魔法より、君に恋をする。
カイルルート 第45章 今度こそ、一緒に生きる
翌朝、カイルは来なかった。
七時二十五分。
いつもの木の下には誰もいない。
リリアは時計を確認した。
「……珍しい」
七時三十分。
まだ来ない。
昨日はあれだけ「明日」と言っていたのだから、忘れたとは思えない。何か急な用事でも入ったのだろうか。
七時三十五分になったところで、リリアは女子寮へ戻ろうとした。
その時、遠くから足音が聞こえた。
「リリア」
振り返る。
「カイル先輩?」
走ってきたらしい。
黒髪は少し乱れ、制服のネクタイもいつもより雑だった。
「ごめん。遅れた」
「珍しい。寝坊?」
「違う」
カイルはリリアの前で立ち止まる。
そして、何も言わずに右手を差し出した。
リリアは少し驚いた。
「今日はカイル先輩からなんだ」
「ああ」
その手を取る。
指が絡んだ瞬間、カイルが強く握った。
「……強い」
「悪い」
「何かあった?」
カイルはすぐには答えなかった。
「研究室へ行きたい」
「授業は?」
「その前に話したい」
表情を見れば、冗談を言える空気ではないことくらい分かった。
「分かった」
二人で北塔へ向かった。
カイルは歩いている間、一度も手を離さなかった。
研究室へ入ると、机の上には昨日閉じたはずの記録帳が開かれていた。
「これ」
リリアが指差す。
「昨日の?」
「ああ」
赤い文字が浮かんでいる。
『魂魄封印術式――接続率七十八パーセント』
「……昨日三十一じゃなかった?」
「ああ」
「一晩で?」
「上がった」
カイルの声が低い。
「原因は?」
「昨日のお前の魔法暴走だ。可能性創造が大きく開いたことで、過去の術式が現在のお前を新しい接続対象として認識し始めている」
「それって……」
「このまま百になれば、何が起きるか分からない」
カイルが別の紙を見せる。
「ただ、昨夜一つだけ方法を見つけた」
リリアはその顔を見た。
「嫌な方法?」
「……ああ」
「言って」
「お前の可能性創造を完全に封じる」
予想していた答えだった。
「一時的じゃなくて?」
「完全にだ」
「戻せる?」
「保証できない」
リリアは黙った。
「成功すれば、接続は止まる可能性が高い。少なくとも世界への干渉はできなくなる」
「失敗したら?」
「お前の魂そのものに傷が残る」
「却下」
即答した。
カイルの眉が寄る。
「最後まで聞け」
「聞いても嫌」
「リリア」
「昨日言ったよね。私の魔法だから封じたくないって」
「状況が変わった」
「だからって答えは変わらない」
カイルが机へ手をついた。
「七十八パーセントだ」
「うん」
「次に暴走すれば百まで上がる可能性がある」
「分かってる」
「分かっていない」
声が強くなった。
リリアは黙る。
「百になれば、お前がどうなるか分からない。魂を過去の術式に取り込まれるかもしれない。今のお前が消える可能性すらある」
「……それは怖い」
「なら」
「でも嫌」
リリアは真っ直ぐカイルを見る。
「怖いからって、今すぐ私の魔法をなくすのは嫌」
「生きていればいいだろう!」
初めて、カイルが声を荒らげた。
研究室が静まり返る。
言った本人も驚いたようだった。
それでも止まらない。
「魔法なんてなくてもいい。学院を辞めてもいい。俺のそばにいれば――」
そこでカイルの声が止まった。
リリアも何も言わなかった。
俺のそばにいれば。
それは彼が一番言いたくなかった言葉のはずだった。
「……違う」
カイルが自分で呟く。
「今のは違う」
「カイル先輩」
「違うんだ」
右手で額を押さえる。
「分かっている。お前の人生だ。魔法も学院も、お前が決めることだ」
「うん」
「なのに……」
机の上の記録帳が赤く光る。
『保護衝動――増幅率六十四パーセント』
リリアはその文字を見る。
「術式のせい?」
「……分からない」
「カイル先輩自身はどう思ってる?」
「お前を閉じ込めたい」
苦しそうな声だった。
「今すぐ魔法を封じて、俺の目の届く場所から一歩も出したくない」
「うん」
「誰にも触らせたくない。危険なことをさせたくない。お前が嫌だと言っても、俺が正しいと決めてしまいそうになる」
カイルは拳を握った。
「だから今、俺から離れろ」
「嫌」
「リリア」
「それもカイル先輩が一人で決めてる」
「俺がお前を傷つけるかもしれない!」
「その時は逃げるって言ったでしょ」
「今逃げろと言っている!」
「まだ何もされてない!」
今度はリリアも声を上げた。
二人で睨み合う。
先に視線を逸らしたのはカイルだった。
「……どうすればいい」
その声は、ひどく弱かった。
「俺はまた同じことをする」
「してない」
「するかもしれない」
「まだしてない」
「だが――」
「カイル先輩」
リリアは一歩近づいた。
「私を見て」
カイルが顔を上げる。
「昔のリリアじゃなくて、私を見て」
「見ている」
「じゃあ聞いて」
リリアは胸元へ手を当てた。
「昔の私がカイル先輩を許すかどうかなんて、私は知らない」
カイルの目が揺れる。
「ありがとうって言って死んだ人が、本当は何を思ってたのかも知らない。私が代わりに許すこともできない」
「……ああ」
「でも私は今ここにいる」
リリアは彼へ手を伸ばした。
「私は、今の私としてカイル先輩が好き」
カイルはその手を見た。
けれど取らない。
「触ったら、接続率が上がる」
「だから?」
「危険だ」
「じゃあ聞く。カイル先輩はどうしたい?」
「……触れたい」
「私も」
「だが」
「危険だから触らないって、二人で決めた?」
カイルが黙った。
「決めてないよね」
「……ああ」
「じゃあ勝手に離れないで」
それでもカイルは動かない。
リリアは自分から彼の手を取った。
指を絡める。
記録帳の数字が動いた。
七十九。
「リリア」
「上がったね」
「離せ」
「嫌」
「八十になる」
「だから何?」
「お前は……!」
「カイル先輩」
リリアは強く手を握った。
「私、死にたいわけじゃないよ」
その一言で、カイルが止まった。
「魔法を失ってもいいと思ってるわけでもない。世界なんてどうでもいいとも思ってない」
「……ああ」
「全部ほしい」
「全部?」
「生きたい。魔法も使いたい。学院も卒業したい。友達とも会いたい」
そして、繋いだ手を持ち上げる。
「カイル先輩とも一緒にいたい」
カイルの目が揺れた。
「欲張りだな」
「知ってる」
「全部守れる保証はない」
「じゃあ一緒に考えよう」
「失敗したら?」
「その時はその時」
「俺はそんなふうに割り切れない」
「じゃあ怖がってていいよ」
「……何?」
「私も怖いから」
リリアは少し笑った。
「二人で怖がろう」
カイルは何も言わなかった。
ただ、繋いだ手の力が少しずつ戻ってくる。
「俺はずっと」
低い声だった。
「お前を守ることばかり考えていた」
「うん」
「昔もそうだった。守れなかったから、次は絶対に失敗しないと思った」
「うん」
「だからお前が何を望むかより、生き残らせることを優先しそうになる」
「知ってる」
「でも、それでは駄目なんだな」
「私は嫌」
「ああ」
カイルがようやくリリアを見る。
「なら、もう一度約束する」
「何を?」
「お前を守るために、お前の人生を奪わない」
リリアは少し笑った。
「うん」
「お前が危険な選択をすれば反対する」
「どうぞ」
「喧嘩もする」
「負けないよ」
「知っている」
「でも最後は?」
「一緒に決める」
「うん」
その瞬間、記録帳が強く光った。
七十九。
八十。
八十三。
「カイル先輩」
「分かっている」
数字が急激に上がっていく。
八十七。
九十一。
「手、離す?」
リリアが聞く。
カイルは一瞬迷った。
「……いや」
「いいの?」
「今離しても止まらない」
数字は九十四。
「接触が原因じゃない。お前の感情と俺の封印が共鳴している」
「じゃあどうする?」
「術式そのものを壊す」
カイルが研究記録を開く。
「昨日までに構造はほぼ解析した。だが問題がある」
「何?」
「魂魄封印は俺の魂に組み込まれている。外から破壊すれば俺の魂まで損傷する」
「却下」
「だから最後まで聞け」
「また死ぬ方法だったら聞かない」
「違う」
カイルはリリアの手を強く握った。
「俺一人では壊せない。だが、お前の可能性創造なら新しい状態を作れるかもしれない」
「新しい状態?」
「封印を壊すんじゃない」
カイルが魔法陣を展開する。
「俺と封印を切り離す」
リリアは目を見開いた。
「できる?」
「分からない」
「成功率は?」
「計算できない」
「珍しい」
「未知の魔法だからな」
「失敗したら?」
「俺が死ぬ可能性はある」
「却下」
「リリア」
「嫌」
「まだ続きがある」
「何?」
「お前にも危険がある」
「もっと却下」
カイルが僅かに笑った。
「そこは俺も同じ意見だ」
「じゃあやめる?」
「いや」
「どっち?」
「安全な方法を今から二人で作る」
リリアは瞬きをした。
「そんなことできる?」
「お前の魔法は何だ」
「可能性創造」
「なら、今まで存在しなかった可能性を作れ」
「無茶言うね」
「一人ではやらせない」
カイルが机いっぱいに資料を広げる。
「俺が術式を組む。お前が可能性を作る。危険値が上がれば互いに止める」
「……共同研究?」
「ああ」
「恋人共同作業?」
「今それを言うのか」
「緊張してるから」
「俺もだ」
「カイル先輩も?」
「当たり前だろう」
少しだけ笑った。
それだけで、怖さが消えるわけではない。
それでも一人ではない。
「やろう」
「ああ」
二人は同時に魔力を展開した。
青白いカイルの術式。
白銀に輝くリリアの可能性創造。
二つの魔法が重なる。
九十六。
九十七。
魂魄封印の接続率が上がる。
「リリア、俺の術式だけ見ろ」
「うん」
「世界全体へ触れるな。俺と封印の境界だけだ」
「分かった」
光の中に、一本の赤い線が見えた。
カイルの魂へ食い込むように伸びている。
「これ?」
「ああ」
「切ればいい?」
「切るな。切れば俺も傷つく」
「じゃあ?」
「新しい境界を作る」
リリアは目を閉じた。
壊すのではない。
消すのでもない。
今まで存在しなかった状態。
カイルはカイルのまま。
記憶も、感情も、過去も残る。
ただ、選択を縛るものだけを外す。
「……できるかも」
「無理はするな」
「でもやる」
「危険なら止める」
「一緒にね」
「ああ」
九十八。
光が強くなる。
リリアの魔力が揺れた。
カイルの手がすぐに支える。
「俺を見るんだ」
目を開ける。
すぐそこにカイルがいる。
「怖い?」
「怖い」
「俺もだ」
「逃げる?」
「逃げない」
「私も」
九十九。
赤い光が研究室を埋め尽くした。
カイルの顔が苦痛に歪む。
「カイル先輩!」
「続けろ!」
「でも!」
「俺は大丈夫だ!」
「それ信用ならない!」
「なら見ていろ!」
カイルがリリアの手を自分の胸へ押し当てた。
心臓が動いている。
「生きている」
「うん」
「お前も生きろ」
「うん」
「どちらかだけじゃない」
カイルの声が震える。
「今度こそ、一緒に生きる」
胸の奥で、何かが弾けた。
リリアは目を閉じる。
「――可能性創造」
願ったのは奇跡ではない。
カイルを救ってほしいでもない。
自分だけを守ってほしいでもない。
二人とも、自分の意思で明日を選べる未来。
白銀の光が赤い線を包む。
切らない。
壊さない。
境界を作る。
カイルの魂と、彼を縛ってきた術式の間に。
赤い線が、ゆっくりと浮かび上がった。
「……離れて」
リリアが呟く。
「カイル先輩から、離れて」
百。
数字が到達した。
同時に、赤い光が爆発した。
「リリア!」
身体が引かれる。
カイルに抱き込まれた。
大きな音がした。
机の上の紙が舞い上がり、窓が震える。
リリアは反射的にカイルの制服を掴んだ。
数秒。
それとももっと長かったのかもしれない。
やがて、静かになった。
「……カイル先輩」
返事がない。
「カイル先輩?」
心臓が冷える。
顔を上げる。
「カイル先輩!」
「……うるさい」
声がした。
「生きてる!」
「勝手に殺すな」
力が抜けた。
「よかった……」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
リリアは彼の胸へ耳を当てた。
心臓が動いている。
「動いてる」
「当たり前だ」
「だって怖かった」
「俺もだ」
カイルの腕が背中へ回る。
今度は、強すぎない。
リリアが苦しくない程度の力だった。
「……数字」
リリアが言う。
カイルが記録帳を見る。
接続率。
百。
その数字に、一本の線が入る。
そして消えた。
『魂魄封印術式――切離完了』
二人とも言葉を失った。
その下に、新しい表示が現れる。
『対象個体との強制接続――解除』
「……できた?」
「ああ」
「本当に?」
「おそらく」
「おそらく?」
「研究者に百パーセントを求めるな」
「今は言ってよ」
カイルが少し笑った。
「できた」
「うん」
「俺はもう、術式にお前を選ばされない」
リリアは彼を見た。
「じゃあ今、私のこと好き?」
「ああ」
「術式なくなったのに?」
「ああ」
「どれくらい?」
「確認する必要があるか?」
「ある」
カイルは呆れたように息を吐いた。
それでも、逃げなかった。
「好きだ」
「うん」
「お前が思っているより、ずっと好きだ」
胸が熱くなる。
「それ、術式?」
「違う」
「証明できる?」
「できる」
「どうやって?」
カイルの手が頬へ触れた。
でも、そこで止まる。
「キスしていいか」
リリアは少し笑った。
どんなに感情が強くても。
術式がなくなっても。
ちゃんと聞いてくれる。
「うん」
唇が重なった。
短いキスだった。
離れたあと、リリアは彼の制服を掴んだまま見上げる。
「……もう一回」
カイルが僅かに目を見開いた。
「いいのか」
「私がしたい」
「分かった」
二度目は、さっきより少しだけ長かった。
それでも急がない。
リリアが離れると、カイルも追わなかった。
「止まれた」
「当たり前だ」
「保護衝動なくなった?」
「お前を守りたい気持ちはある」
「じゃあ術式残ってる?」
「違う」
カイルはリリアの頬を撫でる。
「これは俺の意思だ」
「そっか」
「ただし、お前の選択を奪わない」
「うん」
「危険なことをしたら怒る」
「私も怒る」
「無茶をしたら止める」
「カイル先輩もね」
「ああ」
「勝手に死なない」
「ああ」
「一緒に生きる」
カイルの目が少しだけ柔らかくなる。
「ああ」
額が触れた。
「一緒に生きる」
その言葉は、もう過去への誓いではなかった。
死んだ誰かへの償いでもない。
今ここにいる二人が、これからのために交わす約束だった。
けれど、その時。
机の上の記録帳がもう一度光った。
今度は赤ではない。
白い光だった。
「……まだ何かある?」
「待て」
カイルが記録を見る。
『第一封印――解除』
リリアは眉を寄せた。
「第一?」
「ああ」
次の文字が浮かぶ。
『残存魂魄封印――三』
部屋が静まり返った。
「三って」
リリアが呟く。
「ノア、アレン、ルシアン先輩?」
「……おそらく」
カイルの表情が戻る。
研究者の顔。
けれど以前とは違う。
一人で何もかも背負おうとする顔ではない。
「どうする?」
リリアが聞いた。
カイルは少し考える。
「まず三人に話す」
「うん」
「そのあと、全員で調べる」
「うん」
「お前にも全部話す」
リリアは笑った。
「百点」
「採点するな」
「彼氏として百点」
「……それなら悪くない」
「そこは喜ぶんだ」
カイルが珍しく笑った。
リリアはその顔を見ながら、繋いだ手を握り直す。
カイルの封印は消えた。
けれど世界の問題は、まだ終わっていない。
残り三つ。
そして、リリア自身の可能性創造。
きっとこれからも怖いことはある。
それでも。
もう一人で守る人と、守られる人ではない。
二人で選ぶ。
二人で怖がる。
二人で生きる。
その未来を、今度こそ誰にも決めさせない。
七時二十五分。
いつもの木の下には誰もいない。
リリアは時計を確認した。
「……珍しい」
七時三十分。
まだ来ない。
昨日はあれだけ「明日」と言っていたのだから、忘れたとは思えない。何か急な用事でも入ったのだろうか。
七時三十五分になったところで、リリアは女子寮へ戻ろうとした。
その時、遠くから足音が聞こえた。
「リリア」
振り返る。
「カイル先輩?」
走ってきたらしい。
黒髪は少し乱れ、制服のネクタイもいつもより雑だった。
「ごめん。遅れた」
「珍しい。寝坊?」
「違う」
カイルはリリアの前で立ち止まる。
そして、何も言わずに右手を差し出した。
リリアは少し驚いた。
「今日はカイル先輩からなんだ」
「ああ」
その手を取る。
指が絡んだ瞬間、カイルが強く握った。
「……強い」
「悪い」
「何かあった?」
カイルはすぐには答えなかった。
「研究室へ行きたい」
「授業は?」
「その前に話したい」
表情を見れば、冗談を言える空気ではないことくらい分かった。
「分かった」
二人で北塔へ向かった。
カイルは歩いている間、一度も手を離さなかった。
研究室へ入ると、机の上には昨日閉じたはずの記録帳が開かれていた。
「これ」
リリアが指差す。
「昨日の?」
「ああ」
赤い文字が浮かんでいる。
『魂魄封印術式――接続率七十八パーセント』
「……昨日三十一じゃなかった?」
「ああ」
「一晩で?」
「上がった」
カイルの声が低い。
「原因は?」
「昨日のお前の魔法暴走だ。可能性創造が大きく開いたことで、過去の術式が現在のお前を新しい接続対象として認識し始めている」
「それって……」
「このまま百になれば、何が起きるか分からない」
カイルが別の紙を見せる。
「ただ、昨夜一つだけ方法を見つけた」
リリアはその顔を見た。
「嫌な方法?」
「……ああ」
「言って」
「お前の可能性創造を完全に封じる」
予想していた答えだった。
「一時的じゃなくて?」
「完全にだ」
「戻せる?」
「保証できない」
リリアは黙った。
「成功すれば、接続は止まる可能性が高い。少なくとも世界への干渉はできなくなる」
「失敗したら?」
「お前の魂そのものに傷が残る」
「却下」
即答した。
カイルの眉が寄る。
「最後まで聞け」
「聞いても嫌」
「リリア」
「昨日言ったよね。私の魔法だから封じたくないって」
「状況が変わった」
「だからって答えは変わらない」
カイルが机へ手をついた。
「七十八パーセントだ」
「うん」
「次に暴走すれば百まで上がる可能性がある」
「分かってる」
「分かっていない」
声が強くなった。
リリアは黙る。
「百になれば、お前がどうなるか分からない。魂を過去の術式に取り込まれるかもしれない。今のお前が消える可能性すらある」
「……それは怖い」
「なら」
「でも嫌」
リリアは真っ直ぐカイルを見る。
「怖いからって、今すぐ私の魔法をなくすのは嫌」
「生きていればいいだろう!」
初めて、カイルが声を荒らげた。
研究室が静まり返る。
言った本人も驚いたようだった。
それでも止まらない。
「魔法なんてなくてもいい。学院を辞めてもいい。俺のそばにいれば――」
そこでカイルの声が止まった。
リリアも何も言わなかった。
俺のそばにいれば。
それは彼が一番言いたくなかった言葉のはずだった。
「……違う」
カイルが自分で呟く。
「今のは違う」
「カイル先輩」
「違うんだ」
右手で額を押さえる。
「分かっている。お前の人生だ。魔法も学院も、お前が決めることだ」
「うん」
「なのに……」
机の上の記録帳が赤く光る。
『保護衝動――増幅率六十四パーセント』
リリアはその文字を見る。
「術式のせい?」
「……分からない」
「カイル先輩自身はどう思ってる?」
「お前を閉じ込めたい」
苦しそうな声だった。
「今すぐ魔法を封じて、俺の目の届く場所から一歩も出したくない」
「うん」
「誰にも触らせたくない。危険なことをさせたくない。お前が嫌だと言っても、俺が正しいと決めてしまいそうになる」
カイルは拳を握った。
「だから今、俺から離れろ」
「嫌」
「リリア」
「それもカイル先輩が一人で決めてる」
「俺がお前を傷つけるかもしれない!」
「その時は逃げるって言ったでしょ」
「今逃げろと言っている!」
「まだ何もされてない!」
今度はリリアも声を上げた。
二人で睨み合う。
先に視線を逸らしたのはカイルだった。
「……どうすればいい」
その声は、ひどく弱かった。
「俺はまた同じことをする」
「してない」
「するかもしれない」
「まだしてない」
「だが――」
「カイル先輩」
リリアは一歩近づいた。
「私を見て」
カイルが顔を上げる。
「昔のリリアじゃなくて、私を見て」
「見ている」
「じゃあ聞いて」
リリアは胸元へ手を当てた。
「昔の私がカイル先輩を許すかどうかなんて、私は知らない」
カイルの目が揺れる。
「ありがとうって言って死んだ人が、本当は何を思ってたのかも知らない。私が代わりに許すこともできない」
「……ああ」
「でも私は今ここにいる」
リリアは彼へ手を伸ばした。
「私は、今の私としてカイル先輩が好き」
カイルはその手を見た。
けれど取らない。
「触ったら、接続率が上がる」
「だから?」
「危険だ」
「じゃあ聞く。カイル先輩はどうしたい?」
「……触れたい」
「私も」
「だが」
「危険だから触らないって、二人で決めた?」
カイルが黙った。
「決めてないよね」
「……ああ」
「じゃあ勝手に離れないで」
それでもカイルは動かない。
リリアは自分から彼の手を取った。
指を絡める。
記録帳の数字が動いた。
七十九。
「リリア」
「上がったね」
「離せ」
「嫌」
「八十になる」
「だから何?」
「お前は……!」
「カイル先輩」
リリアは強く手を握った。
「私、死にたいわけじゃないよ」
その一言で、カイルが止まった。
「魔法を失ってもいいと思ってるわけでもない。世界なんてどうでもいいとも思ってない」
「……ああ」
「全部ほしい」
「全部?」
「生きたい。魔法も使いたい。学院も卒業したい。友達とも会いたい」
そして、繋いだ手を持ち上げる。
「カイル先輩とも一緒にいたい」
カイルの目が揺れた。
「欲張りだな」
「知ってる」
「全部守れる保証はない」
「じゃあ一緒に考えよう」
「失敗したら?」
「その時はその時」
「俺はそんなふうに割り切れない」
「じゃあ怖がってていいよ」
「……何?」
「私も怖いから」
リリアは少し笑った。
「二人で怖がろう」
カイルは何も言わなかった。
ただ、繋いだ手の力が少しずつ戻ってくる。
「俺はずっと」
低い声だった。
「お前を守ることばかり考えていた」
「うん」
「昔もそうだった。守れなかったから、次は絶対に失敗しないと思った」
「うん」
「だからお前が何を望むかより、生き残らせることを優先しそうになる」
「知ってる」
「でも、それでは駄目なんだな」
「私は嫌」
「ああ」
カイルがようやくリリアを見る。
「なら、もう一度約束する」
「何を?」
「お前を守るために、お前の人生を奪わない」
リリアは少し笑った。
「うん」
「お前が危険な選択をすれば反対する」
「どうぞ」
「喧嘩もする」
「負けないよ」
「知っている」
「でも最後は?」
「一緒に決める」
「うん」
その瞬間、記録帳が強く光った。
七十九。
八十。
八十三。
「カイル先輩」
「分かっている」
数字が急激に上がっていく。
八十七。
九十一。
「手、離す?」
リリアが聞く。
カイルは一瞬迷った。
「……いや」
「いいの?」
「今離しても止まらない」
数字は九十四。
「接触が原因じゃない。お前の感情と俺の封印が共鳴している」
「じゃあどうする?」
「術式そのものを壊す」
カイルが研究記録を開く。
「昨日までに構造はほぼ解析した。だが問題がある」
「何?」
「魂魄封印は俺の魂に組み込まれている。外から破壊すれば俺の魂まで損傷する」
「却下」
「だから最後まで聞け」
「また死ぬ方法だったら聞かない」
「違う」
カイルはリリアの手を強く握った。
「俺一人では壊せない。だが、お前の可能性創造なら新しい状態を作れるかもしれない」
「新しい状態?」
「封印を壊すんじゃない」
カイルが魔法陣を展開する。
「俺と封印を切り離す」
リリアは目を見開いた。
「できる?」
「分からない」
「成功率は?」
「計算できない」
「珍しい」
「未知の魔法だからな」
「失敗したら?」
「俺が死ぬ可能性はある」
「却下」
「リリア」
「嫌」
「まだ続きがある」
「何?」
「お前にも危険がある」
「もっと却下」
カイルが僅かに笑った。
「そこは俺も同じ意見だ」
「じゃあやめる?」
「いや」
「どっち?」
「安全な方法を今から二人で作る」
リリアは瞬きをした。
「そんなことできる?」
「お前の魔法は何だ」
「可能性創造」
「なら、今まで存在しなかった可能性を作れ」
「無茶言うね」
「一人ではやらせない」
カイルが机いっぱいに資料を広げる。
「俺が術式を組む。お前が可能性を作る。危険値が上がれば互いに止める」
「……共同研究?」
「ああ」
「恋人共同作業?」
「今それを言うのか」
「緊張してるから」
「俺もだ」
「カイル先輩も?」
「当たり前だろう」
少しだけ笑った。
それだけで、怖さが消えるわけではない。
それでも一人ではない。
「やろう」
「ああ」
二人は同時に魔力を展開した。
青白いカイルの術式。
白銀に輝くリリアの可能性創造。
二つの魔法が重なる。
九十六。
九十七。
魂魄封印の接続率が上がる。
「リリア、俺の術式だけ見ろ」
「うん」
「世界全体へ触れるな。俺と封印の境界だけだ」
「分かった」
光の中に、一本の赤い線が見えた。
カイルの魂へ食い込むように伸びている。
「これ?」
「ああ」
「切ればいい?」
「切るな。切れば俺も傷つく」
「じゃあ?」
「新しい境界を作る」
リリアは目を閉じた。
壊すのではない。
消すのでもない。
今まで存在しなかった状態。
カイルはカイルのまま。
記憶も、感情も、過去も残る。
ただ、選択を縛るものだけを外す。
「……できるかも」
「無理はするな」
「でもやる」
「危険なら止める」
「一緒にね」
「ああ」
九十八。
光が強くなる。
リリアの魔力が揺れた。
カイルの手がすぐに支える。
「俺を見るんだ」
目を開ける。
すぐそこにカイルがいる。
「怖い?」
「怖い」
「俺もだ」
「逃げる?」
「逃げない」
「私も」
九十九。
赤い光が研究室を埋め尽くした。
カイルの顔が苦痛に歪む。
「カイル先輩!」
「続けろ!」
「でも!」
「俺は大丈夫だ!」
「それ信用ならない!」
「なら見ていろ!」
カイルがリリアの手を自分の胸へ押し当てた。
心臓が動いている。
「生きている」
「うん」
「お前も生きろ」
「うん」
「どちらかだけじゃない」
カイルの声が震える。
「今度こそ、一緒に生きる」
胸の奥で、何かが弾けた。
リリアは目を閉じる。
「――可能性創造」
願ったのは奇跡ではない。
カイルを救ってほしいでもない。
自分だけを守ってほしいでもない。
二人とも、自分の意思で明日を選べる未来。
白銀の光が赤い線を包む。
切らない。
壊さない。
境界を作る。
カイルの魂と、彼を縛ってきた術式の間に。
赤い線が、ゆっくりと浮かび上がった。
「……離れて」
リリアが呟く。
「カイル先輩から、離れて」
百。
数字が到達した。
同時に、赤い光が爆発した。
「リリア!」
身体が引かれる。
カイルに抱き込まれた。
大きな音がした。
机の上の紙が舞い上がり、窓が震える。
リリアは反射的にカイルの制服を掴んだ。
数秒。
それとももっと長かったのかもしれない。
やがて、静かになった。
「……カイル先輩」
返事がない。
「カイル先輩?」
心臓が冷える。
顔を上げる。
「カイル先輩!」
「……うるさい」
声がした。
「生きてる!」
「勝手に殺すな」
力が抜けた。
「よかった……」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
リリアは彼の胸へ耳を当てた。
心臓が動いている。
「動いてる」
「当たり前だ」
「だって怖かった」
「俺もだ」
カイルの腕が背中へ回る。
今度は、強すぎない。
リリアが苦しくない程度の力だった。
「……数字」
リリアが言う。
カイルが記録帳を見る。
接続率。
百。
その数字に、一本の線が入る。
そして消えた。
『魂魄封印術式――切離完了』
二人とも言葉を失った。
その下に、新しい表示が現れる。
『対象個体との強制接続――解除』
「……できた?」
「ああ」
「本当に?」
「おそらく」
「おそらく?」
「研究者に百パーセントを求めるな」
「今は言ってよ」
カイルが少し笑った。
「できた」
「うん」
「俺はもう、術式にお前を選ばされない」
リリアは彼を見た。
「じゃあ今、私のこと好き?」
「ああ」
「術式なくなったのに?」
「ああ」
「どれくらい?」
「確認する必要があるか?」
「ある」
カイルは呆れたように息を吐いた。
それでも、逃げなかった。
「好きだ」
「うん」
「お前が思っているより、ずっと好きだ」
胸が熱くなる。
「それ、術式?」
「違う」
「証明できる?」
「できる」
「どうやって?」
カイルの手が頬へ触れた。
でも、そこで止まる。
「キスしていいか」
リリアは少し笑った。
どんなに感情が強くても。
術式がなくなっても。
ちゃんと聞いてくれる。
「うん」
唇が重なった。
短いキスだった。
離れたあと、リリアは彼の制服を掴んだまま見上げる。
「……もう一回」
カイルが僅かに目を見開いた。
「いいのか」
「私がしたい」
「分かった」
二度目は、さっきより少しだけ長かった。
それでも急がない。
リリアが離れると、カイルも追わなかった。
「止まれた」
「当たり前だ」
「保護衝動なくなった?」
「お前を守りたい気持ちはある」
「じゃあ術式残ってる?」
「違う」
カイルはリリアの頬を撫でる。
「これは俺の意思だ」
「そっか」
「ただし、お前の選択を奪わない」
「うん」
「危険なことをしたら怒る」
「私も怒る」
「無茶をしたら止める」
「カイル先輩もね」
「ああ」
「勝手に死なない」
「ああ」
「一緒に生きる」
カイルの目が少しだけ柔らかくなる。
「ああ」
額が触れた。
「一緒に生きる」
その言葉は、もう過去への誓いではなかった。
死んだ誰かへの償いでもない。
今ここにいる二人が、これからのために交わす約束だった。
けれど、その時。
机の上の記録帳がもう一度光った。
今度は赤ではない。
白い光だった。
「……まだ何かある?」
「待て」
カイルが記録を見る。
『第一封印――解除』
リリアは眉を寄せた。
「第一?」
「ああ」
次の文字が浮かぶ。
『残存魂魄封印――三』
部屋が静まり返った。
「三って」
リリアが呟く。
「ノア、アレン、ルシアン先輩?」
「……おそらく」
カイルの表情が戻る。
研究者の顔。
けれど以前とは違う。
一人で何もかも背負おうとする顔ではない。
「どうする?」
リリアが聞いた。
カイルは少し考える。
「まず三人に話す」
「うん」
「そのあと、全員で調べる」
「うん」
「お前にも全部話す」
リリアは笑った。
「百点」
「採点するな」
「彼氏として百点」
「……それなら悪くない」
「そこは喜ぶんだ」
カイルが珍しく笑った。
リリアはその顔を見ながら、繋いだ手を握り直す。
カイルの封印は消えた。
けれど世界の問題は、まだ終わっていない。
残り三つ。
そして、リリア自身の可能性創造。
きっとこれからも怖いことはある。
それでも。
もう一人で守る人と、守られる人ではない。
二人で選ぶ。
二人で怖がる。
二人で生きる。
その未来を、今度こそ誰にも決めさせない。