燠火(おきび)
第六章 二〇一八年九月
きっかけは、まったく別の事件だった。
二〇一八年の九月三日、愛知県の金属加工工場で、元従業員の男が社長を刺殺し、工場に火を放った。逃げ遅れた事務員一人が死亡した。
テレビは三日間、その事件を報じた。
四日目に、ワイドショーが「過去の類似事件」を並べはじめた。
柏尾鉄工放火殺人事件。二〇〇三年。死者三名。犯人は無期懲役。
画面に、焼け落ちた工場の写真が映った。
湊は店の休憩室で、それを見た。
十五年前と同じ写真だった。同じ角度から撮られた、黒い骨組みだけの建物。
その画面の隅に、「元従業員・安西邦夫受刑者(当時四十六)」という文字が出た。
湊はテレビを消した。
手が震えて、リモコンをうまく置けなかった。
その週の週末に、ネットの記事が出た。
まとめサイトだった。柏尾事件を「動機不明の凶行」として面白おかしく再構成した記事で、当時の報道写真と、匿名掲示板の書き込みが引用されていた。
湊はそれを見なかった。
見たのは、茜だった。
九月十日の夜、茜から電話がかかってきた。
「兄ちゃん」
声で、すぐにわかった。
「どうした」
「わたしの名前が出てる」
湊はアパートの外に出た。更紗は夜勤で家にいなかった。
「どこに」
「掲示板。安西邦夫の娘は名前を変えて都内で働いてるって。会社の名前も出てる」
「本名は」
「出てる」
茜の声は、不思議なほど落ち着いていた。落ち着きすぎていた。
「三堀茜って。あと、インスタも」
「インスタ?」
「わたし、指輪の写真あげたの。八月に」
電話の向こうで、茜が息を吸った。
「その写真の、後ろに、卓也くんが写ってて」
湊は目を閉じた。
「なんで、そんなことで」
「顔と、名前と、指輪のブランドと、投稿した場所と。ぜんぶ、つなげたら、わかるんだって」
茜は言った。
「わたし、知らなかった。そんなの、知らなかった」
「消せ」
「もう消した。でも、保存されてる」
湊は電柱に手をついた。
「明日、そっち行く」
「来なくていい」
「行く」
「来なくていいって!」
茜が初めて声を荒げた。
「兄ちゃんが来たら、兄ちゃんも一緒に写るじゃん。兄ちゃんの店の場所も、もう書かれてるんだよ」
湊は、言葉を失った。
電話の向こうで、茜が泣きはじめた。
二十三歳の妹が、子どもみたいに泣いていた。
翌週から、店に電話がかかってくるようになった。
最初は無言だった。切ると、またかかってきた。
三日目に、声が入った。
「人殺しの子どもがパン焼いてんだって?」
湊は黙って切った。
四日目、榊が湊を呼んだ。
休憩室に、印刷した紙が置いてあった。掲示板のスクリーンショットだった。
高円寺のブーランジェリー・エトワ。三堀湊。安西邦夫の長男。
店の外観の写真まで貼られていた。
「事実か」
榊が聞いた。
湊は、うなずいた。
「……はい」
榊は椅子に座って、煙草をくわえた。火はつけなかった。
長いこと、そうしていた。
「おまえ、なんでうちに来た」
「パンを焼きたかったからです」
「それだけか」
「それだけです」
榊は煙草を箱に戻した。
「おれはな、湊」
「はい」
「おまえのことは、うちで七年見てきた。おまえの親父のことは、何も知らん」
「……」
「だが、客が来なくなったら、おれは判断を変える」
湊は頭を下げた。
「わかってます」
「わかってねえよ」
榊は言った。
「わかってたら、そんな顔しねえ」
その週、店の空気が変わった。
目に見えるほどではない。
売上は、二割ほど落ちた。二割は、天気でも動く数字だ。榊は何も言わなかった。
だが、湊にはわかった。
常連の何人かが、来なくなった。
毎朝クロワッサンを二つ買っていた、犬を連れた女の人。土曜にバゲットを買っていく、自転車の男。子どもを二人連れてくる、若い母親。
それぞれに事情があるのだろう。引っ越したのかもしれない。飽きたのかもしれない。
湊は、そう考えようとした。
考えようとしている自分に、いちばん腹が立った。
来なくなった人より、来る人のほうが、こたえた。
常連の一人が、レジで湊の顔をじっと見た。
二秒か、三秒だった。
それから、いつもと同じように「じゃあ、これで」と言って、金を払って出ていった。
その二秒が、湊の中に残った。
この人は知っている。知っていて、それでも買った。
それは親切なのか。憐れみなのか。確かめに来たのか。
わからないから、湊は何も返せなかった。
店の前に、若い男が二人立っていた日もあった。
スマートフォンで看板を撮っていた。撮って、笑って、行った。
パンは買わなかった。
湊はその日、閉店してから、看板を布で拭いた。
拭く必要はなかった。何もついていなかった。
拭かずにいられなかった。
母に電話をしたのは、九月十五日の夜だった。
三回、コールが鳴った。
「はい、三堀です」
母の声は、いつもの声だった。
湊は、そこで詰まった。
テレビを見ているだろうか。ネットは、母は使わない。ガラケーのままだ。近所づきあいもない。
この人は、まだ知らないかもしれない。
「もしもし? 湊?」
「うん」
「どうしたの、こんな時間に」
「……いや」
湊は、言葉を探した。
「元気かなと思って」
「元気だよ。あんたこそ、ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
「パンばっかりでしょ」
「パン屋だよ」
母が笑った。
その笑い声を聞いて、湊は言えなくなった。
この人は、十五年かけて、ここまで戻ってきた。
笑えるところまで、戻ってきた。
それを、自分がまた壊すのか。
「湊?」
「うん」
「なんか、あった?」
母は、勘のいい人だった。昔から、そうだった。
「なんもない」
湊は言った。
「ほんとに?」
「ほんとに」
少しの沈黙があった。
「そう。ならいいけど」
母は言った。
「なんかあったら、言うんだよ」
「うん」
「言わないと、わかんないんだからね」
湊は、受話器を握った。
「うん」
「じゃあね」
電話が切れた。
湊は、切れた電話をしばらく耳に当てていた。
母には、言えなかった。
その夜、湊は初めて、その掲示板を開いた。
開くまでに、一時間かかった。
スレッドは、二百近く伸びていた。
最初のほうは、事件そのものの話だった。当時の報道の引用。判決文の抜粋。犯人がなぜ火をつけたのかという議論。
途中から、変わった。
――この犯人、家族いたよな
――娘が都内にいるらしい
――名字変えてる。三堀
――働いてるとこ判明
――兄貴もいる。高円寺でパン屋
――は? こういう奴が焼いたパン食いたくねえわ
――親の罪は子の罪じゃないだろ
――でも自分の子どもには近づけたくない
――それが普通の感覚
――結婚しようとしてるらしいぞ 相手かわいそう
――知らずに結婚とか詐欺だろ
――遺族の気持ち考えろよ
湊は、そこまで読んで、画面を閉じた。
閉じてから、もう一度開いた。
最後まで読んだ。
最後のほうに、こういう書き込みがあった。
――俺、当時柏尾に住んでた。あの家の子ども知ってる。上の男の子、普通の子だった
その下に、返信がついていた。
――普通の子が普通に育って普通に生きてるのが問題なんだろ
――焼け死んだ七歳は普通に育てなかったんだが?
湊は、スマートフォンを机に置いた。
その通りだ、と思った。
反論する言葉が、一つも浮かばなかった。
三十歳になって、湊は初めて、自分が何者なのかを、他人の言葉ではっきりと知った。
自分は、生きているだけで、誰かを傷つける人間だ。
湊は、その日の夜、辞表の下書きを書いた。
書いて、破いた。三回書いて、三回破いた。
茜のほうが、早かった。
九月の二十日、静岡の岸辺家から連絡が来た。
電話をかけてきたのは、卓也の母親だった。
茜はその内容を、あとで湊に話した。淡々と、まるで他人の話をするように。
――お宅のご事情を、こちらでも知ることになりました。
――卓也から聞いたのではありません。近所の方が、教えてくださいました。
――こんな田舎ですから、みんな見てるんです。
――卓也には妹がいます。まだ独身です。
――主人の会社もあります。
――茜さん、あなたのせいではないのは、わかっています。
――でも、それとこれとは、別なんです。
茜は「はい」と「わかりました」しか言わなかったという。
その週の日曜、茜は静岡へ行った。
卓也が「一緒に行く」と言ったが、茜は一人で行った。
「あの人が謝る役になるのは、間違ってると思ったから」
あとで、茜はそう言った。
岸辺家は、駅からバスで二十分の、山の見える家だった。
庭が広く、犬が二匹いた。
茜は玄関に上がらなかった。上げてもらえなかったのではない。上がらなかった。
三和土に立って、深く頭を下げて、こう言った。
「今日まで、黙っていて申し訳ありませんでした」
卓也の母親は、正座して、それを受けた。
そして、こう言った。
「あなたは、いい子だと思います」
「ありがとうございます」
「だから、余計につらいんです」
茜は顔を上げなかった。
「あの子が、あなたを選んだのは、間違ってないと思います」
「はい」
「でも、うちには、うちの生活があるんです」
「はい」
「わかってください」
茜は、それに答えなかった。
答えなかった、と本人が言った。
「なんで答えなかったんだ」
湊が聞くと、茜は言った。
「わかりますって言ったら、嘘になるから」
卓也から茜に、最後の電話が来たのは十月の二日だった。
三十分、話したという。
卓也は泣いていたそうだ。
俺は関係ないと思ってる。茜のせいじゃない。母を説得する。時間がかかっても説得する。待っててくれ。
茜は、こう答えた。
「卓也くん、ありがとう。でも、わたしを選んだら、あなた、家族と縁が切れることになるよ」
卓也は「切れてもいい」と言った。
茜は言った。
「わたしね、家族が離れることが、どういうことか知ってるの」
それで、終わった。
十月七日の朝、湊は茜のアパートに行った。
前の晩、茜からメッセージが来ていた。
――兄ちゃん、いままでありがとう。
湊はそれを、夜勤明けの更紗の隣で眠っているときに見た。時刻は午前二時十四分。既読をつけて、すぐに電話をかけた。出なかった。三十回かけた。出なかった。
始発を待って、湊は中野から錦糸町まで行った。
アパートの二階の、いちばん奥の部屋だった。
鍵はかかっていた。合鍵は持っていなかった。湊はドアを叩き、名前を呼び、それから体当たりした。
三回目で、ドアの枠が壊れた。
部屋は暗かった。
カーテンが閉まっていて、電気が消えていた。
茜は、ベッドの脇の床に倒れていた。
空になった錠剤のシートが、六枚あった。
湊は救急車を呼んだ。呼びながら、妹の体を横向きにして、口の中に指を入れた。
茜の唇は、冷たかった。
でも息はあった。
浅く、遅く、しかしたしかに、息をしていた。
湊は、その顔に耳を近づけたまま、声を上げて泣いた。
救急隊が来るまでの八分間、ずっと泣いていた。
病院に運ばれて、胃洗浄をして、茜は一命を取り留めた。
湊は榊に電話をした。三日休ませてくださいと言うと、行ってこい、とだけ返ってきた。
三日間、意識が戻らなかった。
四日目の朝、茜は目を開けた。
湊が「茜」と呼ぶと、目玉だけが動いて、こちらを向いた。
声は出なかった。
母が川越から駆けつけたのは、その日の夕方だった。
母は病室に入ってきて、ベッドの茜を見て、それから床に膝をついた。
娘のベッドの脇で、膝をついて、額を床につけた。
誰に謝っているのかわからなかった。
湊は母の肩に手をかけて、起こそうとした。母は動かなかった。
「ごめんね」
母は言った。
「ごめんね、茜。ごめんね」
湊は、それを聞いていられなかった。
病室を出て、廊下の突き当たりの窓の前に立った。
外は夕方だった。西の空が、赤かった。
あの夜と同じ色だった。
しばらくして、母が病室から出てきた。
母は湊の隣に来て、同じ窓の外を見た。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
「湊」
「うん」
「あんた、九月に電話くれたね」
湊は、窓を見たままうなずいた。
「あのとき、なんもないって言ったね」
「……うん」
「あれ、嘘だったんだね」
湊は、答えられなかった。
母は、窓の桟に手を置いた。
その手の甲を、湊は見た。乾いて、荒れて、爪が短く切られていた。惣菜を詰める手だった。
「母さん、知ってたよ」
湊は、母のほうを向いた。
「九月の、たしか二十日ごろ」
母は、ゆっくりと言った。
「パートの、朝の休憩のときにね」
「……」
「同じ班の人が、携帯を見せてきたの」
母は、それを、天気の話でもするように言った。
「これ、安西さんじゃないの、って」
湊は、息が止まった。
「わたし、安西って名乗ったこと、一度もないのよ。三堀で入ったんだから」
母は言った。
「でもね、あの人、わたしの顔を見て言ったの。似てるわね、奥さんに、って」
「……母さん」
「新聞に、昔、載ってたんだって。事件のあとの、記者会見の写真。わたし、顔を隠して出たんだけどね。斜めから撮られてた」
母は、少しだけ笑った。
笑ってから、口を閉じた。
「その日でやめたの、あの店」
「え」
「昼に、店長さんに言って、やめた。十一年いたけどね」
「……いまは」
「バスで三つ先の店に入り直した。同じ仕事だよ。惣菜」
母は言った。
「時給は四十円下がった」
「なんで言わなかった」
「あんたが言わなかったからよ」
母は言った。
「あんたが、なんもないって言うんだから、母さんも、なんもないことにしようと思って」
湊は、窓に手をついた。
手のひらが、ガラスに触れて、白く曇った。
「母さん」
「うん」
「ごめん」
「謝んなくていい」
母は言った。
「あんたが黙ったのは、母さんに笑っててほしかったからでしょう」
「……」
「わたしが黙ったのも、同じ」
母は窓の外を見た。
赤い空が、少しずつ紫に変わっていた。
「でもね、湊」
「うん」
「そういうのを、二人でやってると、こうなるんだよ」
母は、病室のほうを見た。
扉は閉まっていた。
「茜だけが、一人で抱え込んでいたんだ」
湊は、その場に立っていられなかった。
膝が笑って、廊下の壁に背中をつけた。
母は、そんな湊を見なかった。ずっと窓の外を見ていた。
「母さん、あの子に、なんて言えばいいかわかんない」
「……」
「十五年、わかんないままだった」
母は、そこで初めて、声を詰まらせた。
「なんて言えばよかったの」
湊は、答えられなかった。
二人は、そのまま日が落ちるまで、廊下に立っていた。
看護師が二度、脇を通っていった。
誰も、二人に声をかけなかった。
茜が話せるようになったのは、一週間後だった。
最初に言ったのは、こうだった。
「兄ちゃん、ごめん。ドア、壊しちゃったんでしょ」
「うん」
「大家さんに、怒られた?」
「怒られてない」
茜は少し笑って、それから天井を見た。
「わたしね」
「うん」
「死のうと思ったんじゃないんだよ」
「……」
「ただ、朝が来るのが嫌だったの」
湊は、茜の手を握った。
小さい手だった。八歳のときから、あまり大きくなっていないような気がした。
「明日になったら、また、みんながわたしの名前を知ってる世界になるでしょ。それが、嫌だっただけ」
「うん」
「兄ちゃん」
「なに」
茜は、湊のほうを見た。
「わたし、なんにも悪いことしてないのに、なんでかな」
湊は、答えられなかった。
「八歳のときに、ピアノ習ってただけなのに」
茜の目から、涙が横に流れて、枕に落ちた。
「しおりちゃんと、おなじ教室で、ピアノ習ってただけなのに」
湊は、妹の名前を初めて、正しく理解した。
安西茜。
名前を変えても、変わらないもののことを。
茜が入院しているあいだ、湊はアパートの片付けに通った。
壊れたドアの枠を、大家に頭を下げて、自分で直した。金物屋で材料を買って、二日かけて、素人なりに直した。
部屋の中は、驚くほど片付いていた。
流しに洗い物が一つもなかった。ゴミ袋は口を縛って、玄関に揃えて置いてあった。洗濯物は畳んで、引き出しに入っていた。
この部屋の主は、出ていくつもりで、掃除をしたのだ。
湊は、そのことに気づいて、しばらく動けなかった。
押し入れを開けると、段ボールが一つあった。
中に、小さなキーボードが入っていた。
十五年前、母が買った安物だ。鍵盤が六十一しかない、電池で動くやつだ。
湊は、それを取り出した。
電池は入っていなかった。
鍵盤を押しても、音は出なかった。
湊は、無音の鍵盤に指を置いた。
どの音がどこにあるのかも知らない。
ただ、白い鍵の上に指を置いて、しばらくそうしていた。
箱の底に、紙が一枚あった。
畳まれた、コピー用紙だった。
開くと、手書きの五線譜だった。子どもの字で、音符が書き写してある。
いちばん上に、平仮名で書いてあった。
めりーさんの ひつじ
三小節目まで書いて、そこで止まっていた。
湊は、その紙を、元のように畳んだ。
畳んで、箱に戻して、押し入れを閉めた。
更紗には、「妹が過労で倒れた」と言った。
嘘だった。
更紗は心配して、「お見舞いに行きたい」と言った。
湊は断った。
「まだ、面会謝絶なんだ」
これも嘘だった。
更紗は、少し傷ついた顔をした。それをすぐに消して、「わかりました」と言った。
その夜、湊は眠れなかった。
隣で更紗が寝息を立てていた。
湊は暗い天井を見ながら、数えた。
この人につきはじめた嘘が、いくつになったか。
数えきれなかった。
嘘というのは、二つ目からは自動的に増えていく。一つを守るために二つが必要になり、二つを守るために四つが必要になる。
いま、湊の家の下には、嘘の柱が何十本も立っていた。
その柱の一本を抜いたら、全部が落ちる。
湊は、更紗の寝顔を見た。
この人は、何も知らない。
この人は、自分の家族を殺した男の息子と、四年、同じ布団で寝ている。
その事実の醜さに、湊は吐きそうになった。
布団を出て、台所に立った。
水を飲もうとして、コップを取り落とした。
割れた。
物音で更紗が起きて、寝室から出てきた。
「どうしたんですか」
「割った」
「けがは」
「ない」
更紗はしゃがんで、破片を拾いはじめた。
「危ないから、おれがやる」
「私のほうが、手慣れてます」
更紗は破片を一つずつ、丁寧に集めた。
小さな破片まで、光にかざして探した。
湊は、それを見ていた。
この人はいつも、こうやって誰かの落としたものを拾う。
病院でも、そうしているのだろう。
湊は、そのとき決めた。
言おう。
全部言って、この人を、この嘘の家から出そう。
そう決めた。
だが、湊が口を開くより先に、その機会は向こうから来た。
十一月の、寒い日曜日の午後だった。
インターホンが鳴って、更紗が出た。
湊は台所にいた。
扉の向こうで、女の声がした。
「戸倉更紗さんですね。フリーライターの相良と申します」
湊の手から、包丁が落ちた。
二〇一八年の九月三日、愛知県の金属加工工場で、元従業員の男が社長を刺殺し、工場に火を放った。逃げ遅れた事務員一人が死亡した。
テレビは三日間、その事件を報じた。
四日目に、ワイドショーが「過去の類似事件」を並べはじめた。
柏尾鉄工放火殺人事件。二〇〇三年。死者三名。犯人は無期懲役。
画面に、焼け落ちた工場の写真が映った。
湊は店の休憩室で、それを見た。
十五年前と同じ写真だった。同じ角度から撮られた、黒い骨組みだけの建物。
その画面の隅に、「元従業員・安西邦夫受刑者(当時四十六)」という文字が出た。
湊はテレビを消した。
手が震えて、リモコンをうまく置けなかった。
その週の週末に、ネットの記事が出た。
まとめサイトだった。柏尾事件を「動機不明の凶行」として面白おかしく再構成した記事で、当時の報道写真と、匿名掲示板の書き込みが引用されていた。
湊はそれを見なかった。
見たのは、茜だった。
九月十日の夜、茜から電話がかかってきた。
「兄ちゃん」
声で、すぐにわかった。
「どうした」
「わたしの名前が出てる」
湊はアパートの外に出た。更紗は夜勤で家にいなかった。
「どこに」
「掲示板。安西邦夫の娘は名前を変えて都内で働いてるって。会社の名前も出てる」
「本名は」
「出てる」
茜の声は、不思議なほど落ち着いていた。落ち着きすぎていた。
「三堀茜って。あと、インスタも」
「インスタ?」
「わたし、指輪の写真あげたの。八月に」
電話の向こうで、茜が息を吸った。
「その写真の、後ろに、卓也くんが写ってて」
湊は目を閉じた。
「なんで、そんなことで」
「顔と、名前と、指輪のブランドと、投稿した場所と。ぜんぶ、つなげたら、わかるんだって」
茜は言った。
「わたし、知らなかった。そんなの、知らなかった」
「消せ」
「もう消した。でも、保存されてる」
湊は電柱に手をついた。
「明日、そっち行く」
「来なくていい」
「行く」
「来なくていいって!」
茜が初めて声を荒げた。
「兄ちゃんが来たら、兄ちゃんも一緒に写るじゃん。兄ちゃんの店の場所も、もう書かれてるんだよ」
湊は、言葉を失った。
電話の向こうで、茜が泣きはじめた。
二十三歳の妹が、子どもみたいに泣いていた。
翌週から、店に電話がかかってくるようになった。
最初は無言だった。切ると、またかかってきた。
三日目に、声が入った。
「人殺しの子どもがパン焼いてんだって?」
湊は黙って切った。
四日目、榊が湊を呼んだ。
休憩室に、印刷した紙が置いてあった。掲示板のスクリーンショットだった。
高円寺のブーランジェリー・エトワ。三堀湊。安西邦夫の長男。
店の外観の写真まで貼られていた。
「事実か」
榊が聞いた。
湊は、うなずいた。
「……はい」
榊は椅子に座って、煙草をくわえた。火はつけなかった。
長いこと、そうしていた。
「おまえ、なんでうちに来た」
「パンを焼きたかったからです」
「それだけか」
「それだけです」
榊は煙草を箱に戻した。
「おれはな、湊」
「はい」
「おまえのことは、うちで七年見てきた。おまえの親父のことは、何も知らん」
「……」
「だが、客が来なくなったら、おれは判断を変える」
湊は頭を下げた。
「わかってます」
「わかってねえよ」
榊は言った。
「わかってたら、そんな顔しねえ」
その週、店の空気が変わった。
目に見えるほどではない。
売上は、二割ほど落ちた。二割は、天気でも動く数字だ。榊は何も言わなかった。
だが、湊にはわかった。
常連の何人かが、来なくなった。
毎朝クロワッサンを二つ買っていた、犬を連れた女の人。土曜にバゲットを買っていく、自転車の男。子どもを二人連れてくる、若い母親。
それぞれに事情があるのだろう。引っ越したのかもしれない。飽きたのかもしれない。
湊は、そう考えようとした。
考えようとしている自分に、いちばん腹が立った。
来なくなった人より、来る人のほうが、こたえた。
常連の一人が、レジで湊の顔をじっと見た。
二秒か、三秒だった。
それから、いつもと同じように「じゃあ、これで」と言って、金を払って出ていった。
その二秒が、湊の中に残った。
この人は知っている。知っていて、それでも買った。
それは親切なのか。憐れみなのか。確かめに来たのか。
わからないから、湊は何も返せなかった。
店の前に、若い男が二人立っていた日もあった。
スマートフォンで看板を撮っていた。撮って、笑って、行った。
パンは買わなかった。
湊はその日、閉店してから、看板を布で拭いた。
拭く必要はなかった。何もついていなかった。
拭かずにいられなかった。
母に電話をしたのは、九月十五日の夜だった。
三回、コールが鳴った。
「はい、三堀です」
母の声は、いつもの声だった。
湊は、そこで詰まった。
テレビを見ているだろうか。ネットは、母は使わない。ガラケーのままだ。近所づきあいもない。
この人は、まだ知らないかもしれない。
「もしもし? 湊?」
「うん」
「どうしたの、こんな時間に」
「……いや」
湊は、言葉を探した。
「元気かなと思って」
「元気だよ。あんたこそ、ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
「パンばっかりでしょ」
「パン屋だよ」
母が笑った。
その笑い声を聞いて、湊は言えなくなった。
この人は、十五年かけて、ここまで戻ってきた。
笑えるところまで、戻ってきた。
それを、自分がまた壊すのか。
「湊?」
「うん」
「なんか、あった?」
母は、勘のいい人だった。昔から、そうだった。
「なんもない」
湊は言った。
「ほんとに?」
「ほんとに」
少しの沈黙があった。
「そう。ならいいけど」
母は言った。
「なんかあったら、言うんだよ」
「うん」
「言わないと、わかんないんだからね」
湊は、受話器を握った。
「うん」
「じゃあね」
電話が切れた。
湊は、切れた電話をしばらく耳に当てていた。
母には、言えなかった。
その夜、湊は初めて、その掲示板を開いた。
開くまでに、一時間かかった。
スレッドは、二百近く伸びていた。
最初のほうは、事件そのものの話だった。当時の報道の引用。判決文の抜粋。犯人がなぜ火をつけたのかという議論。
途中から、変わった。
――この犯人、家族いたよな
――娘が都内にいるらしい
――名字変えてる。三堀
――働いてるとこ判明
――兄貴もいる。高円寺でパン屋
――は? こういう奴が焼いたパン食いたくねえわ
――親の罪は子の罪じゃないだろ
――でも自分の子どもには近づけたくない
――それが普通の感覚
――結婚しようとしてるらしいぞ 相手かわいそう
――知らずに結婚とか詐欺だろ
――遺族の気持ち考えろよ
湊は、そこまで読んで、画面を閉じた。
閉じてから、もう一度開いた。
最後まで読んだ。
最後のほうに、こういう書き込みがあった。
――俺、当時柏尾に住んでた。あの家の子ども知ってる。上の男の子、普通の子だった
その下に、返信がついていた。
――普通の子が普通に育って普通に生きてるのが問題なんだろ
――焼け死んだ七歳は普通に育てなかったんだが?
湊は、スマートフォンを机に置いた。
その通りだ、と思った。
反論する言葉が、一つも浮かばなかった。
三十歳になって、湊は初めて、自分が何者なのかを、他人の言葉ではっきりと知った。
自分は、生きているだけで、誰かを傷つける人間だ。
湊は、その日の夜、辞表の下書きを書いた。
書いて、破いた。三回書いて、三回破いた。
茜のほうが、早かった。
九月の二十日、静岡の岸辺家から連絡が来た。
電話をかけてきたのは、卓也の母親だった。
茜はその内容を、あとで湊に話した。淡々と、まるで他人の話をするように。
――お宅のご事情を、こちらでも知ることになりました。
――卓也から聞いたのではありません。近所の方が、教えてくださいました。
――こんな田舎ですから、みんな見てるんです。
――卓也には妹がいます。まだ独身です。
――主人の会社もあります。
――茜さん、あなたのせいではないのは、わかっています。
――でも、それとこれとは、別なんです。
茜は「はい」と「わかりました」しか言わなかったという。
その週の日曜、茜は静岡へ行った。
卓也が「一緒に行く」と言ったが、茜は一人で行った。
「あの人が謝る役になるのは、間違ってると思ったから」
あとで、茜はそう言った。
岸辺家は、駅からバスで二十分の、山の見える家だった。
庭が広く、犬が二匹いた。
茜は玄関に上がらなかった。上げてもらえなかったのではない。上がらなかった。
三和土に立って、深く頭を下げて、こう言った。
「今日まで、黙っていて申し訳ありませんでした」
卓也の母親は、正座して、それを受けた。
そして、こう言った。
「あなたは、いい子だと思います」
「ありがとうございます」
「だから、余計につらいんです」
茜は顔を上げなかった。
「あの子が、あなたを選んだのは、間違ってないと思います」
「はい」
「でも、うちには、うちの生活があるんです」
「はい」
「わかってください」
茜は、それに答えなかった。
答えなかった、と本人が言った。
「なんで答えなかったんだ」
湊が聞くと、茜は言った。
「わかりますって言ったら、嘘になるから」
卓也から茜に、最後の電話が来たのは十月の二日だった。
三十分、話したという。
卓也は泣いていたそうだ。
俺は関係ないと思ってる。茜のせいじゃない。母を説得する。時間がかかっても説得する。待っててくれ。
茜は、こう答えた。
「卓也くん、ありがとう。でも、わたしを選んだら、あなた、家族と縁が切れることになるよ」
卓也は「切れてもいい」と言った。
茜は言った。
「わたしね、家族が離れることが、どういうことか知ってるの」
それで、終わった。
十月七日の朝、湊は茜のアパートに行った。
前の晩、茜からメッセージが来ていた。
――兄ちゃん、いままでありがとう。
湊はそれを、夜勤明けの更紗の隣で眠っているときに見た。時刻は午前二時十四分。既読をつけて、すぐに電話をかけた。出なかった。三十回かけた。出なかった。
始発を待って、湊は中野から錦糸町まで行った。
アパートの二階の、いちばん奥の部屋だった。
鍵はかかっていた。合鍵は持っていなかった。湊はドアを叩き、名前を呼び、それから体当たりした。
三回目で、ドアの枠が壊れた。
部屋は暗かった。
カーテンが閉まっていて、電気が消えていた。
茜は、ベッドの脇の床に倒れていた。
空になった錠剤のシートが、六枚あった。
湊は救急車を呼んだ。呼びながら、妹の体を横向きにして、口の中に指を入れた。
茜の唇は、冷たかった。
でも息はあった。
浅く、遅く、しかしたしかに、息をしていた。
湊は、その顔に耳を近づけたまま、声を上げて泣いた。
救急隊が来るまでの八分間、ずっと泣いていた。
病院に運ばれて、胃洗浄をして、茜は一命を取り留めた。
湊は榊に電話をした。三日休ませてくださいと言うと、行ってこい、とだけ返ってきた。
三日間、意識が戻らなかった。
四日目の朝、茜は目を開けた。
湊が「茜」と呼ぶと、目玉だけが動いて、こちらを向いた。
声は出なかった。
母が川越から駆けつけたのは、その日の夕方だった。
母は病室に入ってきて、ベッドの茜を見て、それから床に膝をついた。
娘のベッドの脇で、膝をついて、額を床につけた。
誰に謝っているのかわからなかった。
湊は母の肩に手をかけて、起こそうとした。母は動かなかった。
「ごめんね」
母は言った。
「ごめんね、茜。ごめんね」
湊は、それを聞いていられなかった。
病室を出て、廊下の突き当たりの窓の前に立った。
外は夕方だった。西の空が、赤かった。
あの夜と同じ色だった。
しばらくして、母が病室から出てきた。
母は湊の隣に来て、同じ窓の外を見た。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
「湊」
「うん」
「あんた、九月に電話くれたね」
湊は、窓を見たままうなずいた。
「あのとき、なんもないって言ったね」
「……うん」
「あれ、嘘だったんだね」
湊は、答えられなかった。
母は、窓の桟に手を置いた。
その手の甲を、湊は見た。乾いて、荒れて、爪が短く切られていた。惣菜を詰める手だった。
「母さん、知ってたよ」
湊は、母のほうを向いた。
「九月の、たしか二十日ごろ」
母は、ゆっくりと言った。
「パートの、朝の休憩のときにね」
「……」
「同じ班の人が、携帯を見せてきたの」
母は、それを、天気の話でもするように言った。
「これ、安西さんじゃないの、って」
湊は、息が止まった。
「わたし、安西って名乗ったこと、一度もないのよ。三堀で入ったんだから」
母は言った。
「でもね、あの人、わたしの顔を見て言ったの。似てるわね、奥さんに、って」
「……母さん」
「新聞に、昔、載ってたんだって。事件のあとの、記者会見の写真。わたし、顔を隠して出たんだけどね。斜めから撮られてた」
母は、少しだけ笑った。
笑ってから、口を閉じた。
「その日でやめたの、あの店」
「え」
「昼に、店長さんに言って、やめた。十一年いたけどね」
「……いまは」
「バスで三つ先の店に入り直した。同じ仕事だよ。惣菜」
母は言った。
「時給は四十円下がった」
「なんで言わなかった」
「あんたが言わなかったからよ」
母は言った。
「あんたが、なんもないって言うんだから、母さんも、なんもないことにしようと思って」
湊は、窓に手をついた。
手のひらが、ガラスに触れて、白く曇った。
「母さん」
「うん」
「ごめん」
「謝んなくていい」
母は言った。
「あんたが黙ったのは、母さんに笑っててほしかったからでしょう」
「……」
「わたしが黙ったのも、同じ」
母は窓の外を見た。
赤い空が、少しずつ紫に変わっていた。
「でもね、湊」
「うん」
「そういうのを、二人でやってると、こうなるんだよ」
母は、病室のほうを見た。
扉は閉まっていた。
「茜だけが、一人で抱え込んでいたんだ」
湊は、その場に立っていられなかった。
膝が笑って、廊下の壁に背中をつけた。
母は、そんな湊を見なかった。ずっと窓の外を見ていた。
「母さん、あの子に、なんて言えばいいかわかんない」
「……」
「十五年、わかんないままだった」
母は、そこで初めて、声を詰まらせた。
「なんて言えばよかったの」
湊は、答えられなかった。
二人は、そのまま日が落ちるまで、廊下に立っていた。
看護師が二度、脇を通っていった。
誰も、二人に声をかけなかった。
茜が話せるようになったのは、一週間後だった。
最初に言ったのは、こうだった。
「兄ちゃん、ごめん。ドア、壊しちゃったんでしょ」
「うん」
「大家さんに、怒られた?」
「怒られてない」
茜は少し笑って、それから天井を見た。
「わたしね」
「うん」
「死のうと思ったんじゃないんだよ」
「……」
「ただ、朝が来るのが嫌だったの」
湊は、茜の手を握った。
小さい手だった。八歳のときから、あまり大きくなっていないような気がした。
「明日になったら、また、みんながわたしの名前を知ってる世界になるでしょ。それが、嫌だっただけ」
「うん」
「兄ちゃん」
「なに」
茜は、湊のほうを見た。
「わたし、なんにも悪いことしてないのに、なんでかな」
湊は、答えられなかった。
「八歳のときに、ピアノ習ってただけなのに」
茜の目から、涙が横に流れて、枕に落ちた。
「しおりちゃんと、おなじ教室で、ピアノ習ってただけなのに」
湊は、妹の名前を初めて、正しく理解した。
安西茜。
名前を変えても、変わらないもののことを。
茜が入院しているあいだ、湊はアパートの片付けに通った。
壊れたドアの枠を、大家に頭を下げて、自分で直した。金物屋で材料を買って、二日かけて、素人なりに直した。
部屋の中は、驚くほど片付いていた。
流しに洗い物が一つもなかった。ゴミ袋は口を縛って、玄関に揃えて置いてあった。洗濯物は畳んで、引き出しに入っていた。
この部屋の主は、出ていくつもりで、掃除をしたのだ。
湊は、そのことに気づいて、しばらく動けなかった。
押し入れを開けると、段ボールが一つあった。
中に、小さなキーボードが入っていた。
十五年前、母が買った安物だ。鍵盤が六十一しかない、電池で動くやつだ。
湊は、それを取り出した。
電池は入っていなかった。
鍵盤を押しても、音は出なかった。
湊は、無音の鍵盤に指を置いた。
どの音がどこにあるのかも知らない。
ただ、白い鍵の上に指を置いて、しばらくそうしていた。
箱の底に、紙が一枚あった。
畳まれた、コピー用紙だった。
開くと、手書きの五線譜だった。子どもの字で、音符が書き写してある。
いちばん上に、平仮名で書いてあった。
めりーさんの ひつじ
三小節目まで書いて、そこで止まっていた。
湊は、その紙を、元のように畳んだ。
畳んで、箱に戻して、押し入れを閉めた。
更紗には、「妹が過労で倒れた」と言った。
嘘だった。
更紗は心配して、「お見舞いに行きたい」と言った。
湊は断った。
「まだ、面会謝絶なんだ」
これも嘘だった。
更紗は、少し傷ついた顔をした。それをすぐに消して、「わかりました」と言った。
その夜、湊は眠れなかった。
隣で更紗が寝息を立てていた。
湊は暗い天井を見ながら、数えた。
この人につきはじめた嘘が、いくつになったか。
数えきれなかった。
嘘というのは、二つ目からは自動的に増えていく。一つを守るために二つが必要になり、二つを守るために四つが必要になる。
いま、湊の家の下には、嘘の柱が何十本も立っていた。
その柱の一本を抜いたら、全部が落ちる。
湊は、更紗の寝顔を見た。
この人は、何も知らない。
この人は、自分の家族を殺した男の息子と、四年、同じ布団で寝ている。
その事実の醜さに、湊は吐きそうになった。
布団を出て、台所に立った。
水を飲もうとして、コップを取り落とした。
割れた。
物音で更紗が起きて、寝室から出てきた。
「どうしたんですか」
「割った」
「けがは」
「ない」
更紗はしゃがんで、破片を拾いはじめた。
「危ないから、おれがやる」
「私のほうが、手慣れてます」
更紗は破片を一つずつ、丁寧に集めた。
小さな破片まで、光にかざして探した。
湊は、それを見ていた。
この人はいつも、こうやって誰かの落としたものを拾う。
病院でも、そうしているのだろう。
湊は、そのとき決めた。
言おう。
全部言って、この人を、この嘘の家から出そう。
そう決めた。
だが、湊が口を開くより先に、その機会は向こうから来た。
十一月の、寒い日曜日の午後だった。
インターホンが鳴って、更紗が出た。
湊は台所にいた。
扉の向こうで、女の声がした。
「戸倉更紗さんですね。フリーライターの相良と申します」
湊の手から、包丁が落ちた。