「幼なじみは特別だ」と婚約者が言うので、わたくしも幼なじみと結婚します――ずっと隣にいた公爵様が、もう遠慮してくれません
第10話 わたくしの予定は、わたくしが
王都へ戻って数日後の朝、ミレイユはいつもより早く食堂に入った。
父は新聞を広げ、母は庭に植える花の図案を眺めていた。二人とも顔を上げて、娘の椅子が引かれるのを待つ。見慣れた朝の食卓だったが、ミレイユは座る前に、椅子の背へ両手を置いた。
「お父様、お母様。朝食の前に、少しお話ししたいことがあります」
父が新聞を畳む。母は図案を置き、眼鏡を外した。
「別邸で何かあったのか」
「ええ。あったといえば、ありました」
答えた途端、川辺で触れた唇を思い出した。あれを報告するつもりではなかったのに、母が目元を緩めるので、頬まで熱くなってくる。
「困ったことではありません」
「それは顔を見れば分かるわ。どうぞ、座って」
母に勧められて、ようやく腰を下ろした。給仕が紅茶を注いで下がる。ミレイユはカップに手を伸ばしかけ、話す前に飲んだら、そのまま勇気が薄まるような気がして引っ込めた。
「オーウェンと、交際しています。それはご存じだと思いますけれど」
「ええ」
「わたくしは、いずれ結婚することも考えています」
父がすぐに何かを言わなかったので、ミレイユは顔を上げた。父は驚いているというより、彼女の次の言葉を待っていた。
「彼から求婚されたのか」
「いいえ。まだです。ですから、結婚を決めましたというお話ではありません。わたくし自身が、そういう気持ちでお付き合いしていると、先に伝えたくて」
言い終えた途端、肩から力が抜けた。思っていたより、大きな声が出ていた。
母は微笑んだまま頷いた。
「オーウェンがそう望むから、あなたも合わせようということではないのね」
「わたくしが望んでいます」
「なら、よかった」
その短い答えで、目の奥がつんとした。ミレイユは慌ててカップを持ち上げたが、まだ熱い。口をつけずに置き直すと、父が珍しく笑った。
「焦って飲まなくていい。そのために待たせているのではないんだから」
「焦ってはいません」
「では、お前は昔から熱い紅茶をそうやって睨んでいたな」
「お父様まで、昔のことを持ち出さないでください」
言い返したら、普段の朝へ戻れた。母がパンの皿を寄せる。
「あなたたちは、互いをよく知っているでしょう。でも、それだけで結婚がうまくいくとは限らないわ」
「ええ」
「小さい頃のように、言わなくても分かるでしょうと、意地を張らないこと」
ミレイユはパンを割る手を止めた。
心当たりはあった。オーウェンが彼女の好みを覚えていると嬉しくなる。嬉しいから、次も覚えていてほしくなる。彼が何を考えているかは、以前より分からなくなったのに。
「このあいだ、夕食には戻れないかもしれないと、先に相談してくれたのです。わたくしも、九時半までなら、お茶をご一緒したいと言いました」
「そう」
「まだ、上手に言えることばかりではありませんけれど。彼の前だと、上手に言おうとするより、言ってしまうことのほうが増えました」
「それで喧嘩になることもあるだろう」
父の声にはからかいが含まれていた。
「もう少し、わたくしに有利なお話をしてくださいませんか」
「有利にしてやろうと思うと、お前をずっと家に置いておくことになる」
ミレイユが顔を上げると、父はパンの屑を指で払っていた。その仕草がいつもと同じだったので、かえって胸に残った。
「まだ、嫁ぐとは決まっていません」
「だから、今のうちに言っておく。どこへ嫁いでも、ここで娘をやめる必要はない。困ったときだけでなく、何もなくても帰っておいで」
「……はい」
母が娘の手へ、自分の手を重ねた。
「次にオーウェンが来たら、夕食に呼びましょう。昔みたいに、あなたの皿から嫌いな野菜を引き取るのか、見てみたいわ」
「もう好き嫌いはしません」
「彼はどうかしら」
「彼は、嫌いなものを皿の端へ寄せるのが上手になりました」
両親が笑った。ミレイユも笑い、今度こそ紅茶をひと口飲んだ。
温度は、ちょうどよくなっていた。
その日の午後、母と訪ねた帽子店で、ミレイユはつばの狭い帽子を手に取った。
四月も下旬に入り、街路樹の葉は窓の高さまで薄緑色に広がっている。店の奥には夏向きの麦藁帽子も並び始めていた。川開きが予定どおり月末に行われると、今朝、領の行事委員会から正式な案内が届いたところだった。
「こちらなら、橋の上でも風に取られにくそうです」
帽子をかぶって鏡へ向き直ると、母は顎に指を当てた。
「その色にするの?」
「淡い緑では、顔色が悪く見えますか」
「いいえ。前なら必ず白を選んだと思って」
ミレイユは自分の顔を見直した。白が嫌いになったわけではない。ただ、この春は緑が気になる。川辺の草や、彼が歩く土地を思い浮かべるからかもしれなかった。
「今日はこれが好きです」
「では、それになさい」
店主にリボンの幅を直してもらい、帽子を受け取る約束をして店を出た。角の菓子店に寄ろうと話していると、道の向こうからハロルドが近づいてきた。
以前なら先に彼の姿を見つけて、母に一言断り、歩調を合わせていただろう。今日は母と並んだまま足を止めた。
「ロックウッド伯爵夫人。ご無沙汰しております」
挨拶だけなら、彼はいつも申し分がなかった。母も礼を返す。そのまま別れられるかと思ったが、ハロルドはミレイユの方へ向き直った。
「ちょうどよかった。君のところへ伺おうと思っていた」
「どのようなご用でしょう」
「春の園遊会だよ。母が、君にも来てもらいたいと言っている」
バートラム侯爵家の園遊会は、川開きの一週間後に予定されていた。婚約中、ミレイユは客の好みを聞き、花の注文を手伝い、ハロルドが初めて迎える相手の名を覚えるのにも付き合った。
「お招きはありがたく思います。でも、その日はもう予定があります」
「何時から?」
「午後からです」
「少し顔を出すだけでもいい。最初の客を迎える間、僕の隣にいてくれれば」
母が動きかけた。その袖がわずかに揺れたのを見て、ミレイユは母へ小さく首を振った。
「それはできません」
ハロルドは、彼女が聞き違えたかのように笑った。
「大げさに考えなくていい。昔どおり、少し手を貸してほしいんだ」
「昔と同じことはいたしません。婚約は解消しましたから」
「そうだとしても、親しくしていた家同士だろう。母も君を可愛がっていた。僕を避けるために、母まで寂しがらせることはないじゃないか」
行き交う人を避けて、母が半歩、店の軒下へ寄った。ミレイユもその隣へ移る。道を塞いだまま話すことを、彼は気にしていないらしかった。
「侯爵夫人にお会いすることと、あなたの隣でお客様を迎えることは、別です」
「誰も婚約を戻せと言っていない」
「なら、なおさらですわ。わたくしの予定を変える理由にはなりません」
彼の顔から笑いが薄れた。
「何の予定なんだ」
「友人と、植物画の展示を見に行きます。そのあとお茶をいただく約束です」
「そのくらいなら、日を改められるだろう」
聞き慣れた言い方だった。胸が痛むより先に、ああ、今も同じなのだと思った。
ミレイユは母の持つ小さな買い物袋を受け取った。
「改めません」
「ミレイユ」
「あなたには些細に見える予定でも、わたくしは楽しみにしています。相手も、わたくしのためにその日を空けてくださっていますから」
「君は、こんなに意固地な人だったかな」
「今は、そう見えるのでしょうね」
彼を分からせるために、昔の約束を並べたくはなかった。もう、彼が頷くまで道の端に立っていたくもない。
「お母様、菓子店へ参りましょう。お父様のお好きな焼き菓子は、早く売り切れます」
「そうね」
母が彼へ会釈する。ミレイユも挨拶をして歩き始めた。
後ろから、ハロルドが名前を呼んだ。けれど彼は追っては来なかった。二、三歩先でこちらが立ち止まると思っていたのかもしれない。
菓子店の扉を開けると、焼き立てのバターの香りがした。
「展示の予定は、オーウェンではないのね」
母が小声で聞くので、ミレイユは笑ってしまった。
「違いますわ。彼とのお出かけ以外も、大切ですもの」
「ええ。そうでなくてはね」
二人分の菓子を選ぶつもりが、父の分を加え、夕方に来るかもしれない客の分まで加えて、箱はずいぶん大きくなった。
オーウェンが訪ねてきたのは、その夕方だった。
玄関の足音を聞いて立ち上がったミレイユは、応接間の鏡の前で一度、髪を直した。その必要はないと分かっているのに、別邸から戻って以来、彼と会う直前だけ自分の姿が気になる。
扉が開くと、彼も一瞬、立ち止まった。
「何?」
先に聞くと、彼は戸口で笑った。
「会いたかった顔が、そのまま出てきたから」
「それなら、早くお入りになって。お茶が冷めるわ」
椅子を勧めようとした手を、彼に取られた。ミレイユも握り返してから、今はそれだけ、と目で伝えた。
母が奥の席で、わざとらしい咳をした。オーウェンはそこでようやく、きちんと礼をした。
夕食までいてほしいという誘いに、彼は喜んで応じた。父へ挨拶に行く前に、懐から封筒を出す。行事委員会の正式な招待とは別に、川開き当日の大まかな予定を知らせるものだった。
「朝は開会の準備で少し離れる。君たちが着く頃には戻れる見込みだけれど、橋の確認が長引いたら家令に迎えを頼む」
「分かりました。わたくしも、お母様と一緒に会場を見て回れます」
「最初の祝賀の馬車には、俺と乗ってほしい」
「そのために、風で飛ばない帽子を買ったの」
彼が嬉しそうにしたので、店で散々迷った甲斐があった。
「どんな帽子?」
「当日まで秘密です」
「ずいぶん先だ」
「あと何日かです。待つのが苦手になったのね」
「君に関しては、上手に待てた覚えがない」
それを母の前で言うので、ミレイユは彼の肘を軽くつついた。母は平然と茶器を整えているが、聞こえていないはずがない。
父に呼ばれて彼が書斎へ入ったあと、ミレイユは厨房から運ばれた焼き菓子を皿に並べた。少しだけ不揃いになった端を、自分の方へ向けておく。幼い頃は二人とも、端の固い部分が好きだった。今はどうだろう。
戻ってきた彼は、迷いなくその一つを取った。
「そこは、わたくしの分です」
「取り分けてあった?」
「心の中では」
彼は菓子を見てから、彼女を見た。
「では、半分にする」
「小さい方を渡したら承知しません」
「難しいな。俺が割ったら君が選ぶ?」
「それなら」
彼が慎重に菓子を割り始めたので、ミレイユは笑いを堪え切れなかった。端の小さな欠片を巡って、二人でこんなに真剣になれる。好きになってからも、その可笑しさは失われていなかった。
彼は大きさの揃った二つを差し出した。ミレイユが右を取ると、左を自分の皿へ置く。
「今日、ご両親に話したそうだね」
急に声が低くなり、彼女は菓子を落としかけた。
「お父様がおっしゃったの?」
「少し。俺も、君との交際を軽く考えていないと伝えた」
「わたくしの返事まで、先に決めないでよ」
「決められない。君に断られたら、かなり困ると話した」
ミレイユは彼の顔を見た。からかっている時の目だったが、その奥に緊張があるのも分かった。
「お父様は何と?」
「困らないように、自分で頑張れと」
「それは、よいお父様ですわ」
「俺もそう思う」
彼は彼女の膝の上に置かれた手へ視線を落とした。母が席を外し、夕食の支度を確かめに行っていた。廊下からは食器の触れる音が聞こえる。
ミレイユは自分から手を伸ばした。
「今は、わたくしも頑張っているつもりです」
彼の手が、すぐに重なった。
「よく分かる。今日も帰りたくなくなっている」
「夕食を召し上がったら、お帰りになって」
「厳しい」
「また来てくださらないと、次の焼き菓子が余るでしょう」
オーウェンが笑って、指の間をそっと押し広げた。そこへ自分の指を絡めてくる。川辺で触れた時より、室内で両親の気配を聞きながら手を繋ぐ方が、ずっといけないことのように感じられた。
それでも彼女は、夕食を知らせる声がするまで離さなかった。