魔法より、君に恋をする。

ノアルート 第40章 恋人になって、はじめて

付き合い始めて最初の休日。

 待ち合わせは、前と同じ学院の正門だった。

 リリアが到着した時、ノアはすでにそこにいた。今日は淡い色のシャツに紺色の上着。青みを帯びた銀髪は休日の柔らかな日差しを受けて、制服姿の時より少し明るく見える。

 前回も見た服装だった。

 それなのに、今日は違って見えた。

 彼氏だから。

 その言葉を頭の中で使っただけで、自然と頬が緩む。

「ノア」

 呼ぶ。

 振り返る。

「おはよ――」

 ノアの声が途中で止まった。

「おはよう」

「……おはよう」

「どうしたの?」

「いや」

 ノアはリリアを上から下まで見て、それから目を逸らした。

「今日も可愛いなと思って」

「ありがとう」

「前より素直に受け取るね」

「彼氏に言われると嬉しいから」

「……朝一番からそれ?」

「何が?」

「彼氏」

「違うの?」

「違わない。むしろもっと言って」

「ノアは彼氏」

「うん」

「私の彼氏」

「……」

 ノアが口元を押さえる。

「何?」

「ちょっと待って」

「また待つの?」

「君、付き合ってから強すぎない?」

「何が?」

「全部」

 リリアはよく分からなかった。

 ただ、好きだと分かった以上、好きな人には好きなように接していいのだと思っている。

「行こ」

「うん」

 ノアが歩き出そうとする。

 リリアはその手を掴んだ。

「……」

「何?」

「いや」

 ノアが繋がれた手を見る。

「今日は最初からなんだなって」

「恋人だから」

「その理屈、最高だね」

「ノアも繋ぎたい?」

「もちろん」

 指が絡む。

 前より深く。

 恋人繋ぎ。

 リリアは少し驚いて、二人の手を見る。

「これ初めて」

「嫌?」

「ううん」

 指と指の間まで触れている。

 普通に手を握るより近い。

「好き」

「……手の繋ぎ方が?」

「うん」

「そっちかあ」

「ノアも好き」

「はい、今日もう帰ってもいいくらい幸せ」

「まだ出発してない」

「知ってる」

 リリアは笑って、繋いだ手を少し揺らした。

     *

 今日の目的地は、学院から少し離れた植物園だった。

 魔力を含む珍しい植物が育てられている場所で、温室の中には季節に関係なく花が咲いているらしい。

「ノアが決めたの?」

「うん。デートっぽいかなと思って」

「デートっぽいって何?」

「綺麗な場所に行くとか」

「前はお菓子食べた」

「あれもデート」

「ノート買った」

「あれも」

「何してもデート?」

「恋人同士ならね」

 リリアは少し考える。

「じゃあ図書館でも?」

「デート」

「食堂」

「二人ならデートにできる」

「授業」

「それは授業」

「駄目なんだ」

「さすがにね」

 そんな話をしているうちに植物園へ着いた。

 大きなガラス張りの温室へ入ると、暖かな空気と甘い花の香りに包まれる。

「すごい」

 リリアはすぐにノアの手を引いた。

「見て」

「見てる」

「青い花」

「珍しいね」

「ノアみたい」

「僕?」

「髪」

「銀なんだけど」

「青入ってる」

「じゃあリリアはあっち」

 ノアが指差す。

 白い花。

 花弁の中心だけが淡い紫色だった。

「髪と目?」

「うん」

「じゃあ隣に植える?」

「僕らを?」

「花を」

「分かってるよ」

「一緒に咲いてたら可愛い」

 ノアが少し黙る。

「……リリア」

「何?」

「そういうの無意識?」

「何が?」

「いや、いい」

 手を引かれる。

「こっちも見よう」

「うん」

     *

 温室の奥には、小さな池があった。

 水面には白い花が浮かび、天井から差し込む光が揺れている。

「綺麗」

「うん」

 リリアは池を見ていた。

 ノアは。

 リリアを見ていた。

「ノア」

「何?」

「見てない」

「見てるよ」

「池」

「ああ」

「私見てたでしょ」

「ばれた?」

「分かる」

「綺麗だったから」

「池が?」

「リリアが」

「……」

 胸が鳴る。

 まだ。

 こういう言葉には慣れない。

「ノア」

「ん?」

「好き」

「急だね」

「言いたくなった」

「……もう一回」

「好き」

「もう一回」

「昨日もそれやった」

「何回でも聞きたい」

「じゃあノアも言って」

「好き」

「もう一回」

「好き」

「もう一回」

「好き」

「……いいね、これ」

「でしょ?」

 二人で笑う。

 馬鹿みたいだと思う。

 でも。

 楽しい。

「リリア」

「何?」

「こっち向いて」

「なんで?」

「いいから」

 振り向く。

 ノアが手を伸ばす。

 髪に触れた。

「花びら」

 銀白色の髪から、小さな白い花びらを取る。

「ついてた?」

「うん」

「ありがとう」

 ノアの手が離れる。

 その瞬間。

 リリアは少し物足りないと思った。

「……ノア」

「ん?」

「もう一回」

「花びらないよ?」

「違う」

 リリアは自分の髪を指す。

「触って」

 ノアが固まる。

「……髪?」

「うん」

「なんで?」

「さっき触られたの好きだった」

「リリア」

「何?」

「僕、そんなに安全じゃないよ」

「危ないの?」

「君に対してはね」

「襲う?」

「その言い方やめようか」

「じゃあ何?」

「……キスしたくなる」

 言われて。

 リリアは思い出す。

 前回の約束。

「今日するって言ってた」

「覚えてたんだ」

「うん」

「……僕だけ意識してたらどうしようかと思ってた」

「私もしてたよ」

「本当に?」

「朝から」

「朝から!?」

「今日かなって」

 ノアが額を押さえた。

「言わないでよ……」

「なんで?」

「緊張するから」

「ノアも?」

「するよ」

「私は初めて」

「僕も、君とは初めて」

 その言葉に。

 少し引っかかった。

「……君とは?」

「あ」

「ノア、キスしたことあるの?」

 ノアが止まる。

「今の人生ではないよ」

 意味を理解する。

 過去の世界。

「昔のリリア?」

「……うん」

 胸の奥が。

 ちくりとした。

「何回?」

「え」

「キス」

「リリア」

「いっぱい?」

「……」

「いっぱいなんだ」

「世界によるというか」

「世界による」

「その復唱怖いな」

「何回付き合ったの?」

「それは……」

「ノア」

「はい」

「私、嫉妬してる」

「……うん」

「昔の私じゃない人に」

「うん」

「変?」

「全然」

 ノアが少しだけ笑った。

「むしろ嬉しい」

「私は嬉しくない」

「ごめん」

「ノアが悪いわけじゃない」

「うん」

「でも嫌」

「うん」

「私の初めてなのに、ノアは初めてじゃない」

 言ってから。

 少し恥ずかしくなった。

「……面倒?」

「まさか」

 ノアの声が優しくなる。

「じゃあ、一個だけ言っていい?」

「何?」

「僕にとっても今日が初めてだよ」

「でもしたことあるんでしょ?」

「ある」

「じゃあ違う」

「今の僕が、今の君にするキスは初めて」

「……」

「過去の続きにしたくない」

 ノアがリリアの手を取る。

「昔の僕が誰を好きだったかも、何をしたかも消えない。でも、君とすることを全部その続きにはしたくないんだ」

「ノア」

「君と初めて手を繋いだ日も、初めてデートした日も、初めて恋人になった日も、僕はちゃんと覚えておきたい」

 青い瞳。

 まっすぐ。

「だから」

 ノアが少し笑う。

「今日のキスも、僕にとって初めてにしていい?」

 胸が。

 さっきより大きく鳴った。

「……うん」

     *

 でも。

 その場ではしなかった。

「なんで?」

 植物園を出て十分後。

 リリアは不満だった。

「人いたから」

「少なかったよ」

「いたよ」

「気にする?」

「初めてくらい二人がいい」

「どこでするの?」

「それを聞く?」

「だって今日するって言った」

「リリア、意外とキスに積極的だね」

「したことないから気になる」

「その理由、ちょっと複雑」

「ノアはしたくない?」

「死ぬほどしたい」

「死なないで」

「比喩だよ」

「ならいい」

 ノアが笑う。

「帰りにいい場所あるから」

「本当?」

「うん」

「予約?」

「キスの予約って言わないで」

「でも予約した」

「……したね」

     *

 昼食は小さなカフェに入った。

 向かい合わせの席。

 リリアはクリームの乗ったパンケーキを食べていた。

「美味しい」

「よかった」

「ノア食べる?」

「もらう」

 リリアは一口分切る。

 前回はノアの皿へ置いた。

 今日は。

 フォークをそのまま差し出す。

「はい」

「……」

「何?」

「それ僕に食べろって?」

「うん」

「リリアが使ったフォーク?」

「嫌?」

「嫌じゃない」

「じゃあ」

 ノアが食べる。

「美味しい?」

「味分かんない」

「なんで?」

「緊張して」

「大げさ」

「君、本当にこういうの気にしないね」

「恋人だからいいかなって」

「恋人って言えば何でも許されると思ってない?」

「駄目?」

「……僕には効く」

 リリアが笑う。

「ノアも」

「え?」

「食べさせて」

「……」

「私だけ?」

「やる」

 ノアが自分のケーキを切る。

 フォークを差し出す。

 リリアは普通に食べた。

「美味しい」

「……可愛い」

「何が?」

「もういい」

「ノアも食べる?」

「まだくれるの?」

「うん」

「じゃあ」

 その後。

 半分くらい。

 二人で交換しながら食べた。

     *

 夕方。

 ノアが連れてきたのは、学院へ戻る道から少し外れた小高い丘だった。

 街が見える。

 夕焼け。

 人はいない。

「ここ?」

「うん」

「綺麗」

「前に見つけたんだ」

「誰と?」

「一人」

「よかった」

「嫉妬?」

「うん」

「素直になったね」

「ノアにだけ」

 ノアが黙る。

「……またそういうこと言う」

「好き?」

「好き」

「じゃあいい」

 並んで座る。

 肩が触れる。

 リリアは少しだけ寄った。

 ノアの肩へ頭を乗せる。

「リリア?」

「恋人っぽい」

「どこで覚えたの?」

「なんとなく」

「そのなんとなくで僕の心臓壊さないで」

「聞こえる」

「何が?」

「心臓」

「君のせい」

「私も速い」

「本当?」

「触る?」

 ノアがむせた。

「何でそうなるの!?」

「聞こえないでしょ」

「触らない!」

「嫌?」

「嫌じゃなくて!」

 リリアは笑う。

「ノア面白い」

「僕、君に遊ばれてる?」

「ちょっと」

「いつからそんな子になったの」

「彼氏できてから」

「僕のせいか」

「うん」

 夕日が沈んでいく。

 少しずつ。

 空が赤から紫へ変わる。

 静かだった。

「リリア」

「ん?」

「今日楽しかった?」

「うん」

「また来たい?」

「ノアとなら」

「……うん」

「次どこ行く?」

「もう次?」

「行かない?」

「行く。絶対行く」

「じゃあ考えて」

「任せて」

 顔を上げる。

 近い。

 さっきまで。

 あんなに喋っていたのに。

 二人とも。

 急に黙った。

 分かる。

 たぶん。

 今。

「……ノア」

「うん」

「する?」

「その確認の仕方、色気ないなあ」

「じゃあどうするの?」

「聞かないで」

 ノアが笑う。

 でも。

 少し緊張している。

「リリア」

「うん」

「キスしていい?」

「うん」

 即答した。

「……早い」

「駄目?」

「嬉しい」

 ノアの手が。

 リリアの頬へ触れる。

 温かい。

 親指が。

 ほんの少し頬を撫でた。

「目、閉じて」

「なんで?」

「普通閉じるから」

「見ちゃ駄目?」

「僕が恥ずかしい」

「じゃあ閉じる」

 目を閉じる。

 見えなくなると。

 急に緊張した。

「……ノア」

「いるよ」

「うん」

 頬に触れる手。

 すぐ近くの気配。

 そして。

 唇に。

 柔らかいものが触れた。

 ほんの一瞬。

 離れる。

「……」

 目を開ける。

 ノアがいる。

 顔が赤い。

「終わり?」

「……うん」

「短い」

「初めてだから!」

「もう一回」

「え?」

「したい」

「リリア」

「駄目?」

「駄目じゃない」

「じゃあ」

 今度は。

 リリアから近づいた。

 でも。

 直前で。

「どうやるの?」

「そこで聞く?」

「分からない」

 ノアが笑った。

 近すぎる距離で。

「そのままでいいよ」

「こう?」

「うん」

 もう一度。

 唇が触れる。

 今度は。

 少し長い。

 一秒。

 二秒。

 離れる。

 リリアは。

 自分の唇へ指を当てた。

「……変な感じ」

「嫌だった?」

「ううん」

 ノアを見る。

「好き」

「……キスが?」

「ノアとするのが」

 ノアが完全に黙った。

「ノア?」

「今日何回僕を殺す気?」

「死なない約束」

「そうだった」

「忘れないで」

「頑張る」

 リリアは少し笑う。

「もう一回する?」

「……いいの?」

「うん」

「リリア」

「何?」

「僕からしていい?」

「いいよ」

 三回目。

 今度は。

 ノアが少しだけ近く引き寄せた。

 唇が重なる。

 さっきより。

 少しだけ長い。

 でも。

 優しい。

 離れたあとも。

 額が触れる距離。

「……好き」

 ノアが言う。

「うん」

「リリアは?」

「好き」

「もう一回」

「好き」

「もう一回」

「好き」

 リリアは笑う。

「何回聞くの?」

「足りない」

「じゃあ毎日言う」

「……毎日?」

「うん」

「約束?」

「約束」

 ノアが笑った。

「僕も毎日言う」

「じゃあ忘れた方が負け」

「何の勝負?」

「知らない」

 二人で笑う。

 そのまま。

 もう一度。

 今度は。

 どちらからともなく。

 キスをした。

     *

 帰り道。

 リリアはずっとノアの腕にくっついていた。

「歩きにくくない?」

「ちょっと」

「離れる?」

「嫌」

「じゃあこのままで」

「うん」

「リリア、付き合う前より甘えん坊になった?」

「ノアにだけ」

「……」

「また止まった」

「君が悪い」

「好き?」

「大好き」

 初めて。

 大好き。

 と言われた。

 リリアは少しだけ顔を上げる。

「私も」

「……大好き?」

「うん」

「本当に?」

「大好き」

 ノアが笑う。

 嬉しそうに。

 幸せそうに。

 それを見て。

 リリアも笑った。

     *

 女子寮の前。

 いつもの別れ際。

「また明日」

「うん」

「リリア」

「何?」

「今日の分」

「何が?」

「好き」

「……私も好き」

「大好き」

「私も大好き」

「じゃあ」

 ノアが少しだけ身を屈める。

「おやすみのキスは?」

「する」

 リリアは。

 今度は迷わなかった。

 唇を重ねる。

 短く。

 でも。

 もう初めてではない。

「おやすみ」

「おやすみ」

 離れる。

 三歩。

 リリアは振り返る。

「ノア」

「ん?」

「もう一回」

「……帰れなくなるよ?」

「一回だけ」

「絶対?」

「たぶん」

「たぶんなんだ」

 ノアが戻ってくる。

 もう一度。

 キス。

「じゃあ本当におやすみ」

「うん」

 五歩。

 振り返る。

「……リリア」

「何?」

「もう一回って言う?」

「言おうと思った」

「やっぱり」

「駄目?」

「駄目じゃないけど」

 ノアが笑う。

「明日の分に取っておこう」

「明日もする?」

「したい?」

「うん」

「僕も」

 今度こそ。

 別れる。

 寮へ入る直前。

 リリアは唇に触れた。

 今日。

 何度も。

 ここにノアが触れた。

 それを思い出すだけで。

 胸が温かい。

「……恋人って」

 思っていたより。

 ずっと楽しい。

     *

 その夜。

 ノアはベッドに仰向けになり、天井を見ていた。

 眠れない。

 嫌な夢が怖いからではない。

 今日を。

 忘れたくないから。

 植物園。

 繋いだ手。

 カフェ。

 夕焼け。

 キス。

 大好き。

 全部。

 今日の彼女と。

 今日の自分のもの。

 過去にはない。

 新しい記憶。

「……幸せだな」

 呟いて。

 少しだけ怖くなる。

 幸せになるほど。

 失うことが怖くなる。

 十二の世界で。

 嫌というほど知った。

 でも。

 今日のリリアなら。

 きっと怒る。

 失うのが怖いから幸せにならないなんて言ったら。

『じゃあ一緒に生きる方を探して』

 そう言うだろう。

「……うん」

 ノアは目を閉じた。

 明日も。

 会える。

 明日も。

 好きだと言える。

 明日も。

 彼女に触れられる。

 そんな未来を。

 今度こそ。

 怖がらずに欲しがってみようと思った。

ノアルート 第40章 終
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