その溺愛、予想外につき。
やがて、ふいに口を開いた。

「歌ったことは」

「え?」

「人前で歌ったことはある?」

突然の質問に、目をぱちぱちさせる。

「学校の合唱くらいです」

「ダンスは」

「少しだけ……動画を見て真似したことがある程度で……」

言いながら、自分でもどんどん不安になる。
こんなので通るはずがない。
場違いすぎる。

けれど黒崎さんは、意外にもそこで会話を切らなかった。

「涼の練習を近くで見てたことは?」

「あります」

今度は迷わず答えられた。

「家でもずっと見てました。振り入れの確認も、歌の練習も、毎日」

「曲は覚えてる?」

「……はい。たぶん、全部」

その瞬間、涼が顔を上げた。
驚いたような視線が刺さる。
でも、それは本当だった。

私はずっと見てきた。
兄が嬉しそうに口ずさんでいた新曲も、何度も踊っていた振りも。
ドアの隙間から、廊下から、こっそり覗くみたいに。
ただ応援したくて、隣にいたくて、自然と覚えてしまっていた。

黒崎さんがゆっくり頷く。

「……少し待ってて」

そう言って、受付の奥へ消えていく。
残された私は、息をすることさえ忘れそうになった。

「え……?」

思わず小さく漏らすと、涼が慌てて私を見る。

「まさか……」

兄の声にも戸惑いがにじんでいる。
私も同じ気持ちだった。
てっきり、ここで終わると思っていた。

数分後。
戻ってきた黒崎さんの後ろには、もう一人女性スタッフがいた。
ショートカットのきりっとした人で、いかにも厳しそうな空気をまとっている。

「この子が?」

第一声からして鋭い。
私は思わず背筋を伸ばした。

黒崎さんが頷く。

「そう。涼の妹さん」

女性スタッフ――たぶんダンスや育成担当なのだろう――は、私を上から下まで眺めた。
その視線だけで、心臓が縮みそうになる。

「無理でしょ」

きっぱり言われて、胸が痛む。
でも当然だ。
私だって昨日までならそう思った。

それでも黒崎さんは淡々としていた。

「だからこそ、一回見るだけ見ようと思って」

「見る?」

「うん。声質と、最低限のリズム感だけでも」

その言葉に、私は目を見開く。

見る。
それはつまり――

「簡単なチェックをする」

黒崎さんが私をまっすぐ見た。

「そこで無理だと判断したら終わり。変に期待はさせない」

胸がどくどく鳴る。
怖い。
でも、昨日まで閉じていた扉が、ほんの少しだけ開いた気がした。

「……はい」

声は震えていたけれど、ちゃんと返事はできた。

女性スタッフはまだ納得していない顔のままだったが、それでも踵を返す。

「ついてきて」

その一言に、私は涼を見る。
兄は複雑そうな顔で私を見つめていた。
心配と、不安と、少しだけ期待みたいなものまで混ざった目。

私は小さく笑ってみせる。
大丈夫、なんて本当は全然思えていないのに。

だけど今は、進むしかなかった。

兄の夢をつなぐために。
そして、自分で言い出した覚悟を嘘にしないために。

白い廊下の先にあるレッスン室の扉が、静かに開く。
その向こうには、大きな鏡と、ぴかぴかに磨かれた床。
きっとここから、全部が始まる。

まだ私は、ただの天宮ふわりだ。
男の子でも、アイドルでもない。
それでもこの先、もし一歩でも踏みこめたなら――
私は兄の名前を背負って、別の人生に足を踏み入れることになる。

そう思った瞬間、胸の奥で何かが大きく震えた。
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