その溺愛、予想外につき。
「……デビュー、延期になった」

「え……?」

一瞬、意味がわからなかった。

延期。
その言葉が頭の中でゆっくり転がって、遅れて胸がざわつく。

「なんで?」

聞くと、兄はすぐには答えなかった。
指先が、膝の上でぎゅっと握られている。
その手が、わずかに震えているのを見てしまって、胸がきゅっと苦しくなった。

やがて涼は、絞り出すみたいに言った。

「……喉、痛めたんだ」

「喉?」

私は目を見開く。
兄は歌が上手かった。
誰より声を大事にしていた。
冷たいものを控えて、加湿器をつけて、少し違和感があるだけでも喋りすぎないようにして。
そんな兄が、喉を痛めた。

「ちょっと前から、変だなって思ってたんだけど……ごまかしてた」

「どうして……!」

声が思わず大きくなる。
涼は困ったように笑った。

「大丈夫だと思ったんだよ。もう少し頑張れば、いけるって」

「でも、大丈夫じゃなかったんでしょ……?」

その問いに、兄は何も言わなかった。

部屋の中に沈黙が落ちる。
遠くで車の走る音がした。
こんなに静かなのに、胸の中だけがうるさい。

やがて、涼がぽつりと言った。

「今日、病院でちゃんと言われた。しばらく歌うなって」

その一言で、すべてがわかった気がした。

喉を休めなきゃいけない。
歌えない。
デビューできない。
兄の夢が、目の前で止められてしまったのだ。

私は何か言おうとした。
大丈夫だよとか、またチャンスあるよとか、そんなありきたりな言葉でも。
でも、喉の奥がつまってうまく声にならない。

だって、たぶん兄がいちばんわかってる。
そんな言葉で片づけられないくらい、悔しいってことを。

涼は、ふっと力なく笑った。

「メンバーにもスタッフさんにも、いっぱい迷惑かける」

「迷惑じゃないよ」

すぐにそう返すと、兄は少しだけ目を細めた。
優しい目だった。
でも、その奥にある痛みまでは消えていなかった。
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