魔法より、君に恋をする。

ルシアンルート 第36章 あなたの好きな場所

休日の朝。

 学院正門へ着いたリリアは、時計を確認した。

 約束の十分前。

「よし」

 今日は迷わなかった。

 正確には途中で一度だけ道を間違えたけれど、気づいて戻れたので迷子には含めないことにする。

「随分と満足そうだね」

 突然声をかけられ、リリアは振り返った。

「ルシアン先輩」

「おはよう」

「いつからいたんですか?」

「五分ほど前かな」

「早い」

「君に言われたくはないね」

 ルシアンは制服ではなかった。

 黒を基調にした落ち着いた服装に、薄手の長いコート。眼鏡はいつもと同じなのに、深紅のネクタイがないだけで随分印象が違う。

 リリアは少し見てから言った。

「先輩っぽくない」

「褒めている?」

「多分」

「不安だな」

「何か普通の人みたい」

「普段の僕を何だと思っているのかな」

「生徒会室に住んでる人」

「住んでいないよ」

「本当に?」

「部屋はちゃんとある」

「見たことない」

「見せる機会もないだろう」

 ルシアンが歩き出す。

「行こうか」

「はい」

 リリアはその隣に並んだ。

 学院から街までは歩いて二十分ほど。

 普段なら誰かと話していればすぐに感じる距離なのに、今日は少しだけ変だった。

 昨日までは普通に話せていた。

 なのに二人で出かけると決めた途端、何を話せばいいのか考えてしまう。

「静かだね」

 先に気づいたのはルシアンだった。

「何話そうかなって」

「昨日はあれだけ質問していたのに?」

「今日は何か違う」

「何が?」

「分かんない」

「そう」

 ルシアンは少し笑った。

「では僕から聞こうか」

「珍しい」

「昨日、僕ばかり答えたからね」

「何聞く?」

「今日、何を楽しみにしてきた?」

「古書店」

「即答だね」

「あと散歩」

「うん」

「あとルシアン先輩」

 隣から返事が消えた。

 リリアは顔を上げる。

「何ですか」

「……僕?」

「うん」

「僕の何を楽しみに?」

「一緒に出かけること」

「そう」

「昨日約束したでしょ」

「したね」

「だから楽しみにしてた」

 ルシアンが前を向く。

「何でこっち見ないの?」

「道を見ている」

「さっきまで私見てたのに」

「君が転ばないようにね」

「誤魔化した」

「何のことかな」

 眼鏡の奥はいつも通りだった。

 ただ、耳が少し赤い。

「……ルシアン先輩」

「何?」

「耳赤い」

「寒いからじゃないかな」

「今日そんな寒くない」

「風がある」

「ないよ」

「君は随分と細かいところを見るね」

 歩く速度が少しだけ速くなった。

「照れてる?」

「違う」

「じゃあ何?」

「……リリア」

「はい」

「少し静かに歩こうか」

「やっぱり照れてる」

「静かに」

 面白い。

 ルシアンにもこういうところがあるらしい。

 また一つ知った。

 それが妙に嬉しかった。

 街へ着く頃には、いつもの調子に戻っていた。

「ここ」

 ルシアンが立ち止まる。

 大通りから一本入った細い道。

 古い建物の一階に、小さな店があった。

「ここが好きな古書店?」

「ああ」

「思ったより小さい」

「品揃えはいいよ」

「何回来てる?」

「数えていない」

「店員さんと仲良し?」

「顔は覚えられている」

「常連じゃん」

「否定はしない」

 扉を開ける。

 小さなベルが鳴った。

 中は紙と木の匂いがした。

 天井近くまで本棚が並び、古い本が隙間なく詰め込まれている。

「すごい」

「好き?」

「うん」

「本を読むのが?」

「この感じが」

「なるほど」

 リリアは棚の間を歩く。

 魔法書。

 歴史書。

 小説。

 旅行記。

 見たことのない文字で書かれた本まである。

「これ何?」

 一冊抜こうとする。

「待って」

 背後から声がした。

 同時に、頭の横から腕が伸びてきた。

 ルシアンの手が、リリアが触ろうとしていた本を先に取る。

「これは駄目」

 近い。

 思ったよりずっと。

 背中にルシアンの胸が触れるほどではないけれど、少し動けば当たりそうな距離だった。

 リリアは本より先にそちらが気になった。

「……先輩」

「何?」

「近い」

 ルシアンが止まる。

 数秒。

 ゆっくり一歩下がった。

「失礼」

「何で急に敬語」

「少し反省した」

「別に嫌じゃないけど」

「……そういうことを簡単に言わない方がいい」

「何で?」

「僕が困るから」

「また困ってる」

「君といると最近多いね」

 ルシアンは取った本を棚へ戻した。

「これは触れると眠る」

「本が?」

「人が」

「怖」

「三日くらい」

「もっと早く止めてください」

「止めただろう?」

「危なかった」

「だから僕と来て正解だったね」

「一人だったら触ってた」

「だろうね」

「……ありがとうございます」

「どういたしまして」

 今度は二人並んで棚を見る。

 ルシアンは意外と説明が上手かった。

 難しい魔法書も、リリアが分からないと言えば簡単に説明する。

「これ面白いよ」

「恋愛小説?」

「意外?」

「めちゃくちゃ」

「僕だって読むよ」

「恋愛分かるんですか?」

「……随分失礼な質問だね」

「恋したことある?」

 口にしてから、少し踏み込みすぎた気がした。

 ルシアンの指が本の背表紙で止まる。

「あるよ」

 意外だった。

「あるんだ」

「僕を何歳だと思っているのかな」

「十七歳」

「表向きはね」

「……そうだった」

 この人は普通の三年生ではない。

 それを一瞬忘れていた。

「どんな人?」

「知りたい?」

「うん」

 ルシアンは棚を見たまま答えない。

「秘密?」

「そうだね」

「また」

「これはまだ話せない」

「今も好き?」

 今度は長い沈黙だった。

「……難しい質問だ」

「好きか嫌いかじゃないの?」

「そう簡単なものではないんだよ」

「ふーん」

「不満そうだね」

「知りたかったから」

「なぜ?」

「ルシアン先輩の好きな人、気になる」

 ルシアンがこちらを見る。

「それはどういう意味で?」

「どういう意味?」

「……いや」

 小さく笑う。

「今は聞かないでおこう」

「変なの」

「君にだけは言われたくないな」

 古書店を出る頃には、ルシアンの腕に三冊の本があった。

「結構買ったね」

「今日は少ない方だよ」

「本当に本好きなんだ」

「疑っていた?」

「仕事の延長かと思ってた」

「純粋に好きだよ」

「じゃあ一個覚えた」

「何を?」

「ルシアン先輩は本当に本が好き」

「昨日も言ったけどね」

「今日は確認した」

 ルシアンが少し笑った。

「君はそうやって僕を知っていくんだね」

「駄目?」

「いや」

 少し間を置く。

「悪くない」

 そのあと街を歩いた。

 ルシアンが普段使う道。

 好きな店。

 静かな広場。

 小さな橋。

 観光地でも何でもない場所ばかりだった。

「ここが一番好きかな」

 ルシアンが足を止めたのは、街の端にある古い石橋だった。

 下には細い川が流れている。

「何で?」

「人が少ない」

「静かだから?」

「それもある」

 ルシアンは欄干へ軽く寄りかかる。

「ここから学院が見える」

 リリアも隣に立った。

 遠くにアルカディアの塔が見える。

「本当だ」

「昔から、時々ここへ来る」

「昔ってどれくらい?」

「随分昔」

「百年前?」

「秘密」

「千年?」

「増やさないでくれるかな」

「当たってる?」

「教えない」

 リリアは笑った。

 風が髪を揺らす。

「一人で来るの?」

「ああ」

「誰か連れてきたことは?」

「ないよ」

 リリアは彼を見る。

「私が初めて?」

「ああ」

「何で?」

 ルシアンは川を見る。

「君が来たいと言ったから」

「それだけ?」

「それだけでは不満?」

「ちょっと」

「欲張りだね」

「本当の理由ありそう」

「あるよ」

 素直に認められて、リリアは少し驚いた。

「何?」

「君に見せたかった」

「ここを?」

「ああ」

「何で?」

「僕の好きな場所だから」

 静かな声だった。

「昨日、僕のことを知りたいと言っただろう」

「うん」

「なら、こういうものも僕の一部だ」

 リリアはもう一度学院を見る。

 同じ景色なのに、少しだけ違って見えた。

「嬉しい」

「そう?」

「うん。初めて連れてきたの私なんでしょ?」

「ああ」

「特別っぽい」

 ルシアンが黙った。

「違う?」

「……困ったな」

「また?」

「君は本当にそういうところがある」

「どういうところ?」

「欲しい言葉の直前まで自分で来るところ」

「じゃあ言って」

「何を?」

「私、特別?」

 ルシアンがこちらを見る。

 紫の瞳と目が合う。

 いつもなら笑って誤魔化されると思った。

 でも今日は違った。

「特別だよ」

 リリアの胸が少しだけ跳ねた。

「……本当に?」

「ああ」

「どういう意味で?」

「そこまで一度に聞く?」

「気になる」

「今日はここまで」

「ずるい」

「知っている」

 ルシアンが笑う。

 リリアは少し不満だった。

 でも同時に、嬉しかった。

 特別。

 その言葉が思ったより胸に残る。

「ルシアン先輩」

「何?」

「眼鏡取ってみて」

「急だね」

「見たい」

「何を?」

「眼鏡ない顔」

 ルシアンは少し迷ったあと、眼鏡を外した。

 いつも隠れているわけではない。

 ただ、何となく印象が変わる。

 紫の瞳が近く感じた。

「……どう?」

「顔いいですね」

 ルシアンが吹き出した。

「感想がそれ?」

「だって顔いい」

「ありがとう」

「眼鏡ない方がちょっと若く見える」

「僕は一応学生なんだけどね」

「忘れる」

「酷いな」

 リリアはもう少し顔を見る。

「でも眼鏡ある方がルシアン先輩っぽい」

「そう?」

「うん」

 眼鏡を受け取って、自分から返そうとする。

 その時、指先が触れた。

 ほんの少し。

 それだけなのに、なぜか二人とも動かなかった。

「……リリア」

「何?」

「眼鏡」

「あ」

 まだ持ったままだった。

「ごめん」

「いや」

 ルシアンが受け取る。

 眼鏡をかけ直す。

「戻った」

「何が?」

「ルシアン先輩」

「眼鏡が本体みたいに言わないでくれるかな」

 笑った。

 けれど、さっき触れた指先が少し気になる。

 リリアは自分の手を見る。

「どうしたの?」

「何でもない」

「珍しいね。君が隠すなんて」

「本当に何でもない」

「そう」

 ルシアンは追及しなかった。

 そのあと近くの店で昼食を食べた。

 学院へ戻る頃には夕方になっていた。

「楽しかった」

 正門の前でリリアが言う。

「それならよかった」

「また行きたい」

「古書店?」

「それも」

「散歩?」

「それも」

「では何?」

「ルシアン先輩と出かけたい」

 ルシアンが黙った。

「……また?」

「うん」

「僕と?」

「だから何で毎回確認するの」

「まだ慣れなくてね」

「何に?」

 ルシアンは少しだけ笑う。

「今の君が、僕を選んで会いに来ることに」

 リリアはその言葉を聞いて、首を傾げた。

「今の私?」

「……ああ」

「昔の私じゃなくて?」

 空気が少し変わった。

 ルシアンはすぐには答えない。

「先輩」

「今日は楽しかった?」

 話を変えられた。

「誤魔化した」

「そうだね」

「教えてくれない?」

「まだ」

「いつ?」

「君が知っても、今の君でいられる時」

「私、ずっと私だけど」

「そうだね」

 ルシアンは少し寂しそうに笑った。

「だからこそ、怖いんだよ」

 その言葉の意味は分からなかった。

「ルシアン先輩も怖いことあるんだ」

「あるよ」

「何?」

「君に嫌われること、とか」

 リリアは目を瞬いた。

「……私に?」

「ああ」

「何で?」

「それもまだ秘密」

「今日秘密多すぎ」

「僕は秘密の多い男だからね」

「開き直った」

 リリアは少し考える。

「でも今は嫌いじゃないよ」

「知っている」

「むしろ好きな方」

 ルシアンの笑顔が止まった。

「……どういう意味かな」

「人として」

「そう」

「何その顔」

「いや」

 いつもの笑顔に戻る。

「少し期待しただけだよ」

「何を?」

「秘密」

「また!」

 ルシアンが笑う。

「次に会った時、一つ教える」

「本当に?」

「ああ」

「じゃあ明日会いに行く」

「早いな」

「一個知りたいから」

「それだけ?」

 聞かれた。

 リリアは少し考える。

「……会いたいからもある」

 今度こそ、ルシアンは完全に黙った。

「先輩?」

「君は」

 眼鏡を押し上げる。

「本当に僕を困らせるのが上手だね」

「そんなつもりない」

「だから困るんだよ」

 そう言って、ルシアンはリリアの頭へ手を伸ばした。

 けれど、触れる直前で止まる。

 リリアはその手を見る。

「何で止めたの?」

「……何となく」

「触りたかった?」

「少しね」

「じゃあいいのに」

「いいの?」

「頭でしょ?」

「ああ」

「どうぞ」

 許可すると、ルシアンの手がそっと髪へ触れた。

 一度だけ。

 優しく撫でる。

 それだけだった。

「……満足?」

「思ったより」

「何それ」

 手が離れる。

 なぜか少しだけ惜しいと思った。

「じゃあ明日」

「ああ」

「生徒会室行く」

「待っているよ」

「今度は仕事してても帰らないから」

「困った後輩だ」

「嫌?」

「まさか」

 ルシアンは微笑んだ。

「楽しみにしている」

 女子寮へ戻る道で、リリアは何度か頭へ触れた。

 撫でられた場所。

 別に何も変わっていない。

 それなのに妙に気になる。

 そして、もう一つ。

『少し期待しただけだよ』

 何を期待したのだろう。

 考えても分からない。

 でも明日になれば、また会える。

 そう思うと、少し嬉しかった。

 一方。

 リリアと別れたルシアンは、しばらく正門の前から動かなかった。

「……会いたい、か」

 小さく呟く。

 自分から会いに来る。

 自分を知りたいと言う。

 好きな場所を喜ぶ。

 特別かと聞く。

 触れていいと言う。

 明日も会いたいと言う。

 そのどれも、過去にはなかった。

 最初の彼女は、自分を好きになった。

 けれどそれは、あまりにも特殊な始まりだった。

 彼女の魂には、自分の半分が使われていた。

 あの感情がどこまで彼女自身のものだったのか。

 長い時間が経った今でも、ルシアンには答えが出せない。

 だから今度は。

 何の繋がりもない彼女に惹かれてはいけないと思っていた。

 同じ顔。

 同じ名前。

 似た魔力。

 それだけでまた特別にしてしまえば、今の彼女を見ていないことになる。

 そう思っていたのに。

「……困ったな」

 今日一日で知ったことを思い出す。

 古書店で危険な本へ迷わず手を伸ばしたこと。

 自分の耳が赤いと平気で指摘したこと。

 眼鏡を外した顔を見て「顔いいですね」と真顔で言ったこと。

 特別だと言えば、隠そうともせず嬉しそうにしたこと。

 昔の彼女なら、たぶんしなかった。

 だから分かってしまう。

 自分が今日見ていたのは、過去ではない。

 今の彼女だった。

 ルシアンは眼鏡へ触れる。

 彼女の指が一瞬触れた場所。

「これは、まずいね」

 そう呟きながら。

 その顔は、少しだけ笑っていた。
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