魔法より、君に恋をする。
カイルルート 第43章 触れない距離
翌朝七時二十五分、リリアは女子寮の前でカイルと向かい合っていた。
「おはよう、カイル先輩」
「ああ。おはよう」
挨拶までは、いつも通りだった。
問題は、そのあとだ。
いつもならどちらからともなく差し出される手が、今日は動かない。カイルの右手は身体の横に下ろされたままで、リリアも自分から触れなかった。
「……変な感じ」
「ああ」
「手繋がないだけなのに」
「昨日まで繋いでいたからな」
「付き合う前からね」
「そうだったな」
二人で歩き始める。
距離は近い。肩が触れそうなくらい隣を歩いているのに、手だけが空いている。
リリアは何度もカイルの右手を見てしまった。
「見るな」
「見てない」
「三回見た」
「数えてたの?」
「視界に入る」
「カイル先輩も気にしてるじゃん」
「……気にしている」
昨日までなら、そこで手を取っていた。
けれど今日はしない。
昨夜、魂魄封印術式の接続率が上昇した時間と、二人が触れた時間が一致していた。偶然なのか、それとも本当に接触が原因なのか。まだ分からない以上、調べるまでは触れないことにした。
それも二人で決めた。
「研究室、今から行く?」
「授業がある」
「カイル先輩がそれ言うんだ」
「お前に昨日言われたからな」
「成長してる」
「だから子供扱いするな」
いつも通りの会話をしているのに、やっぱり手が気になる。
リリアは少し考えてから、カイルの顔を見上げた。
「触らないって、こんなに気になるんだね」
「……そうだな」
「昨日までは普通だったのに」
「普通ではなかった」
「え?」
「毎回かなり意識していた」
さらりと言われて、リリアは瞬きをした。
「手繋ぐだけで?」
「ああ」
「全然そう見えなかった」
「見せていなかったからな」
「じゃあ今も?」
「今の方がひどい」
「何で?」
「触るなと言われれば触りたくなる」
リリアは少し笑った。
「私も」
カイルがこちらを見る。
「手、繋ぎたい」
「……俺もだ」
「キスもしたい」
「朝から言うな」
「したくない?」
「したいから言うなと言っている」
「そっか」
嬉しくなって笑うと、カイルは呆れたように息を吐いた。
「何で嬉しそうなんだ」
「同じだったから」
「昨日まで散々触っていただろう」
「昨日までと今日じゃ違うもん」
「どう違う」
「今日の方が触りたい」
「……俺もだ」
結局、同じらしい。
授業棟の前まで来ても、二人は一度も触れなかった。
「放課後、迎えに来る?」
「ああ」
「触れないのに?」
「それと会いたいのは別だろう」
即答だった。
「……好き」
「朝から何回俺を困らせる気だ」
「まだ一回目」
「十分だ」
カイルが少しだけ笑う。
「放課後に」
「うん。またあとで」
リリアが教室へ向かおうとすると、背後から名前を呼ばれた。
「リリア」
「何?」
振り返る。
カイルは何かを言いかけ、やめた。
「……いや。何でもない」
「絶対何かある」
「触れそうになっただけだ」
「どこ?」
「頭」
「撫でようとした?」
「ああ」
「していいよ」
「駄目だろう」
「そうだった」
二人で顔を見合わせる。
「放課後、原因分かったらいっぱい触ってね」
「……分かったから行け」
「約束」
「ああ」
その返事に満足して、リリアはようやく教室へ向かった。
放課後、カイルは約束通り迎えに来た。
北塔の研究室へ入ると、机の上には昨夜より多くの資料が並んでいた。
「……調べた?」
「少しだけだ」
「一緒にって言ったのに」
「資料を揃えただけだ。解析はしていない」
「本当?」
「疑うな」
「前科があるから」
「否定できないのが腹立たしいな」
リリアは鞄を置き、いつもの椅子へ座った。
カイルは向かいではなく隣に座る。ただし、少しだけ距離を空けた。
「まず昨日の数値を確認する」
カイルが記録帳へ魔力を流す。
赤い文字が浮かび上がった。
『対象個体との接続率――二十三パーセント』
「二十三?」
「ああ。最初に確認した時は九パーセントだった」
「結構上がってる」
「問題は上昇条件だ」
カイルが別の紙を置いた。
「昨日の記録を見る限り、単純な接触だけでは説明できない」
「どういうこと?」
「手を繋いでいる間、常に上がっていたわけではない。変化が大きかったのは三回だ」
カイルが一つ目を指す。
「俺たちが魔力を重ねた時」
「うん」
「次が、キスをした直後」
「……そこも記録されてるんだ」
「俺も見たくなかった」
「何で?」
「研究資料に自分の恋愛行動が記録されているのはかなり嫌だ」
リリアは思わず笑った。
「じゃあ三つ目は?」
「お前が俺に礼を言った時だ」
「礼?」
「最初に話してくれてありがとう、と言っただろう」
「触ってないよね?」
「ああ」
リリアの笑いが消えた。
「じゃあ接触じゃない?」
「その可能性が高い」
カイルは新しい術式を展開した。
「確認する」
「どうやって?」
「まず、触れる」
リリアは目を瞬いた。
「いいの?」
「検証だからな。数値が危険域へ入ればすぐに止める」
「……研究って便利」
「何がだ」
「堂々と手繋げる」
「真面目にやれ」
「はーい」
カイルが右手を差し出す。
たった一日触れていなかっただけなのに、妙に久しぶりに感じた。
リリアが手を重ねる。
指が絡んだ。
「……やっぱりこれがいい」
「集中しろ」
「カイル先輩も握る力強いよ」
「黙れ」
赤い数字を見る。
二十三。
変わらない。
「上がらないね」
「ああ」
一分待つ。
それでも二十三のままだ。
「じゃあ手繋ぐの大丈夫?」
「まだ分からない」
「慎重」
「当然だ」
「じゃあ次は?」
「魔力を流す」
二人の掌の間に、小さな光が生まれた。
二十三。
二十四。
二十五。
「上がった」
「ああ。止める」
すぐに魔力を切る。
数字も止まった。
「魔力の接続は関係ありそう」
「ああ」
「じゃあキスは?」
カイルが黙った。
「検証しないの?」
「お前は楽しんでいないか」
「ちょっと」
「真面目にやれ」
「でも必要でしょ?」
「……必要だ」
言いながら、カイルの耳が少し赤い。
「研究です」
「分かっている」
「顔赤いよ」
「黙れ」
カイルが椅子をリリアの方へ向けた。
「嫌なら言え」
「嫌じゃない」
「……分かった」
頬に手は触れない。
顔だけが近づく。
昨日よりずっと意識してしまった。
「リリア」
「何?」
「目を閉じろ」
「研究なのに?」
「集中できない」
「何に?」
「お前にだ」
言われた通り目を閉じる。
少しして、唇が触れた。
短いキス。
すぐに離れる。
「……数字」
「見る」
二人同時に記録帳へ顔を向けた。
二十五。
変わらない。
「上がってない」
「ああ」
リリアは嬉しくなった。
「じゃあキス大丈夫じゃん」
「待て。条件が別にある可能性が――」
「もう一回したら分かる?」
「お前は本当に研究する気があるのか?」
「あります」
「顔が違う」
「どういう顔?」
「もう一回したい顔だ」
「正解」
カイルが額を押さえた。
「……俺もしたいから困る」
「じゃあしようよ」
「検証だぞ」
「うん」
「絶対分かっていないだろう」
そう言いながら、今度はカイルの方から少し近づいた。
二度目も短い。
離れたあと、リリアはすぐ数字を見る。
二十五。
「変わらない」
「ああ」
「キス無罪」
「その言い方はやめろ」
リリアが笑った時だった。
数字が動いた。
二十六。
二十七。
「……え?」
カイルの表情が変わる。
「触ってないよね」
「ああ」
二十八。
数字はゆっくり上がっていく。
「止まれ」
カイルが術式を解除しようとする。
けれど止まらない。
二十九。
三十。
「カイル先輩」
「待て」
リリアは自分の胸元に手を置いた。
痛くはない。
苦しくもない。
ただ、何かが熱い。
「私、今ちょっと嬉しかった」
「何?」
「キスできるって分かって、嬉しかった」
カイルが動きを止める。
「昨日も、ありがとうって言った時に上がったんだよね」
「ああ」
「手繋いだ時も、ずっとじゃなくて一部だけ」
「ああ」
「もしかして……」
リリアはカイルを見る。
「気持ち?」
カイルの表情が変わった。
すぐに術式を組み替える。
「感情と魔力の波形を照合する」
「そんなことできるの?」
「簡易的になら」
新しい光が浮かぶ。
カイルは昨日の記録と現在の数値を重ねていく。
数分後、動きが止まった。
「……一致している」
「何と?」
「お前の感情変動だ」
リリアは赤い数字を見る。
三十で止まっている。
「嬉しいと上がるの?」
「正確には違う。感情が強く動いた時だ」
「じゃあ怒っても?」
「可能性はある」
「悲しくても?」
「ああ」
「恋愛だけじゃない?」
「おそらく」
リリアは少し安心した。
けれどカイルの顔は晴れない。
「何?」
「問題は、なぜ俺との間でこれほど強く反応するかだ」
「好きだから?」
「それだけなら、俺以外でも起きるはずだ」
「……魂魄封印術式がカイル先輩にあるから?」
「ああ」
カイルは立ち上がり、本棚から古い資料を取り出した。
「俺たち四人の封印は、元々リリアの魂と結びつくためのものだった。過去の世界では、それによって俺たちの選択そのものが歪められていた可能性がある」
「選択?」
「彼女を守る。彼女を選ぶ。彼女を失えば世界をやり直す。その方向へ、魂そのものが引っ張られる」
リリアは眉を寄せた。
「それって……好きにさせられてたってこと?」
「そこまでは断定できない」
カイルはすぐに答えた。
「感情そのものを作る術式ではない。少なくとも俺はそう考えている。だが、執着や保護欲を増幅していた可能性はある」
「じゃあ、今のカイル先輩の気持ちは?」
聞いた瞬間、カイルがこちらを見た。
リリア自身、少し怖くなった。
「私を好きなのも、その術式のせいだったりする?」
「違う」
即答だった。
「でも――」
「違う」
もう一度、はっきり言われる。
「俺は術式が停止している間に、お前を好きになった」
「……うん」
「昔のリリアと同じだと思っていた時より、お前が違う人間だと分かってからの方がずっと強く惹かれた。それを術式のせいにはさせない」
カイルはそこで少しだけ声を落とした。
「だが、これから再起動すれば話は別だ」
「どうなるの?」
「俺の感情が増幅される可能性がある」
「例えば?」
「お前を守りたいという気持ちが、制御できなくなる」
リリアは黙った。
「危険な場所へ行かせたくない。魔法を使わせたくない。他の人間から遠ざけたい。俺の目の届く場所に置きたい。今でも、そう思う瞬間はある」
「あるんだ」
「ある」
「結構怖いこと言ってる」
「だから話している」
カイルの声は静かだった。
「今は、それが間違っていると分かる。お前に嫌だと言われれば止まれる。だが術式が再起動した時も同じだとは保証できない」
昨日までなら、ここで彼はきっと離れた。
自分が危険になる可能性があるなら、リリアを守るために距離を置く。
リリアもそれを分かっていた。
「それで?」
「何がだ」
「私と離れた方がいいって思ってる?」
カイルは黙った。
「正直に」
「……思っている」
「うん」
「今すぐお前から離れて、封印の影響を受けない場所へ行くのが一番安全かもしれないとも思う」
「うん」
「だが、それを俺一人で決めるつもりはない」
リリアは少しだけ笑った。
「よかった」
「何がだ」
「また勝手に消えたら怒るところだった」
「分かっている」
「じゃあ私は、離れたくない」
「……即答だな」
「だってまだ“かもしれない”でしょ?」
「ああ」
「だったら調べる。危なくなったら、その時また考える」
「俺が本当にお前を傷つける可能性が出ても?」
「その時は逃げる」
「……逃げるのか」
「当たり前でしょ」
カイルが僅かに目を見開いた。
「私、カイル先輩のこと好きだけど、何されてもいいとは思ってないよ」
「……ああ」
「閉じ込めようとしたら逃げるし、魔法を勝手に封じようとしたら怒る。話聞かなくなったらセシルとかノアとかアレン先輩とかルシアン先輩とか、いっぱい呼ぶ」
「待て。なぜ男が三人も混ざる」
「今そこ?」
「気になった」
「レオン先輩も呼ぶ」
「増やすな」
思わず笑った。
カイルも、少しだけ笑う。
「でも本当にそうするから」
「ああ」
「だからカイル先輩も、変だと思ったら言って」
「自分で分かればな」
「私も見る」
「お前が?」
「恋人なので」
リリアは胸を張った。
「カイル先輩が変になってないか監視します」
「……立場が逆になったな」
「今まで監視されてたから仕返し」
「趣味が悪い」
「お互い様」
カイルは小さく息を吐いた。
それから、少し迷うように右手を見た。
「手」
「うん?」
「繋いでもいいか」
リリアは笑った。
「いいよ」
差し出された手を取る。
数字は三十。
変わらない。
「大丈夫」
「ああ」
「今ちょっと嬉しいけど上がらないね」
「感情の強さにも閾値があるのかもしれない」
「じゃあもっと嬉しくなったら上がる?」
「試すな」
「どうやって?」
「知らん」
「カイル先輩がすごいこと言ったら上がるかも」
「何を期待している」
「好きとか」
「……好きだ」
数字を見る。
三十。
「上がらない」
「なぜ少し残念そうなんだ」
「研究なので」
「嘘をつけ」
リリアは笑った。
「でも嬉しい」
「ああ」
「私も好き」
数字が一つ上がった。
三十一。
二人とも黙る。
「……上がった」
「ああ」
「私の方が好きってこと?」
「そういう意味ではない」
「でも私が言った時だけ」
「偶然だ」
「カイル先輩負けず嫌い?」
「違う」
リリアが笑っている横で、カイルは記録を取る。
その横顔は真剣だった。
けれど以前とは違う。
危険を見つけても、リリアを研究対象として扱わない。怖くても全部話す。自分の意見を言って、リリアの意見も聞く。
それならきっと、まだ大丈夫だと思えた。
研究を終えた頃には、外は暗くなっていた。
今日はキスをせず、手だけを繋いで女子寮へ戻る。
「今日はしないんだ」
寮の前でリリアが聞くと、カイルは少し困った顔をした。
「したい」
「じゃあ何で?」
「今は感情が大きく動く条件を増やしたくない」
「研究者っぽい」
「研究者だからな」
「我慢できる?」
「……する」
「偉い」
「子供扱いするな」
リリアは笑って、代わりに繋いだ手を少し揺らした。
「じゃあ今日はこれで」
「ああ」
「おやすみ、カイル先輩」
「おやすみ、リリア」
手を離す。
二歩ほど歩いたところで、後ろから声がした。
「リリア」
「何?」
振り返る。
「さっきの話だが」
「うん」
「もし俺が術式に影響されて、お前の選択を奪おうとしたら」
カイルは真っ直ぐリリアを見る。
「俺を止めろ」
「もちろん」
「遠慮するな」
「殴っていい?」
「できれば魔法にしてくれ」
「そっちの方が痛くない?」
「お前の腕力より確実だ」
「失礼」
リリアは少し笑ったあと、頷いた。
「でもカイル先輩も、自分で戻ってきてね」
「ああ」
「私に全部任せないで」
カイルが僅かに目を細める。
「分かった」
「約束」
「ああ。約束する」
今度こそ寮へ戻った。
その夜、カイルは一人で研究室に残らなかった。
リリアと決めた通り、記録だけを残して寮へ戻る。
だから、その瞬間を二人とも見ていなかった。
閉じられた研究記録の中で、赤い文字が一つ増えたことを。
『魂魄封印術式――接続率三十一パーセント』
その下に、今まで存在しなかった項目が浮かぶ。
『保護衝動――増幅開始』
そして翌朝、カイルがそれを読むより先に。
学院の実技訓練場で、リリアの魔法が暴走した。
「おはよう、カイル先輩」
「ああ。おはよう」
挨拶までは、いつも通りだった。
問題は、そのあとだ。
いつもならどちらからともなく差し出される手が、今日は動かない。カイルの右手は身体の横に下ろされたままで、リリアも自分から触れなかった。
「……変な感じ」
「ああ」
「手繋がないだけなのに」
「昨日まで繋いでいたからな」
「付き合う前からね」
「そうだったな」
二人で歩き始める。
距離は近い。肩が触れそうなくらい隣を歩いているのに、手だけが空いている。
リリアは何度もカイルの右手を見てしまった。
「見るな」
「見てない」
「三回見た」
「数えてたの?」
「視界に入る」
「カイル先輩も気にしてるじゃん」
「……気にしている」
昨日までなら、そこで手を取っていた。
けれど今日はしない。
昨夜、魂魄封印術式の接続率が上昇した時間と、二人が触れた時間が一致していた。偶然なのか、それとも本当に接触が原因なのか。まだ分からない以上、調べるまでは触れないことにした。
それも二人で決めた。
「研究室、今から行く?」
「授業がある」
「カイル先輩がそれ言うんだ」
「お前に昨日言われたからな」
「成長してる」
「だから子供扱いするな」
いつも通りの会話をしているのに、やっぱり手が気になる。
リリアは少し考えてから、カイルの顔を見上げた。
「触らないって、こんなに気になるんだね」
「……そうだな」
「昨日までは普通だったのに」
「普通ではなかった」
「え?」
「毎回かなり意識していた」
さらりと言われて、リリアは瞬きをした。
「手繋ぐだけで?」
「ああ」
「全然そう見えなかった」
「見せていなかったからな」
「じゃあ今も?」
「今の方がひどい」
「何で?」
「触るなと言われれば触りたくなる」
リリアは少し笑った。
「私も」
カイルがこちらを見る。
「手、繋ぎたい」
「……俺もだ」
「キスもしたい」
「朝から言うな」
「したくない?」
「したいから言うなと言っている」
「そっか」
嬉しくなって笑うと、カイルは呆れたように息を吐いた。
「何で嬉しそうなんだ」
「同じだったから」
「昨日まで散々触っていただろう」
「昨日までと今日じゃ違うもん」
「どう違う」
「今日の方が触りたい」
「……俺もだ」
結局、同じらしい。
授業棟の前まで来ても、二人は一度も触れなかった。
「放課後、迎えに来る?」
「ああ」
「触れないのに?」
「それと会いたいのは別だろう」
即答だった。
「……好き」
「朝から何回俺を困らせる気だ」
「まだ一回目」
「十分だ」
カイルが少しだけ笑う。
「放課後に」
「うん。またあとで」
リリアが教室へ向かおうとすると、背後から名前を呼ばれた。
「リリア」
「何?」
振り返る。
カイルは何かを言いかけ、やめた。
「……いや。何でもない」
「絶対何かある」
「触れそうになっただけだ」
「どこ?」
「頭」
「撫でようとした?」
「ああ」
「していいよ」
「駄目だろう」
「そうだった」
二人で顔を見合わせる。
「放課後、原因分かったらいっぱい触ってね」
「……分かったから行け」
「約束」
「ああ」
その返事に満足して、リリアはようやく教室へ向かった。
放課後、カイルは約束通り迎えに来た。
北塔の研究室へ入ると、机の上には昨夜より多くの資料が並んでいた。
「……調べた?」
「少しだけだ」
「一緒にって言ったのに」
「資料を揃えただけだ。解析はしていない」
「本当?」
「疑うな」
「前科があるから」
「否定できないのが腹立たしいな」
リリアは鞄を置き、いつもの椅子へ座った。
カイルは向かいではなく隣に座る。ただし、少しだけ距離を空けた。
「まず昨日の数値を確認する」
カイルが記録帳へ魔力を流す。
赤い文字が浮かび上がった。
『対象個体との接続率――二十三パーセント』
「二十三?」
「ああ。最初に確認した時は九パーセントだった」
「結構上がってる」
「問題は上昇条件だ」
カイルが別の紙を置いた。
「昨日の記録を見る限り、単純な接触だけでは説明できない」
「どういうこと?」
「手を繋いでいる間、常に上がっていたわけではない。変化が大きかったのは三回だ」
カイルが一つ目を指す。
「俺たちが魔力を重ねた時」
「うん」
「次が、キスをした直後」
「……そこも記録されてるんだ」
「俺も見たくなかった」
「何で?」
「研究資料に自分の恋愛行動が記録されているのはかなり嫌だ」
リリアは思わず笑った。
「じゃあ三つ目は?」
「お前が俺に礼を言った時だ」
「礼?」
「最初に話してくれてありがとう、と言っただろう」
「触ってないよね?」
「ああ」
リリアの笑いが消えた。
「じゃあ接触じゃない?」
「その可能性が高い」
カイルは新しい術式を展開した。
「確認する」
「どうやって?」
「まず、触れる」
リリアは目を瞬いた。
「いいの?」
「検証だからな。数値が危険域へ入ればすぐに止める」
「……研究って便利」
「何がだ」
「堂々と手繋げる」
「真面目にやれ」
「はーい」
カイルが右手を差し出す。
たった一日触れていなかっただけなのに、妙に久しぶりに感じた。
リリアが手を重ねる。
指が絡んだ。
「……やっぱりこれがいい」
「集中しろ」
「カイル先輩も握る力強いよ」
「黙れ」
赤い数字を見る。
二十三。
変わらない。
「上がらないね」
「ああ」
一分待つ。
それでも二十三のままだ。
「じゃあ手繋ぐの大丈夫?」
「まだ分からない」
「慎重」
「当然だ」
「じゃあ次は?」
「魔力を流す」
二人の掌の間に、小さな光が生まれた。
二十三。
二十四。
二十五。
「上がった」
「ああ。止める」
すぐに魔力を切る。
数字も止まった。
「魔力の接続は関係ありそう」
「ああ」
「じゃあキスは?」
カイルが黙った。
「検証しないの?」
「お前は楽しんでいないか」
「ちょっと」
「真面目にやれ」
「でも必要でしょ?」
「……必要だ」
言いながら、カイルの耳が少し赤い。
「研究です」
「分かっている」
「顔赤いよ」
「黙れ」
カイルが椅子をリリアの方へ向けた。
「嫌なら言え」
「嫌じゃない」
「……分かった」
頬に手は触れない。
顔だけが近づく。
昨日よりずっと意識してしまった。
「リリア」
「何?」
「目を閉じろ」
「研究なのに?」
「集中できない」
「何に?」
「お前にだ」
言われた通り目を閉じる。
少しして、唇が触れた。
短いキス。
すぐに離れる。
「……数字」
「見る」
二人同時に記録帳へ顔を向けた。
二十五。
変わらない。
「上がってない」
「ああ」
リリアは嬉しくなった。
「じゃあキス大丈夫じゃん」
「待て。条件が別にある可能性が――」
「もう一回したら分かる?」
「お前は本当に研究する気があるのか?」
「あります」
「顔が違う」
「どういう顔?」
「もう一回したい顔だ」
「正解」
カイルが額を押さえた。
「……俺もしたいから困る」
「じゃあしようよ」
「検証だぞ」
「うん」
「絶対分かっていないだろう」
そう言いながら、今度はカイルの方から少し近づいた。
二度目も短い。
離れたあと、リリアはすぐ数字を見る。
二十五。
「変わらない」
「ああ」
「キス無罪」
「その言い方はやめろ」
リリアが笑った時だった。
数字が動いた。
二十六。
二十七。
「……え?」
カイルの表情が変わる。
「触ってないよね」
「ああ」
二十八。
数字はゆっくり上がっていく。
「止まれ」
カイルが術式を解除しようとする。
けれど止まらない。
二十九。
三十。
「カイル先輩」
「待て」
リリアは自分の胸元に手を置いた。
痛くはない。
苦しくもない。
ただ、何かが熱い。
「私、今ちょっと嬉しかった」
「何?」
「キスできるって分かって、嬉しかった」
カイルが動きを止める。
「昨日も、ありがとうって言った時に上がったんだよね」
「ああ」
「手繋いだ時も、ずっとじゃなくて一部だけ」
「ああ」
「もしかして……」
リリアはカイルを見る。
「気持ち?」
カイルの表情が変わった。
すぐに術式を組み替える。
「感情と魔力の波形を照合する」
「そんなことできるの?」
「簡易的になら」
新しい光が浮かぶ。
カイルは昨日の記録と現在の数値を重ねていく。
数分後、動きが止まった。
「……一致している」
「何と?」
「お前の感情変動だ」
リリアは赤い数字を見る。
三十で止まっている。
「嬉しいと上がるの?」
「正確には違う。感情が強く動いた時だ」
「じゃあ怒っても?」
「可能性はある」
「悲しくても?」
「ああ」
「恋愛だけじゃない?」
「おそらく」
リリアは少し安心した。
けれどカイルの顔は晴れない。
「何?」
「問題は、なぜ俺との間でこれほど強く反応するかだ」
「好きだから?」
「それだけなら、俺以外でも起きるはずだ」
「……魂魄封印術式がカイル先輩にあるから?」
「ああ」
カイルは立ち上がり、本棚から古い資料を取り出した。
「俺たち四人の封印は、元々リリアの魂と結びつくためのものだった。過去の世界では、それによって俺たちの選択そのものが歪められていた可能性がある」
「選択?」
「彼女を守る。彼女を選ぶ。彼女を失えば世界をやり直す。その方向へ、魂そのものが引っ張られる」
リリアは眉を寄せた。
「それって……好きにさせられてたってこと?」
「そこまでは断定できない」
カイルはすぐに答えた。
「感情そのものを作る術式ではない。少なくとも俺はそう考えている。だが、執着や保護欲を増幅していた可能性はある」
「じゃあ、今のカイル先輩の気持ちは?」
聞いた瞬間、カイルがこちらを見た。
リリア自身、少し怖くなった。
「私を好きなのも、その術式のせいだったりする?」
「違う」
即答だった。
「でも――」
「違う」
もう一度、はっきり言われる。
「俺は術式が停止している間に、お前を好きになった」
「……うん」
「昔のリリアと同じだと思っていた時より、お前が違う人間だと分かってからの方がずっと強く惹かれた。それを術式のせいにはさせない」
カイルはそこで少しだけ声を落とした。
「だが、これから再起動すれば話は別だ」
「どうなるの?」
「俺の感情が増幅される可能性がある」
「例えば?」
「お前を守りたいという気持ちが、制御できなくなる」
リリアは黙った。
「危険な場所へ行かせたくない。魔法を使わせたくない。他の人間から遠ざけたい。俺の目の届く場所に置きたい。今でも、そう思う瞬間はある」
「あるんだ」
「ある」
「結構怖いこと言ってる」
「だから話している」
カイルの声は静かだった。
「今は、それが間違っていると分かる。お前に嫌だと言われれば止まれる。だが術式が再起動した時も同じだとは保証できない」
昨日までなら、ここで彼はきっと離れた。
自分が危険になる可能性があるなら、リリアを守るために距離を置く。
リリアもそれを分かっていた。
「それで?」
「何がだ」
「私と離れた方がいいって思ってる?」
カイルは黙った。
「正直に」
「……思っている」
「うん」
「今すぐお前から離れて、封印の影響を受けない場所へ行くのが一番安全かもしれないとも思う」
「うん」
「だが、それを俺一人で決めるつもりはない」
リリアは少しだけ笑った。
「よかった」
「何がだ」
「また勝手に消えたら怒るところだった」
「分かっている」
「じゃあ私は、離れたくない」
「……即答だな」
「だってまだ“かもしれない”でしょ?」
「ああ」
「だったら調べる。危なくなったら、その時また考える」
「俺が本当にお前を傷つける可能性が出ても?」
「その時は逃げる」
「……逃げるのか」
「当たり前でしょ」
カイルが僅かに目を見開いた。
「私、カイル先輩のこと好きだけど、何されてもいいとは思ってないよ」
「……ああ」
「閉じ込めようとしたら逃げるし、魔法を勝手に封じようとしたら怒る。話聞かなくなったらセシルとかノアとかアレン先輩とかルシアン先輩とか、いっぱい呼ぶ」
「待て。なぜ男が三人も混ざる」
「今そこ?」
「気になった」
「レオン先輩も呼ぶ」
「増やすな」
思わず笑った。
カイルも、少しだけ笑う。
「でも本当にそうするから」
「ああ」
「だからカイル先輩も、変だと思ったら言って」
「自分で分かればな」
「私も見る」
「お前が?」
「恋人なので」
リリアは胸を張った。
「カイル先輩が変になってないか監視します」
「……立場が逆になったな」
「今まで監視されてたから仕返し」
「趣味が悪い」
「お互い様」
カイルは小さく息を吐いた。
それから、少し迷うように右手を見た。
「手」
「うん?」
「繋いでもいいか」
リリアは笑った。
「いいよ」
差し出された手を取る。
数字は三十。
変わらない。
「大丈夫」
「ああ」
「今ちょっと嬉しいけど上がらないね」
「感情の強さにも閾値があるのかもしれない」
「じゃあもっと嬉しくなったら上がる?」
「試すな」
「どうやって?」
「知らん」
「カイル先輩がすごいこと言ったら上がるかも」
「何を期待している」
「好きとか」
「……好きだ」
数字を見る。
三十。
「上がらない」
「なぜ少し残念そうなんだ」
「研究なので」
「嘘をつけ」
リリアは笑った。
「でも嬉しい」
「ああ」
「私も好き」
数字が一つ上がった。
三十一。
二人とも黙る。
「……上がった」
「ああ」
「私の方が好きってこと?」
「そういう意味ではない」
「でも私が言った時だけ」
「偶然だ」
「カイル先輩負けず嫌い?」
「違う」
リリアが笑っている横で、カイルは記録を取る。
その横顔は真剣だった。
けれど以前とは違う。
危険を見つけても、リリアを研究対象として扱わない。怖くても全部話す。自分の意見を言って、リリアの意見も聞く。
それならきっと、まだ大丈夫だと思えた。
研究を終えた頃には、外は暗くなっていた。
今日はキスをせず、手だけを繋いで女子寮へ戻る。
「今日はしないんだ」
寮の前でリリアが聞くと、カイルは少し困った顔をした。
「したい」
「じゃあ何で?」
「今は感情が大きく動く条件を増やしたくない」
「研究者っぽい」
「研究者だからな」
「我慢できる?」
「……する」
「偉い」
「子供扱いするな」
リリアは笑って、代わりに繋いだ手を少し揺らした。
「じゃあ今日はこれで」
「ああ」
「おやすみ、カイル先輩」
「おやすみ、リリア」
手を離す。
二歩ほど歩いたところで、後ろから声がした。
「リリア」
「何?」
振り返る。
「さっきの話だが」
「うん」
「もし俺が術式に影響されて、お前の選択を奪おうとしたら」
カイルは真っ直ぐリリアを見る。
「俺を止めろ」
「もちろん」
「遠慮するな」
「殴っていい?」
「できれば魔法にしてくれ」
「そっちの方が痛くない?」
「お前の腕力より確実だ」
「失礼」
リリアは少し笑ったあと、頷いた。
「でもカイル先輩も、自分で戻ってきてね」
「ああ」
「私に全部任せないで」
カイルが僅かに目を細める。
「分かった」
「約束」
「ああ。約束する」
今度こそ寮へ戻った。
その夜、カイルは一人で研究室に残らなかった。
リリアと決めた通り、記録だけを残して寮へ戻る。
だから、その瞬間を二人とも見ていなかった。
閉じられた研究記録の中で、赤い文字が一つ増えたことを。
『魂魄封印術式――接続率三十一パーセント』
その下に、今まで存在しなかった項目が浮かぶ。
『保護衝動――増幅開始』
そして翌朝、カイルがそれを読むより先に。
学院の実技訓練場で、リリアの魔法が暴走した。