燠火(おきび)

第五章 嘘の季節

 更紗は二〇一四年の三月にエトワを辞めた。
 国家試験に受かって、四月から都内の総合病院に勤めることになったからだ。
 最後の日、榊が餞別に大きなパン・ド・カンパーニュを持たせた。
「持ち歩くと肩が凝るぞ」
「わかってて渡してますよね」
「当たり前だ」
 更紗は珍しく笑った。
 店を出ていくとき、更紗は湊のほうを見て、「お世話になりました」と頭を下げた。
 それきり、もう会わないだろうと湊は思った。
 思ったのは、そう思うことにしたかったからだ。
 四月の第二週の朝、更紗は客として現れた。
 スーツを着て、大きな鞄を持って、開店直後の店に入ってきた。
「バゲット一本と、クロワッサン二つください」
「……夜勤明けですか」
「研修中です。まだ夜勤なんてさせてもらえません」
 更紗はそれから、週に二、三度、朝に来るようになった。
 いつも同じ時間だった。六時五十五分。開店の五分前。湊はいつのまにか、その時間に窯の前を離れて、レジのそばにいるようになった。
 榊が、あるとき言った。
「おまえ、あの子と付き合ってんのか」
「違います」
「じゃあ、なんであの子が来る日は焼き色が浅いんだ」
 湊は答えられなかった。
 夏の初め、更紗が言った。
「三堀さん、明日、休みですよね」
「はい」
「私も休みです」
 湊は袋にパンを詰める手を止めた。
「ご飯とか、食べませんか」
 湊は、その日のうちに三回、断ろうと思った。
 断らなかった。
 二人が最初に行ったのは、井の頭公園だった。
 特に理由はなかった。更紗が「歩けるところがいい」と言ったからだ。
 六月の池は緑色で、生ぬるい風が吹いていた。ボートに乗ると別れるという言い伝えを更紗が口にして、二人は乗らなかった。
 ベンチで、湊が持ってきたサンドイッチを食べた。
「おいしい」
「ありがとうございます」
「三堀さんって、いつからパン屋なんですか」
「十八のときから」
「若い」
「他にできることがなかったんです」
 更紗はしばらく黙って、それから言った。
「私も、他にできることがなかったから看護師になりました」
「そうなんですか」
「本当は、火傷の人を診る科に行きたいんです。熱傷ユニットっていうんですけど」
「……」
「まだ言ってるだけです。三年目にならないと希望も出せないので」
 更紗は膝の上でパンの包み紙を畳んでいた。
「変ですよね。火事で家族が死んだのに、火傷の人のところに行きたいなんて」
「変じゃないです」
 湊は言った。
「変じゃない、と思います」
「どうしてそう思うんですか」
 湊は池を見ていた。
「……おれの知ってるじいさんが、火は毎日触ってないと言うことを聞かなくなるって言ってました」
 更紗が、湊のほうを向いた。
「怖いから、毎日触るんだって」
 更紗は少し目を伏せて、それから小さくうなずいた。
「そうかもしれません」
 その日の帰り、駅の改札の手前で、更紗が言った。
「三堀さん」
「はい」
「私、あなたのこと、たぶん好きです」
 夕方の人混みの中だった。誰も二人を見ていなかった。
「でも、私と付き合っても、たぶんいいことないですよ」
 更紗は前を向いたまま言った。
「私、家族がいません。夜、あまり眠れません。急に黙り込むことがあります。それと、たぶん一生、どこかで、なんで自分だけ生きてるんだろうって思いながら生き続けます」
 湊は、口の中が乾いていた。
「それでもいいなら」
 言え、と湊は思った。
 いま言え。おまえは誰の息子だ。
 湊は言った。
「いいです」
 それが、湊の人生でいちばん大きな嘘だった。
 二人は付き合いはじめた。
 湊は二十六、更紗は二十一だった。
 最初の一年は、嘘をつくのが苦しかった。
 二年目には、苦しさに慣れた。
 三年目には、忘れている時間のほうが長くなった。
 それが、いちばん怖かった。
 更紗と一緒にいる時間、湊は幸福だった。
 どうしようもなく幸福だった。
 更紗はよく食べた。見かけによらず甘いものが好きで、あんこには目がなかった。休みの日は昼まで寝ていて、起きてくるとまず「おなかすいた」と言った。
 笑わない人だと思っていたが、そんなことはなかった。二人きりのとき、更紗はよく笑った。冗談を言うのが下手で、言ってから自分で笑った。
 その顔を見るたび、湊は胸の奥を細い針で刺されるような気がした。
 この笑い方を、この人は誰から教わったのだろう。
 母親からだろうか。
 その母親は、寝ているあいだに焼け死んだ。
 最初の正月、二人は湊の部屋で過ごした。
 更紗は元日から仕事だったので、二日の夜に、遅い年越しのような食事をした。
 湊が餅を焼き、雑煮を作った。更紗は「お雑煮って、地方で全然違うんですね」と言って、汁を飲んだ。
「うちのは、群馬のです」
 湊は言った。言ってから、しまったと思った。
「群馬なんですか」
「……母が、そうなんです」
「そうなんですか。私も群馬です」
 更紗はそう言って、餅を噛んだ。
「どこですか」
「柏尾ってところです。知らないですよね」
 湊は、汁をすくう手を止めなかった。止めたら終わる。
「聞いたことは、あります」
「工場ばっかりの町です」
 更紗は言った。
「もう、十年以上帰ってません」
「……」
「帰る家がないので」
 彼女は椀を置いた。
「おばあちゃんは隣の市なので、そっちには行きます。でも、柏尾には行きません。手前の駅で降りて、バスに乗って、迂回します」
「遠回りですね」
「三十分よけいにかかります」
 更紗は言った。
「三十分で済むなら、安いです」
 湊は、雑煮を口に運んだ。
 味がしなかった。
「安西さんのお母さんは」
 更紗が言った。
「あ、じゃなくて、三堀さんの」
 湊の手から、箸が落ちた。
 更紗が「あ」と言って、拾おうとした。
「すみません、私、なんで安西って言ったんだろう」
 彼女は首をかしげた。
「知り合いにいましたっけ、そんな人」
 湊は、箸を拾った。
「いえ」
 彼は言った。
「聞いたことないです」
 その夜、湊は更紗が眠ったあと、台所で吐いた。
 二〇一五年の秋、湊は妹の茜に更紗を紹介した。
 紹介せざるをえなかった。茜が「兄ちゃん、彼女できたでしょ」と勘づいて、しつこかったからだ。
 三人で焼肉を食べた。
 湊は前日から吐きそうだった。茜が余計なことを言わないか。柏尾の話が出ないか。
 茜は、二十歳になっていた。
 高校を出て、都内の食品会社の事務をしていた。母と離れて、ひとり暮らしをしていた。よくしゃべり、よく笑い、更紗を「更紗さん」と呼んで、すぐに懐いた。
「兄ちゃんね、無口でしょ。昔からああなの。中学のときとか、一日五回くらいしかしゃべらなかった」
「わかります。うちの店にいたときも、そうでした」
「でしょ? うちのお父さんに似たんだと思う」
 湊の箸が止まった。
「お父さんって、どんな人だったんですか」
 更紗が聞いた。
 何気ない質問だった。世の中でいちばん自然な質問だった。
「あんまり覚えてない」
 茜は肉を裏返しながら、あっさり言った。
「わたしが小さいころに、いなくなっちゃったから」
「そう、なんですね」
「うん。だから、写真もないの」
 茜は笑った。
 その笑い方が、湊の知っている茜の笑い方ではなかった。
 薄い、剥がれかけたシールみたいな笑い方だった。
 帰り道、更紗が「いい妹さんですね」と言った。
「ええ」
「三堀さん、妹さんのこと大事にしてますよね。見てればわかります」
 湊は、「そうですか」としか言えなかった。
 二〇一六年の春、母が体を壊した。
 パートを三つ掛け持ちしていたのを、二つに減らした。湊が仕送りを増やした。
 久しぶりに川越の家に行くと、母は前より小さくなっていた。
 台所の隅に、封筒の束が輪ゴムでまとめられているのが見えた。
「それ、なに」
 母は慌てて、それを引き出しに押し込んだ。
「なんでもないよ」
「なんでもないなら、隠さなくていいだろ」
「なんでもないの」
 母の声が硬かったので、湊はそれ以上聞かなかった。
 聞かなかったことを、三年後に後悔した。
 帰りぎわ、玄関で母が言った。
「湊。あんた、いい人と付き合ってるんだって? 茜から聞いたよ」
「うん」
「どんな人」
「……看護師さん」
「そう。よかったねえ」
 母は嬉しそうだった。
 その顔を見て、湊は初めて、自分が母にまで嘘をついていることに気づいた。
 二〇一六年の暮れ、湊のところに一通の手紙が来た。
 差出人は、相良律という名前だった。知らない名前だった。
 封を切ると、名刺が入っていた。フリーライター、と書いてあった。
 手紙は丁寧な文面だった。
 自分は二〇〇三年当時、上毛の地方紙で柏尾の事件を取材していた。現在は、重大事件の加害者家族について長期の取材を続けている。三堀さん――かつての安西湊さんに、一度お目にかかりたい。
 湊は手紙を三度読んで、破いた。
 破いてから、破片を捨てられずに、ビニール袋に入れて引き出しにしまった。
 二か月後、店の前で待ち伏せされた。
 四十代半ばの女だった。細くて、背が高くて、荷物が多かった。
「三堀湊さんですね。相良です」
「話すことはありません」
「五分でいいんです」
「ありません」
 湊は自転車を押して歩きだした。相良はついてきた。
「あなたのお父さんが、なぜ火をつけたか。ご存じですか」
 湊は足を止めた。
「知りません」
「私も知りません」
 相良は言った。
「十三年調べて、まだわかりません」
 湊は振り返った。
「なんで、そんなことを調べてるんですか」
「仕事です」
「本当ですか」
 相良は少しのあいだ黙った。
「……本当じゃないです」
 彼女は言った。
「私、当時、記者としてあなたの家の前に立っていました」
 湊の体が、こわばった。
「インターホンを押した記者の一人です。あなたの妹さんの部屋の窓が割れた日、私はその道にいました。石を投げたのは私じゃありません。でも、あの人だかりを作ったのは、私たちです」
 湊は何も言わなかった。
「あなたたちが引っ越したあと、私はあの家の前に行きました。ドアに書かれた字が、まだ薄く残ってました」
 相良は、道の脇に荷物を下ろした。
「私は自分がやったことの結末を見ないまま、次の事件に行きました。それから十三年、ずっと引っかかってます」
「それは、あなたの問題です」
 湊は言った。
「おれには、関係ない」
 自分でも驚くほど冷たい声が出た。
「そうです」
 相良は素直にうなずいた。
「あなたには関係ない。だから、無理には頼みません。ただ、名刺だけ持っていてください」
 湊は名刺を受け取らなかった。
 相良はそれを自転車の前かごに入れて、頭を下げて去った。
 湊は五十メートル進んでから、その名刺を拾って、ポケットに入れた。
 捨てられなかった。
 二〇一七年、更紗は熱傷ユニットのある病棟に異動した。
 仕事の話を、更紗はあまりしなかった。
 ただ、あるとき、疲れきった顔で湊の部屋に来て、こう言った。
「今日、七歳の子が入ってきた」
 湊は何も言えなかった。
「花火。手持ちの。服に燃え移ったって」
 更紗はソファに座って、膝を抱えていた。
「助かる。大丈夫。全部治る。……ちゃんと、治るの」
「うん」
「治るのに、なんで泣きそうなんだろう」
 湊は、更紗の隣に座った。
 肩に手を置いた。
 その手が、自分の手ではないような気がした。この手は、あの男の血が流れている手だ。この人の妹を焼いた男の。
 更紗は湊の肩に頭を預けて、そのまま眠った。
 湊は、夜が明けるまで動かなかった。
 その年の秋、茜と更紗が二人で買い物に行った。
 湊は誘われなかった。茜が「兄ちゃんは邪魔」と言った。
 夕方、更紗が紙袋を三つ提げて帰ってきた。
「茜さん、買い物が速いです」
「そうですか」
「私が一枚見てるあいだに、三枚決めてしまう」
 更紗は靴を脱ぎながら笑った。
「あと、よく食べます」
 その夜、茜から湊にメッセージが来た。
 ――更紗さん、いい人だね。兄ちゃん、ちゃんとしなよ。
 その次に、もう一通来た。
 ――でもさ、あの人、笑うとき、目が笑ってないときがあるよ。気づいてる?
 湊は、返事をしなかった。
 気づいていた。
 気づいていて、その理由を知っている人間は、この世に自分しかいなかった。
 十一月の、寒い晩だった。
 二人はアパートの床に座って、鍋を食べていた。
 湊が煮て、更紗が具を入れていた。白菜の芯を入れる順番のことで、しばらく言い合いになって、どうでもいいことなので笑って終わった。
 鍋が減ってきたころ、更紗が言った。
「三堀さん」
「はい」
「子どもって、どう思いますか」
 湊は、レンゲを持ったまま止まった。
「どう、って」
「欲しいと思いますか」
 更紗は、鍋の湯気の向こうにいた。
 顔がよく見えなかった。
「……考えたこと、なかったです」
「本当ですか」
「本当です」
 これは、嘘ではなかった。
 湊は、考えたことがなかった。考えないようにしていた、というのが正解だった。
 考えれば、必ず同じところに行き着くからだ。
 自分の中に流れているものが、その子にも流れる。
 そんなことがあってはいけない。
 湊は、そう思っていた。
 根拠のない考えだと、わかっていた。血で人が決まるなら、世の中はもっと単純だ。頭ではわかっていた。
 わかっていても、体が拒んだ。
「更紗さんは」
 湊は聞き返した。
「欲しいですか」
 更紗は、しばらく箸を持ったまま黙っていた。
「わかりません」
 彼女は言った。
「怖いんです」
「何が」
「自分がその子より先に死んだら、その子はどうなるんだろうって」
 更紗は言った。
「私は、十歳で、家に誰もいなくなりました」
「……」
「おばあちゃんがいたから、生きられました。でも、もしいなかったらって、いまでも考えます」
 彼女は箸を置いた。
「だから、産むなら、私は、ものすごく長生きしないといけないんです」
 湊は、その言葉に打たれた。
 この人は、生まれてくる子どもの話をするときに、まず自分の死に方を考える。
 自分は、まず血の話をする。
 二人はまったく違うものを恐れている。
「三堀さん」
「はい」
「いま、何か考えてましたよね」
 更紗が言った。
「顔が、遠くにありました」
 湊は、鍋の中を見た。
 白菜が、くたくたに煮えていた。
「……ちょっと、寒くなってきましたね」
 湊は言った。
 更紗は、それ以上聞かなかった。
 この人は、他人の沈黙を尊重する人だ。
 その優しさに、湊は三年半、甘えていた。
 二〇一七年の十二月、湊は指輪を買った。
 新宿の、あまり高くない店だった。それでも三か月分の貯金が消えた。
 店員に「プロポーズですか」と聞かれて、湊は「はい」と答えた。
 答えた瞬間に、自分が何をしているのかわからなくなった。
 箱を鞄に入れて、電車に乗った。窓に映る自分の顔を見た。
 父に似た、四角い顎の顔だった。
 部屋に帰って、湊は箱を押し入れの奥にしまった。
 それを、四回出した。
 一回目は、買ってすぐの、その年の暮れだった。
 更紗が「来年は、どんな年になりますかね」と言った。
 湊は「いい年になるといいですね」と答えた。
 二回目は、更紗の誕生日の前の晩だった。翌朝、更紗が「今日、誕生日ですけど、なんか忘れてません?」と笑って言い、湊は「ケーキ買ってきます」と答えた。
 三回目は、二人で初めて泊まりで旅行に行った、伊豆の宿の部屋でだった。夜、更紗が風呂に行っているあいだに鞄から出して、戻ってくる足音がして、しまった。
 四回目は、更紗が三十八度の熱を出して寝ていた日曜だった。額に濡らしたタオルを置いて、寝顔を見て、それでやめた。
 箱は、押し入れの奥に戻った。
 湊はそれを、二〇一八年の十一月に、更紗が出ていったあとで開けた。
 中の指輪は、少しも曇っていなかった。
 二〇一八年の三月、茜が婚約した。
 相手は岸辺卓也といって、茜の会社の三つ上の営業だった。
 湊は一度、三人で会った。
 人のよさそうな男だった。よく笑い、よく食べ、茜のことを大事にしているのが見ていてわかった。実家は静岡で、両親と祖母と、犬が二匹いるという。
「お兄さん、パン屋さんなんですよね。今度、食べに行っていいですか」
「どうぞ」
「茜さん、お兄さんのパンが世界一だって言うんですよ」
 茜が「言ってない」と横から突っ込んで、笑った。
 帰り道、駅までの短い距離を、湊と茜は並んで歩いた。
「いい人だな」
「うん」
「よかったな」
 茜は少しのあいだ黙って、それから言った。
「兄ちゃん」
「なに」
「わたし、まだ言ってない」
 湊は足を止めなかった。
「言わなきゃ、だめかな」
 湊は答えられなかった。
 答えられるわけがなかった。自分も言っていない。四年近く、同じ布団で寝ている人に、言っていない。
「……おれにはわからない」
「そうだよね」
 茜は前を向いたまま歩いていた。
「向こうのご両親、いい人なんだよ。おばあちゃんもいて、静岡の家、庭が広くて。犬が二匹いて」
「うん」
「そういうところに、わたしが行っていいのかな」
 湊は、妹の横顔を見た。
 二十二歳の顔だった。
「いいに決まってるだろ」
 湊は言った。
 自分でも、嘘だとわかっていた。
 その年の四月、湊と更紗は一緒に住みはじめた。
 中野の、二階建てアパートの一階だった。日当たりが悪く、家賃が安く、台所が広かった。
 引っ越しの日、更紗は段ボールを開けながら、上機嫌だった。
「あ、これ持ってきちゃった。捨てようと思ってたのに」
 更紗が取り出したのは、古い楽譜だった。
 バイエルの、初級の教本。表紙が茶色く変色していた。
「うち、ピアノ教室やってたんです」
 更紗は言った。
「母が。うちの、一階で」
 湊は段ボールのガムテープを剥がす手を止めなかった。止めれば、気づかれる。
「妹が、最後に習ってた曲が、これなんです」
 更紗はページをめくった。
 開いたページを、湊のほうに向けた。
 単純な音符の並びと、上に平仮名で歌詞が振ってあった。
 メリーさんの ひつじ。
「発表会でやるはずだったんですけどね」
 更紗はそれを閉じて、本棚の隅に立てかけた。
「捨てられないんですよ」
 湊は、床に膝をついたまま、動けなかった。
 窓の外で、子どもが自転車のベルを鳴らして通り過ぎた。
 湊はそのとき、自分の人生が、これ以上ないほど整った形をしているのを感じた。
 好きな人がいて、一緒に住む部屋があって、妹が結婚する。
 毎朝、火を入れる窯がある。
 全部、嘘の上に建っていた。
 嘘の上に建った家は、建っているあいだは、本物の家と見分けがつかない。
 その五か月後に、それは崩れた。
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