更紗は採用された。
週三日、朝六時から十時まで。パンを並べ、レジを打ち、掃除をする。
初日から、驚くほど仕事ができた。
覚えが早く、動作に無駄がなく、指示を二度聞き返さなかった。ただ、笑わなかった。客に対しても、「ありがとうございました」と言うときの声は丁寧だが、平坦だった。
榊は「愛想はねえが、間違えねえ女だ」と言って気に入った。
湊は、彼女がいる四時間、まともに息ができなかった。
辞めよう、と思った。
何度も思った。
この店を辞めて、どこか遠くへ行けばいい。北海道でも九州でもいい。パン屋はどこにでもある。
辞めなかった。
理由は自分でもわからなかった。いや、わかっていた。認めたくなかっただけだ。
湊は、知りたかったのだ。
あの夜、家族を三人失った十歳の女の子が、十年後、どんな顔をして生きているのか。
どんなふうに笑うのか、何を食べるのか、朝に何を考えるのか。
自分の父が壊した人生の、その後を。
それは償いではなかった。
もっと汚いものだった。湊はそのことを知っていて、なお、目を離せなかった。
六月の終わり、更紗が火傷をした。
朝の混雑時、湊が窯から出した鉄板を、更紗が受け取ろうとしたときだった。二人の呼吸が半拍ずれて、鉄板の縁が更紗の左手の甲に当たった。
じゅっ、という音がした。
「戸倉さん!」
湊は鉄板を放り出して、更紗の腕を掴んで流しに引っ張った。水を出して、手を突っ込ませた。
「すみません、おれが」
「いえ、私が手を出すのが早かったので」
更紗は淡々と言った。
十分、水で冷やした。手の甲に、赤い帯のような跡ができていた。
「病院、行ってください。今すぐ」
「これくらいなら、大丈夫です」
「大丈夫じゃないです」
湊の声が、思ったより大きくなった。
更紗が顔を上げた。初めて、少し驚いた表情をした。
湊は自分でも動揺していた。手が震えていた。
火傷。
自分の店の、自分の窯から出した鉄板で、この人に火傷を負わせた。
冷たい水が流しに落ちる音が、耳の奥で反響していた。
「三堀さん」
更紗が言った。
「私、火傷は平気なんです」
「え?」
「痛いのは痛いけど、怖くはないので」
更紗は水を止めて、ハンカチで手を押さえた。
「じゃあ、開店の準備してきます」
その日の夜、湊は眠れなかった。
更紗の火傷は、二週間で治った。うっすらと色の違う帯が残ったが、本人はまったく気にしていないようだった。
その件以来、更紗は少しだけ湊に話しかけるようになった。
パンのことだった。
「三堀さんが焼いたパン、榊さんのとちょっと違いますよね」
「わかりますか」
「クラムが違います。三堀さんのほうが、穴が不揃い」
「……それ、褒めてます?」
「わかりません。でも私は、そっちのほうが好きです」
湊は返事に困った。
更紗は続けた。
「揃ってるものって、なんか、怖くないですか」
それが、この人と交わした最初の、仕事以外の会話だった。
八月の初め、商店街に祭りの提灯が並んだ。
朝、更紗がその下を通って店に来た。
「お祭りですね」
湊が言うと、更紗は「そうですね」と答えた。
それから、少し間を置いて、こう言った。
「私、お祭り、苦手なんです」
「そうですか」
「人が多いのと、あと」
更紗はエプロンの紐を結びながら言った。
「火を使うものが多いので」
湊は、レジの釣り銭を数える手を止めた。
「花火とか、たこ焼きの鉄板とか、ろうそくとか」
更紗は、平然と続けた。
「べつに、怖いわけじゃないんです。ただ、目で追ってしまうんです。あそこに火がある、あそこにもある、って」
彼女は棚にトングを並べた。
「一晩じゅう、火を数えてます」
「……」
「疲れるので、行かないことにしてます」
湊は、何と言えばいいのかわからなかった。
その晩、店を閉めたあと、湊は祭りの提灯の下を歩いた。
射的の屋台にライターがあった。焼きそばの鉄板の下でガスが燃えていた。りんご飴の屋台の裏で、店主が煙草に火をつけていた。
湊は、数えた。
二百メートルの通りで、十七あった。
この町で暮らすというのは、毎日、火の中を歩くということだった。
あの人は、それを十年やっている。
湊は、そのことを、それまで一度も考えたことがなかった。
夏が過ぎ、秋になった。
更紗は八月に実習が始まって、シフトが週二日に減った。実習明けに店に来る日は、顔が白かった。
あるとき、湊は思わず聞いた。
「大丈夫ですか。無理してませんか」
「してます」
更紗はあっさり答えた。
「でも、無理をしていないと、余計なことを考えるので」
「余計なこと」
「そうです」
更紗はレジの下を布巾で拭きながら、言った。
「三堀さんは、ありますか。考えたくないから、体を動かしてる、みたいなこと」
湊は、答えられなかった。
答えられないことが、答えになっていた。
更紗はそれ以上、聞かなかった。
この人は、他人の沈黙を尊重する人だ、と湊は思った。
自分がそうしてほしいからだ。
十月の終わり、朝の客足が切れた時間に、更紗が言った。
「三堀さん。私、就職先、決まりそうです」
「もう、決まるんですか」
「内定です。四月からです」
更紗はレジ台を拭きながら言った。
「都内の、大きい病院です」
「そうですか。おめでとうございます」
「まだ言わないでください。榊さんに、辞めるって言えてないので」
湊は笑った。
更紗は布巾を絞って、思い出したように付け足した。
「熱傷ユニットに行きたいんです」
「ねっしょう」
「やけどです」
湊は、成形していた生地から手を離した。
「希望は、出せるだけ出しました。第三希望まで書く欄があるんですけど、三つとも同じことを書きました」
「……三つとも」
「はい。そうすれば、いつか回してもらえると思って」
更紗は、平然と言った。
「何年かかっても、行きます」
湊は、何を言えばいいのかわからなかった。
この人は、火傷を負った人の傍らで働くことを、自分から選んだ。
夜眠れない人が。
祭りの火を一晩じゅう数えてしまう人が。
「なんで、そこなんですか」
湊は聞いた。
更紗は、少し考えた。
「いちばん、痛いところだからです」
「……」
「私、他のところに行っても、たぶんだめなんです」
彼女は言った。
「内科でも外科でも、どこにいても、頭の中では火傷のことを考えてるので。だったら、そこにいたほうが、まだ役に立つと思って」
湊は、うなずくことしかできなかった。
「変ですか」
「いえ」
「変だって言われました。学校の先生に」
更紗は言った。
「あなたには重すぎるって」
「……」
「重いから行くんです、って言い返しました」
彼女は布巾を畳んで、棚に置いた。
「そしたら、先生、黙りました」
湊は、その横顔を見ていた。
この人は、逃げない。
自分は、十年逃げている。名前を変えて、生まれた町を消して、他人の前で嘘をついている。
同じ夜に人生を焼失した二人が、こんなにも違う方向に走っている。
湊は、そのことを恥じた。
恥じながら、同時に、この人のそばにいたいと思った。
その二つが同時にあることが、湊にはどうしようもなかった。
十二月になった。
商店街に電飾がついた。パン屋にはシュトーレンの季節が来て、榊は毎年これを大量に作る。生地に洋酒漬けの果物を練り込み、焼いて、バターを塗って、砂糖をまぶす。何百本と作る。
十二月十四日は、土曜日だった。
湊はその日、朝から手が止まりがちだった。
毎年、この日はそうだった。何をしていても、頭の隅で北の空が赤く燃えている。
更紗は、その日のシフトに入っていた。
朝から、いつもと同じだった。パンを並べ、レジを打ち、客に「ありがとうございました」と言った。
閉店後、榊が先に帰った。
湊は翌日の仕込みをしていた。更紗が、なぜか帰らずに、店のカウンターの椅子に座っていた。
「戸倉さん、上がっていいですよ」
「はい」
更紗は動かなかった。
湊は生地を計りながら、時々ちらりと目をやった。
更紗は、両手を膝の上に置いて、じっと店の窓を見ていた。ガラスに電飾の赤や緑が映っていた。
やがて、彼女が言った。
「三堀さん」
「はい」
「今日、十二月十四日なんです」
湊の手が止まった。
更紗は窓を見たままだった。
「十年前の今日、私の家が燃えました」
厨房の換気扇が回る音だけがしていた。
「火事?」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
「放火です」
更紗は言った。
「父の会社の従業員が、父を殺して、火をつけました。母と、妹が、二階で寝ていて、逃げられませんでした」
湊は、粉の袋を握っていた。指が白くなっていた。
「妹は七歳でした」
更紗は続けた。
「私はその日、おばあちゃんの家に泊まっていたんです。前の日にちょっと母と喧嘩して、意地を張って。それで、たまたま」
湊は何か言わなければならなかった。
何も言えなかった。
「私だけ、たまたま生き残りました」
更紗は初めて、湊のほうを向いた。
その顔は泣いていなかった。
「ごめんなさい。急にこんな話」
「いえ」
「誰かに一度、普通に言ってみたかったんです。深刻な顔をされないで」
「……深刻な顔、してますよ」
更紗は少しだけ、口の端を動かした。笑ったのかもしれない。
「してますね」
湊は、粉の袋を台に置いた。
手が震えていて、置いた拍子に粉が舞った。白い粉が、電飾の光の中でゆっくり落ちていった。
「その人は」
湊は聞いた。聞いてはいけない、と思いながら、口が動いていた。
「どうなったんですか」
「無期懲役です」
「……」
「まだ生きてます。刑務所で」
更紗は椅子から立ち上がって、コートを着た。
「あの人には、家族がいたそうです」
湊の心臓が、一度、大きく打った。
「奥さんと、子どもが二人」
更紗はマフラーを巻きながら言った。
「事件のあと、うちに謝りに来ました。おばあちゃんの家に」
湊は動けなかった。
「私、見てました。廊下から」
湊の視界の端が、暗くなった。
「男の子がいました。中学生くらいの」
更紗は、そこで言葉を切った。
そして、湊のほうを見た。
まっすぐ、正面から。
その目が何を見ているのか、湊にはわからなかった。
「……その子のこと、私、長いあいだ思い出せなかったんです。顔も覚えてなかった」
更紗は、鞄を肩にかけた。
「でも最近、たまに思い出すんです」
「……なんで」
「わかりません」
更紗は扉のノブに手をかけた。
「あの子は、いま、どうしてるんだろうって」
鈴が鳴った。
冷たい風が入ってきて、台の上の粉を舞い上げた。
「お先に失礼します。おつかれさまでした」
扉が閉まった。
湊は、そのままの姿勢で、十分ほど動かなかった。
やがて膝が折れて、床にしゃがみ込んだ。
厨房のタイルは冷たかった。
言わなければならない、と思った。
いま、追いかけて、あの人を捕まえて、言わなければならない。
その男は、おれです。
あなたのお母さんと妹さんを殺した男の、息子です。
湊は立ち上がった。
扉まで、三歩だった。
三歩が、動けなかった。
言えば、この人はここからいなくなる。
言えば、二度と会えない。
その考えが浮かんだ瞬間、湊は自分の中に、想像したこともないほど醜いものがあるのを見た。
自分は、この人を失いたくない。
罪悪感ではなかった。同情でもなかった。償いでもなかった。
好きなのだ、と思った。
二十五歳になって、生まれて初めて、湊は誰かをそういうふうに思った。
よりによって、この人を。
湊は扉に額をつけて、長いこと、そこに立っていた。
ガラスの向こうで、商店街の電飾が、赤と緑に瞬いていた。
あの夜の空の色に、少しだけ似ていた。
オーナーシェフは榊という五十男で、フランスで七年修業したという。腕は確かだった。性格は最悪だった。
朝、生地の状態が気に入らないと、湊の前でボウルごとゴミ箱に叩き込んだ。
「これを客に出す気か」
「すみません」
「謝るな。直せ」
湊はそこで、七年働いた。
まるみ製パンで覚えたのは「火」だった。エトワで覚えたのは「精度」だった。
水温を〇・五度単位で計る。加水率を一パーセント刻みで変える。同じ生地を、季節ごとに二十通りに作り分ける。甚吉が腕を突っ込んで三つ数えていたことを、榊は数字とグラフで管理していた。
どちらが正しいということはない、と湊は思った。じいさんの窯は生き物で、榊の厨房は機械だった。生き物には機嫌があり、機械には誤差がある。どちらも、毎日つきあうしかない。
二十三歳から三十歳までの七年間、湊はほとんど休まなかった。
休むと、考えてしまうからだ。
榊は、湊のことをほとんど何も聞かなかった。
履歴書は見た。前の店の名前も聞いた。それだけだった。
一度だけ、閉店後に二人で残っていたとき、榊が言った。
「おまえ、なんで川越から出てきた」
「店が、閉まったので」
「そりゃ聞いた。なんで東京に来たかって聞いてる」
湊は、答えに詰まった。
「……誰も知らないところが、よかったので」
榊は、笑いも怒りもしなかった。
煙草に火をつけて、換気扇の下で吸った。
「おれもそうだった」
彼は言った。
「二十四でフランスに行った。誰も知らねえところに行きたかっただけだ。パンなんかどうでもよかった」
湊は、榊の背中を見た。
「向こうで、七年いた。最初の三年は皿洗いだ。フランス語もできねえ。ある日、パン屋の親父に言われた」
榊は煙を吐いた。
「――おまえは、逃げてきたのか、探しに来たのか、どっちだ」
「……なんて答えたんですか」
「逃げてきた、って言った」
榊は言った。
「そしたら、そのじいさん、じゃあうちで働け、って」
彼は煙草を消した。
「逃げてきたやつのほうが、朝に強いんだとよ」
湊は、その言葉を長く覚えていた。
東京での暮らしは、湊にとって、ひとつだけ楽なことがあった。
誰も、湊の名前を疑わなかった。
三堀という名字は、この街では何の意味も持たなかった。誰も出身を気にせず、誰も「三堀って、どこの三堀?」とは聞かなかった。川越では、まだ時々そういう目があった。同じ埼玉の中で、群馬は隣だった。
東京は、隣になかった。
湊は東中野の、風呂なしの六畳を借りた。家賃は四万二千円だった。銭湯まで歩いて七分かかった。冬はその七分が地獄だった。
それでも、湊はその部屋が好きだった。
誰も訪ねてこないからだ。
問題は、年に何度かある飲み会だった。
エトワの従業員は、湊を入れて五人いた。年に二度、榊が金を出して、駅前の居酒屋で飲んだ。
二回目の冬、入って半年の若い男が、湊の隣に座った。斉藤という、専門学校を出たばかりの二十歳だった。
「三堀さんって、実家どこすか」
湊は、ビールを置いた。
「埼玉」
「埼玉のどこ」
「川越」
「へえ。近いじゃないすか。帰らないんすか、正月」
「帰らない」
「なんでですか」
斉藤は悪気なく聞いた。悪気がないぶん、逃げ道がなかった。
「親、いないんで」
湊は言った。
嘘ではなかった。父はいないことになっていた。母は、いた。
「あ」
斉藤の顔が固まった。
「すんません」
「別に」
「いや、ほんと、すんません。おれ、そういうの、鈍くて」
「気にしなくていい」
湊は、枝豆を食べた。
味はしなかった。
この会話を、湊は過去に四回している。
毎回、同じ順番で進む。出身を聞かれ、帰省を聞かれ、親を聞かれる。そして「親、いないんで」と言うと、相手は必ず謝る。謝られると、話は終わる。
便利な嘘だった。
便利なぶん、使うたびに、湊は自分の中の何かが薄くなっていくのを感じた。
母は生きている。川越のアパートで、朝から夕方まで惣菜を詰めて、月に一度、封筒に糊をつけて返事のこない手紙を出している。
トイレに立った帰りに、榊が煙草を吸っているのに出くわした。
店の外だった。冷えていた。
「悪いな」
榊が言った。
「あいつ、ばかだから」
「いえ」
「おまえ、あれ、嘘だろ」
湊は、榊の顔を見た。
榊は前を向いたまま、煙を吐いていた。
「履歴書の緊急連絡先、女の名前だった。同じ名字で、続柄が空欄。おまえ、あそこだけ書かなかったよな」
「……」
「母親だろ」
湊は、答えなかった。
「言わなくていい」
榊は言った。
「おれも、二十年、親の墓の場所を知らねえことにしてた」
彼は灰を落とした。
「フランスにいるあいだにな、親父が死んだんだ。連絡は来た。帰らなかった」
「……」
「帰らなかった理由は、いまでも自分でわかってねえ」
榊は煙草を消して、携帯灰皿に入れた。
「でな、湊」
初めて名前で呼ばれた。
「嘘ついてもいい。ただ、嘘の相手を間違えるな」
「……どういう意味ですか」
「他人には、いくらでもつけばいい。どうせ他人だ」
榊は店の戸に手をかけた。
「自分につくと、パンに出る」
彼は中に入っていった。
湊は、しばらくそこに立っていた。
その夜、部屋に帰って、湊は母に電話をかけた。
三か月ぶりだった。
母は最初、何かあったのかと思ったらしく、声が固かった。何もない、と言うと、安心したように天気の話をした。
電話を切ってから、湊は畳に寝転がって、天井を見た。
自分が今日、何人に嘘をついたか、数えようとした。
途中でやめた。
二〇一三年の五月、店にアルバイトの募集を出した。
販売の女の子が急に辞めたのだ。榊は面接が嫌いだった。
「湊、おまえも入れ。おれが変な奴を採ったら、困るのはおまえだ」
面接は、閉店後の店内で行われた。
四人来た。三人目までは、湊はほとんど何も聞かなかった。榊が質問し、湊は履歴書を眺め、相槌を打った。
四人目が入ってきた。
紺色のカーディガンを着た、髪の短い女だった。二十歳前後だろう。化粧は薄く、目つきが静かだった。愛想笑いをしなかった。
湊は履歴書を受け取り、視線を落とした。
戸倉更紗。
一九九三年四月十二日生まれ。
群馬県柏尾市出身。
湊は、その三行を三回読んだ。
目の前で、榊が何か話していた。志望動機はどうとか、シフトはどうとか。声は聞こえていたが、意味が入ってこなかった。
顔を上げた。
女はまっすぐ榊のほうを向いて、質問に答えていた。
十年前の廊下の暗がりに立っていた、あの顔だった。
輪郭が伸びて、髪型が変わって、それでも同じ目だった。何も入っていない、透明なガラス玉のような目。
「三堀」
榊に呼ばれて、湊は我に返った。
「あ、はい」
「なんか聞くことあるか」
湊は口を開いた。何を言えばいいのかわからなかった。
「……看護学生さんなんですね」
「はい。三年です。来年、国家試験なので、卒業までの一年になりますけど」
「朝、早いですけど、大丈夫ですか」
「朝が、いいんです」
更紗は言った。
「夜はあまり眠れないので」
その言い方が、あまりに事務的で、湊は返す言葉を失った。
更紗は採用された。
週三日、朝六時から十時まで。パンを並べ、レジを打ち、掃除をする。
初日から、驚くほど仕事ができた。
覚えが早く、動作に無駄がなく、指示を二度聞き返さなかった。ただ、笑わなかった。客に対しても、「ありがとうございました」と言うときの声は丁寧だが、平坦だった。
榊は「愛想はねえが、間違えねえ女だ」と言って気に入った。
湊は、彼女がいる四時間、まともに息ができなかった。
辞めよう、と思った。
何度も思った。
この店を辞めて、どこか遠くへ行けばいい。北海道でも九州でもいい。パン屋はどこにでもある。
辞めなかった。
理由は自分でもわからなかった。いや、わかっていた。認めたくなかっただけだ。
湊は、知りたかったのだ。
あの夜、家族を三人失った十歳の女の子が、十年後、どんな顔をして生きているのか。
どんなふうに笑うのか、何を食べるのか、朝に何を考えるのか。
自分の父が壊した人生の、その後を。
それは償いではなかった。
もっと汚いものだった。湊はそのことを知っていて、なお、目を離せなかった。
六月の終わり、更紗が火傷をした。
朝の混雑時、湊が窯から出した鉄板を、更紗が受け取ろうとしたときだった。二人の呼吸が半拍ずれて、鉄板の縁が更紗の左手の甲に当たった。
じゅっ、という音がした。
「戸倉さん!」
湊は鉄板を放り出して、更紗の腕を掴んで流しに引っ張った。水を出して、手を突っ込ませた。
「すみません、おれが」
「いえ、私が手を出すのが早かったので」
更紗は淡々と言った。
十分、水で冷やした。手の甲に、赤い帯のような跡ができていた。
「病院、行ってください。今すぐ」
「これくらいなら、大丈夫です」
「大丈夫じゃないです」
湊の声が、思ったより大きくなった。
更紗が顔を上げた。初めて、少し驚いた表情をした。
湊は自分でも動揺していた。手が震えていた。
火傷。
自分の店の、自分の窯から出した鉄板で、この人に火傷を負わせた。
冷たい水が流しに落ちる音が、耳の奥で反響していた。
「三堀さん」
更紗が言った。
「私、火傷は平気なんです」
「え?」
「痛いのは痛いけど、怖くはないので」
更紗は水を止めて、ハンカチで手を押さえた。
「じゃあ、開店の準備してきます」
その日の夜、湊は眠れなかった。
更紗の火傷は、二週間で治った。うっすらと色の違う帯が残ったが、本人はまったく気にしていないようだった。
その件以来、更紗は少しだけ湊に話しかけるようになった。
パンのことだった。
「三堀さんが焼いたパン、榊さんのとちょっと違いますよね」
「わかりますか」
「クラムが違います。三堀さんのほうが、穴が不揃い」
「……それ、褒めてます?」
「わかりません。でも私は、そっちのほうが好きです」
湊は返事に困った。
更紗は続けた。
「揃ってるものって、なんか、怖くないですか」
それが、この人と交わした最初の、仕事以外の会話だった。
八月の初め、商店街に祭りの提灯が並んだ。
朝、更紗がその下を通って店に来た。
「お祭りですね」
湊が言うと、更紗は「そうですね」と答えた。
それから、少し間を置いて、こう言った。
「私、お祭り、苦手なんです」
「そうですか」
「人が多いのと、あと」
更紗はエプロンの紐を結びながら言った。
「火を使うものが多いので」
湊は、レジの釣り銭を数える手を止めた。
「花火とか、たこ焼きの鉄板とか、ろうそくとか」
更紗は、平然と続けた。
「べつに、怖いわけじゃないんです。ただ、目で追ってしまうんです。あそこに火がある、あそこにもある、って」
彼女は棚にトングを並べた。
「一晩じゅう、火を数えてます」
「……」
「疲れるので、行かないことにしてます」
湊は、何と言えばいいのかわからなかった。
その晩、店を閉めたあと、湊は祭りの提灯の下を歩いた。
射的の屋台にライターがあった。焼きそばの鉄板の下でガスが燃えていた。りんご飴の屋台の裏で、店主が煙草に火をつけていた。
湊は、数えた。
二百メートルの通りで、十七あった。
この町で暮らすというのは、毎日、火の中を歩くということだった。
あの人は、それを十年やっている。
湊は、そのことを、それまで一度も考えたことがなかった。
夏が過ぎ、秋になった。
更紗は八月に実習が始まって、シフトが週二日に減った。実習明けに店に来る日は、顔が白かった。
あるとき、湊は思わず聞いた。
「大丈夫ですか。無理してませんか」
「してます」
更紗はあっさり答えた。
「でも、無理をしていないと、余計なことを考えるので」
「余計なこと」
「そうです」
更紗はレジの下を布巾で拭きながら、言った。
「三堀さんは、ありますか。考えたくないから、体を動かしてる、みたいなこと」
湊は、答えられなかった。
答えられないことが、答えになっていた。
更紗はそれ以上、聞かなかった。
この人は、他人の沈黙を尊重する人だ、と湊は思った。
自分がそうしてほしいからだ。
十月の終わり、朝の客足が切れた時間に、更紗が言った。
「三堀さん。私、就職先、決まりそうです」
「もう、決まるんですか」
「内定です。四月からです」
更紗はレジ台を拭きながら言った。
「都内の、大きい病院です」
「そうですか。おめでとうございます」
「まだ言わないでください。榊さんに、辞めるって言えてないので」
湊は笑った。
更紗は布巾を絞って、思い出したように付け足した。
「熱傷ユニットに行きたいんです」
「ねっしょう」
「やけどです」
湊は、成形していた生地から手を離した。
「希望は、出せるだけ出しました。第三希望まで書く欄があるんですけど、三つとも同じことを書きました」
「……三つとも」
「はい。そうすれば、いつか回してもらえると思って」
更紗は、平然と言った。
「何年かかっても、行きます」
湊は、何を言えばいいのかわからなかった。
この人は、火傷を負った人の傍らで働くことを、自分から選んだ。
夜眠れない人が。
祭りの火を一晩じゅう数えてしまう人が。
「なんで、そこなんですか」
湊は聞いた。
更紗は、少し考えた。
「いちばん、痛いところだからです」
「……」
「私、他のところに行っても、たぶんだめなんです」
彼女は言った。
「内科でも外科でも、どこにいても、頭の中では火傷のことを考えてるので。だったら、そこにいたほうが、まだ役に立つと思って」
湊は、うなずくことしかできなかった。
「変ですか」
「いえ」
「変だって言われました。学校の先生に」
更紗は言った。
「あなたには重すぎるって」
「……」
「重いから行くんです、って言い返しました」
彼女は布巾を畳んで、棚に置いた。
「そしたら、先生、黙りました」
湊は、その横顔を見ていた。
この人は、逃げない。
自分は、十年逃げている。名前を変えて、生まれた町を消して、他人の前で嘘をついている。
同じ夜に人生を焼失した二人が、こんなにも違う方向に走っている。
湊は、そのことを恥じた。
恥じながら、同時に、この人のそばにいたいと思った。
その二つが同時にあることが、湊にはどうしようもなかった。
十二月になった。
商店街に電飾がついた。パン屋にはシュトーレンの季節が来て、榊は毎年これを大量に作る。生地に洋酒漬けの果物を練り込み、焼いて、バターを塗って、砂糖をまぶす。何百本と作る。
十二月十四日は、土曜日だった。
湊はその日、朝から手が止まりがちだった。
毎年、この日はそうだった。何をしていても、頭の隅で北の空が赤く燃えている。
更紗は、その日のシフトに入っていた。
朝から、いつもと同じだった。パンを並べ、レジを打ち、客に「ありがとうございました」と言った。
閉店後、榊が先に帰った。
湊は翌日の仕込みをしていた。更紗が、なぜか帰らずに、店のカウンターの椅子に座っていた。
「戸倉さん、上がっていいですよ」
「はい」
更紗は動かなかった。
湊は生地を計りながら、時々ちらりと目をやった。
更紗は、両手を膝の上に置いて、じっと店の窓を見ていた。ガラスに電飾の赤や緑が映っていた。
やがて、彼女が言った。
「三堀さん」
「はい」
「今日、十二月十四日なんです」
湊の手が止まった。
更紗は窓を見たままだった。
「十年前の今日、私の家が燃えました」
厨房の換気扇が回る音だけがしていた。
「火事?」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
「放火です」
更紗は言った。
「父の会社の従業員が、父を殺して、火をつけました。母と、妹が、二階で寝ていて、逃げられませんでした」
湊は、粉の袋を握っていた。指が白くなっていた。
「妹は七歳でした」
更紗は続けた。
「私はその日、おばあちゃんの家に泊まっていたんです。前の日にちょっと母と喧嘩して、意地を張って。それで、たまたま」
湊は何か言わなければならなかった。
何も言えなかった。
「私だけ、たまたま生き残りました」
更紗は初めて、湊のほうを向いた。
その顔は泣いていなかった。
「ごめんなさい。急にこんな話」
「いえ」
「誰かに一度、普通に言ってみたかったんです。深刻な顔をされないで」
「……深刻な顔、してますよ」
更紗は少しだけ、口の端を動かした。笑ったのかもしれない。
「してますね」
湊は、粉の袋を台に置いた。
手が震えていて、置いた拍子に粉が舞った。白い粉が、電飾の光の中でゆっくり落ちていった。
「その人は」
湊は聞いた。聞いてはいけない、と思いながら、口が動いていた。
「どうなったんですか」
「無期懲役です」
「……」
「まだ生きてます。刑務所で」
更紗は椅子から立ち上がって、コートを着た。
「あの人には、家族がいたそうです」
湊の心臓が、一度、大きく打った。
「奥さんと、子どもが二人」
更紗はマフラーを巻きながら言った。
「事件のあと、うちに謝りに来ました。おばあちゃんの家に」
湊は動けなかった。
「私、見てました。廊下から」
湊の視界の端が、暗くなった。
「男の子がいました。中学生くらいの」
更紗は、そこで言葉を切った。
そして、湊のほうを見た。
まっすぐ、正面から。
その目が何を見ているのか、湊にはわからなかった。
「……その子のこと、私、長いあいだ思い出せなかったんです。顔も覚えてなかった」
更紗は、鞄を肩にかけた。
「でも最近、たまに思い出すんです」
「……なんで」
「わかりません」
更紗は扉のノブに手をかけた。
「あの子は、いま、どうしてるんだろうって」
鈴が鳴った。
冷たい風が入ってきて、台の上の粉を舞い上げた。
「お先に失礼します。おつかれさまでした」
扉が閉まった。
湊は、そのままの姿勢で、十分ほど動かなかった。
やがて膝が折れて、床にしゃがみ込んだ。
厨房のタイルは冷たかった。
言わなければならない、と思った。
いま、追いかけて、あの人を捕まえて、言わなければならない。
その男は、おれです。
あなたのお母さんと妹さんを殺した男の、息子です。
湊は立ち上がった。
扉まで、三歩だった。
三歩が、動けなかった。
言えば、この人はここからいなくなる。
言えば、二度と会えない。
その考えが浮かんだ瞬間、湊は自分の中に、想像したこともないほど醜いものがあるのを見た。
自分は、この人を失いたくない。
罪悪感ではなかった。同情でもなかった。償いでもなかった。
好きなのだ、と思った。
二十五歳になって、生まれて初めて、湊は誰かをそういうふうに思った。
よりによって、この人を。
湊は扉に額をつけて、長いこと、そこに立っていた。
ガラスの向こうで、商店街の電飾が、赤と緑に瞬いていた。
あの夜の空の色に、少しだけ似ていた。