魔法より、君に恋をする。
カイルルート 第44章 好きだから、触れたい
異変が起きたのは、一時間目の実技訓練だった。
課題は単純な魔力制御。標的へ一定量の魔力を流し、指定された範囲だけを破壊する。入学してから何度もやってきた訓練で、リリアにとって失敗する方が難しいはずだった。
「――あれ?」
魔法を発動した瞬間、いつもと感覚が違った。
指先から放った光が標的へ届く。その直後、止めたはずの魔力が勝手に膨らんだ。
白い光が弾ける。
「リリア!」
セシルの声が聞こえた。
リリアは咄嗟に術式を解除した。けれど魔法は消えず、逆に空間そのものを巻き込むように広がっていく。
「止まって……!」
もう一度強く念じる。
それでも止まらない。
怖い。
そう思った瞬間、魔力がさらに膨れ上がった。
感情に反応している。
昨日カイルと調べたことが頭をよぎった。
焦れば焦るほど悪化する。
「リリア、こっち見て」
すぐ近くまで来たセシルの声がした。
「大丈夫。まだ誰も怪我してない。だから一回、息して」
「でも止まらない」
「うん。でもリリアなら止められる。私もいるから」
セシルの声に合わせて息を吸おうとした、その時だった。
訓練場の扉が勢いよく開いた。
振り向くより先に分かった。
「リリア!」
聞き慣れた声だった。
「……カイル先輩」
カイルが走ってくる。
いつもの彼なら、こんな顔はしない。
明らかに焦っていた。
「動くな」
「カイル先輩、魔力が――」
「分かっている。俺を見るんだ」
言われた通り顔を上げる。
カイルはリリアのすぐ近くまで来たところで、手を伸ばしかけた。
けれど止まった。
触れれば魂魄封印術式が反応するかもしれない。
二人とも、それを知っている。
「リリア。触れていいか」
こんな時なのに。
それでも聞いた。
そのことが、リリアには嬉しかった。
「うん」
返事をした瞬間、カイルの手がリリアの手首を掴んだ。
「俺に魔力を流せ」
「でも先輩の封印が」
「全部じゃない。余った分だけだ。俺が受ける」
「危なくない?」
「危険なら止める。一緒にやると言っただろう」
カイルの手は強い。
けれど痛くはなかった。
「俺を見るんだ。周りは見るな」
「うん」
「息を吸え」
リリアは息を吸う。
「吐け」
ゆっくり吐く。
もう一度。
カイルの声だけを聞く。
少しずつ、暴れていた魔力が収まっていった。
白い光が小さくなる。
最後の一筋が消えた瞬間、リリアは大きく息を吐いた。
「……止まった」
「ああ」
「私、止められた?」
「止めた」
カイルの声が少しだけ震えていた。
「お前が止めた」
安心した途端、身体から力が抜けた。
「わ」
倒れそうになった身体を、カイルがすぐに支える。
そのまま胸元へ抱き込まれた。
「カイル先輩?」
返事がない。
腕が強い。
いつも抱きしめられる時より、明らかに強かった。
「……ちょっと苦しい」
言った瞬間、カイルの腕が緩んだ。
「悪い」
「ううん」
「怪我は」
「ない」
「本当に?」
「うん」
「痛いところは」
「ないよ」
「気分は」
「大丈夫」
「魔力酔いは」
「してない」
「本当に?」
「カイル先輩」
「何だ」
「質問多い」
カイルが黙った。
その顔を見て、リリアはようやく気づいた。
「……怖かった?」
答えがない。
「カイル先輩?」
「怖かった」
小さな声だった。
「お前の魔力が暴走したと聞いた瞬間、何も考えられなくなった」
カイルはリリアの肩を支えたまま、目を閉じる。
「また間に合わないと思った」
その言葉が何を意味しているのか、すぐに分かった。
昔のリリア。
救えなかった人。
「でも間に合ったよ」
「ああ」
「私、生きてる」
「ああ」
「カイル先輩が来る前から、セシルもいてくれた」
カイルがセシルを見る。
「……助かった」
「私は声をかけただけですよ」
セシルは少し笑った。
「でもリリア、今日はもう休んだ方がいいと思います。クロフォード先輩、連れていってあげてください」
「ああ」
「セシル、ありがとう」
「うん。あとで顔見に行くね」
そう言って、セシルはそれ以上二人の間へ入らなかった。
保健室へ向かう途中、カイルはずっとリリアの隣にいた。
手は繋いでいない。
けれど、少しでもふらつけば支えられるような距離を保っている。
「手、繋がないの?」
「今はやめておく」
「何で?」
「俺の封印がどうなっているか分からない」
「そっか」
「……繋ぎたいが」
小さく付け足された言葉に、リリアは笑った。
「私も」
「だから言うな」
「何で?」
「我慢している」
昨日も聞いた言葉だった。
でも今日は少し意味が違う。
触れたいのに、リリアのために触れない。
「じゃあ袖なら?」
「何?」
「手じゃなくて、袖」
リリアはカイルの制服の袖をつまんだ。
「これくらいならいいでしょ」
「……子供か」
「嫌?」
「嫌ではない」
「じゃあこれで」
袖をつまんだまま歩く。
カイルは何も言わなかった。
ただ歩く速度が少しだけ遅くなった。
保健室で簡単な診察を受けた結果、リリアの身体に異常はなかった。魔力の消耗も想定より少なく、少し休めば授業へ戻ってもいいと言われた。
けれど、保健室を出たところでカイルが言った。
「今日は戻るな」
リリアは足を止めた。
「……今の、命令?」
カイルも止まる。
一瞬、何かを言いかけた。
けれど飲み込んだ。
「……違う」
「じゃあ?」
「俺は、戻ってほしくない」
言い直した。
「理由は?」
「怖いからだ。また暴走するかもしれない。今度は俺が間に合わないかもしれない」
「うん」
「だから今日は休んでほしい。だが、決めるのはお前だ」
リリアはしばらくカイルを見つめた。
「じゃあ今日は休む」
「……いいのか」
「うん。私ももう一回起きたら怖いし、原因調べたい」
カイルの表情が少し緩んだ。
「ただし」
「何だ」
「研究室で一人で調べるの禁止」
「……分かっている」
「私も行く」
「今日は休め」
「研究室のソファで休む」
「女子寮へ戻れ」
「一人になる方が不安」
その一言で、カイルが黙った。
「カイル先輩といたい」
「……そういう言い方はずるい」
「本当だもん」
「分かった。研究室へ行く」
「やった」
「ただしお前は休む。解析は俺がする」
「一緒に決めるんじゃなかったの?」
「調べるのは俺だ。結果は全部見せる」
「ならいい」
北塔へ向かう途中も、リリアはずっとカイルの袖をつまんでいた。
研究室へ入ると、カイルはまずソファへリリアを座らせ、毛布まで持ってきた。
「そこまでしなくても」
「黙って使え」
「過保護始まってる?」
カイルの動きが止まった。
冗談のつもりだった。
けれど彼は笑わなかった。
「……そうかもしれない」
「カイル先輩」
「今、かなり強い」
「何が?」
「お前をここから出したくないという気持ちが」
リリアは黙った。
「誰にも会わせず、魔法も使わせず、俺の見える場所に置いておきたい」
静かな声だった。
「それが術式の影響なのか、俺自身の恐怖なのか、もう区別がつかない」
リリアは毛布を膝にかけたまま、カイルを見る。
「でも今、私を閉じ込めてないよ」
「ああ」
「授業戻るなって命令したのも言い直した」
「ああ」
「じゃあ大丈夫」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないよ」
リリアはソファから立ち上がった。
「座っていろ」
「ちょっとだけ」
「リリア」
「カイル先輩」
目の前まで行く。
「私に触れたい?」
カイルの眉が僅かに寄った。
「……触れたい」
「どれくらい?」
「今すぐ抱きしめたい」
「じゃあ、していいよ」
「駄目だ」
即答だった。
「何で?」
「今の俺がどこまで自分を制御できるか分からない」
「でも私が嫌って言ったら離せる?」
「離す」
「絶対?」
「ああ」
「じゃあ大丈夫」
「リリア」
「試してみよう」
リリアは両腕を広げた。
「抱きしめて」
カイルは動かなかった。
「カイル先輩」
「……お前は俺を信用しすぎだ」
「違う」
「何が」
「信用してるけど、何でも許すわけじゃない」
リリアは真っ直ぐ彼を見る。
「苦しかったら苦しいって言う。嫌だったら嫌って言う。離してって言う。それでカイル先輩が離してくれなかったら、本気で怒る」
「……ああ」
「だから今は、抱きしめてほしい」
長い沈黙のあと、カイルが一歩近づいた。
腕が背中へ回る。
最初は、驚くほど弱かった。
「もっと普通でいいよ」
「普通が分からない」
「昨日くらい」
「……難しい注文だな」
少しずつ腕に力が加わる。
胸元へ頬を寄せる。
いつものカイルの匂いがした。
「これくらい?」
「ああ」
「苦しくない」
「そうか」
「落ち着く」
腕がほんの少しだけ強くなった。
「俺もだ」
その声が頭の上から落ちてくる。
「リリア」
「何?」
「さっき、お前が倒れそうになった時」
「うん」
「本当に、何も考えられなかった」
リリアは黙って聞いた。
「世界がどうなるかも、封印がどうなるかもどうでもよかった。ただお前が生きていればいいと思った」
「うん」
「それが怖い」
「何で?」
「昔と同じだからだ」
カイルの腕が少し緩む。
「昔も、彼女一人が生きるなら世界が滅びてもいいと思った」
「でも今は違うよ」
「何が」
「私が世界滅びてもいいって言ったら、カイル先輩は止めるでしょ?」
少しの沈黙。
「……止める」
「じゃあ違う」
「そんな単純な話か?」
「私にはそう見える」
リリアは胸元から顔を上げた。
「好きな人が危なかったら、他のこと考えられなくなる時くらいあるんじゃない? 私だって今日カイル先輩が怪我したら、多分研究どころじゃなくなる」
「お前も?」
「当たり前でしょ」
カイルが少し驚いた顔をする。
「何その顔」
「いや」
「私だけが大事にされてると思ってた?」
「……少し」
「ひどい」
「悪い」
「私もカイル先輩のこと大事だよ」
その瞬間、背中に回っていた腕がまた強くなった。
「苦しい?」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん」
リリアは少し笑った。
「でもカイル先輩、今すごく抱きしめてる」
「……分かっている」
「離したくない?」
「ああ」
「私も今は離れたくない」
カイルが息を止めたのが分かった。
「リリア」
「何?」
「そういうことを言われると、キスしたくなる」
「していいよ」
「……お前な」
「嫌じゃないもん」
「今日は感情を大きく動かさない方がいい」
「じゃあしない?」
「……する」
「するんだ」
「今のは俺が悪い」
思わず笑った。
カイルも少しだけ笑う。
それから身体を離し、リリアの頬へ手を添えた。
「本当にいいか」
「うん」
唇が触れる。
短い。
いつもと同じくらい短いはずだった。
けれど離れたあと、カイルはすぐには手を退けなかった。
額が触れる。
「……もう一回したい」
初めて、カイルから言った。
リリアの胸が一気に熱くなる。
「うん」
「いいのか」
「したい」
今度は、リリアから少しだけ顔を近づけた。
二度目のキスも優しかった。
さっきよりほんの少し長い。
それでも、どちらからともなく離れる。
カイルの顔が近いままだった。
「……大丈夫?」
「何が?」
「止まれる?」
聞くと、カイルは一瞬黙った。
「止まれる」
「よかった」
「ただ」
「ただ?」
「かなり惜しい」
リリアは吹き出した。
「何それ」
「正直に言えと言ったのはお前だ」
「そうだけど」
「もう一度したい」
「じゃあ――」
「今日は終わりだ」
自分で言って、自分から一歩離れる。
「えー」
「その顔をするな」
「したかった」
「俺もだ」
「じゃあ何で?」
「お前の魔力が暴走した日だからだ」
「……それ言われたら何も言えない」
「だろうな」
カイルが少し笑った。
「続きは、お前が元気な日にする」
「続きって言った」
「言葉の綾だ」
「覚えとこ」
「忘れろ」
「無理」
久しぶりに、研究とは関係のないことで笑った気がした。
それからリリアはソファへ戻り、カイルは机に向かった。
けれど三十分ほど経ったところで、リリアは気づく。
「カイル先輩」
「何だ」
「こっち来て」
「なぜ」
「眠い」
「なら寝ろ」
「一人だと寝れない」
「……さっき一人が不安だと言っていたな」
「うん」
カイルは少し迷ったあと、資料を閉じた。
「隣?」
「隣」
ソファの端へ座る。
リリアは少しだけ身体を寄せた。
「肩借りていい?」
「ああ」
頭を預ける。
カイルの肩は少し硬かった。
「緊張してる?」
「している」
「何で」
「好きな女が肩で寝ようとしている」
「彼女でしょ」
「それでもだ」
「慣れて」
「努力する」
目を閉じる。
少しして、髪に指が触れた。
「撫でてる?」
「嫌か」
「好き」
ゆっくりと髪を撫でられる。
心地いい。
「カイル先輩」
「何だ」
「好き」
髪を撫でる手が止まった。
「……寝る直前に言うな」
「何で」
「返事をしたくなる」
「すればいいじゃん」
少しの沈黙。
「好きだ」
「うん」
「かなり好きだ」
リリアは目を開けた。
「今のもう一回」
「寝ろ」
「聞きたい」
「言わない」
「何で?」
「お前が嬉しそうだからだ」
「じゃあ言ってよ」
「だから言わない」
「意地悪」
リリアはカイルの肩へもう少し頬を寄せた。
「でも私もかなり好き」
「……リリア」
「何?」
「本当に寝ろ」
声が少し困っている。
それが面白くて、目を閉じたまま笑った。
少しずつ眠気が強くなる。
髪を撫でる手は止まらない。
意識が落ちる直前、額に何か柔らかいものが触れた。
キスだと思った。
でも眠くて、確認できなかった。
目を覚ましたのは、それから一時間ほど経った頃だった。
窓の外は夕方になっている。
「……寝てた」
「ああ」
「カイル先輩、ずっとここにいた?」
「ああ」
「研究は?」
「していない」
「何で?」
「お前が俺の肩で寝ていたから動けなかった」
「起こせばよかったのに」
「起こしたくなかった」
さらりと言われる。
寝起きの頭には強すぎた。
「……額にキスした?」
聞くと、カイルが黙った。
「したでしょ」
「寝ていたのに覚えているのか」
「やっぱりした」
「……一度だけだ」
「勝手に?」
少し意地悪く聞くと、カイルの表情が固まった。
「悪い」
「怒ってないよ」
「だが――」
「嬉しかった」
リリアは笑った。
「でも次は起きてる時にして」
「……分かった」
「約束」
「ああ」
カイルは少し安心したように息を吐いた。
その顔を見ながら、リリアは思った。
好きになる前は、カイルのことを何でも一人で決める怖い先輩だと思っていた。
今でもそういうところはある。
今日だって、暴走を見た瞬間には「授業へ戻るな」と命令した。
それでも言い直した。
怖いと認めた。
触れたいと言った。
止まれるかと聞かれて、止まった。
完璧に変わったわけではない。
だからこそ、少しずつ変わっていくところを隣で見たいと思う。
「カイル先輩」
「何だ」
「今日、もっと好きになった」
「……また突然だな」
「言いたくなったから」
カイルは少し黙ったあと、リリアの手を取った。
「俺もだ」
「何が?」
「今日、お前をもっと好きになった」
今度はリリアが黙る。
「……ずるい」
「何がだ」
「同じこと返すの」
「本当だから仕方ない」
指が絡む。
その瞬間、机の上の記録帳が赤く光った。
二人同時にそちらを見る。
「……忘れてた」
「俺もだ」
「今、絶対上がったよね」
「見るか?」
「見たくない」
「俺もだ」
二人で顔を見合わせた。
そして、笑った。
危険が消えたわけではない。
むしろ今日、リリアの魔法は初めて暴走した。
カイルの魂魄封印も、少しずつ彼の感情へ影響を与え始めている。
それでも今だけは、数字を見るより繋いだ手の方が大切だった。
カイルは記録帳を閉じた。
「今日は帰ろう」
「調べなくていいの?」
「明日、お前と調べる」
「うん」
「今日は休め」
「カイル先輩もね」
「ああ」
研究室を出る時も、二人は手を繋いだままだった。
今度は、その手を離すべきかどうかを考えなかった。
危険だから離れるのでも、好きだから何も考えず触れるのでもない。
触れたいと二人で思って、触れている。
今はそれでよかった。
課題は単純な魔力制御。標的へ一定量の魔力を流し、指定された範囲だけを破壊する。入学してから何度もやってきた訓練で、リリアにとって失敗する方が難しいはずだった。
「――あれ?」
魔法を発動した瞬間、いつもと感覚が違った。
指先から放った光が標的へ届く。その直後、止めたはずの魔力が勝手に膨らんだ。
白い光が弾ける。
「リリア!」
セシルの声が聞こえた。
リリアは咄嗟に術式を解除した。けれど魔法は消えず、逆に空間そのものを巻き込むように広がっていく。
「止まって……!」
もう一度強く念じる。
それでも止まらない。
怖い。
そう思った瞬間、魔力がさらに膨れ上がった。
感情に反応している。
昨日カイルと調べたことが頭をよぎった。
焦れば焦るほど悪化する。
「リリア、こっち見て」
すぐ近くまで来たセシルの声がした。
「大丈夫。まだ誰も怪我してない。だから一回、息して」
「でも止まらない」
「うん。でもリリアなら止められる。私もいるから」
セシルの声に合わせて息を吸おうとした、その時だった。
訓練場の扉が勢いよく開いた。
振り向くより先に分かった。
「リリア!」
聞き慣れた声だった。
「……カイル先輩」
カイルが走ってくる。
いつもの彼なら、こんな顔はしない。
明らかに焦っていた。
「動くな」
「カイル先輩、魔力が――」
「分かっている。俺を見るんだ」
言われた通り顔を上げる。
カイルはリリアのすぐ近くまで来たところで、手を伸ばしかけた。
けれど止まった。
触れれば魂魄封印術式が反応するかもしれない。
二人とも、それを知っている。
「リリア。触れていいか」
こんな時なのに。
それでも聞いた。
そのことが、リリアには嬉しかった。
「うん」
返事をした瞬間、カイルの手がリリアの手首を掴んだ。
「俺に魔力を流せ」
「でも先輩の封印が」
「全部じゃない。余った分だけだ。俺が受ける」
「危なくない?」
「危険なら止める。一緒にやると言っただろう」
カイルの手は強い。
けれど痛くはなかった。
「俺を見るんだ。周りは見るな」
「うん」
「息を吸え」
リリアは息を吸う。
「吐け」
ゆっくり吐く。
もう一度。
カイルの声だけを聞く。
少しずつ、暴れていた魔力が収まっていった。
白い光が小さくなる。
最後の一筋が消えた瞬間、リリアは大きく息を吐いた。
「……止まった」
「ああ」
「私、止められた?」
「止めた」
カイルの声が少しだけ震えていた。
「お前が止めた」
安心した途端、身体から力が抜けた。
「わ」
倒れそうになった身体を、カイルがすぐに支える。
そのまま胸元へ抱き込まれた。
「カイル先輩?」
返事がない。
腕が強い。
いつも抱きしめられる時より、明らかに強かった。
「……ちょっと苦しい」
言った瞬間、カイルの腕が緩んだ。
「悪い」
「ううん」
「怪我は」
「ない」
「本当に?」
「うん」
「痛いところは」
「ないよ」
「気分は」
「大丈夫」
「魔力酔いは」
「してない」
「本当に?」
「カイル先輩」
「何だ」
「質問多い」
カイルが黙った。
その顔を見て、リリアはようやく気づいた。
「……怖かった?」
答えがない。
「カイル先輩?」
「怖かった」
小さな声だった。
「お前の魔力が暴走したと聞いた瞬間、何も考えられなくなった」
カイルはリリアの肩を支えたまま、目を閉じる。
「また間に合わないと思った」
その言葉が何を意味しているのか、すぐに分かった。
昔のリリア。
救えなかった人。
「でも間に合ったよ」
「ああ」
「私、生きてる」
「ああ」
「カイル先輩が来る前から、セシルもいてくれた」
カイルがセシルを見る。
「……助かった」
「私は声をかけただけですよ」
セシルは少し笑った。
「でもリリア、今日はもう休んだ方がいいと思います。クロフォード先輩、連れていってあげてください」
「ああ」
「セシル、ありがとう」
「うん。あとで顔見に行くね」
そう言って、セシルはそれ以上二人の間へ入らなかった。
保健室へ向かう途中、カイルはずっとリリアの隣にいた。
手は繋いでいない。
けれど、少しでもふらつけば支えられるような距離を保っている。
「手、繋がないの?」
「今はやめておく」
「何で?」
「俺の封印がどうなっているか分からない」
「そっか」
「……繋ぎたいが」
小さく付け足された言葉に、リリアは笑った。
「私も」
「だから言うな」
「何で?」
「我慢している」
昨日も聞いた言葉だった。
でも今日は少し意味が違う。
触れたいのに、リリアのために触れない。
「じゃあ袖なら?」
「何?」
「手じゃなくて、袖」
リリアはカイルの制服の袖をつまんだ。
「これくらいならいいでしょ」
「……子供か」
「嫌?」
「嫌ではない」
「じゃあこれで」
袖をつまんだまま歩く。
カイルは何も言わなかった。
ただ歩く速度が少しだけ遅くなった。
保健室で簡単な診察を受けた結果、リリアの身体に異常はなかった。魔力の消耗も想定より少なく、少し休めば授業へ戻ってもいいと言われた。
けれど、保健室を出たところでカイルが言った。
「今日は戻るな」
リリアは足を止めた。
「……今の、命令?」
カイルも止まる。
一瞬、何かを言いかけた。
けれど飲み込んだ。
「……違う」
「じゃあ?」
「俺は、戻ってほしくない」
言い直した。
「理由は?」
「怖いからだ。また暴走するかもしれない。今度は俺が間に合わないかもしれない」
「うん」
「だから今日は休んでほしい。だが、決めるのはお前だ」
リリアはしばらくカイルを見つめた。
「じゃあ今日は休む」
「……いいのか」
「うん。私ももう一回起きたら怖いし、原因調べたい」
カイルの表情が少し緩んだ。
「ただし」
「何だ」
「研究室で一人で調べるの禁止」
「……分かっている」
「私も行く」
「今日は休め」
「研究室のソファで休む」
「女子寮へ戻れ」
「一人になる方が不安」
その一言で、カイルが黙った。
「カイル先輩といたい」
「……そういう言い方はずるい」
「本当だもん」
「分かった。研究室へ行く」
「やった」
「ただしお前は休む。解析は俺がする」
「一緒に決めるんじゃなかったの?」
「調べるのは俺だ。結果は全部見せる」
「ならいい」
北塔へ向かう途中も、リリアはずっとカイルの袖をつまんでいた。
研究室へ入ると、カイルはまずソファへリリアを座らせ、毛布まで持ってきた。
「そこまでしなくても」
「黙って使え」
「過保護始まってる?」
カイルの動きが止まった。
冗談のつもりだった。
けれど彼は笑わなかった。
「……そうかもしれない」
「カイル先輩」
「今、かなり強い」
「何が?」
「お前をここから出したくないという気持ちが」
リリアは黙った。
「誰にも会わせず、魔法も使わせず、俺の見える場所に置いておきたい」
静かな声だった。
「それが術式の影響なのか、俺自身の恐怖なのか、もう区別がつかない」
リリアは毛布を膝にかけたまま、カイルを見る。
「でも今、私を閉じ込めてないよ」
「ああ」
「授業戻るなって命令したのも言い直した」
「ああ」
「じゃあ大丈夫」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないよ」
リリアはソファから立ち上がった。
「座っていろ」
「ちょっとだけ」
「リリア」
「カイル先輩」
目の前まで行く。
「私に触れたい?」
カイルの眉が僅かに寄った。
「……触れたい」
「どれくらい?」
「今すぐ抱きしめたい」
「じゃあ、していいよ」
「駄目だ」
即答だった。
「何で?」
「今の俺がどこまで自分を制御できるか分からない」
「でも私が嫌って言ったら離せる?」
「離す」
「絶対?」
「ああ」
「じゃあ大丈夫」
「リリア」
「試してみよう」
リリアは両腕を広げた。
「抱きしめて」
カイルは動かなかった。
「カイル先輩」
「……お前は俺を信用しすぎだ」
「違う」
「何が」
「信用してるけど、何でも許すわけじゃない」
リリアは真っ直ぐ彼を見る。
「苦しかったら苦しいって言う。嫌だったら嫌って言う。離してって言う。それでカイル先輩が離してくれなかったら、本気で怒る」
「……ああ」
「だから今は、抱きしめてほしい」
長い沈黙のあと、カイルが一歩近づいた。
腕が背中へ回る。
最初は、驚くほど弱かった。
「もっと普通でいいよ」
「普通が分からない」
「昨日くらい」
「……難しい注文だな」
少しずつ腕に力が加わる。
胸元へ頬を寄せる。
いつものカイルの匂いがした。
「これくらい?」
「ああ」
「苦しくない」
「そうか」
「落ち着く」
腕がほんの少しだけ強くなった。
「俺もだ」
その声が頭の上から落ちてくる。
「リリア」
「何?」
「さっき、お前が倒れそうになった時」
「うん」
「本当に、何も考えられなかった」
リリアは黙って聞いた。
「世界がどうなるかも、封印がどうなるかもどうでもよかった。ただお前が生きていればいいと思った」
「うん」
「それが怖い」
「何で?」
「昔と同じだからだ」
カイルの腕が少し緩む。
「昔も、彼女一人が生きるなら世界が滅びてもいいと思った」
「でも今は違うよ」
「何が」
「私が世界滅びてもいいって言ったら、カイル先輩は止めるでしょ?」
少しの沈黙。
「……止める」
「じゃあ違う」
「そんな単純な話か?」
「私にはそう見える」
リリアは胸元から顔を上げた。
「好きな人が危なかったら、他のこと考えられなくなる時くらいあるんじゃない? 私だって今日カイル先輩が怪我したら、多分研究どころじゃなくなる」
「お前も?」
「当たり前でしょ」
カイルが少し驚いた顔をする。
「何その顔」
「いや」
「私だけが大事にされてると思ってた?」
「……少し」
「ひどい」
「悪い」
「私もカイル先輩のこと大事だよ」
その瞬間、背中に回っていた腕がまた強くなった。
「苦しい?」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん」
リリアは少し笑った。
「でもカイル先輩、今すごく抱きしめてる」
「……分かっている」
「離したくない?」
「ああ」
「私も今は離れたくない」
カイルが息を止めたのが分かった。
「リリア」
「何?」
「そういうことを言われると、キスしたくなる」
「していいよ」
「……お前な」
「嫌じゃないもん」
「今日は感情を大きく動かさない方がいい」
「じゃあしない?」
「……する」
「するんだ」
「今のは俺が悪い」
思わず笑った。
カイルも少しだけ笑う。
それから身体を離し、リリアの頬へ手を添えた。
「本当にいいか」
「うん」
唇が触れる。
短い。
いつもと同じくらい短いはずだった。
けれど離れたあと、カイルはすぐには手を退けなかった。
額が触れる。
「……もう一回したい」
初めて、カイルから言った。
リリアの胸が一気に熱くなる。
「うん」
「いいのか」
「したい」
今度は、リリアから少しだけ顔を近づけた。
二度目のキスも優しかった。
さっきよりほんの少し長い。
それでも、どちらからともなく離れる。
カイルの顔が近いままだった。
「……大丈夫?」
「何が?」
「止まれる?」
聞くと、カイルは一瞬黙った。
「止まれる」
「よかった」
「ただ」
「ただ?」
「かなり惜しい」
リリアは吹き出した。
「何それ」
「正直に言えと言ったのはお前だ」
「そうだけど」
「もう一度したい」
「じゃあ――」
「今日は終わりだ」
自分で言って、自分から一歩離れる。
「えー」
「その顔をするな」
「したかった」
「俺もだ」
「じゃあ何で?」
「お前の魔力が暴走した日だからだ」
「……それ言われたら何も言えない」
「だろうな」
カイルが少し笑った。
「続きは、お前が元気な日にする」
「続きって言った」
「言葉の綾だ」
「覚えとこ」
「忘れろ」
「無理」
久しぶりに、研究とは関係のないことで笑った気がした。
それからリリアはソファへ戻り、カイルは机に向かった。
けれど三十分ほど経ったところで、リリアは気づく。
「カイル先輩」
「何だ」
「こっち来て」
「なぜ」
「眠い」
「なら寝ろ」
「一人だと寝れない」
「……さっき一人が不安だと言っていたな」
「うん」
カイルは少し迷ったあと、資料を閉じた。
「隣?」
「隣」
ソファの端へ座る。
リリアは少しだけ身体を寄せた。
「肩借りていい?」
「ああ」
頭を預ける。
カイルの肩は少し硬かった。
「緊張してる?」
「している」
「何で」
「好きな女が肩で寝ようとしている」
「彼女でしょ」
「それでもだ」
「慣れて」
「努力する」
目を閉じる。
少しして、髪に指が触れた。
「撫でてる?」
「嫌か」
「好き」
ゆっくりと髪を撫でられる。
心地いい。
「カイル先輩」
「何だ」
「好き」
髪を撫でる手が止まった。
「……寝る直前に言うな」
「何で」
「返事をしたくなる」
「すればいいじゃん」
少しの沈黙。
「好きだ」
「うん」
「かなり好きだ」
リリアは目を開けた。
「今のもう一回」
「寝ろ」
「聞きたい」
「言わない」
「何で?」
「お前が嬉しそうだからだ」
「じゃあ言ってよ」
「だから言わない」
「意地悪」
リリアはカイルの肩へもう少し頬を寄せた。
「でも私もかなり好き」
「……リリア」
「何?」
「本当に寝ろ」
声が少し困っている。
それが面白くて、目を閉じたまま笑った。
少しずつ眠気が強くなる。
髪を撫でる手は止まらない。
意識が落ちる直前、額に何か柔らかいものが触れた。
キスだと思った。
でも眠くて、確認できなかった。
目を覚ましたのは、それから一時間ほど経った頃だった。
窓の外は夕方になっている。
「……寝てた」
「ああ」
「カイル先輩、ずっとここにいた?」
「ああ」
「研究は?」
「していない」
「何で?」
「お前が俺の肩で寝ていたから動けなかった」
「起こせばよかったのに」
「起こしたくなかった」
さらりと言われる。
寝起きの頭には強すぎた。
「……額にキスした?」
聞くと、カイルが黙った。
「したでしょ」
「寝ていたのに覚えているのか」
「やっぱりした」
「……一度だけだ」
「勝手に?」
少し意地悪く聞くと、カイルの表情が固まった。
「悪い」
「怒ってないよ」
「だが――」
「嬉しかった」
リリアは笑った。
「でも次は起きてる時にして」
「……分かった」
「約束」
「ああ」
カイルは少し安心したように息を吐いた。
その顔を見ながら、リリアは思った。
好きになる前は、カイルのことを何でも一人で決める怖い先輩だと思っていた。
今でもそういうところはある。
今日だって、暴走を見た瞬間には「授業へ戻るな」と命令した。
それでも言い直した。
怖いと認めた。
触れたいと言った。
止まれるかと聞かれて、止まった。
完璧に変わったわけではない。
だからこそ、少しずつ変わっていくところを隣で見たいと思う。
「カイル先輩」
「何だ」
「今日、もっと好きになった」
「……また突然だな」
「言いたくなったから」
カイルは少し黙ったあと、リリアの手を取った。
「俺もだ」
「何が?」
「今日、お前をもっと好きになった」
今度はリリアが黙る。
「……ずるい」
「何がだ」
「同じこと返すの」
「本当だから仕方ない」
指が絡む。
その瞬間、机の上の記録帳が赤く光った。
二人同時にそちらを見る。
「……忘れてた」
「俺もだ」
「今、絶対上がったよね」
「見るか?」
「見たくない」
「俺もだ」
二人で顔を見合わせた。
そして、笑った。
危険が消えたわけではない。
むしろ今日、リリアの魔法は初めて暴走した。
カイルの魂魄封印も、少しずつ彼の感情へ影響を与え始めている。
それでも今だけは、数字を見るより繋いだ手の方が大切だった。
カイルは記録帳を閉じた。
「今日は帰ろう」
「調べなくていいの?」
「明日、お前と調べる」
「うん」
「今日は休め」
「カイル先輩もね」
「ああ」
研究室を出る時も、二人は手を繋いだままだった。
今度は、その手を離すべきかどうかを考えなかった。
危険だから離れるのでも、好きだから何も考えず触れるのでもない。
触れたいと二人で思って、触れている。
今はそれでよかった。