魔法より、君に恋をする。
カイルルート 第46章 あなたと選ぶ未来
カイルの魂魄封印を切り離した翌日、北塔の研究室には珍しく人が多かった。
「で?」
机に寄りかかったアレンが、赤い文字の浮かぶ記録帳を覗き込む。
「俺らにも同じもんが残ってるって?」
「ああ」
カイルが答える。
「俺の封印を切り離したことで、残り三つの存在も明確に観測できるようになった」
「三つ」
ノアが笑顔のまま目を細める。
「僕とアレン先輩と、ルシアン先輩ですね」
「そうだ」
少し離れたところで資料を読んでいたルシアンが眼鏡を押し上げた。
「随分と思い切ったことをしたね、クロフォード」
「他に方法がなかった」
「リリアを巻き込んで?」
「一緒に決めた」
即答だった。
ルシアンが僅かに目を細める。
「……なるほど」
「何ですか」
「いや。君がそれを言えるようになったことに驚いただけだよ」
「喧嘩を売っているなら買います」
「褒めているんだけどね」
「絶対嘘」
リリアが口を挟むと、ルシアンがこちらを見た。
「君まで僕への扱いが雑になっていないかい?」
「元からです」
「そうだったかな」
「そうです」
いつもの会話だった。
けれど、机の上に並んでいるものはいつも通りではない。
『第一封印――解除』
『残存魂魄封印――三』
昨夜から表示は変わっていない。
「で、どうすんだ?」
アレンが腕を組む。
「俺らも一人ずつ外すのか?」
「それは避けたい」
カイルが答えた。
「なぜ?」
「俺の時はリリアとの接続率が百に達する直前だった。術式が完全に表面化していたから、境界を認識できた」
「つまり俺らのは?」
「まだ深部にある」
ノアが記録帳を覗く。
「無理に引っ張り出せば?」
「魂ごと傷つける可能性がある」
「それは嫌ですねえ」
「軽く言うな」
「重く言っても結果は同じなので」
笑っている。
でもリリアには、その笑顔が少しだけ硬く見えた。
ノアも覚えている。
アレンも。
ルシアンも。
カイルと同じように、何度も終わった世界を知っている。
「じゃあ」
リリアは三人を見る。
「三人はどうしたい?」
一瞬、部屋が静かになった。
最初に反応したのはアレンだった。
「何が?」
「封印。外したい?」
「そりゃ外せるなら外してえよ」
「危険でも?」
「死ぬレベルなら考える」
「考えるだけ?」
「……ちゃんと相談する」
カイルがじろりと見る。
「何だよ」
「信用できない」
「お前に言われたくねえ」
「本当にそれ」
リリアが頷くと、カイルがこちらを見た。
「リリア」
「だってそうでしょ」
ノアが吹き出した。
「クロフォード先輩、完全に尻に敷かれてますね」
「黙れ」
「でも前よりいい顔してますよ」
「お前も黙れ」
「二回言った」
少しだけ空気が緩む。
ルシアンはそんな四人を眺めてから、記録帳へ視線を落とした。
「僕は外したいよ」
静かな声だった。
「ただし、今ではない」
「理由は?」
リリアが聞く。
「三つを個別に切り離すより、術式の根そのものを止めた方がいい」
「根?」
「魂魄封印は単独で存在しているわけじゃない。世界の再構築機構と繋がっている」
ルシアンが指先で空中に術式を描く。
四つの光。
その中心に、一つの黒い点。
「僕たち四人の封印は、いわば錨だ」
「いかり?」
「世界が同じ物語へ戻るためのね」
リリアは黒い点を見る。
「じゃあカイル先輩のを外したから、錨が一個なくなった?」
「そういうことだ」
「残り三つもなくしたら?」
「再構築機構は現在の世界へ干渉する足場を失う」
アレンが眉を寄せる。
「それで終わりか?」
「そんなに簡単なら、僕も苦労していないよ」
ルシアンが微笑む。
「最後に一つ問題がある」
「何ですか」
「リリアだ」
全員の視線が集まった。
「私?」
「正確には、エリシア」
その名前を呼ばれる。
今の自分に与えられた、独立した存在としての名前。
「この世界の再構築機構は、君を過去のリリアとして認識し直そうとしていた。クロフォードとの接続率が急上昇したのも、その一部だろう」
「じゃあまだ狙われてる?」
「可能性はある」
隣でカイルの身体が僅かに強張った。
リリアはすぐに彼を見る。
「カイル先輩」
「何も言っていない」
「顔」
「……分かっている」
カイルが一度息を吐く。
「続けてください」
ルシアンは少しだけ笑った。
「成長したね」
「早くしてください」
「はいはい」
空中の術式が変わる。
「残り三つの封印を一度に表面化させる。その上で、再構築機構との接続だけを切る」
「昨日と同じ?」
「似ているけれど規模が違う。昨日は一人の魂と一つの封印だった。今度は三人分と、世界側の術式だ」
リリアは術式を見上げた。
「私の可能性創造が必要?」
「ああ」
「危険は?」
「ある」
「どれくらい?」
「分からない」
「みんなそれ言う」
「未知の魔法だからね」
昨日のカイルと同じ答えだった。
リリアは少し考える。
すると隣から声がした。
「リリア」
「うん」
「俺は反対したい」
カイルだった。
驚かなかった。
「うん」
「危険すぎる」
「うん」
「可能なら、お前を関わらせずに済む方法を探したい」
「うん」
「だが」
カイルはそこで一度言葉を切った。
「お前はどうしたい」
リリアは笑った。
「やる」
予想していたらしい。
カイルは目を閉じた。
「……そう言うと思った」
「反対する?」
「する」
「じゃあ喧嘩?」
「いや」
カイルがリリアを見る。
「俺もやる」
「一緒に?」
「ああ」
その答えが嬉しかった。
「危険なら止める」
「私もカイル先輩を止める」
「分かっている」
「勝手に庇って一人で怪我するのも禁止」
「努力する」
「約束して」
「……約束する」
「よし」
アレンが呆れた顔をする。
「お前ら、俺らがいる前でよくやるな」
「何がですか」
「いや、もういい」
ノアが笑っている。
ルシアンまで少し楽しそうだった。
「それじゃあ始めようか」
準備には三日かかった。
授業へ出て、放課後に集まる。
夜になれば終える。
徹夜はしない。
リリアが最初にそう決めた。
「世界の危機なのに?」
一日目、ノアが聞いた。
「だからって寝ないで失敗したら馬鹿みたいでしょ」
「正論ですね」
「特にカイル先輩を見張ってて」
「任されました」
「俺を何だと思っている」
「放っておくと朝まで研究する人」
「……否定できない」
二日目には、アレンとカイルが術式構造を巡って喧嘩した。
三日目にはルシアンが二人とも間違っていると修正した。
そしてリリアは、その全部に参加した。
研究対象ではない。
守られるだけでもない。
共同研究者として。
四日目の放課後。
全ての準備が整った。
北塔の地下にある術式室へ五人で降りる。
床一面に巨大な魔法陣が描かれていた。
「最終確認」
ルシアンが言う。
「異常を感じたら即座に術式から離れること。特にリリア。可能性創造を深く使いすぎない」
「はい」
「アレン、力任せに壊さない」
「分かってる」
「ノア、自分を犠牲にする選択肢は最初から除外して」
「信用ないなあ」
「実績があるからね」
最後にルシアンがカイルを見る。
「クロフォード」
「分かっています」
「まだ何も言ってないよ」
「リリアの意思を無視するな、でしょう」
「よくできました」
「腹立つな……」
リリアは笑った。
「カイル先輩」
「何だ」
「手」
カイルがこちらを見る。
「繋いでいい?」
「……ああ」
手を取る。
もう接続率は上がらない。
ただ好きだから触れているだけだ。
「怖い?」
リリアが聞く。
「ああ」
「私も」
「なら無茶するな」
「カイル先輩も」
「ああ」
ルシアンの合図で、術式が起動した。
床の魔法陣が光る。
ノア、アレン、ルシアン。
三人の胸元から赤い光が浮かび上がった。
「……見えた」
リリアが呟く。
三本の赤い線。
それぞれの魂から伸びて、空間の一点へ集まっている。
その先にあるのは、黒い亀裂だった。
「世界側の接続点だ」
ルシアンの声がする。
「リリア。あれに直接触れてはいけない」
「うん」
「三本の線だけを見て」
リリアは集中する。
壊さない。
魂を傷つけない。
昨日カイルにしたのと同じ。
三人と封印の間に、新しい境界を作る。
「――可能性創造」
白銀の光が広がった。
赤い線へ触れる。
一瞬、頭の中に知らない景色が流れ込んだ。
血に濡れた剣。
崩れた街。
笑いながら泣いている誰か。
何度も呼ばれる、リリアという名前。
「っ……!」
「リリア!」
カイルの声が聞こえた。
「俺を見ろ」
昨日と同じ声。
リリアは目を開ける。
すぐ隣にカイルがいる。
「昔を見るな」
「うん」
「お前はそこにいない」
「……うん」
「お前は今ここにいる」
繋いだ手に力が入る。
「俺もここにいる」
視界が戻る。
知らない記憶が遠ざかっていく。
リリアは三本の線だけを見る。
「できる」
「ああ」
「私、できるよ」
「知っている」
白銀の光が強くなる。
一本目。
ノアの封印が浮かび上がる。
境界を作る。
赤い線が離れた。
二本目。
アレン。
同じように、魂から封印だけを切り離す。
三本目。
ルシアン。
最後の線が浮き上がった瞬間、黒い亀裂が大きく開いた。
「リリア、下がれ!」
カイルに身体を引かれる。
空間が揺れる。
黒い亀裂の向こうから、無数の光景が見えた。
十二の世界。
十二人のリリア。
死んだ彼女。
泣いた彼ら。
選ばれた誰か。
選ばれなかった誰か。
壊れて、戻って、また始まる。
「……これが」
リリアは息を呑む。
「今までの世界?」
「ああ」
ルシアンの声がする。
「見るだけだ。引かれるな」
黒い亀裂から何かが伸びてきた。
声ではない。
言葉でもない。
それでも意味だけが頭へ流れ込んでくる。
戻れ。
選べ。
物語を完成させろ。
リリアは眉を寄せた。
「……嫌」
白銀の光が揺れる。
「私は戻らない」
カイルが隣にいる。
ノアも。
アレンも。
ルシアンも。
でも誰か一人を選べという声ではない。
今この瞬間、リリアが何を選ぶかを決めるのは、自分だ。
「私は昔のリリアじゃない」
黒い亀裂へ向かって言う。
「エリシアでもある。でもリリアでもある」
自分で選んだ名前。
「誰かのために作られた役じゃない」
白銀の光が広がる。
「私は、私が生きたいから生きる」
黒い亀裂が揺れた。
その瞬間、繋いでいた手が強く握られた。
カイルだ。
「リリア」
「うん」
「一人でやるな」
隣を見る。
「俺もいる」
少し笑った。
「うん」
「何をすればいい」
「一緒にいて」
「それだけか」
「それがいい」
カイルは一瞬だけ目を細めた。
「ああ」
逃げない。
庇って前へ出ることもしない。
リリアの隣に立つ。
それが今のカイルの選択だった。
「一緒に帰ろう」
「ああ」
「今日も明日も」
「ああ」
「卒業したあとも」
カイルの口元が少しだけ緩んだ。
「その予定だ」
「じゃあ」
リリアは黒い亀裂を見る。
「こんなところで終われないね」
「当然だ」
二人の魔力が重なる。
今度は強制された接続ではない。
互いに選んで、合わせた魔力。
「――切り離す」
白銀の光が弾けた。
三本の赤い線が同時に外れる。
ノア。
アレン。
ルシアン。
その魂から、封印が離れた。
黒い亀裂が大きく揺れる。
そして。
閉じた。
静寂が落ちる。
床の魔法陣から光が消えた。
誰も動かなかった。
「……終わった?」
リリアが聞く。
ルシアンが術式を確認する。
長い沈黙。
「再構築機構からの接続、消失」
次にノアを見る。
「魂魄封印、消失」
アレン。
「同じく」
最後に自分自身を確認する。
「僕もだ」
ルシアンが顔を上げた。
「終わったよ」
リリアは数秒、その言葉を理解できなかった。
「……本当に?」
「ああ」
「また明日戻ったりしない?」
「その可能性は限りなく低い」
「百パーセントじゃないんだ」
「研究者だからね」
どこかで聞いた言葉だった。
リリアが隣を見る。
カイルもこちらを見ている。
「カイル先輩」
「ああ」
「終わったって」
「ああ」
「私たち、明日もいる?」
「ああ」
「来年も?」
「ああ」
「ずっと?」
そこでカイルは少しだけ笑った。
「それは俺たち次第だ」
リリアは瞬きをした。
そして笑った。
「そっか」
それが一番嬉しい答えだった。
世界が保証してくれるわけではない。
運命が結びつけてくれるわけでもない。
明日も一緒にいたければ、明日も選べばいい。
その次の日も。
そのまた次の日も。
「じゃあ明日も選ぶ」
「俺もだ」
ノアが後ろで小さく笑った。
「僕たちいるんですけどね」
「知ってる」
「見えてなかっただろ」
アレンまで呆れている。
「見えてました」
「嘘つけ」
「……少し忘れてた」
「正直だな、お前」
ルシアンが眼鏡を直す。
「続きは二人きりになってからにしてくれるかな」
「何もしません!」
「何を想像したんだ」
カイルにまで言われた。
「そっちが言わせたんでしょ!」
笑い声が、地下の術式室に響いた。
世界は終わらなかった。
誰も死ななかった。
誰も一人を犠牲にしなかった。
その翌朝。
七時二十五分。
リリアが女子寮を出ると、カイルはいつもの場所にいた。
「おはよう」
「おはよう、カイル先輩」
右手が差し出される。
リリアは取った。
もう数字は上がらない。
赤い文字も出ない。
「……普通だね」
「ああ」
「世界救った次の日なのに」
「授業はある」
「休みにならないの?」
「ならない」
「世界救ったのに?」
「誰も知らないからな」
「損した気分」
「何が欲しいんだ」
「ご褒美」
カイルがこちらを見る。
「何がいい」
「考えてなかった」
「なら後で決めろ」
「何でも?」
「常識の範囲なら」
「ケチ」
「当然だ」
いつもの道を歩く。
手を繋いで。
どうでもいい話をしながら。
リリアは途中で気づいた。
これが欲しかったのだ。
特別な未来ではない。
明日が来ること。
好きな人がそこにいること。
喧嘩をしても、また話せること。
そして季節は巡った。
白銀だったリリアのネクタイが蒼へ変わるより少し前。
カイルの卒業の日が来た。
式を終えた校庭には、卒業生と在校生が入り混じっていた。
深紅のネクタイを締めたカイルを見つけて、リリアは人混みを抜ける。
「カイル先輩!」
呼ぶと、すぐに振り向いた。
「走るな」
「今日くらいいいでしょ」
「転ぶぞ」
「転ばない」
言った直後、段差に足を取られた。
腕を掴まれる。
「……ほら」
「今のはたまたま」
「卒業するまでに直らなかったな」
「方向音痴と段差は別です」
「どちらも心配だ」
リリアは立ち直って、カイルを見る。
制服姿の彼を見るのは今日で最後だ。
「卒業しちゃうんだね」
「ああ」
「明日から朝迎えに来ない?」
「ああ」
「研究室にもいない?」
「ああ」
「……嫌だな」
素直に言うと、カイルの表情が少し柔らかくなった。
「俺もだ」
「カイル先輩でも寂しい?」
「当たり前だろう」
「顔に出ない」
「出しているつもりだ」
「全然」
リリアは笑った。
カイルは卒業後、王立魔法研究院へ進む。
魂と魔法、そして世界干渉術式の研究。
過去を繰り返さないためではない。
これから先に使える魔法を作るために。
「でも会えるよね」
「ああ」
「毎日?」
「学院の規則上、毎日は難しい」
「じゃあ三日に一回」
「具体的だな」
「四日は長い」
「……俺もそう思う」
「じゃあ決まり」
カイルが笑った。
卒業しても、何も終わらない。
少しだけ形が変わるだけだ。
「リリア」
「何?」
「二年後」
「うん」
「お前が卒業する時も、ここに来る」
「迎えに?」
「ああ」
「その時も付き合ってたら?」
わざと聞いた。
カイルの眉が寄る。
「何だその言い方は」
「未来は私たち次第なんでしょ?」
「そう言ったが」
「だから」
リリアは少し笑う。
「二年後も私を好きでいてね」
「それは頼まれることじゃない」
「じゃあ?」
「俺が決める」
カイルがリリアの手を取る。
「明日も、その次も、お前を好きでいたいと思えばそうする」
「今は?」
「好きだ」
「二年後は?」
「その時の俺に聞け」
「真面目」
「ただ」
少しだけ身体を寄せられる。
「今の俺は、二年後もお前の隣にいるつもりでいる」
それで十分だった。
「私も」
周囲にはまだ人がいる。
だからキスはしない。
代わりに、繋いだ手を少しだけ強く握った。
二年は思ったより早かった。
リリアは蒼を経て、深紅のネクタイを締めるようになった。
魔法の制御は以前よりずっと上手くなった。
可能性創造についての研究も続けた。
カイルがいなくなった北塔の研究室には、時々一人で行った。
最初は迷った。
二年目には三回に一回くらいしか迷わなくなった。
三年目には、ほぼ迷わなくなった。
それを報告した時、カイルには「成長が遅い」と言われた。
恋人関係も続いた。
毎日は会えなかった。
喧嘩もした。
カイルが研究に夢中になって約束を忘れ、リリアが本気で怒ったこともある。
逆にリリアが危険な実験へ首を突っ込み、カイルに怒られたこともある。
それでも、どちらかが一方的に決めることはなくなった。
怒ったら話す。
納得できなければまた話す。
それを繰り返した。
そして二年後。
卒業式を終えて学院の門を出ると、約束通り彼はいた。
黒い外套。
研究院の制服。
学院にいた頃より少しだけ大人びた顔。
それでもリリアを見つけた瞬間の表情は変わらない。
「リリア」
名前を呼ばれた。
リリアは笑って走り出す。
「走るな」
「二年ぶりみたいな言い方しないで!」
「昨日も会ったな」
「そういうことじゃない!」
目の前まで来て止まる。
カイルがリリアの深紅のネクタイを見る。
「卒業おめでとう」
「ありがとう」
「三年間、よく頑張ったな」
「うん」
「方向音痴も多少改善した」
「そこいる?」
「重要だ」
笑ってから、リリアは彼を見る。
「約束覚えてたね」
「忘れると思ったのか」
「全然」
カイルが手を差し出す。
学院に入った頃は怖かった手。
過去に誰かを殺した手。
苺タルトを買ってきた手。
毎朝、自分を迷子にさせないために握った手。
初めて好きだと伝えられた日に、震えていた手。
そして今は、ただ恋人が自分へ差し出している手。
リリアはその手を取った。
「ねえ」
「何だ」
「今日からもう先輩じゃないよね」
カイルの動きが止まる。
「……そうだな」
「私も卒業したし」
「ああ」
リリアは少しだけ迷った。
昔のリリアが彼をどう呼んでいたのか。
もう、そのことは気にならなかった。
同じ名前を呼んだからといって、同じ恋になるわけではない。
この二年間で、それくらいは分かった。
「カイル」
呼んだ。
繋いだ手が僅かに強くなる。
「……もう一度」
昔も似たようなことを言われた気がして、リリアは笑った。
「カイル」
「ああ」
「何その返事」
「慣れていない」
「カイル先輩より短くなっただけなのに」
「意味が違う」
「どう違うの?」
「……近い」
その答えがカイルらしくて、リリアは笑った。
「じゃあこれからカイルね」
「ああ」
「リリアって呼んで」
「ずっとそう呼んでいる」
「じゃあエリシア?」
少しだけ意地悪く聞いた。
カイルは考える。
「どちらがいい」
「どっちも私」
「ああ」
「カイルは?」
「俺もどちらもお前だと思っている」
その答えに、胸の奥が温かくなる。
「じゃあ今日はリリア」
「分かった」
カイルが少し近づいた。
「リリア」
「何?」
「卒業したら言おうと思っていたことがある」
「何?」
少しだけ緊張する。
けれど、カイルはすぐには答えなかった。
「……いや」
「何でやめるの」
「今日でなくてもいい」
「気になる」
「これから時間はある」
「今聞きたい」
「なら今度、ちゃんと話す」
「何それ」
「急いで答えを出す必要がないと、ようやく覚えた」
リリアは少しだけ目を細めた。
昔のカイルなら、未来を失うことを怖がっていた。
今は未来があるからこそ、急がない。
「じゃあ待つ」
「ああ」
「でもあんまり待たせたら怒る」
「分かっている」
「三年とかは無理」
「そこまで待たせない」
「一年?」
「リリア」
「半年?」
「楽しんでいるだろう」
「ちょっと」
カイルが呆れたように笑う。
それから、繋いだ手を引かれた。
「帰るぞ」
「どこに?」
「まず食事だ。卒業祝いを予約してある」
「予約したの?」
「ああ」
「苺タルトある?」
「ある」
「さすが」
「何年付き合っていると思っている」
学院から離れていく。
リリアは一度だけ振り返った。
三年間過ごしたアルカディア。
ここで自分が誰なのかを知った。
昔の自分ではないことも。
誰かに愛されるために生まれたわけではないことも。
そして、自分で誰かを好きになれることも。
「リリア?」
「今行く」
前を向く。
隣にはカイルがいる。
でも彼がいるから歩くのではない。
自分がこの道を選んだから、隣を歩いている。
「カイル」
「何だ」
「好き」
カイルがこちらを見る。
少しだけ笑った。
「俺もだ」
「明日も?」
「明日になったらまた言う」
「じゃあ明日聞く」
「ああ」
「明後日も」
「好きにしろ」
「毎日聞く」
「……それは少し面倒だな」
「ひどい!」
「嘘だ」
「カイルが嘘ついた」
「たまにはな」
笑いながら歩く。
運命が決めた恋ではない。
過去から続いた恋でもない。
誰かに選ばされた未来でもない。
今日好きだから、今日隣にいる。
明日も好きなら、また明日選ぶ。
そうやって何度でも選び直せることを、二人はもう知っている。
だから未来は怖くない。
決められていないからこそ。
これから二人で作っていける。
繋いだ手を、今度はリリアから握り直した。
カイルも同じ強さで握り返す。
守る人と、守られる人ではなく。
過去を償う人と、その代わりになる人でもなく。
ただ、互いを好きになった二人として。
同じ速さで歩いていく。
カイルルート END
「で?」
机に寄りかかったアレンが、赤い文字の浮かぶ記録帳を覗き込む。
「俺らにも同じもんが残ってるって?」
「ああ」
カイルが答える。
「俺の封印を切り離したことで、残り三つの存在も明確に観測できるようになった」
「三つ」
ノアが笑顔のまま目を細める。
「僕とアレン先輩と、ルシアン先輩ですね」
「そうだ」
少し離れたところで資料を読んでいたルシアンが眼鏡を押し上げた。
「随分と思い切ったことをしたね、クロフォード」
「他に方法がなかった」
「リリアを巻き込んで?」
「一緒に決めた」
即答だった。
ルシアンが僅かに目を細める。
「……なるほど」
「何ですか」
「いや。君がそれを言えるようになったことに驚いただけだよ」
「喧嘩を売っているなら買います」
「褒めているんだけどね」
「絶対嘘」
リリアが口を挟むと、ルシアンがこちらを見た。
「君まで僕への扱いが雑になっていないかい?」
「元からです」
「そうだったかな」
「そうです」
いつもの会話だった。
けれど、机の上に並んでいるものはいつも通りではない。
『第一封印――解除』
『残存魂魄封印――三』
昨夜から表示は変わっていない。
「で、どうすんだ?」
アレンが腕を組む。
「俺らも一人ずつ外すのか?」
「それは避けたい」
カイルが答えた。
「なぜ?」
「俺の時はリリアとの接続率が百に達する直前だった。術式が完全に表面化していたから、境界を認識できた」
「つまり俺らのは?」
「まだ深部にある」
ノアが記録帳を覗く。
「無理に引っ張り出せば?」
「魂ごと傷つける可能性がある」
「それは嫌ですねえ」
「軽く言うな」
「重く言っても結果は同じなので」
笑っている。
でもリリアには、その笑顔が少しだけ硬く見えた。
ノアも覚えている。
アレンも。
ルシアンも。
カイルと同じように、何度も終わった世界を知っている。
「じゃあ」
リリアは三人を見る。
「三人はどうしたい?」
一瞬、部屋が静かになった。
最初に反応したのはアレンだった。
「何が?」
「封印。外したい?」
「そりゃ外せるなら外してえよ」
「危険でも?」
「死ぬレベルなら考える」
「考えるだけ?」
「……ちゃんと相談する」
カイルがじろりと見る。
「何だよ」
「信用できない」
「お前に言われたくねえ」
「本当にそれ」
リリアが頷くと、カイルがこちらを見た。
「リリア」
「だってそうでしょ」
ノアが吹き出した。
「クロフォード先輩、完全に尻に敷かれてますね」
「黙れ」
「でも前よりいい顔してますよ」
「お前も黙れ」
「二回言った」
少しだけ空気が緩む。
ルシアンはそんな四人を眺めてから、記録帳へ視線を落とした。
「僕は外したいよ」
静かな声だった。
「ただし、今ではない」
「理由は?」
リリアが聞く。
「三つを個別に切り離すより、術式の根そのものを止めた方がいい」
「根?」
「魂魄封印は単独で存在しているわけじゃない。世界の再構築機構と繋がっている」
ルシアンが指先で空中に術式を描く。
四つの光。
その中心に、一つの黒い点。
「僕たち四人の封印は、いわば錨だ」
「いかり?」
「世界が同じ物語へ戻るためのね」
リリアは黒い点を見る。
「じゃあカイル先輩のを外したから、錨が一個なくなった?」
「そういうことだ」
「残り三つもなくしたら?」
「再構築機構は現在の世界へ干渉する足場を失う」
アレンが眉を寄せる。
「それで終わりか?」
「そんなに簡単なら、僕も苦労していないよ」
ルシアンが微笑む。
「最後に一つ問題がある」
「何ですか」
「リリアだ」
全員の視線が集まった。
「私?」
「正確には、エリシア」
その名前を呼ばれる。
今の自分に与えられた、独立した存在としての名前。
「この世界の再構築機構は、君を過去のリリアとして認識し直そうとしていた。クロフォードとの接続率が急上昇したのも、その一部だろう」
「じゃあまだ狙われてる?」
「可能性はある」
隣でカイルの身体が僅かに強張った。
リリアはすぐに彼を見る。
「カイル先輩」
「何も言っていない」
「顔」
「……分かっている」
カイルが一度息を吐く。
「続けてください」
ルシアンは少しだけ笑った。
「成長したね」
「早くしてください」
「はいはい」
空中の術式が変わる。
「残り三つの封印を一度に表面化させる。その上で、再構築機構との接続だけを切る」
「昨日と同じ?」
「似ているけれど規模が違う。昨日は一人の魂と一つの封印だった。今度は三人分と、世界側の術式だ」
リリアは術式を見上げた。
「私の可能性創造が必要?」
「ああ」
「危険は?」
「ある」
「どれくらい?」
「分からない」
「みんなそれ言う」
「未知の魔法だからね」
昨日のカイルと同じ答えだった。
リリアは少し考える。
すると隣から声がした。
「リリア」
「うん」
「俺は反対したい」
カイルだった。
驚かなかった。
「うん」
「危険すぎる」
「うん」
「可能なら、お前を関わらせずに済む方法を探したい」
「うん」
「だが」
カイルはそこで一度言葉を切った。
「お前はどうしたい」
リリアは笑った。
「やる」
予想していたらしい。
カイルは目を閉じた。
「……そう言うと思った」
「反対する?」
「する」
「じゃあ喧嘩?」
「いや」
カイルがリリアを見る。
「俺もやる」
「一緒に?」
「ああ」
その答えが嬉しかった。
「危険なら止める」
「私もカイル先輩を止める」
「分かっている」
「勝手に庇って一人で怪我するのも禁止」
「努力する」
「約束して」
「……約束する」
「よし」
アレンが呆れた顔をする。
「お前ら、俺らがいる前でよくやるな」
「何がですか」
「いや、もういい」
ノアが笑っている。
ルシアンまで少し楽しそうだった。
「それじゃあ始めようか」
準備には三日かかった。
授業へ出て、放課後に集まる。
夜になれば終える。
徹夜はしない。
リリアが最初にそう決めた。
「世界の危機なのに?」
一日目、ノアが聞いた。
「だからって寝ないで失敗したら馬鹿みたいでしょ」
「正論ですね」
「特にカイル先輩を見張ってて」
「任されました」
「俺を何だと思っている」
「放っておくと朝まで研究する人」
「……否定できない」
二日目には、アレンとカイルが術式構造を巡って喧嘩した。
三日目にはルシアンが二人とも間違っていると修正した。
そしてリリアは、その全部に参加した。
研究対象ではない。
守られるだけでもない。
共同研究者として。
四日目の放課後。
全ての準備が整った。
北塔の地下にある術式室へ五人で降りる。
床一面に巨大な魔法陣が描かれていた。
「最終確認」
ルシアンが言う。
「異常を感じたら即座に術式から離れること。特にリリア。可能性創造を深く使いすぎない」
「はい」
「アレン、力任せに壊さない」
「分かってる」
「ノア、自分を犠牲にする選択肢は最初から除外して」
「信用ないなあ」
「実績があるからね」
最後にルシアンがカイルを見る。
「クロフォード」
「分かっています」
「まだ何も言ってないよ」
「リリアの意思を無視するな、でしょう」
「よくできました」
「腹立つな……」
リリアは笑った。
「カイル先輩」
「何だ」
「手」
カイルがこちらを見る。
「繋いでいい?」
「……ああ」
手を取る。
もう接続率は上がらない。
ただ好きだから触れているだけだ。
「怖い?」
リリアが聞く。
「ああ」
「私も」
「なら無茶するな」
「カイル先輩も」
「ああ」
ルシアンの合図で、術式が起動した。
床の魔法陣が光る。
ノア、アレン、ルシアン。
三人の胸元から赤い光が浮かび上がった。
「……見えた」
リリアが呟く。
三本の赤い線。
それぞれの魂から伸びて、空間の一点へ集まっている。
その先にあるのは、黒い亀裂だった。
「世界側の接続点だ」
ルシアンの声がする。
「リリア。あれに直接触れてはいけない」
「うん」
「三本の線だけを見て」
リリアは集中する。
壊さない。
魂を傷つけない。
昨日カイルにしたのと同じ。
三人と封印の間に、新しい境界を作る。
「――可能性創造」
白銀の光が広がった。
赤い線へ触れる。
一瞬、頭の中に知らない景色が流れ込んだ。
血に濡れた剣。
崩れた街。
笑いながら泣いている誰か。
何度も呼ばれる、リリアという名前。
「っ……!」
「リリア!」
カイルの声が聞こえた。
「俺を見ろ」
昨日と同じ声。
リリアは目を開ける。
すぐ隣にカイルがいる。
「昔を見るな」
「うん」
「お前はそこにいない」
「……うん」
「お前は今ここにいる」
繋いだ手に力が入る。
「俺もここにいる」
視界が戻る。
知らない記憶が遠ざかっていく。
リリアは三本の線だけを見る。
「できる」
「ああ」
「私、できるよ」
「知っている」
白銀の光が強くなる。
一本目。
ノアの封印が浮かび上がる。
境界を作る。
赤い線が離れた。
二本目。
アレン。
同じように、魂から封印だけを切り離す。
三本目。
ルシアン。
最後の線が浮き上がった瞬間、黒い亀裂が大きく開いた。
「リリア、下がれ!」
カイルに身体を引かれる。
空間が揺れる。
黒い亀裂の向こうから、無数の光景が見えた。
十二の世界。
十二人のリリア。
死んだ彼女。
泣いた彼ら。
選ばれた誰か。
選ばれなかった誰か。
壊れて、戻って、また始まる。
「……これが」
リリアは息を呑む。
「今までの世界?」
「ああ」
ルシアンの声がする。
「見るだけだ。引かれるな」
黒い亀裂から何かが伸びてきた。
声ではない。
言葉でもない。
それでも意味だけが頭へ流れ込んでくる。
戻れ。
選べ。
物語を完成させろ。
リリアは眉を寄せた。
「……嫌」
白銀の光が揺れる。
「私は戻らない」
カイルが隣にいる。
ノアも。
アレンも。
ルシアンも。
でも誰か一人を選べという声ではない。
今この瞬間、リリアが何を選ぶかを決めるのは、自分だ。
「私は昔のリリアじゃない」
黒い亀裂へ向かって言う。
「エリシアでもある。でもリリアでもある」
自分で選んだ名前。
「誰かのために作られた役じゃない」
白銀の光が広がる。
「私は、私が生きたいから生きる」
黒い亀裂が揺れた。
その瞬間、繋いでいた手が強く握られた。
カイルだ。
「リリア」
「うん」
「一人でやるな」
隣を見る。
「俺もいる」
少し笑った。
「うん」
「何をすればいい」
「一緒にいて」
「それだけか」
「それがいい」
カイルは一瞬だけ目を細めた。
「ああ」
逃げない。
庇って前へ出ることもしない。
リリアの隣に立つ。
それが今のカイルの選択だった。
「一緒に帰ろう」
「ああ」
「今日も明日も」
「ああ」
「卒業したあとも」
カイルの口元が少しだけ緩んだ。
「その予定だ」
「じゃあ」
リリアは黒い亀裂を見る。
「こんなところで終われないね」
「当然だ」
二人の魔力が重なる。
今度は強制された接続ではない。
互いに選んで、合わせた魔力。
「――切り離す」
白銀の光が弾けた。
三本の赤い線が同時に外れる。
ノア。
アレン。
ルシアン。
その魂から、封印が離れた。
黒い亀裂が大きく揺れる。
そして。
閉じた。
静寂が落ちる。
床の魔法陣から光が消えた。
誰も動かなかった。
「……終わった?」
リリアが聞く。
ルシアンが術式を確認する。
長い沈黙。
「再構築機構からの接続、消失」
次にノアを見る。
「魂魄封印、消失」
アレン。
「同じく」
最後に自分自身を確認する。
「僕もだ」
ルシアンが顔を上げた。
「終わったよ」
リリアは数秒、その言葉を理解できなかった。
「……本当に?」
「ああ」
「また明日戻ったりしない?」
「その可能性は限りなく低い」
「百パーセントじゃないんだ」
「研究者だからね」
どこかで聞いた言葉だった。
リリアが隣を見る。
カイルもこちらを見ている。
「カイル先輩」
「ああ」
「終わったって」
「ああ」
「私たち、明日もいる?」
「ああ」
「来年も?」
「ああ」
「ずっと?」
そこでカイルは少しだけ笑った。
「それは俺たち次第だ」
リリアは瞬きをした。
そして笑った。
「そっか」
それが一番嬉しい答えだった。
世界が保証してくれるわけではない。
運命が結びつけてくれるわけでもない。
明日も一緒にいたければ、明日も選べばいい。
その次の日も。
そのまた次の日も。
「じゃあ明日も選ぶ」
「俺もだ」
ノアが後ろで小さく笑った。
「僕たちいるんですけどね」
「知ってる」
「見えてなかっただろ」
アレンまで呆れている。
「見えてました」
「嘘つけ」
「……少し忘れてた」
「正直だな、お前」
ルシアンが眼鏡を直す。
「続きは二人きりになってからにしてくれるかな」
「何もしません!」
「何を想像したんだ」
カイルにまで言われた。
「そっちが言わせたんでしょ!」
笑い声が、地下の術式室に響いた。
世界は終わらなかった。
誰も死ななかった。
誰も一人を犠牲にしなかった。
その翌朝。
七時二十五分。
リリアが女子寮を出ると、カイルはいつもの場所にいた。
「おはよう」
「おはよう、カイル先輩」
右手が差し出される。
リリアは取った。
もう数字は上がらない。
赤い文字も出ない。
「……普通だね」
「ああ」
「世界救った次の日なのに」
「授業はある」
「休みにならないの?」
「ならない」
「世界救ったのに?」
「誰も知らないからな」
「損した気分」
「何が欲しいんだ」
「ご褒美」
カイルがこちらを見る。
「何がいい」
「考えてなかった」
「なら後で決めろ」
「何でも?」
「常識の範囲なら」
「ケチ」
「当然だ」
いつもの道を歩く。
手を繋いで。
どうでもいい話をしながら。
リリアは途中で気づいた。
これが欲しかったのだ。
特別な未来ではない。
明日が来ること。
好きな人がそこにいること。
喧嘩をしても、また話せること。
そして季節は巡った。
白銀だったリリアのネクタイが蒼へ変わるより少し前。
カイルの卒業の日が来た。
式を終えた校庭には、卒業生と在校生が入り混じっていた。
深紅のネクタイを締めたカイルを見つけて、リリアは人混みを抜ける。
「カイル先輩!」
呼ぶと、すぐに振り向いた。
「走るな」
「今日くらいいいでしょ」
「転ぶぞ」
「転ばない」
言った直後、段差に足を取られた。
腕を掴まれる。
「……ほら」
「今のはたまたま」
「卒業するまでに直らなかったな」
「方向音痴と段差は別です」
「どちらも心配だ」
リリアは立ち直って、カイルを見る。
制服姿の彼を見るのは今日で最後だ。
「卒業しちゃうんだね」
「ああ」
「明日から朝迎えに来ない?」
「ああ」
「研究室にもいない?」
「ああ」
「……嫌だな」
素直に言うと、カイルの表情が少し柔らかくなった。
「俺もだ」
「カイル先輩でも寂しい?」
「当たり前だろう」
「顔に出ない」
「出しているつもりだ」
「全然」
リリアは笑った。
カイルは卒業後、王立魔法研究院へ進む。
魂と魔法、そして世界干渉術式の研究。
過去を繰り返さないためではない。
これから先に使える魔法を作るために。
「でも会えるよね」
「ああ」
「毎日?」
「学院の規則上、毎日は難しい」
「じゃあ三日に一回」
「具体的だな」
「四日は長い」
「……俺もそう思う」
「じゃあ決まり」
カイルが笑った。
卒業しても、何も終わらない。
少しだけ形が変わるだけだ。
「リリア」
「何?」
「二年後」
「うん」
「お前が卒業する時も、ここに来る」
「迎えに?」
「ああ」
「その時も付き合ってたら?」
わざと聞いた。
カイルの眉が寄る。
「何だその言い方は」
「未来は私たち次第なんでしょ?」
「そう言ったが」
「だから」
リリアは少し笑う。
「二年後も私を好きでいてね」
「それは頼まれることじゃない」
「じゃあ?」
「俺が決める」
カイルがリリアの手を取る。
「明日も、その次も、お前を好きでいたいと思えばそうする」
「今は?」
「好きだ」
「二年後は?」
「その時の俺に聞け」
「真面目」
「ただ」
少しだけ身体を寄せられる。
「今の俺は、二年後もお前の隣にいるつもりでいる」
それで十分だった。
「私も」
周囲にはまだ人がいる。
だからキスはしない。
代わりに、繋いだ手を少しだけ強く握った。
二年は思ったより早かった。
リリアは蒼を経て、深紅のネクタイを締めるようになった。
魔法の制御は以前よりずっと上手くなった。
可能性創造についての研究も続けた。
カイルがいなくなった北塔の研究室には、時々一人で行った。
最初は迷った。
二年目には三回に一回くらいしか迷わなくなった。
三年目には、ほぼ迷わなくなった。
それを報告した時、カイルには「成長が遅い」と言われた。
恋人関係も続いた。
毎日は会えなかった。
喧嘩もした。
カイルが研究に夢中になって約束を忘れ、リリアが本気で怒ったこともある。
逆にリリアが危険な実験へ首を突っ込み、カイルに怒られたこともある。
それでも、どちらかが一方的に決めることはなくなった。
怒ったら話す。
納得できなければまた話す。
それを繰り返した。
そして二年後。
卒業式を終えて学院の門を出ると、約束通り彼はいた。
黒い外套。
研究院の制服。
学院にいた頃より少しだけ大人びた顔。
それでもリリアを見つけた瞬間の表情は変わらない。
「リリア」
名前を呼ばれた。
リリアは笑って走り出す。
「走るな」
「二年ぶりみたいな言い方しないで!」
「昨日も会ったな」
「そういうことじゃない!」
目の前まで来て止まる。
カイルがリリアの深紅のネクタイを見る。
「卒業おめでとう」
「ありがとう」
「三年間、よく頑張ったな」
「うん」
「方向音痴も多少改善した」
「そこいる?」
「重要だ」
笑ってから、リリアは彼を見る。
「約束覚えてたね」
「忘れると思ったのか」
「全然」
カイルが手を差し出す。
学院に入った頃は怖かった手。
過去に誰かを殺した手。
苺タルトを買ってきた手。
毎朝、自分を迷子にさせないために握った手。
初めて好きだと伝えられた日に、震えていた手。
そして今は、ただ恋人が自分へ差し出している手。
リリアはその手を取った。
「ねえ」
「何だ」
「今日からもう先輩じゃないよね」
カイルの動きが止まる。
「……そうだな」
「私も卒業したし」
「ああ」
リリアは少しだけ迷った。
昔のリリアが彼をどう呼んでいたのか。
もう、そのことは気にならなかった。
同じ名前を呼んだからといって、同じ恋になるわけではない。
この二年間で、それくらいは分かった。
「カイル」
呼んだ。
繋いだ手が僅かに強くなる。
「……もう一度」
昔も似たようなことを言われた気がして、リリアは笑った。
「カイル」
「ああ」
「何その返事」
「慣れていない」
「カイル先輩より短くなっただけなのに」
「意味が違う」
「どう違うの?」
「……近い」
その答えがカイルらしくて、リリアは笑った。
「じゃあこれからカイルね」
「ああ」
「リリアって呼んで」
「ずっとそう呼んでいる」
「じゃあエリシア?」
少しだけ意地悪く聞いた。
カイルは考える。
「どちらがいい」
「どっちも私」
「ああ」
「カイルは?」
「俺もどちらもお前だと思っている」
その答えに、胸の奥が温かくなる。
「じゃあ今日はリリア」
「分かった」
カイルが少し近づいた。
「リリア」
「何?」
「卒業したら言おうと思っていたことがある」
「何?」
少しだけ緊張する。
けれど、カイルはすぐには答えなかった。
「……いや」
「何でやめるの」
「今日でなくてもいい」
「気になる」
「これから時間はある」
「今聞きたい」
「なら今度、ちゃんと話す」
「何それ」
「急いで答えを出す必要がないと、ようやく覚えた」
リリアは少しだけ目を細めた。
昔のカイルなら、未来を失うことを怖がっていた。
今は未来があるからこそ、急がない。
「じゃあ待つ」
「ああ」
「でもあんまり待たせたら怒る」
「分かっている」
「三年とかは無理」
「そこまで待たせない」
「一年?」
「リリア」
「半年?」
「楽しんでいるだろう」
「ちょっと」
カイルが呆れたように笑う。
それから、繋いだ手を引かれた。
「帰るぞ」
「どこに?」
「まず食事だ。卒業祝いを予約してある」
「予約したの?」
「ああ」
「苺タルトある?」
「ある」
「さすが」
「何年付き合っていると思っている」
学院から離れていく。
リリアは一度だけ振り返った。
三年間過ごしたアルカディア。
ここで自分が誰なのかを知った。
昔の自分ではないことも。
誰かに愛されるために生まれたわけではないことも。
そして、自分で誰かを好きになれることも。
「リリア?」
「今行く」
前を向く。
隣にはカイルがいる。
でも彼がいるから歩くのではない。
自分がこの道を選んだから、隣を歩いている。
「カイル」
「何だ」
「好き」
カイルがこちらを見る。
少しだけ笑った。
「俺もだ」
「明日も?」
「明日になったらまた言う」
「じゃあ明日聞く」
「ああ」
「明後日も」
「好きにしろ」
「毎日聞く」
「……それは少し面倒だな」
「ひどい!」
「嘘だ」
「カイルが嘘ついた」
「たまにはな」
笑いながら歩く。
運命が決めた恋ではない。
過去から続いた恋でもない。
誰かに選ばされた未来でもない。
今日好きだから、今日隣にいる。
明日も好きなら、また明日選ぶ。
そうやって何度でも選び直せることを、二人はもう知っている。
だから未来は怖くない。
決められていないからこそ。
これから二人で作っていける。
繋いだ手を、今度はリリアから握り直した。
カイルも同じ強さで握り返す。
守る人と、守られる人ではなく。
過去を償う人と、その代わりになる人でもなく。
ただ、互いを好きになった二人として。
同じ速さで歩いていく。
カイルルート END