その溺愛、予想外につき。
音が変わる。
テンポの強いリズム。
兄が部屋で何度も繰り返していた、あのサビだ。
私は半歩足を開き、呼吸を整える。
鏡の中の自分を見ながら、記憶をたどる。
右手を上げて、一拍遅れてターン。
踏み込んで、肩を入れて、視線を流す。
最初の数秒はどうにかなった。
でもやっぱり甘くない。
途中でリズムがずれそうになり、重心がぶれる。
あっと思った瞬間、足がもつれた。
「きゃっ」
転ぶ。
そう思った。
けれど床に手をつく前に、後ろからぐっと腕を引かれた。
「危ない」
低い声が、すぐ近くで落ちる。
え、と思った時には、私は誰かの胸元に支えられていた。
驚いて顔を上げる。
そこにいたのは、見知らぬ男の子だった。
明るい茶色の髪。
少しだけ垂れた優しそうな目。
レッスン着らしいラフな格好なのに、信じられないくらい顔が整っている。
近い。
びっくりするくらい近い。
私は息をのむ。
相手も一瞬だけ目を見開いた。
「……誰?」
その声は、驚いているのに妙に綺麗だった。
「るか、勝手に入ってこないで」
真白さんの呆れた声が飛ぶ。
るか、と呼ばれたその人は、まだ私の腕を支えたまま、ぱちぱちと瞬きをした。
「だって、レッスン室使ってるって聞いて。涼の代打の話かなって思って見にきたら……」
そこまで言って、彼は私をまじまじと見つめる。
心臓が止まりそうになる。
こんな至近距離で見られたら、何かおかしいって思われるかもしれない。
顔立ちとか、空気とか、声とか。
私は咄嗟に兄みたいに少し低めの声を作ろうとした。
「……すみません」
けれど緊張しすぎて、少し上ずった。
るかの目がすっと細くなる。
「あれ」
その小さな一言だけで、全身が固まった。
まさか。
もう気づかれたの。
冷や汗が背中を伝う。
でも次の瞬間、るかはふっと笑った。
「思ったよりちっちゃくて可愛いね、新しい涼」
可愛い。
その言葉に、頭が真っ白になる。
男の子に向ける褒め方じゃない。
そう思ったのに、るか本人は全然気にしていないみたいに笑っている。
「るか」
今度は黒崎さんの声に少し圧が混じった。
るかはやっと私から手を離し、両手を軽く上げる。
「ごめんなさい。邪魔するつもりなかったんです。でも、本当に代わり探してるんだなって思って」
真白さんがため息をつく。
「見学なら黙って見てなさい」
「はーい」
軽い返事。
でも、その目はまだ私から離れない。
私は慌てて一歩下がる。
腕をつかまれていたところが、じんわり熱い。
この人が誰なのかは、もう考えるまでもなかった。
このタイミングで、涼の代打の話を知っていて、こんなふうに自然にここへ入ってこられる人なんて一人しかいない。
たぶん、兄が入るはずだったグループのメンバーだ。
本物の、アイドル。
そう思った瞬間、足元がふらつきそうになる。
まだ何者でもない私が、もうその世界の人と向かい合ってしまっている。
真白さんは私を見て、容赦なく言った。
「続けるよ。今ので終わりじゃない」
「……はいっ」
かすれた声で返事をする。
でも胸の中は、さっきよりずっとぐちゃぐちゃだった。
試験に落ちるかもしれない不安。
本物のメンバーに見られている緊張。
それに、るかの言った「可愛い」が頭から離れない。
なのに音楽は待ってくれない。
鏡の中には、顔を強張らせた自分が映っている。
私は唇をきゅっと結んだ。
ここで終わりたくない。
兄の代わりなんて無理だと、思われたくない。
たとえ転びそうでも、笑われても、下手だと思われても。
せめて最後まで、ちゃんとやり切りたい。
そうして私は、もう一度立ち位置に戻る。
鏡の向こうには真白さん。
少し離れた場所には黒崎さんと涼。
そして壁際には、興味深そうにこちらを見つめるるか。
その全員の視線を受けながら、私は震える息を飲みこんだ。
兄の名前を背負うには、まだ遠すぎる。
それでも――
この一歩だけは、自分の足で踏み出したかった。
テンポの強いリズム。
兄が部屋で何度も繰り返していた、あのサビだ。
私は半歩足を開き、呼吸を整える。
鏡の中の自分を見ながら、記憶をたどる。
右手を上げて、一拍遅れてターン。
踏み込んで、肩を入れて、視線を流す。
最初の数秒はどうにかなった。
でもやっぱり甘くない。
途中でリズムがずれそうになり、重心がぶれる。
あっと思った瞬間、足がもつれた。
「きゃっ」
転ぶ。
そう思った。
けれど床に手をつく前に、後ろからぐっと腕を引かれた。
「危ない」
低い声が、すぐ近くで落ちる。
え、と思った時には、私は誰かの胸元に支えられていた。
驚いて顔を上げる。
そこにいたのは、見知らぬ男の子だった。
明るい茶色の髪。
少しだけ垂れた優しそうな目。
レッスン着らしいラフな格好なのに、信じられないくらい顔が整っている。
近い。
びっくりするくらい近い。
私は息をのむ。
相手も一瞬だけ目を見開いた。
「……誰?」
その声は、驚いているのに妙に綺麗だった。
「るか、勝手に入ってこないで」
真白さんの呆れた声が飛ぶ。
るか、と呼ばれたその人は、まだ私の腕を支えたまま、ぱちぱちと瞬きをした。
「だって、レッスン室使ってるって聞いて。涼の代打の話かなって思って見にきたら……」
そこまで言って、彼は私をまじまじと見つめる。
心臓が止まりそうになる。
こんな至近距離で見られたら、何かおかしいって思われるかもしれない。
顔立ちとか、空気とか、声とか。
私は咄嗟に兄みたいに少し低めの声を作ろうとした。
「……すみません」
けれど緊張しすぎて、少し上ずった。
るかの目がすっと細くなる。
「あれ」
その小さな一言だけで、全身が固まった。
まさか。
もう気づかれたの。
冷や汗が背中を伝う。
でも次の瞬間、るかはふっと笑った。
「思ったよりちっちゃくて可愛いね、新しい涼」
可愛い。
その言葉に、頭が真っ白になる。
男の子に向ける褒め方じゃない。
そう思ったのに、るか本人は全然気にしていないみたいに笑っている。
「るか」
今度は黒崎さんの声に少し圧が混じった。
るかはやっと私から手を離し、両手を軽く上げる。
「ごめんなさい。邪魔するつもりなかったんです。でも、本当に代わり探してるんだなって思って」
真白さんがため息をつく。
「見学なら黙って見てなさい」
「はーい」
軽い返事。
でも、その目はまだ私から離れない。
私は慌てて一歩下がる。
腕をつかまれていたところが、じんわり熱い。
この人が誰なのかは、もう考えるまでもなかった。
このタイミングで、涼の代打の話を知っていて、こんなふうに自然にここへ入ってこられる人なんて一人しかいない。
たぶん、兄が入るはずだったグループのメンバーだ。
本物の、アイドル。
そう思った瞬間、足元がふらつきそうになる。
まだ何者でもない私が、もうその世界の人と向かい合ってしまっている。
真白さんは私を見て、容赦なく言った。
「続けるよ。今ので終わりじゃない」
「……はいっ」
かすれた声で返事をする。
でも胸の中は、さっきよりずっとぐちゃぐちゃだった。
試験に落ちるかもしれない不安。
本物のメンバーに見られている緊張。
それに、るかの言った「可愛い」が頭から離れない。
なのに音楽は待ってくれない。
鏡の中には、顔を強張らせた自分が映っている。
私は唇をきゅっと結んだ。
ここで終わりたくない。
兄の代わりなんて無理だと、思われたくない。
たとえ転びそうでも、笑われても、下手だと思われても。
せめて最後まで、ちゃんとやり切りたい。
そうして私は、もう一度立ち位置に戻る。
鏡の向こうには真白さん。
少し離れた場所には黒崎さんと涼。
そして壁際には、興味深そうにこちらを見つめるるか。
その全員の視線を受けながら、私は震える息を飲みこんだ。
兄の名前を背負うには、まだ遠すぎる。
それでも――
この一歩だけは、自分の足で踏み出したかった。