魔法より、君に恋をする。
ルシアンルート 第36章 あなたの好きな場所
休日の朝。
学院正門へ着いたリリアは、時計を確認した。
約束の十分前。
「よし」
今日は迷わなかった。
正確には途中で一度だけ道を間違えたけれど、気づいて戻れたので迷子には含めないことにする。
「随分と満足そうだね」
突然声をかけられ、リリアは振り返った。
「ルシアン先輩」
「おはよう」
「いつからいたんですか?」
「五分ほど前かな」
「早い」
「君に言われたくはないね」
ルシアンは制服ではなかった。
黒を基調にした落ち着いた服装に、薄手の長いコート。眼鏡はいつもと同じなのに、深紅のネクタイがないだけで随分印象が違う。
リリアは少し見てから言った。
「先輩っぽくない」
「褒めている?」
「多分」
「不安だな」
「何か普通の人みたい」
「普段の僕を何だと思っているのかな」
「生徒会室に住んでる人」
「住んでいないよ」
「本当に?」
「部屋はちゃんとある」
「見たことない」
「見せる機会もないだろう」
ルシアンが歩き出す。
「行こうか」
「はい」
リリアはその隣に並んだ。
学院から街までは歩いて二十分ほど。
普段なら誰かと話していればすぐに感じる距離なのに、今日は少しだけ変だった。
昨日までは普通に話せていた。
なのに二人で出かけると決めた途端、何を話せばいいのか考えてしまう。
「静かだね」
先に気づいたのはルシアンだった。
「何話そうかなって」
「昨日はあれだけ質問していたのに?」
「今日は何か違う」
「何が?」
「分かんない」
「そう」
ルシアンは少し笑った。
「では僕から聞こうか」
「珍しい」
「昨日、僕ばかり答えたからね」
「何聞く?」
「今日、何を楽しみにしてきた?」
「古書店」
「即答だね」
「あと散歩」
「うん」
「あとルシアン先輩」
隣から返事が消えた。
リリアは顔を上げる。
「何ですか」
「……僕?」
「うん」
「僕の何を楽しみに?」
「一緒に出かけること」
「そう」
「昨日約束したでしょ」
「したね」
「だから楽しみにしてた」
ルシアンが前を向く。
「何でこっち見ないの?」
「道を見ている」
「さっきまで私見てたのに」
「君が転ばないようにね」
「誤魔化した」
「何のことかな」
眼鏡の奥はいつも通りだった。
ただ、耳が少し赤い。
「……ルシアン先輩」
「何?」
「耳赤い」
「寒いからじゃないかな」
「今日そんな寒くない」
「風がある」
「ないよ」
「君は随分と細かいところを見るね」
歩く速度が少しだけ速くなった。
「照れてる?」
「違う」
「じゃあ何?」
「……リリア」
「はい」
「少し静かに歩こうか」
「やっぱり照れてる」
「静かに」
面白い。
ルシアンにもこういうところがあるらしい。
また一つ知った。
それが妙に嬉しかった。
街へ着く頃には、いつもの調子に戻っていた。
「ここ」
ルシアンが立ち止まる。
大通りから一本入った細い道。
古い建物の一階に、小さな店があった。
「ここが好きな古書店?」
「ああ」
「思ったより小さい」
「品揃えはいいよ」
「何回来てる?」
「数えていない」
「店員さんと仲良し?」
「顔は覚えられている」
「常連じゃん」
「否定はしない」
扉を開ける。
小さなベルが鳴った。
中は紙と木の匂いがした。
天井近くまで本棚が並び、古い本が隙間なく詰め込まれている。
「すごい」
「好き?」
「うん」
「本を読むのが?」
「この感じが」
「なるほど」
リリアは棚の間を歩く。
魔法書。
歴史書。
小説。
旅行記。
見たことのない文字で書かれた本まである。
「これ何?」
一冊抜こうとする。
「待って」
背後から声がした。
同時に、頭の横から腕が伸びてきた。
ルシアンの手が、リリアが触ろうとしていた本を先に取る。
「これは駄目」
近い。
思ったよりずっと。
背中にルシアンの胸が触れるほどではないけれど、少し動けば当たりそうな距離だった。
リリアは本より先にそちらが気になった。
「……先輩」
「何?」
「近い」
ルシアンが止まる。
数秒。
ゆっくり一歩下がった。
「失礼」
「何で急に敬語」
「少し反省した」
「別に嫌じゃないけど」
「……そういうことを簡単に言わない方がいい」
「何で?」
「僕が困るから」
「また困ってる」
「君といると最近多いね」
ルシアンは取った本を棚へ戻した。
「これは触れると眠る」
「本が?」
「人が」
「怖」
「三日くらい」
「もっと早く止めてください」
「止めただろう?」
「危なかった」
「だから僕と来て正解だったね」
「一人だったら触ってた」
「だろうね」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
今度は二人並んで棚を見る。
ルシアンは意外と説明が上手かった。
難しい魔法書も、リリアが分からないと言えば簡単に説明する。
「これ面白いよ」
「恋愛小説?」
「意外?」
「めちゃくちゃ」
「僕だって読むよ」
「恋愛分かるんですか?」
「……随分失礼な質問だね」
「恋したことある?」
口にしてから、少し踏み込みすぎた気がした。
ルシアンの指が本の背表紙で止まる。
「あるよ」
意外だった。
「あるんだ」
「僕を何歳だと思っているのかな」
「十七歳」
「表向きはね」
「……そうだった」
この人は普通の三年生ではない。
それを一瞬忘れていた。
「どんな人?」
「知りたい?」
「うん」
ルシアンは棚を見たまま答えない。
「秘密?」
「そうだね」
「また」
「これはまだ話せない」
「今も好き?」
今度は長い沈黙だった。
「……難しい質問だ」
「好きか嫌いかじゃないの?」
「そう簡単なものではないんだよ」
「ふーん」
「不満そうだね」
「知りたかったから」
「なぜ?」
「ルシアン先輩の好きな人、気になる」
ルシアンがこちらを見る。
「それはどういう意味で?」
「どういう意味?」
「……いや」
小さく笑う。
「今は聞かないでおこう」
「変なの」
「君にだけは言われたくないな」
古書店を出る頃には、ルシアンの腕に三冊の本があった。
「結構買ったね」
「今日は少ない方だよ」
「本当に本好きなんだ」
「疑っていた?」
「仕事の延長かと思ってた」
「純粋に好きだよ」
「じゃあ一個覚えた」
「何を?」
「ルシアン先輩は本当に本が好き」
「昨日も言ったけどね」
「今日は確認した」
ルシアンが少し笑った。
「君はそうやって僕を知っていくんだね」
「駄目?」
「いや」
少し間を置く。
「悪くない」
そのあと街を歩いた。
ルシアンが普段使う道。
好きな店。
静かな広場。
小さな橋。
観光地でも何でもない場所ばかりだった。
「ここが一番好きかな」
ルシアンが足を止めたのは、街の端にある古い石橋だった。
下には細い川が流れている。
「何で?」
「人が少ない」
「静かだから?」
「それもある」
ルシアンは欄干へ軽く寄りかかる。
「ここから学院が見える」
リリアも隣に立った。
遠くにアルカディアの塔が見える。
「本当だ」
「昔から、時々ここへ来る」
「昔ってどれくらい?」
「随分昔」
「百年前?」
「秘密」
「千年?」
「増やさないでくれるかな」
「当たってる?」
「教えない」
リリアは笑った。
風が髪を揺らす。
「一人で来るの?」
「ああ」
「誰か連れてきたことは?」
「ないよ」
リリアは彼を見る。
「私が初めて?」
「ああ」
「何で?」
ルシアンは川を見る。
「君が来たいと言ったから」
「それだけ?」
「それだけでは不満?」
「ちょっと」
「欲張りだね」
「本当の理由ありそう」
「あるよ」
素直に認められて、リリアは少し驚いた。
「何?」
「君に見せたかった」
「ここを?」
「ああ」
「何で?」
「僕の好きな場所だから」
静かな声だった。
「昨日、僕のことを知りたいと言っただろう」
「うん」
「なら、こういうものも僕の一部だ」
リリアはもう一度学院を見る。
同じ景色なのに、少しだけ違って見えた。
「嬉しい」
「そう?」
「うん。初めて連れてきたの私なんでしょ?」
「ああ」
「特別っぽい」
ルシアンが黙った。
「違う?」
「……困ったな」
「また?」
「君は本当にそういうところがある」
「どういうところ?」
「欲しい言葉の直前まで自分で来るところ」
「じゃあ言って」
「何を?」
「私、特別?」
ルシアンがこちらを見る。
紫の瞳と目が合う。
いつもなら笑って誤魔化されると思った。
でも今日は違った。
「特別だよ」
リリアの胸が少しだけ跳ねた。
「……本当に?」
「ああ」
「どういう意味で?」
「そこまで一度に聞く?」
「気になる」
「今日はここまで」
「ずるい」
「知っている」
ルシアンが笑う。
リリアは少し不満だった。
でも同時に、嬉しかった。
特別。
その言葉が思ったより胸に残る。
「ルシアン先輩」
「何?」
「眼鏡取ってみて」
「急だね」
「見たい」
「何を?」
「眼鏡ない顔」
ルシアンは少し迷ったあと、眼鏡を外した。
いつも隠れているわけではない。
ただ、何となく印象が変わる。
紫の瞳が近く感じた。
「……どう?」
「顔いいですね」
ルシアンが吹き出した。
「感想がそれ?」
「だって顔いい」
「ありがとう」
「眼鏡ない方がちょっと若く見える」
「僕は一応学生なんだけどね」
「忘れる」
「酷いな」
リリアはもう少し顔を見る。
「でも眼鏡ある方がルシアン先輩っぽい」
「そう?」
「うん」
眼鏡を受け取って、自分から返そうとする。
その時、指先が触れた。
ほんの少し。
それだけなのに、なぜか二人とも動かなかった。
「……リリア」
「何?」
「眼鏡」
「あ」
まだ持ったままだった。
「ごめん」
「いや」
ルシアンが受け取る。
眼鏡をかけ直す。
「戻った」
「何が?」
「ルシアン先輩」
「眼鏡が本体みたいに言わないでくれるかな」
笑った。
けれど、さっき触れた指先が少し気になる。
リリアは自分の手を見る。
「どうしたの?」
「何でもない」
「珍しいね。君が隠すなんて」
「本当に何でもない」
「そう」
ルシアンは追及しなかった。
そのあと近くの店で昼食を食べた。
学院へ戻る頃には夕方になっていた。
「楽しかった」
正門の前でリリアが言う。
「それならよかった」
「また行きたい」
「古書店?」
「それも」
「散歩?」
「それも」
「では何?」
「ルシアン先輩と出かけたい」
ルシアンが黙った。
「……また?」
「うん」
「僕と?」
「だから何で毎回確認するの」
「まだ慣れなくてね」
「何に?」
ルシアンは少しだけ笑う。
「今の君が、僕を選んで会いに来ることに」
リリアはその言葉を聞いて、首を傾げた。
「今の私?」
「……ああ」
「昔の私じゃなくて?」
空気が少し変わった。
ルシアンはすぐには答えない。
「先輩」
「今日は楽しかった?」
話を変えられた。
「誤魔化した」
「そうだね」
「教えてくれない?」
「まだ」
「いつ?」
「君が知っても、今の君でいられる時」
「私、ずっと私だけど」
「そうだね」
ルシアンは少し寂しそうに笑った。
「だからこそ、怖いんだよ」
その言葉の意味は分からなかった。
「ルシアン先輩も怖いことあるんだ」
「あるよ」
「何?」
「君に嫌われること、とか」
リリアは目を瞬いた。
「……私に?」
「ああ」
「何で?」
「それもまだ秘密」
「今日秘密多すぎ」
「僕は秘密の多い男だからね」
「開き直った」
リリアは少し考える。
「でも今は嫌いじゃないよ」
「知っている」
「むしろ好きな方」
ルシアンの笑顔が止まった。
「……どういう意味かな」
「人として」
「そう」
「何その顔」
「いや」
いつもの笑顔に戻る。
「少し期待しただけだよ」
「何を?」
「秘密」
「また!」
ルシアンが笑う。
「次に会った時、一つ教える」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ明日会いに行く」
「早いな」
「一個知りたいから」
「それだけ?」
聞かれた。
リリアは少し考える。
「……会いたいからもある」
今度こそ、ルシアンは完全に黙った。
「先輩?」
「君は」
眼鏡を押し上げる。
「本当に僕を困らせるのが上手だね」
「そんなつもりない」
「だから困るんだよ」
そう言って、ルシアンはリリアの頭へ手を伸ばした。
けれど、触れる直前で止まる。
リリアはその手を見る。
「何で止めたの?」
「……何となく」
「触りたかった?」
「少しね」
「じゃあいいのに」
「いいの?」
「頭でしょ?」
「ああ」
「どうぞ」
許可すると、ルシアンの手がそっと髪へ触れた。
一度だけ。
優しく撫でる。
それだけだった。
「……満足?」
「思ったより」
「何それ」
手が離れる。
なぜか少しだけ惜しいと思った。
「じゃあ明日」
「ああ」
「生徒会室行く」
「待っているよ」
「今度は仕事してても帰らないから」
「困った後輩だ」
「嫌?」
「まさか」
ルシアンは微笑んだ。
「楽しみにしている」
女子寮へ戻る道で、リリアは何度か頭へ触れた。
撫でられた場所。
別に何も変わっていない。
それなのに妙に気になる。
そして、もう一つ。
『少し期待しただけだよ』
何を期待したのだろう。
考えても分からない。
でも明日になれば、また会える。
そう思うと、少し嬉しかった。
一方。
リリアと別れたルシアンは、しばらく正門の前から動かなかった。
「……会いたい、か」
小さく呟く。
自分から会いに来る。
自分を知りたいと言う。
好きな場所を喜ぶ。
特別かと聞く。
触れていいと言う。
明日も会いたいと言う。
そのどれも、過去にはなかった。
最初の彼女は、自分を好きになった。
けれどそれは、あまりにも特殊な始まりだった。
彼女の魂には、自分の半分が使われていた。
あの感情がどこまで彼女自身のものだったのか。
長い時間が経った今でも、ルシアンには答えが出せない。
だから今度は。
何の繋がりもない彼女に惹かれてはいけないと思っていた。
同じ顔。
同じ名前。
似た魔力。
それだけでまた特別にしてしまえば、今の彼女を見ていないことになる。
そう思っていたのに。
「……困ったな」
今日一日で知ったことを思い出す。
古書店で危険な本へ迷わず手を伸ばしたこと。
自分の耳が赤いと平気で指摘したこと。
眼鏡を外した顔を見て「顔いいですね」と真顔で言ったこと。
特別だと言えば、隠そうともせず嬉しそうにしたこと。
昔の彼女なら、たぶんしなかった。
だから分かってしまう。
自分が今日見ていたのは、過去ではない。
今の彼女だった。
ルシアンは眼鏡へ触れる。
彼女の指が一瞬触れた場所。
「これは、まずいね」
そう呟きながら。
その顔は、少しだけ笑っていた。
学院正門へ着いたリリアは、時計を確認した。
約束の十分前。
「よし」
今日は迷わなかった。
正確には途中で一度だけ道を間違えたけれど、気づいて戻れたので迷子には含めないことにする。
「随分と満足そうだね」
突然声をかけられ、リリアは振り返った。
「ルシアン先輩」
「おはよう」
「いつからいたんですか?」
「五分ほど前かな」
「早い」
「君に言われたくはないね」
ルシアンは制服ではなかった。
黒を基調にした落ち着いた服装に、薄手の長いコート。眼鏡はいつもと同じなのに、深紅のネクタイがないだけで随分印象が違う。
リリアは少し見てから言った。
「先輩っぽくない」
「褒めている?」
「多分」
「不安だな」
「何か普通の人みたい」
「普段の僕を何だと思っているのかな」
「生徒会室に住んでる人」
「住んでいないよ」
「本当に?」
「部屋はちゃんとある」
「見たことない」
「見せる機会もないだろう」
ルシアンが歩き出す。
「行こうか」
「はい」
リリアはその隣に並んだ。
学院から街までは歩いて二十分ほど。
普段なら誰かと話していればすぐに感じる距離なのに、今日は少しだけ変だった。
昨日までは普通に話せていた。
なのに二人で出かけると決めた途端、何を話せばいいのか考えてしまう。
「静かだね」
先に気づいたのはルシアンだった。
「何話そうかなって」
「昨日はあれだけ質問していたのに?」
「今日は何か違う」
「何が?」
「分かんない」
「そう」
ルシアンは少し笑った。
「では僕から聞こうか」
「珍しい」
「昨日、僕ばかり答えたからね」
「何聞く?」
「今日、何を楽しみにしてきた?」
「古書店」
「即答だね」
「あと散歩」
「うん」
「あとルシアン先輩」
隣から返事が消えた。
リリアは顔を上げる。
「何ですか」
「……僕?」
「うん」
「僕の何を楽しみに?」
「一緒に出かけること」
「そう」
「昨日約束したでしょ」
「したね」
「だから楽しみにしてた」
ルシアンが前を向く。
「何でこっち見ないの?」
「道を見ている」
「さっきまで私見てたのに」
「君が転ばないようにね」
「誤魔化した」
「何のことかな」
眼鏡の奥はいつも通りだった。
ただ、耳が少し赤い。
「……ルシアン先輩」
「何?」
「耳赤い」
「寒いからじゃないかな」
「今日そんな寒くない」
「風がある」
「ないよ」
「君は随分と細かいところを見るね」
歩く速度が少しだけ速くなった。
「照れてる?」
「違う」
「じゃあ何?」
「……リリア」
「はい」
「少し静かに歩こうか」
「やっぱり照れてる」
「静かに」
面白い。
ルシアンにもこういうところがあるらしい。
また一つ知った。
それが妙に嬉しかった。
街へ着く頃には、いつもの調子に戻っていた。
「ここ」
ルシアンが立ち止まる。
大通りから一本入った細い道。
古い建物の一階に、小さな店があった。
「ここが好きな古書店?」
「ああ」
「思ったより小さい」
「品揃えはいいよ」
「何回来てる?」
「数えていない」
「店員さんと仲良し?」
「顔は覚えられている」
「常連じゃん」
「否定はしない」
扉を開ける。
小さなベルが鳴った。
中は紙と木の匂いがした。
天井近くまで本棚が並び、古い本が隙間なく詰め込まれている。
「すごい」
「好き?」
「うん」
「本を読むのが?」
「この感じが」
「なるほど」
リリアは棚の間を歩く。
魔法書。
歴史書。
小説。
旅行記。
見たことのない文字で書かれた本まである。
「これ何?」
一冊抜こうとする。
「待って」
背後から声がした。
同時に、頭の横から腕が伸びてきた。
ルシアンの手が、リリアが触ろうとしていた本を先に取る。
「これは駄目」
近い。
思ったよりずっと。
背中にルシアンの胸が触れるほどではないけれど、少し動けば当たりそうな距離だった。
リリアは本より先にそちらが気になった。
「……先輩」
「何?」
「近い」
ルシアンが止まる。
数秒。
ゆっくり一歩下がった。
「失礼」
「何で急に敬語」
「少し反省した」
「別に嫌じゃないけど」
「……そういうことを簡単に言わない方がいい」
「何で?」
「僕が困るから」
「また困ってる」
「君といると最近多いね」
ルシアンは取った本を棚へ戻した。
「これは触れると眠る」
「本が?」
「人が」
「怖」
「三日くらい」
「もっと早く止めてください」
「止めただろう?」
「危なかった」
「だから僕と来て正解だったね」
「一人だったら触ってた」
「だろうね」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
今度は二人並んで棚を見る。
ルシアンは意外と説明が上手かった。
難しい魔法書も、リリアが分からないと言えば簡単に説明する。
「これ面白いよ」
「恋愛小説?」
「意外?」
「めちゃくちゃ」
「僕だって読むよ」
「恋愛分かるんですか?」
「……随分失礼な質問だね」
「恋したことある?」
口にしてから、少し踏み込みすぎた気がした。
ルシアンの指が本の背表紙で止まる。
「あるよ」
意外だった。
「あるんだ」
「僕を何歳だと思っているのかな」
「十七歳」
「表向きはね」
「……そうだった」
この人は普通の三年生ではない。
それを一瞬忘れていた。
「どんな人?」
「知りたい?」
「うん」
ルシアンは棚を見たまま答えない。
「秘密?」
「そうだね」
「また」
「これはまだ話せない」
「今も好き?」
今度は長い沈黙だった。
「……難しい質問だ」
「好きか嫌いかじゃないの?」
「そう簡単なものではないんだよ」
「ふーん」
「不満そうだね」
「知りたかったから」
「なぜ?」
「ルシアン先輩の好きな人、気になる」
ルシアンがこちらを見る。
「それはどういう意味で?」
「どういう意味?」
「……いや」
小さく笑う。
「今は聞かないでおこう」
「変なの」
「君にだけは言われたくないな」
古書店を出る頃には、ルシアンの腕に三冊の本があった。
「結構買ったね」
「今日は少ない方だよ」
「本当に本好きなんだ」
「疑っていた?」
「仕事の延長かと思ってた」
「純粋に好きだよ」
「じゃあ一個覚えた」
「何を?」
「ルシアン先輩は本当に本が好き」
「昨日も言ったけどね」
「今日は確認した」
ルシアンが少し笑った。
「君はそうやって僕を知っていくんだね」
「駄目?」
「いや」
少し間を置く。
「悪くない」
そのあと街を歩いた。
ルシアンが普段使う道。
好きな店。
静かな広場。
小さな橋。
観光地でも何でもない場所ばかりだった。
「ここが一番好きかな」
ルシアンが足を止めたのは、街の端にある古い石橋だった。
下には細い川が流れている。
「何で?」
「人が少ない」
「静かだから?」
「それもある」
ルシアンは欄干へ軽く寄りかかる。
「ここから学院が見える」
リリアも隣に立った。
遠くにアルカディアの塔が見える。
「本当だ」
「昔から、時々ここへ来る」
「昔ってどれくらい?」
「随分昔」
「百年前?」
「秘密」
「千年?」
「増やさないでくれるかな」
「当たってる?」
「教えない」
リリアは笑った。
風が髪を揺らす。
「一人で来るの?」
「ああ」
「誰か連れてきたことは?」
「ないよ」
リリアは彼を見る。
「私が初めて?」
「ああ」
「何で?」
ルシアンは川を見る。
「君が来たいと言ったから」
「それだけ?」
「それだけでは不満?」
「ちょっと」
「欲張りだね」
「本当の理由ありそう」
「あるよ」
素直に認められて、リリアは少し驚いた。
「何?」
「君に見せたかった」
「ここを?」
「ああ」
「何で?」
「僕の好きな場所だから」
静かな声だった。
「昨日、僕のことを知りたいと言っただろう」
「うん」
「なら、こういうものも僕の一部だ」
リリアはもう一度学院を見る。
同じ景色なのに、少しだけ違って見えた。
「嬉しい」
「そう?」
「うん。初めて連れてきたの私なんでしょ?」
「ああ」
「特別っぽい」
ルシアンが黙った。
「違う?」
「……困ったな」
「また?」
「君は本当にそういうところがある」
「どういうところ?」
「欲しい言葉の直前まで自分で来るところ」
「じゃあ言って」
「何を?」
「私、特別?」
ルシアンがこちらを見る。
紫の瞳と目が合う。
いつもなら笑って誤魔化されると思った。
でも今日は違った。
「特別だよ」
リリアの胸が少しだけ跳ねた。
「……本当に?」
「ああ」
「どういう意味で?」
「そこまで一度に聞く?」
「気になる」
「今日はここまで」
「ずるい」
「知っている」
ルシアンが笑う。
リリアは少し不満だった。
でも同時に、嬉しかった。
特別。
その言葉が思ったより胸に残る。
「ルシアン先輩」
「何?」
「眼鏡取ってみて」
「急だね」
「見たい」
「何を?」
「眼鏡ない顔」
ルシアンは少し迷ったあと、眼鏡を外した。
いつも隠れているわけではない。
ただ、何となく印象が変わる。
紫の瞳が近く感じた。
「……どう?」
「顔いいですね」
ルシアンが吹き出した。
「感想がそれ?」
「だって顔いい」
「ありがとう」
「眼鏡ない方がちょっと若く見える」
「僕は一応学生なんだけどね」
「忘れる」
「酷いな」
リリアはもう少し顔を見る。
「でも眼鏡ある方がルシアン先輩っぽい」
「そう?」
「うん」
眼鏡を受け取って、自分から返そうとする。
その時、指先が触れた。
ほんの少し。
それだけなのに、なぜか二人とも動かなかった。
「……リリア」
「何?」
「眼鏡」
「あ」
まだ持ったままだった。
「ごめん」
「いや」
ルシアンが受け取る。
眼鏡をかけ直す。
「戻った」
「何が?」
「ルシアン先輩」
「眼鏡が本体みたいに言わないでくれるかな」
笑った。
けれど、さっき触れた指先が少し気になる。
リリアは自分の手を見る。
「どうしたの?」
「何でもない」
「珍しいね。君が隠すなんて」
「本当に何でもない」
「そう」
ルシアンは追及しなかった。
そのあと近くの店で昼食を食べた。
学院へ戻る頃には夕方になっていた。
「楽しかった」
正門の前でリリアが言う。
「それならよかった」
「また行きたい」
「古書店?」
「それも」
「散歩?」
「それも」
「では何?」
「ルシアン先輩と出かけたい」
ルシアンが黙った。
「……また?」
「うん」
「僕と?」
「だから何で毎回確認するの」
「まだ慣れなくてね」
「何に?」
ルシアンは少しだけ笑う。
「今の君が、僕を選んで会いに来ることに」
リリアはその言葉を聞いて、首を傾げた。
「今の私?」
「……ああ」
「昔の私じゃなくて?」
空気が少し変わった。
ルシアンはすぐには答えない。
「先輩」
「今日は楽しかった?」
話を変えられた。
「誤魔化した」
「そうだね」
「教えてくれない?」
「まだ」
「いつ?」
「君が知っても、今の君でいられる時」
「私、ずっと私だけど」
「そうだね」
ルシアンは少し寂しそうに笑った。
「だからこそ、怖いんだよ」
その言葉の意味は分からなかった。
「ルシアン先輩も怖いことあるんだ」
「あるよ」
「何?」
「君に嫌われること、とか」
リリアは目を瞬いた。
「……私に?」
「ああ」
「何で?」
「それもまだ秘密」
「今日秘密多すぎ」
「僕は秘密の多い男だからね」
「開き直った」
リリアは少し考える。
「でも今は嫌いじゃないよ」
「知っている」
「むしろ好きな方」
ルシアンの笑顔が止まった。
「……どういう意味かな」
「人として」
「そう」
「何その顔」
「いや」
いつもの笑顔に戻る。
「少し期待しただけだよ」
「何を?」
「秘密」
「また!」
ルシアンが笑う。
「次に会った時、一つ教える」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ明日会いに行く」
「早いな」
「一個知りたいから」
「それだけ?」
聞かれた。
リリアは少し考える。
「……会いたいからもある」
今度こそ、ルシアンは完全に黙った。
「先輩?」
「君は」
眼鏡を押し上げる。
「本当に僕を困らせるのが上手だね」
「そんなつもりない」
「だから困るんだよ」
そう言って、ルシアンはリリアの頭へ手を伸ばした。
けれど、触れる直前で止まる。
リリアはその手を見る。
「何で止めたの?」
「……何となく」
「触りたかった?」
「少しね」
「じゃあいいのに」
「いいの?」
「頭でしょ?」
「ああ」
「どうぞ」
許可すると、ルシアンの手がそっと髪へ触れた。
一度だけ。
優しく撫でる。
それだけだった。
「……満足?」
「思ったより」
「何それ」
手が離れる。
なぜか少しだけ惜しいと思った。
「じゃあ明日」
「ああ」
「生徒会室行く」
「待っているよ」
「今度は仕事してても帰らないから」
「困った後輩だ」
「嫌?」
「まさか」
ルシアンは微笑んだ。
「楽しみにしている」
女子寮へ戻る道で、リリアは何度か頭へ触れた。
撫でられた場所。
別に何も変わっていない。
それなのに妙に気になる。
そして、もう一つ。
『少し期待しただけだよ』
何を期待したのだろう。
考えても分からない。
でも明日になれば、また会える。
そう思うと、少し嬉しかった。
一方。
リリアと別れたルシアンは、しばらく正門の前から動かなかった。
「……会いたい、か」
小さく呟く。
自分から会いに来る。
自分を知りたいと言う。
好きな場所を喜ぶ。
特別かと聞く。
触れていいと言う。
明日も会いたいと言う。
そのどれも、過去にはなかった。
最初の彼女は、自分を好きになった。
けれどそれは、あまりにも特殊な始まりだった。
彼女の魂には、自分の半分が使われていた。
あの感情がどこまで彼女自身のものだったのか。
長い時間が経った今でも、ルシアンには答えが出せない。
だから今度は。
何の繋がりもない彼女に惹かれてはいけないと思っていた。
同じ顔。
同じ名前。
似た魔力。
それだけでまた特別にしてしまえば、今の彼女を見ていないことになる。
そう思っていたのに。
「……困ったな」
今日一日で知ったことを思い出す。
古書店で危険な本へ迷わず手を伸ばしたこと。
自分の耳が赤いと平気で指摘したこと。
眼鏡を外した顔を見て「顔いいですね」と真顔で言ったこと。
特別だと言えば、隠そうともせず嬉しそうにしたこと。
昔の彼女なら、たぶんしなかった。
だから分かってしまう。
自分が今日見ていたのは、過去ではない。
今の彼女だった。
ルシアンは眼鏡へ触れる。
彼女の指が一瞬触れた場所。
「これは、まずいね」
そう呟きながら。
その顔は、少しだけ笑っていた。