その溺愛、予想外につき。
涼は立ち上がった。
いつも優しい兄の、珍しく厳しい顔だった。

「そんなのでどうにかなる世界じゃない」

「でも――」

「でもじゃない。歌もダンスも中途半端な素人が、いきなり入れるわけないだろ」

言われて、胸がちくっと痛む。
それでも私は唇を噛んで顔を上げた。

たしかにその通りだった。
私は兄みたいに本格的なレッスンを受けてきたわけじゃない。
ダンスだって得意じゃないし、歌だって人前で歌えるほどじゃない。
アイドルなんて、遠い遠い世界だ。

それでも。

「それでも、何もしないよりましだよ」

震えそうになる声を、必死で支える。
兄の目が揺れた。

「お兄ちゃんの夢なんでしょ」

その言葉を言った瞬間、鼻の奥がつんとした。

「やっとつかんだチャンスなんでしょ。ここで終わるなんて、やだよ」

兄が何も言えなくなる。
私はそのまま続けた。

「私、完璧にはできないかもしれない。でも、時間を稼ぐくらいならできるかもしれない。お兄ちゃんが戻れるまでの間だけでも――」

「無理だ」

かすれた声で、涼が遮る。

「バレたらどうするんだよ」

「バレないように頑張る」

「頑張るで済む話じゃないだろ!」

その声に、私はびくっと肩を震わせた。
兄がこんなふうに声を荒げるのは珍しかった。

けれど次の瞬間、涼ははっとした顔になって、苦しそうに眉を寄せた。

「……ごめん」

謝られてしまって、余計に苦しくなる。
違う。
謝ってほしいわけじゃない。

私はただ、兄にそんな顔をしてほしくなかっただけだ。

涼は額に手を当てて、しばらく黙っていた。
その横顔は、さっきよりずっと追いつめられて見えた。

たぶん兄だって、わかっている。
もう時間がないことを。
このままじゃ全部が崩れてしまうかもしれないことを。

だからこそ、余計につらいのだ。

私は小さく息を吸った。

「ねえ、お兄ちゃん」

「……」

「私、本気だよ」

返事はない。
でも私は続ける。

「お兄ちゃんの代わりなんて、本当はできない。そんなの私がいちばんわかってる」

兄の方が歌もうまいし、ダンスだってできる。
努力も才能も、私とは全然違う。

「でも、お兄ちゃんが大事にしてきたものを、何もしないで失くすのはいや」
< 5 / 54 >

この作品をシェア

pagetop