魔法より、君に恋をする。

ルシアンルート 第40章 運命がなくても

翌日の放課後。

 リリアは生徒会室の前で、一度深呼吸した。

 昨日までは、扉を開けることに緊張なんてしなかった。

 今日は違う。

 恋人になってから、初めて会う。

 それに。

『それでもまだ僕にキスしたいと思っていたら』

 思い出す。

「……意識するに決まってる」

 昨日、自分から予約したようなものだ。

 逃げるわけにもいかない。

 ノックする。

「どうぞ」

 声を聞いただけで、少し胸が跳ねた。

 扉を開ける。

「こんにちは」

「こんにちは、リリア」

 ルシアンはいつもの机にいた。

 顔を見る。

 昨日と同じ。

 眼鏡。

 黒紫の髪。

 深紅のネクタイ。

 なのに。

「……何だろ」

「何が?」

「恋人になってる」

 ルシアンが数秒黙った。

「昨日からね」

「分かってる」

「確認したかった?」

「ちょっと」

 ルシアンが笑った。

「では確認しておこうか。僕は今日も君の恋人だよ」

「よかった」

「一日で変わると思っていたの?」

「思ってないけど」

「僕も今日まで君を好きだったよ」

「今日まで?」

「言い方を間違えた」

「今終わったみたい」

「訂正する。今日も好きだ」

「私も」

 自然に返した。

 昨日より少しだけ恥ずかしくない。

 でも嬉しさは変わらない。

「……慣れるの早いね」

「毎日言えばもっと慣れるかも」

「それは困るな」

「何で?」

「僕はしばらく慣れたくない」

「変なの」

「君に好きだと言われるたび嬉しい方がいいだろう?」

 また胸が跳ねる。

「そういうのは上手い」

「何が?」

「キュンとさせるの」

「それは光栄だね」

「自覚ある?」

「今できた」

 ルシアンがペンを置いた。

 今日は仕事をするつもりがないらしい。

「座ろうか」

「うん」

 昨日までと同じソファへ向かう。

 リリアが座る。

 ルシアンも当然のように隣へ座った。

 少しだけ距離がある。

 リリアはその隙間を見る。

「……遠い」

「昨日より近いよ」

「恋人になったのに」

「では?」

 ルシアンがこちらを見る。

「君はどのくらいがいい?」

 聞かれる。

 リリアは少し考えて、自分から身体を寄せた。

 肩が触れる。

「これくらい」

「分かった」

 ルシアンは逃げなかった。

 ただ、少しだけ笑った。

「手も」

「はい」

 差し出された手を取る。

 指が重なる。

 昨日までと違って、今日は自然に指同士を絡めた。

 ルシアンの指が一瞬止まる。

「……何?」

「いや」

「嫌だった?」

「逆だよ」

 絡んだ指を見下ろす。

「昨日より積極的だと思って」

「恋人だから」

「便利な言葉だね」

「嫌?」

「だから逆だと言っているだろう」

 少しだけ握られる。

 それだけで嬉しい。

 でも今日は、これだけをしに来たわけではない。

「ルシアン先輩」

「ああ」

「聞く」

 笑顔が少し消えた。

「うん」

「昨日の続き」

「……分かった」

 ルシアンは手を離さなかった。

 むしろ、少しだけ握り直した。

「長い話になる」

「いいよ」

「聞いている途中で、僕から離れたくなったら離れていい」

「うん」

「質問もしていい」

「うん」

「怒ってもいい」

「そんなに?」

「僕としては、それくらいのつもりで話す」

 リリアはルシアンを見る。

「怖い?」

 聞くと、少し驚いた顔をされた。

「……僕が?」

「うん」

 昨日から思っていた。

 ルシアンは何でも知っている。

 世界のことも。

 過去のことも。

 自分のことも。

 でもこの話だけは、ずっと避けてきた。

「怖いよ」

 今日は誤魔化さなかった。

「君が僕を見る目が変わるかもしれない」

「そっか」

「だから」

「でも話す?」

「ああ」

「何で?」

「君が好きだから」

 静かな答えだった。

「好きだからこそ、君が知らないまま僕を選ぶ状態にはしたくない」

 リリアは絡んだ指を少し握った。

「分かった」

「……うん」

「聞く」

 ルシアンは一度、目を閉じた。

 それから話し始めた。

「最初のリリアは、人間として生まれたわけではない」

「うん」

「世界が最初に崩壊しかけた時、人類は生存するための術式を作った」

「それが再構築?」

「その原型だ」

 ルシアンの声は穏やかだった。

 でも、繋いだ手は少し冷たい。

「当時の世界には、崩壊を止められるだけの力を持つ人間がいなかった。だから作ろうとした」

「人を?」

「ああ」

「それがリリア?」

「そうだ」

 リリアは黙って聞く。

「膨大な魔力と、世界そのものへ干渉できる魂。その器を作るため、人々の願いが集められた」

「願い?」

「生きたい。死にたくない。子どもを助けたい。家族を守りたい。世界を終わらせたくない」

 無数の願い。

 それが、一人の少女を作った。

「でも願いだけでは、人間の魂にはならなかった」

「じゃあ何が足りなかったの?」

 ルシアンが黙った。

 そして。

「僕だ」

 リリアは瞬きをした。

「……ルシアン先輩?」

「ああ」

「どういうこと?」

「僕の魂を二つに分けた」

 繋いだ手が僅かに強くなる。

「半分を、彼女へ与えた」

 理解するまで少しかかった。

「……最初のリリアの魂に?」

「ああ」

「先輩の魂が入ってた?」

「半分だけね」

 リリアはルシアンの顔を見る。

 彼は笑っていなかった。

「当時の僕は、今のような立場ではなかった。まだ若かった」

「今も見た目若いけど」

「そこは今気にしなくていい」

「はい」

「術式を完成させるために、僕の魂が最も適合した」

「それで渡したの?」

「自分で選んだ」

「怖くなかった?」

「怖かったよ」

 少しだけ笑う。

「僕も今よりずっと未熟だったからね」

「……痛かった?」

「かなり」

「嫌だな」

「もう終わったことだよ」

「でも嫌」

 リリアは繋いだ手を握る。

 ルシアンが一瞬こちらを見る。

「続けて」

「……ああ」

 最初のリリアは生まれた。

 銀白色の髪。

 紫の瞳。

 世界へ干渉する力。

 人々の願いと、ルシアンの魂の半分を持って。

「最初は感情も薄かった」

「人形みたい?」

「近いかな。知識はあった。でも、自分が何を好きで、何を嫌うのか分からなかった」

「それで?」

「僕が彼女の監督役になった」

「……先輩が?」

「ああ」

 教えた。

 食事の味。

 花の名前。

 本の読み方。

 雨の日の過ごし方。

 笑うこと。

 怒ること。

 誰かを大切にすること。

「彼女は少しずつ人間らしくなった」

 ルシアンの声が柔らかくなる。

「そしてある日、僕に言った」

 何を言われたのか。

 リリアには分かった。

「好き?」

「ああ」

『あなたのことが好き』

 最初のリリアは、そう言った。

「先輩も好きだったんでしょ?」

「好きだった」

「なのに断った」

「ああ」

「何で?」

 昨日まで秘密にされていた答え。

 ルシアンは少しだけ目を伏せた。

「信じられなかったんだ」

「何を?」

「彼女の『好き』を」

 リリアは眉を寄せる。

「どういうこと?」

「彼女の魂の半分は僕だった」

「うん」

「生まれてから最も長く一緒にいたのも僕だった」

「うん」

「人間として生きる方法を教えたのも僕だった」

 ルシアンの指が僅かに震えた。

「そんな彼女が僕を好きになった時、僕には分からなかった」

「何が?」

「それが彼女自身の自由な感情なのか」

 リリアは黙った。

「僕の魂を持っているから惹かれたのかもしれない。最初に与えられた相手だから依存したのかもしれない。術式が、僕を愛するよう彼女を形作ったのかもしれない」

「でも分からないんでしょ?」

「ああ」

「本当に好きだったかもしれない」

「そうだね」

「先輩は好きだった」

「ああ」

「じゃあ付き合えばよかったのに」

「そう思う?」

「ちょっと」

 ルシアンは寂しそうに笑った。

「僕も何度もそう思ったよ」

「じゃあ何で」

「彼女を僕から切り離したかった」

 リリアはルシアンを見る。

「僕の半分としてではなく、一人の人間として生きてほしかった」

「……それで断ったの?」

「ああ」

「好きなのに?」

「好きだから」

 胸が少し痛くなった。

「彼女は泣いた?」

「泣いたよ」

「先輩は?」

「彼女の前では泣かなかった」

「一人で?」

「……少しね」

「馬鹿」

 口から出た。

 ルシアンが目を瞬く。

「馬鹿です」

「二回言ったね」

「だって二人とも好きだったのに」

「そうだね」

「勝手に決めたじゃん」

 リリアは少し怒っていた。

「彼女の好きが本物かどうか、先輩が決めた」

「……ああ」

「本人に決めさせなかった」

「その通りだ」

 反論しなかった。

「だから後悔している」

 静かな声。

「彼女のためだと思っていた。でも僕は、彼女が自分の感情を決める権利まで奪った」

 リリアは少し黙った。

「それから?」

「彼女は僕から離れた」

 そして世界を救った。

 その後、世界は崩壊と再構築を繰り返すようになった。

 最初のリリアの情報もまた、世界に利用された。

 何度も少女が作られた。

 何度も誰かを選ばされた。

「僕は長い間、それを見てきた」

 ルシアンは言う。

「止めようとした。でも完全には止められなかった」

「十二回」

「ああ」

「ずっと?」

「形は違ってもね」

 リリアは彼の横顔を見る。

 想像できないほど長い時間。

 ずっと同じ少女の面影を見続けた。

「それで私が生まれた」

「ああ」

 ルシアンがこちらを見る。

「でも君は違った」

「独立した魂」

「そう」

「先輩の半分じゃない」

「一切ない」

 即答だった。

「君の魂には、僕のものは何も入っていない」

「本当に?」

「ああ」

「術式で先輩を好きになるようにもなってない?」

「なっていない」

「運命で結ばれてるとか?」

「ないよ」

「前世で恋人とか?」

「君には前世としての彼女すらない」

「じゃあ」

 リリアは少し考えた。

「私とルシアン先輩って、何にもないんだ」

 ルシアンの表情が僅かに揺れた。

「……そうだね」

「魂の繋がりもない」

「ああ」

「運命もない」

「ああ」

「昔の約束もない」

「ああ」

 リリアは自分たちの繋いだ手を見る。

「じゃあ何で手繋いでるの?」

 ルシアンが黙った。

「何にもないのに」

「……リリア」

「私が繋ぎたいからでしょ?」

 顔を上げる。

「先輩も繋ぎたいから」

 紫の瞳を見る。

「私が先輩に会いたいと思ったのも」

「……うん」

「昨日ずっと待ってたのも」

「うん」

「好きって言ったのも」

「うん」

「全部、私が決めたんじゃん」

 ルシアンは何も言わない。

「それってすごくない?」

「……すごい?」

「うん」

 リリアは笑った。

「運命ないんでしょ?」

「ああ」

「じゃあ私たち、何にもないところから好きになったんだ」

 ルシアンの目が僅かに見開かれる。

「私はそれ、嬉しい」

「……嫌じゃない?」

「何が?」

「最初の彼女が、僕の魂の半分から生まれたこと」

「びっくりはした」

「僕が彼女を拒んだことも」

「そこはまだ馬鹿だと思ってる」

「厳しいな」

「でも」

 リリアは少し考える。

「今の私には関係ない」

 ルシアンが止まった。

「冷たい?」

「いや」

「だって私、その人じゃないもん」

「ああ」

「その人が先輩をどれだけ好きだったかも、その時先輩がどれだけ好きだったかも、私には分からない」

「うん」

「大事な過去なのは分かる。でも」

 繋いだ手を持ち上げる。

「今これしてるのは私」

 ルシアンの指が僅かに震えた。

「先輩が今好きなのも?」

「君だよ」

「ならいい」

「……それだけ?」

「うん」

「本当に?」

「あと一個怒ってる」

「何?」

「嫌われるかもって思ってたこと」

「それは仕方ないだろう」

「私そんなに心狭くない」

「そこではなくてね」

「じゃあ何?」

「僕自身が、怖かったんだよ」

 ルシアンが苦笑する。

「一度好きな人を、自分の判断で手放した。だからまた同じことをするんじゃないかと思っていた」

「今回も?」

「ああ」

「私のためって言って?」

「そう」

「それやったら怒るよ」

「知っている」

「別れるかどうかは私も決めるから」

「うん」

「先輩一人で決めないで」

「約束する」

 リリアは満足して頷いた。

「じゃあ話終わり?」

「……随分あっさりしているね」

「まだある?」

「核心は話した」

「じゃあ」

 リリアはルシアンを見る。

「約束覚えてる?」

 今度はルシアンが完全に黙った。

「……覚えているよ」

「何だっけ?」

「君、分かっていて聞いているだろう」

「確認」

「最近その言葉を便利に使うね」

「何だっけ?」

 ルシアンが小さく息を吐く。

「僕の話を全部聞いて」

「うん」

「それでも君が僕にキスしたいと思っていたら」

「うん」

「僕から聞く」

「じゃあ聞いて」

 ルシアンがこちらを見る。

 さっきまで過去を話していた時より、明らかに困っている。

「……リリア」

「はい」

「少しくらい余韻をくれないかな」

「昨日から待ってた」

「それを言われると弱いな」

 リリアは少し笑う。

「まだしたいよ」

 はっきり言った。

「話聞いても変わらなかった」

「……そう」

「むしろ前よりしたいかも」

「それ以上言うと、僕が困る」

「何で?」

「君、本当に分かっていない?」

「何を?」

「いや」

 ルシアンが眼鏡を外した。

「何で外すの?」

「邪魔だから」

 その答えだけで、一気に緊張した。

「……あ」

「今さら?」

「急に緊張してきた」

「やめる?」

「やめない」

「即答だね」

「したい」

 ルシアンが少し笑う。

「分かった」

 それから。

 空いている手が、リリアの頬へ触れる。

 昨日まで頭を撫でられることはあった。

 でも頬は初めてだった。

「嫌じゃない?」

「うん」

「リリア」

「何?」

 眼鏡のない紫の瞳が、近くにある。

 ルシアンも緊張している。

 今なら分かる。

「キスしてもいい?」

 昨日予告された言葉。

 なのに実際に聞かれると、全然違った。

「……はい」

 ルシアンが近づく。

 でも途中で止まった。

「何?」

「君があまりに見ているから」

「目閉じる?」

「できれば」

「先輩も緊張してる?」

「かなり」

「可愛い」

「今言う?」

「だって」

「リリア」

「はい」

「目を閉じて」

「はい」

 言われた通りにする。

 頬に触れている手が少し動く。

 そして。

 唇が触れた。

 ほんの短いキスだった。

 すぐに離れる。

 目を開ける。

 ルシアンが近くにいる。

 思ったよりずっと近い。

「……終わった?」

「終わったよ」

「短い」

 言ってから、ルシアンが固まった。

「……リリア」

「何?」

「それは、もう一度してほしいという意味?」

 自分でも考える。

「……多分」

「多分?」

「したい」

 今度は自分から言った。

 ルシアンが困ったように笑う。

「本当に手強いね、君は」

「嫌?」

「逆」

 もう一度、頬へ触れられる。

 今度はリリアも目を閉じた。

 二度目も優しかった。

 少しだけ長い。

 それでもすぐ離れる。

 ルシアンの額が、リリアの額へ軽く触れた。

「……今日はここまで」

「何で?」

「僕の理性のため」

「そんなに?」

「そんなに」

 リリアは少し笑った。

「先輩、余裕ないね」

「ずっとそう言っているだろう」

「やっと分かった」

「遅いよ」

 繋いでいた手は、まだ離れていない。

「ルシアン先輩」

「何?」

「好き」

 近いまま言う。

 ルシアンが目を閉じた。

「……それも今言う?」

「言いたかった」

「そう」

 もう一度キスされるかと思った。

 でもルシアンはしなかった。

 代わりに、リリアの手を自分の頬へ持っていく。

「僕も好きだよ」

 その声の方が、キスより胸に残った。

「今の私?」

「ああ」

「魂の半分じゃなくて?」

「君には入っていない」

「運命じゃなくて?」

「運命じゃない」

「じゃあ何で?」

 少し意地悪く聞く。

 ルシアンは笑った。

「君だから」

 胸が跳ねる。

「……それ好き」

「何が?」

「その答え」

「なら覚えておこう」

「また言って」

「何度でも」

 リリアは少しだけ肩へ寄りかかった。

 ルシアンも自然に受け止める。

「何にもないんだね、私たち」

「ああ」

「何にも決められてない」

「ああ」

「明日別れる可能性もある?」

「理論上は」

「嫌?」

「かなり」

「私も」

「そう」

「じゃあ明日は別れない」

 ルシアンが笑った。

「その次は?」

「明日決める」

「なるほど」

「毎日決めればいいでしょ」

「そうだね」

 昔。

 彼は、好きな少女を手放した。

 彼女の自由のためだと思って。

 今。

 自由な少女が、自分から彼の隣へ座っている。

 誰にも決められていない。

 何にも繋がれていない。

 それでも。

 手を繋ぐ。

 好きだと言う。

 キスをする。

 それだけでよかった。

 その日の夜。

 リリアが帰ったあとの生徒会室で、ルシアンは一人、古い記録を閉じた。

 長い間、開くたび胸が痛んだ記録だった。

 最初の彼女。

 彼女の告白。

 自分の拒絶。

 その後に続いた、十二の世界。

 どれも消えない。

 消す必要もない。

 けれど今日。

 初めて、その記録の隣に置けるものができた。

 過去の続きではない。

 全く新しい記憶。

『運命ないんでしょ?』

 思い出して、少し笑う。

『じゃあ私たち、何にもないところから好きになったんだ』

「……そうだね」

 ルシアンは眼鏡を外す。

 今日、彼女に触れた唇を思い出す。

 最初のリリアとは、一度もキスをしなかった。

 恋人にもならなかった。

 だから今日のことは。

 誰の記憶とも重ならない。

 今の自分と。

 今の彼女だけのものだった。

「運命がなくても」

 小さく呟く。

「僕は君を選ぶよ」

 その言葉を、いつか本人にも伝えようと思った。
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