放課後、怪異調査クラブ

誰もいない音楽室



 翌日の放課後。

 朝倉湊、水瀬ひより、黒田蓮の三人は、音楽室の前に集まっていた。

 廊下の窓から差し込む夕日が、床をオレンジ色に染めている。部活動へ向かう生徒たちの声も、少しずつ遠ざかっていた。

 音楽室の扉には、小さなプレートが掛かっている。

 その下には、誰かが鉛筆で書いたらしい文字が残っていた。

『放課後、ひとりで入るな』

「……これ、前からあったっけ?」

 湊は扉を見つめた。

「知らない。少なくとも、私は気づかなかったわ」

 ひよりが答える。

「誰かのいたずらじゃないのか? ほら、こういうのって、怖がらせて楽しむやつがいるだろ」

 蓮はそう言いながら、扉の取っ手に手をかけた。

 しかし、すぐには開けなかった。

「……なあ。中、誰もいないよな?」

「昨日、音楽の授業で使ったあと、先生が鍵を閉めていたはずよ」

「じゃあ、なんで俺たちが入ることになってるんだよ……」

「怪異調査クラブだからでしょ?」

 ひよりの言葉に、蓮は大きなため息をついた。

「クラブ名、もうちょっと楽しそうなのにすればよかった……」

「自分で決めたんじゃないか」

 湊は苦笑した。

 とはいえ、湊も平気なわけではない。

 音楽室の七不思議。

 それは、この学校で最も有名な怪談の一つだった。

 放課後、誰もいない音楽室からピアノの音が聞こえる。

 その音を最後まで聞いてしまった人は、翌日、必ず同じ曲を口ずさんでしまうという。

 もちろん、そんな話を信じているわけではない。

 けれど、昨日見つけたノートに書かれていた記録が、どうしても気になっていた。

『第一の怪異。放課後の音楽室で、誰も触れていないピアノが鳴る』

 その下には、奇妙な数字が並んでいた。

 そして、最後のページには、今日の日付。

 偶然だと片づけるには、気になることが多すぎた。

「よし。まずは先生に確認しよう」

 湊が言った。

「え、今から?」

「勝手に入るわけにはいかないだろ。音楽室を調べたいって、ちゃんとお願いするんだ」

「……まあ、それが普通だよな」

 蓮は少し安心したようだった。

 三人は職員室へ向かい、音楽室を調べたい理由を説明した。

 対応してくれたのは、六年生の担任でもある白石先生だった。

「七不思議の調査?」

 先生は、少し意外そうに三人を見た。

「はい。学校の噂が本当なのか、自分たちで確かめてみたいんです」

 湊が答える。

 白石先生はしばらく考えたあと、静かにうなずいた。

「わかった。ただし、勝手に物を動かしたり、危ないことをしたりしないこと。調べ終わったら、必ず報告すること。いいね?」

「はい!」

 三人は声をそろえた。

 先生は音楽室の鍵を取り出した。

 そのとき、湊はふと気づいた。

 先生は鍵を手にしたまま、音楽室のほうを見つめていた。

 まるで、何かを思い出しているようだった。

「先生?」

「ああ、ごめん。何でもないよ」

 白石先生はいつもの表情に戻ると、三人に鍵を渡した。

「終わったら、鍵を返しに来てね」

 こうして、怪異調査クラブの最初の調査が始まった。

     * * *

 音楽室の扉を開ける。

 ギィ……。

 小さな音を立てて扉が動いた。

 室内には、ピアノや楽器、楽譜をしまう棚が並んでいる。

 窓際には、鍵盤に布を掛けられたグランドピアノが置かれていた。

 夕日の光が、黒いピアノの表面に細長く映っている。

「……普通だな」

 蓮が言った。

「そりゃ、音楽室だもの」

「いや、もっとこう、怪しい感じがすると思ったんだよ」

「怪しい感じって、どんな感じよ」

「入った瞬間に、ピアノが勝手に鳴るとか……」

 蓮が言い終える前に、湊は思わずピアノから距離を取った。

「ちょっと! そういうこと言わないでよ!」

「お前、ほんとに怖がりだな」

「怖がってない!」

「じゃあ、ピアノの下をのぞいてみろよ」

「それは……調査の順番があるだろ!」

 ひよりが二人の間に入った。

「はいはい、そこまで。まずは、ノートに書かれていたことを確認しましょう」

 湊は、持ってきた怪異調査記録を開いた。

 昨日、三人で何度も読み返したページ。

 そこには、音楽室の簡単な見取り図と、いくつかの数字が書かれていた。

『第一の怪異』

『音が聞こえるのは、午後四時を過ぎてから』

『時計の位置を確認すること』

 その下には、丸、三角、四角の記号が並んでいる。

「時計の位置……?」

 ひよりは壁を見上げた。

 音楽室の前方には、丸い壁掛け時計がある。

 針は、午後三時四十分を指していた。

「まだ四時じゃないね」

「じゃあ、四時になるまで待つのか?」

 蓮が尋ねる。

「それも一つの方法だけど、ほかに調べられることはあるよ」

 湊は教室を見回した。

 ピアノ、時計、窓、楽器棚。

 怪談の正体を調べるなら、まずは音が鳴る仕組みを考える必要がある。

 ピアノは、鍵盤を押せば音が出る。

 誰かが弾いているのなら、当然、音が鳴る。

 けれど、誰もいないのに音が鳴るとしたら?

 考えられるのは、誰かが遠くから操作しているか、別の場所で鳴った音が聞こえているか、それとも――。

「ねえ、湊」

 ひよりの声に、湊は顔を上げた。

「ピアノの上、見て」

 グランドピアノの上には、布が掛けられている。

 その端から、小さな紙がはみ出していた。

 湊は先生に許可をもらったことを思い出し、布をそっと持ち上げた。

 紙には、短い文章が書かれていた。

『音を探すなら、耳だけを信じるな』

「何だよ、これ……」

 蓮が眉をひそめる。

「誰かが、わざと僕たちに手がかりを残しているのかな」

 湊は紙を裏返した。

 しかし、裏には何も書かれていなかった。

「耳だけを信じるな、か……」

 ひよりは、音楽室の中をゆっくり見回した。

「つまり、聞こえた音が、必ずしもここで鳴っているとは限らないってこと?」

「そうかもしれない」

 湊はうなずいた。

 そのときだった。

 ポーン……。

 小さな音が、室内に響いた。

 三人は同時に動きを止めた。

 ポーン……。

 もう一度。

 今度は、さっきよりもはっきり聞こえた。

 ピアノの音だった。

「……今の、聞いた?」

 蓮が、かすれた声で尋ねる。

「聞いた……」

 湊は、ゆっくりとピアノを振り返った。

 鍵盤には、誰も触れていない。

 蓋も閉じられている。

 それなのに、音だけが響いていた。

 ポーン……。

 三度目の音が鳴った。

 今度は、少し離れた場所から聞こえた気がした。

「ま、待って。音が……」

 ひよりが壁のほうを見た。

 そして、はっとした表情になった。

「二人とも。ピアノじゃない!」

「えっ?」

「音が聞こえる方向が、少しずつ違うの!」

 湊は息をのんだ。

 ひよりの言うとおりだった。

 最初の音はピアノの近くから。

 二度目は、教室の中央から。

 三度目は、壁のあたりから聞こえたように感じた。

 もし本当にピアノが鳴っているなら、音の発生源は同じ場所のはずだ。

 それなのに、なぜ音の聞こえる方向が変わるのだろう。

 湊は、壁に掛かった時計を見上げた。

 針は、午後四時を指していた。

「……時計だ」

 湊はつぶやいた。

「え?」

「ノートに書いてあっただろ。時計の位置を確認することって」

 湊は時計の下へ歩いていった。

 時計の周りには、何もない。

 けれど、時計のすぐ横にある壁には、小さな四角い跡が残っていた。

 何かが、そこに取り付けられていたような跡だった。

「これ、前からあったのかな?」

 蓮が近づいてくる。

「わからない。でも、時計の近くに何かがあったのは確かみたい」

 湊は、壁の跡をじっと見つめた。

 そのとき、廊下から足音が聞こえてきた。

 コツ、コツ、コツ。

 三人は振り返った。

 扉の向こうに、人影が見えた。

「誰か来た!」

 蓮が声を上げる。

 入ってきたのは、白石先生だった。

「そろそろ調査は終わりかな?」

「あ、先生!」

 湊は慌てて事情を説明した。

 ピアノの音が聞こえたこと。

 音が聞こえる方向が変わったこと。

 時計の横に、何かを取り付けていたような跡があったこと。

 先生は、黙って話を聞いていた。

 そして、最後に壁の跡を見た瞬間、ほんの少しだけ表情を変えた。

「……そうか」

「先生、何か知っているんですか?」

 湊が尋ねる。

 先生はすぐには答えなかった。

 やがて、三人に向き直る。

「今日はもう遅いから、続きは明日にしよう。調査したことは、きちんと記録しておくんだよ」

 そう言って、先生は音楽室の鍵を受け取った。

 けれど、湊は気づいていた。

 先生は、ピアノのほうを一度も見なかった。

 まるで、音が鳴ったことを知っていたかのように。

     * * *

 翌日。

 三人は、休み時間に集まっていた。

「昨日の音、何だったんだろうな」

 蓮が腕を組む。

「ピアノそのものが鳴ったとは限らないよね」

 ひよりが答えた。

「でも、確かにピアノの音だった」

「うん。だから、音がどこから聞こえていたのかを調べたいの」

 湊は、ノートを机の上に広げた。

 そのとき、昨日は気づかなかったことに目が留まった。

 音楽室の見取り図。

 時計の位置。

 そして、丸、三角、四角の記号。

「……これ、何かの順番じゃないかな」

「順番?」

 湊は、記号の横に書かれた小さな数字を指さした。

 丸の横には一。

 三角の横には二。

 四角の横には三。

 そして、その下には、かすれた文字でこう書かれていた。

『音の出どころを探せ』

「丸、三角、四角……。これって、昨日見つけた紙にも書いてあったよな」

 蓮が言った。

「うん。ということは、記号にも意味があるはず」

 湊は考え込んだ。

 もし、丸、三角、四角が音の聞こえる場所を示しているとしたら。

 音楽室の中に、その形に関係するものがあるのかもしれない。

 時計。

 ピアノ。

 楽器棚。

 壁の跡。

 何かを見落としている気がした。

 そのとき、ひよりが小さく声を上げた。

「ねえ、湊。音楽室の時計って、丸いよね?」

「うん」

「それから、ピアノの鍵盤の近くにある譜面台。横から見ると、三角形に見えるの」

「……じゃあ、四角は?」

 蓮が尋ねた。

 ひよりは、少し考えた。

「まだわからない。でも、少なくとも、ただの落書きじゃないと思う」

 湊は、ノートに記号を写し取った。

 丸、三角、四角。

 その順番には、何か意味がある。

 そして、最後の四角が示すものを見つけたとき、音楽室の謎は解けるのかもしれない。

 湊は窓の外を見た。

 校庭では、下級生たちが元気に走り回っている。

 いつもと変わらない学校。

 いつもと変わらない放課後。

 けれど、昨日まで何とも思っていなかった場所が、今はまるで違って見えた。

 この学校には、まだ知らない秘密が隠されている。

 それを見つけるのが、怪異調査クラブの仕事だ。

「今日も調べよう」

 湊が言うと、蓮は笑った。

「おう! 今度こそ、音の正体を暴いてやる!」

 ひよりも、力強くうなずいた。

「ただし、勝手な思い込みは禁物。証拠を集めてから推理すること!」

「はいはい、わかってますよ、記録係さん」

 三人は顔を見合わせた。

 怪異調査クラブの最初の事件は、まだ終わっていない。

 そして、音楽室の謎を解くための最後の手がかりは、まだ誰にも見つけられていなかった。

 音楽室の壁に残された四角い跡。

 丸、三角、四角の記号。

 そして、怪異調査記録に書かれていた、あの一文。

『音を探すなら、耳だけを信じるな』

 その意味を理解したとき、三人はきっと気づくだろう。

 怪異の正体は、すでに自分たちの目の前にあるのだと。

 ただし、それを見つけるには、もう一つだけ、確かめなければならないことがあった。

 ――音は、本当に音楽室の中から聞こえていたのだろうか?
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